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王の腕  作者: 白風水雪
8/36

四章〈黒の嵐〉前

ヤバル (本名:サクラス・ザラスシュトラ)

マリア・オルレアン (少女)

エイディ・ガローン (記憶喪失前のヤバルと知り合い。ヤバルをサイと呼ぶ)

イサク・ジズ(名のある貴族)

ジューダス・ガリラヤ(名のある貴族)

ポルドレフ・ガーディン(ジューダスの部下)

マーイヤ・レイア(ジューダスの部下)

モート・ギリティナ伯爵(港町プロピナの領主)

 ヤバルはモート・ギリティナ伯爵の館、西棟一階へ向かっていた。地下牢があった別館とは、渡り廊下で接している。そのため、別館の異常に気づくのは西棟からだ。

 尋問部屋に置いてきた兵士が帰ってこないことで、誰かが別館まで来る可能性があった。

 しかし、それでもヤバルは、渡り廊下を避けながらも西棟に向かっているのは、そこがモート・ギリティナ伯爵の館に確実に侵入できる出入り口があると確信しているからだった。

 ヤバルは足音をできるだけ殺しながら走り、急ぐ。

 他の誰かが尋問部屋の兵士を探しに来る前に、モート・ギリティナ伯爵の館に侵入しなければならなかった。

 渡り廊下の扉は観音開きだ。煉瓦の敷石と、簡易的な屋根がついただけの廊下の先で、松明の光に揺られてぼんやりと浮かんでいる。

 と、ヤバルの走る目の前で、渡り廊下の扉が開かれた。ヤバルは慌てて足を止めて、松明の明かりで浮かび掛かっていた自分の姿を闇に紛れさせようとする。

 今宵は月が夜の闇に色をつかせている。ヤバルは敷地内でよく見かける薔薇の藪の影に潜んだ。しかし。


「ん?」


 渡り廊下に出た若い兵士が、ヤバルのいる方に目を向けたのだ。ヤバルは動かず相手の出方を待つ。


「……気の、せいか……? たっく、あいつどこまでションベンしに行ってんだよ。俺が怒られたじゃねえか」


 ぶつぶつと言いながら、渡り廊下から外れて塀の方へ歩いて行った。ほんの十数メートル先、ヤバルが隠れている藪の前を過ぎていった。

 その隙を狙い、ヤバルは動く。素早く藪から移動して、身を低くしたまま館の扉を細く開けた。

 内部を窺い、人の気配や音が無いのを確認する。必要最低限だけ開けた扉の隙間から、ヤバルは身体を滑り込ませた。

 西棟の一階は主に来客を簡易的に出迎える部屋が多い。アポなしや初見の客人が通されることが主で、人の寝泊まりする部屋はなかった。夜になると西棟一階は見回りの使用人と兵士だけになる。

 必要以上に飾り細工が施された廊下には、赤いカーペットが敷かれている。廊下から見えるいくつかのドアや、そのドアノブに至るまで、木目の細かい細工がされていた。壁には大きな絵画が飾られていた。

 ヤバルは近くのドアノブに手をかける。鍵が掛かっていた。

 廊下は途中右に曲がる一本道。見回りの兵士が来るか、さっき外に出た兵士が戻ってきたら隠れようが無い。逃げることも難しい。

 ヤバルは何度か鍵がかかって動かないドアノブをガチャガチャ鳴らせて、鍵穴を覗いた。


「……」


 徐に懐から二本の針金を取り出した。服の内側のポケットに縫い付けていたものだ。目立たない工夫を施していたが、ヤバルの身柄が解放されることの前提で、持ち物の検査や没収されていなかったことも幸いしている。

