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 石鹸を溶かした水が優しく香る。

 苦しげに喘ぐ娘の手を、クレスツェンツは丁寧に拭き清めていた。

 呼吸すらままならず、ぜいぜいと喉を鳴らしながら胸を上下させる娘の呼気は、病人特有の嫌な臭いを発している。

 死の臭い。身体の中が腐り始めている臭い。

 しかしクレスツェンツは鼻歌すら歌いながら娘の手を拭き、腕を拭き、首筋や胸元も拭いてやる。次は清らかな水で濡らした手巾を手にとって、石鹸水でぬぐった場所をもう一度きれいに撫でる。

 口を開いたまま懸命に息をしようとしているので、娘の唇やその周りはがさがさに乾いていた。白く粉を吹いた口許も綺麗に拭いて、自分の化粧道具の中から持ってきた蜜蝋やハーブの精油を混ぜたクリームを唇に塗ってやった。

 その程度では艶やかな肌を取り戻すことなど出来ないくらいに娘は衰えていた。それでも、人々の前で歌を歌うことを生業(なりわい)としていた彼女なら最期まで美しくありたいと思うはずだ。手入れを怠ってはいけない。

 ゆえにクレスツェンツは、この十日ほど毎日娘のもとを訪れ、丁寧に身体を拭き清めて世話をしている。

 それも今日が最後だ。娘の苦しみ方が、昨日までとは違う。

 滲み出そうになった悲しみを心の底へ押しやり、クレスツェンツは白粉(おしろい)刷毛(はけ)に含ませる。

 優しく娘の肌にはたいてやると、土気色にくすんでいた彼女の肌は見る間に明るさを取り戻していく。

 その時間は儀式めいていた。一緒に様子を見守っていた僧侶も、侍女も、誰にも邪魔することは出来ない。

 クレスツェンツが娘の唇に紅を載せ、髪を美しく整え終わった頃。まるで最後の化粧に満足するように、娘の寝息はすうすうと安らかなものに変わった。

 容態が落ち着いたのではないだろう。彼女の息はこのまま細っていくだろう。

 幾度も病人を見送った経験のあるクレスツェンツには、それが分かる。

 じきに訪れる旅立ちのときが寂しくないよう、クレスツェンツは寝台の傍に椅子を置いて、孤独な娘の痩せ細った手を握った。

 すると、その隣に椅子を並べる者があった。二十歳を少し過ぎたくらいの若い僧侶だ。

 彼はグレディ大教会堂に併設されたこの施療院で、病人たちの世話をする僧医の一人。名をオーラフ・グラウンという。

 腰を下ろす前に、彼は娘の枕元に真鍮製の香炉を置く。香木の燃える煙、最期のときを守る神聖な香りが、白い(とばり)を超え病室に行き渡る。

 誰もが消えゆく命のために祈り、温かな静寂がその場を支配した。

「きれいになって、エルナはさぞ満足でしょう」

「だとよいのですが。人に化粧をしてやるなど初めてだったのです。おかしくありませんか?」

「少しも。歌を歌っていたころの彼女に戻ったようです」

 オーラフに言われ、クレスツェンツは涙ぐむ。その雫がこぼれないよう唇を噛んで堪えた。

 明るく歌うことが大好きだった娘だ。彼女の前で暗い顔をしてはならない。

 よかった、と吐息だけで呟き、クレスツェンツはほんの短い間友人となった娘の手をいっそう強く握る。

 寂しくも優しい沈黙が破られたのはその直後だ。

 大部屋の扉が開き、一人の僧侶に案内された十数人の少年が病室へ入ってきた。がやがやと話しながらやって来た彼らは、部屋中の患者たちや僧医から睨みつけられてぴたりと黙った。

 不穏な気配に戸惑いながらも、少年たちは好奇心の先立つ目で白い幕に囲まれた部屋の一画へ視線を注ぐ。

 なんだ、あの連中は。

 クレスツェンツは同じ年頃の異性の集団を帳の隙間から睨んだ。

 少年たちはいずれも身なりがよい。貴族か、金持ちの商人の子弟といった風体だ。

 ささめき合う彼らの声が徐々に大きくなってくると、クレスツェンツより先にオーラフが立ち上がった。

 彼は眉間に皺を寄せる少女の肩を叩いて宥め、少年たちを引き連れてきた僧侶のもとへ向かう。

 「今は静かに」と低い声で求めるオーラフの声を、クレスツェンツは唇を噛みながら聞いた。

 静かに、じゃない。出て行けと言ってくれればいいのに。

 おおかたあの少年たちは、教会に喜捨する貴族の小倅(こせがれ)だろう。時折、ああして施療院を見学しに来る者がある。

 施療院の実態を知ろうとしてくれる分にはいい。しかし、ああして物見遊山の気分でやってくるのは許せなかった。

 ここは人が自分の命とともに闘う場所だ。哀れみや好奇の目はいらない。寄り添うつもりのない者が、ここを踏み荒らすのは我慢出来ない。

 それでも、今日のところはオーラフに任せようと思った。

 今は友人の手を握っていてやることのほうが大事だ。じきに静かになる。そう自分に言い聞かせて、クレスツェンツは横たわる娘の頬を撫でる。

 少年たちは部屋を去ることになったらしい。まとまって立ち去る足音にほっとしつつ、彼女は帳の隙間から彼らの様子を窺った。

 そして不思議な視線を感じ、どきりとして息を止める。

 一人の少年が静かにこちらを見つめていたのだ。

 黒髪の合間から覗く瞳は鮮やかな緑で、その色には、哀れみも好奇も浮かんでいなかった。

 ただ、見守られて逝く命を悼んでいる。穏やかに、寂しそうに。

 死に逝こうとする娘のことを知っているはずもないのに、なぜそんな顔をしてくれるのだろう。クレスツェンツは不思議に思った。

 不思議に思ったが、嬉しかった。彼が友人の命に寄り添う心を示してくれたようで。

 やがてその少年は、仲間に紛れて病室を出て行った。

 彼らがやってくる前の静寂が戻る。

 それから一時も過ぎた頃。うららかな午後の陽射しと祈りに包まれて、若い娘の命は静かに幕を閉じた。

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