 二本の針金で鍵穴を弄る。ヤバルが二本の針金を回すと、ガチャリと音を立てて、いとも簡単に鍵が開いた。

 要した時間は僅か数秒。手慣れた動きだった。

 音を殺して部屋に入る。その際も、一度ドアの隙間から内部の確認をしていた。

 部屋に入ってからも、内装や間取りの確認をする。視線を巡らせた。幸い窓から月明かりが視界を助け、ランプなどに火をつける必要がなかった。

 絵画や花瓶が部屋の壁などに飾られていて、柔らかそうなソファーに挟まれているテーブルは金細工で、しかもガラス板が使われていた。

 ヤバルから見て左手側の壁に、ドアがもう一つあった。廊下の造りから、そのドアの向こうは隣の部屋に繋がっている。


「来客用か。茶会用かってところか」


 部屋の用途も把握する。

 ――彼は知っている。すべて、元々の本業の経験則から成る慧眼だった。

 ヤバルは隣部屋に繋がるドアも二本の針金で開けた。


「だいぶ思い出してきてるな」


 自らのアイオーンの感触を確かめながら、ヤバルは先へ進む。



 二階への階段は、東棟に二カ所と、南棟と西棟に一カ所ずつある。ヤバルは東棟の一階の廊下で、二階への階段を見つけていた。廊下の角から窺う。

 木製の金細工が施された階段は、二人の兵士に守られていた。ヤバルは彼らの鎧に注目する。通常、兵士が身に付ける鎧や服には、この国の国旗と、町を統括している領主の紋章が施されている。

 しかし、階段前で見張っている兵士の紋章は、二つの内の一つが違っていた。ワヒシュタの国旗は同じだが、彼らはプロピナの紋章を持っていなかった。

 ヤバルは、彼らの紋章を記憶していた。マーイヤの軍服やポルドレフの鎧にあるのと同じものだ。ヤバルを捕らえるとき、マーイヤは国衛軍と名乗っていた。

 二階を目指しているヤバルは、他の侵入経路を探すため、いったん身を引く。町の兵士ではなく、国衛軍が守っているということは、あの階段の先にはイサクかジューダスがいる可能性が高かった。経験からでも、この館の間取りから推測して、貴族の寝室や客室は二階にあると考えていた。

 イサク・ジズと、ジューダス・ガリラヤ。

 ヤバルがこの館に留まる目的の人物たちだ。彼らに会わなければならなかった。

 しかし、ヤバルは現在牢屋に捕らえられているはずの身だ。見張りの兵士に姿を見せた途端、訳も聞いてもらえず、その場で殺されてしまうことは容易に想像できる。脱走者の言い分など、誰も耳を貸してはくれない。

 他のちゃんとした理由もあるとはいえ、二度も脱走した事実がある。再び牢屋にぶち込まれてしまうことのほうが幸いとも言えた。

 直接本人たちと何とか面会するか、もしくはヤバルの話を聞いてくれる誰かを見つける必要があった。

 と、他の道を探して東棟一階を彷徨っていたヤバルは、二人の兵士が部屋に入るのを見た。彼らの仕草から、自分たちの部屋に戻ってきたようには見えない。ヤバルの目はそう分析し、一つの結論を出していた。

 周囲、他廊下に兵士が来ていないことを確認する。足音を消して小走りし、先ほど兵士たちが入った部屋の前まで来た。ドアの前はヤバルの姿を隠してくれるものはない。危険だと知っての行動だった。

 ドアに耳を当てる。向こう側の音を拾った。

 重苦しい空気が会話から伝わってきた。


「ポルドレフ軍曹。いかがなさいますか」

「俺からジューダス中尉に言っておく。今日のところはもう休んでおくようにと、マーイヤ伍長と他の班にも回しておいてくれ」

「はっ――」


 危険を察知したヤバルは、急いでドアの前を離れ、再び廊下の角に身を滑り込ませた。ヤバルが姿を隠すとのすれ違いに、ドアが開いて兵士二人がやや急ぎ足で出て行った。

 兵士が向かう方角から、別の兵士二人が廊下を通る。ポルドレフの部下は急いでいたため、

この町の兵士と簡単に挨拶を交わして去っていった。この町の兵士は、ポルドレフの部下が見えなくなってから、足を止めて彼らが行った先を見ながら話しはじめた。


「行かせてよかったんですっけ」

「確か調査報告した後だったはずだ。外の調査班のところへ行くだけだろ。問題ない」


 瞳の黒い青年の問いかけに、瞳が青い青年が答えている。彼らの口調や仕草から、瞳の青い青年が上の立場であることがわかる。


「でも、どうして彼らの行動を制限する必要があるんですか。俺たちにも彼らの客人を探すように言われているのに、どうしてあまり協力しないんですか。情報だって結構制限していますよね」

「そのあたりは俺も知らねえよ。とにかく俺たちは上の命令通りに動くだけだよ。偉い人たちなりの都合でもあるんだろ。ああ、でも、兵長は何か知ってたみたいだな。なんだったか」


 兵士二人が立っているのは、ちょうど廊下が交わるT字路だ。ヤバルは兵士の接近に気づいてすでに離れている。花瓶を飾っているコンソールテーブルに隠れていた。

 ランプの光からやや影になっている位置で兵士たちからも離れているが、少し意識を向ければ何かがコンソールテーブルの影に隠れているとわかってしまう。手短なドアをピッキングする余裕すらなく、咄嗟の判断でそこに隠れるしかなかったヤバルは、コンソールテーブルから身体がはみ出さないようにできるだけ身を縮めて、兵士たちが何事もなく去ってくれるのを待つしかなかった。

 このタイミングでもし反対側から誰かが歩いてきたのなら、一環の終わりだった。反対側からでは、コンソールテーブルに身を寄せるようにして小さくしているヤバルが丸見えだ。

 どこに隠れるか一瞬でも迷ってしまったのが仇になっている。苛立ちが表情に出ていた。


「なあ、なんかあそこの裏。妙な置物がないか」


 ヤバルは総毛立つ。ぐっとやや前方に重心を傾けて、いつでも飛び出せる体勢を作った。


「貴族様の趣味だろ」

「いや、昨日通ったときはなかったはずなんだが」

「どこだよ」

「ほら、ドアの前の、花瓶の」

「んー?」


 兵士が目を凝らしたそのとき、廊下に声が響いた。


「コラ! お前たち何をやっている。交代の時間だろ!」

「はい! すみません!」


 二人の兵士は気を付けの姿勢でピンと背筋を伸ばす。仲良くタイミングが揃っていた。


「お前たちが来ないから、見回りの班が今代わりで見張りについて貰っている。さっさと交代して来い。お前たちのせいで俺が呼びに行けと怒られたんだぞ!」

「はい! すみません!」

「返事はいいからさっさと行け!」

「はい! すみませんでしたー!」


 兵士の上官は全力ダッシュしていく二人を見送って、ため息を漏らす。


「たっく。こんなクソ忙しいときに。新人どもはまだ心構えが甘いな。一段落したら訓練を厳しくやる」


 ぶつぶつ愚痴を溢しながら、上官も兵士の後を追うように歩いて行った。

 人の気配がさり、再び夜の静寂が訪れた廊下で、ヤバルはまだコンソールテーブルに身を潜ませたまま動かなかった。慎重に慎重を重ねて、本当に人がいなくなったのかを、聴覚と、床や壁越しに伝わる振動を感知する触覚のみで、状況の把握に神経を尖らせていた。

 どれくらいの時が過ぎか、安全だと判断したのだろう。ヤバルは身体の緊張を解いて深く息を吐く。


「マジでヤバかった……」


 そろりと花瓶越しに廊下を窺い、引くい姿勢のままで廊下の角まで走る。そして、横の廊下に誰もいないことを確認してから、ドアの側まで移動した。

 国衛軍の兵士が出入りしていた部屋だ。鍵穴からでは部屋の様子を一部しか窺えず、体躯のがっしりした何者かの背中しか見えなかった。

 ヤバルはそっとドアノブに手をかけてみて、鍵が開いているのを確かめる。兵士の出入りのため、わざと開けてあるのだ。


「オルテイ先生もいてくれると話が運びやすいんだが」


 イサクやマリアたちの中で、ヤバルと最も接してきたのは医者のオルテイだった。記憶喪失になる前の記憶を有しているヤバルは、オルテイの人柄も覚えていて、信頼を置いていた。

 ヤバルは意を決した顔で、ドアノブに手をかけた。



 東棟二階。バルコニーから中庭の白薔薇が臨める客室で、イサク・ジズは窓の外を眺めながら考えに耽っていた。彼の目には月夜が映っているが、そのどこにも彼の瞳は見ていなかった。

 客室の小さな丸テーブルには、この町の地下水道が記された地図と、グラスと赤ワインのボトルがある。グラスに注がれた赤ワインを、イサクは一口も飲んでいなかった。

 もう何度目かわからない深いため息をついたとき、部屋のドアがノックされる。


「誰だ」


 イサクは振り向いた。黒い瞳でドアを見る。夜の空気はとても静かで、ドアから離れているイサクの声は廊下まで届いていた。


「ポルドレフ・ガーディンであります。急ぎ、話したいことがあります」


 客室に聞こえた声は、ポルドレフの重く低い声だ。彼は事の重大さを声に含ませていた。

 イサクの表情が引き締まる。夜が深まったときで、ポルドレフが急ぎの案件を持ってくるのはマリアの手がかりか、それ以上の事態が起きたということだった。


「入って構わない」


 イサクは応じたが、ポルドレフからの返答はなかった。代わりに、金髪で緑眼の少年、ヤバルが入ってきた。彼は翠玉色の瞳にイサクを捉えると、いかにもわざとらしい物珍しそうな顔で客室を見渡した。


「いいとこに泊まってんだな。さすがは貴族様」

「彼を牢屋から解放する許可は出していないはずだぞ。ポルドレフ」


 イサクはヤバルの後ろに立つポルドレフに目を向ける。ポルドレフは重く悩んだ顔を俯かせていた。静かに顔を上げて、イサクを見る。


「抜け出してきた、と本人から聞いております。マリアの情報を私に持ってきて、それをイサク様に伝えるようにと言いました。しかし、その真偽の判断を難しく思い、直接彼をイサク様の下へ連れて行ったほうが最良と判断しました。処罰は後で受ける所存です」


 ほぼ罪人に等しい身柄のヤバルをその場で捕えず、許可もなくイサクの前に連れてきた行動は罪に問われる行いだった。イサクを危険にさらす可能性が否定できないうえ、罪人の勝手な連行は軍法会議にかけられるほど重罪に値する。


「なるほど。それで、マリアの情報とは」


 イサクはポルドレフの行動を咎めようとせず、話の先を望んだ。彼は普段の柔らかな印象を与える表情こそしているものの、ヤバルが最初であったとき見たような、すべてを受け止める父性のような雰囲気がなかった。

 マリアの攫われた事実が、彼から余裕を無くしている。

 ポルドレフは言葉を探しながら、要点だけを纏めて簡潔に答えた。


「港で捕まっている、と。この者が情報を得た経緯が少々複雑でして、牢屋で寝ていたところを襲った兵士が、そう言っていたそうです。その兵士は拘置所で自分を案内し、また脱獄のときも鍵をエイディに渡した者と同一だと言っております」

「拘置所の兵士が……。見張りはどうしていたんだい」

「いいかげん俺からも話をさせてくれねえかな」


 二人の会話にヤバルが割って入る。

 イサクはヤバルに視線を移す。それが話していいという意思表示でもあった。


「俺を襲った兵士は名前も知らねえが、拘置所での時、俺たちに脱出路を教えた奴でもあるんだ。まあ、あいつの口振りから結局嘘だったわけだが。こうして運良く脱出できてしまった俺たちの口封じのために殺しに来たらしい。本当なら俺たちは拘置所で死んでたってわけだ。俺たちに喋られたらヤバい情報でもあったかはわかんねえが、エイディが優先して殺されたから口封じで間違いないと思うぜ。あの兵士が鍵を渡したのも、直接話していたのもエイディだけだけだったからな」

「……しかし、君たちは混乱に乗じて脱出しただけだろう。口封じとは? その兵士の顔や外見か。それとも大本の情報提供者と面会していたからか」

「エイディが殺された今となっちゃ、おれを確認することはできない。でも、俺でも想像できることはあるぜ。エイディは地下牢の鍵を受け取って、兵士に開けるように言われていた。」例えば、優先して解放すべき囚人がいたとか。もしくはあんたが言うように、大本に会っていたからもしれねえ。そういうあんたたちはエイディを尋問してんだったな。あいつが何か言っていなかったのか」


 ヤバルの目に少しばかりの怒りが宿る。エイディの顔などにあった尋問後の傷を見たからだ。


「価値のある情報は何も言わなかったそうだ。お前とは恋仲とまでほざいていた。相性がいいからつい朝までやっていたとか。盛り上がってやめられなくなっていたとか」

「あいつは……。つくならマシな嘘にしろよ。そんなに俺が好きだったのかよ」


 イサクが責められることを防ぐため、答えたのはポルドレフだった。ヤバルは振り向かず、ため息まじりの言葉を漏らす。彼は怒りの矛をすでに収めていた。

 イサクが聞いた。


「エイディが殺されたのは確かだね?」

「ああ、本当だ。この目で見た。尋問の部屋で眠っている。あとで、弔ってやってほしい」

「わかった。手配しよう。ところで、どうやってここに来たんだい。別館にも見張りがいるはずだが」

「さあな。どういうわけか別館には俺を襲った兵士以外一人もいなかったぜ。だからこうして、兵士が開けてくれた牢から堂々と出られて、ポルドレフのおっさんところまで辿り着けて、あんたの目の前に立てているってわけだ」

「お前、いい加減にしないか」


 ポルドレフが、貴族のイサクを何度もあんた呼ばわりしたヤバルを咎める。本来なら身分が低いヤバルは、イサクに敬語を使わならないどころか、面と向かって対等のように話すことすら無礼に値するのだ。

 話を優先して敢えて注意しなかったポルドレフだが、さすがに我慢がならなかった。ポルドレフは、今にも後ろからヤバルの肩を掴みかかりそうな剣幕だった。

 イサクは怒りを露わにしているポルドレフを手で制する。


「ポルドレフ。ありがとう。しかし、見張りがいないわけがないはずだが」


 顎を撫でて考える。何か結論を迷っている様子だ。

 そんなイサクにヤバルは言った。


「なあ、なんかきな臭くないか。見張りがいなかったことといい。俺を殺そうとした兵士といい。おかしすぎるぜ」

「そうだね。ポルドレフ、至急兵を連れて別館を見てきてくれるかい。この少年の証言の真偽を問いたい」

「………わかりました。代わりに、この場には他の兵を置いていきます」

「いや、必要ないよ。外で待機させておくだけでいい」

「わかりました。イサク様、重々お気をつけ下さい。その者の黒い腕、アイオーンだと言っております。その気配こそありませんが、片腕を造る芸当はアイオーン以外ありえません」


 今、ヤバルの両腕は、肘まである黒いグローブをつけている。無いはずの左手のグローブは、確かな肉の質感を宿していた。

 ヤバルはここに来るまで一度もアイオーンを消していない。牢屋で兵士に襲われたとき、咄嗟に出せてからずっとそのままでいる。まるで、本物の腕のように、彼のアイオーンは身体に馴染んでいた。


「わかっているよ。ポルドレフ」

「では――」


 ポルドレフは、イサクとヤバルを二人だけにするのを抵抗したが、結局はイサクの言葉に従って退室する。

 二人だけになった部屋を沈黙が埋める。やがて、イサクから話を切り出した。


「ところで、君は記憶が戻ったのかい」

「ああ。おかげさまで。助けてくれたことは感謝しているよ」

「感謝の言葉ならマリアに言ってあげて欲しい。彼女が喜ぶ。たぶん、恥ずかしがるだろうけど」


 その少女は現在攫われていて行方がわからなくなっている。イサクがマリアを語るとき、表情に憂いが浮かんでいた。


「機会があればな」

「ぜひしてあげて欲しい。君は、どうしてワヒシュタに来たんだい」

「理由は……そうだな。観光だよ。神王様とやらがいると聞いて、本当かどうかを拝みにきたかったんだ」


 少年は語らない。

 生まれた町で汚泥を啜るような生活を送りながら、必死に生き抜いてきた過去を。

 その町でも、友人と呼べたはずの人がいて、その人を失った過去を。

 あげく、生まれ故郷の地すら踏むことも許されなくなった理由も。

 ヤバルは、逃げる同然でワヒシュタへ向かった理由を語らず、小さな丸テーブルに置かれた地図を指さした。


「それ、地下水道の地図か」

「ああ、モート卿から拝借している。しかし、何度見ても、君たちが脱出路に使った地下水道も、地下墓地も、この地図には記されていないんだ。マーイヤに確認させたが、君たちが通ったという地下水道は確かに存在した、と報告が上がっている。なら、それがどうしてその地図には載っていないのか」

「地下道は歴史の古いものは忘れられていることがあると聞く。記載漏れも否定できない」


 イサクは当然マリアが港まで運ばれている可能性も考慮していた。しかし、いくつかの侵入口や関所では、見張りの兵士が誰も通していないと証言している。これには地下道も含まれていて、この町の兵士が交代で一日中常に見張っている。

 現在、港側も内陸側も、すべての関所を通過するのは、イサクを含めた他の貴族も許可されていない。混乱当初こそ貴族の紋章や通行証で通過することは可能だったが、拘置所での脱獄の騒ぎが広まってからは、関所はすべて封鎖されている。

 だから、イサクは関所の先の港や内陸を調査できずにいるだけでなく、外との連絡手段も極々限られていた。


「誰だってうっかりしてしまうことだってあるさ。それには俺も賛成だ。でも、もう一つの可能性ってのを考えられねえか」


 にやり、と思わせぶりな笑みをヤバルは浮かべる。地下水道が載った地図を指さしながら。


「あんた、それを誰に貰ったんだよ」

「考えすぎだとは思うがね。この町を治める者が、民を犠牲にするような愚行を犯すとは思えない」

「混乱が無意味なら、だろ。ポルドレフのおっさんには言い忘れていたが、ここに来る前に、兵士たちの会話を盗み聞きしていたんだ。あんたら、どうやらこの町の兵士たちからも一種の隔離状態にされているみたいだぜ。情報も、あんたの兵士の行動もすべてだ」


 しかし、ヤバルの指摘にイサクは柔らかな動きで首を振った。


「すべてが推測だ。妖しいものを列挙すれば切りが無くなるだろう。だいいち、君の発言のすべてにだが。信じるに値する証拠も、ましてや等しく価値のある立場でさえ、君は持ち得ないのだよ」

「チッ。ああ、そうかい。その通りだよ」


 あからさまな嫌悪の表情と舌打ち。ただの平民にすぎないヤバルは、貴族のイサクを威圧する顔で睨んだ。

 しかし、とイサクの言葉は続く。


「感謝するよ。動く理由を得た。マリアは港にいる。その情報だけで、私が動くには十分な理由だ」


 思わぬ言葉に呆気にとられてしまったヤバルだが、どこか自嘲じみて笑う。


「へっ。ありがとよ。あのまま逃げるのも寝覚めが悪そうだったからな。でもいいのかよ。嘘かも知れないぜ」

「それもこれもすべて含めて。私が動くことで確かめるのだよ。持てるだけの情報を得た今、あとは私の目と身体と、私の剣で、立ち塞がるものをすべて切り伏せてマリアに辿り着くだけなのだから」

「はははっ。いいぜ! あんたのこと少しは気に入ったよ」


 不敵に笑ってみせるイサクを、ヤバルは嬉しそうだった。


「私は前から君のことを気に入っているよ」


 イサクの徐に前に翳した手から、青白い光の粒子が発生する。黒い柄から徐々に形成された、鏡のような刃を持つ大剣。イサクのアイオーンだ。


「イサク様、どうかされましたか」

「イサク様」


 アイオーンは、独特の気配を纏う特性がある。これはすべてのアイオーンに共通だ。一定の範囲内であれば、どこでアイオーンが出現されているのか誰でもわかってしまう。神王との誓いの証でもあるため、互いの持つアイオーンが共鳴を起こしているからと言われている。

 イサクがアイオーンを出したということは、わざわざ声を張り上げずとも、深夜の客室でアイオーンが現出された異常事態に、館中から人がここへ集まるということだった。

 廊下の騒ぎを余所に、イサクはヤバルの両腕を見ていた。


「なるほど。君のアイオーンの隠密はそれほど高くはないのかもしれないね。こうしてアイオーンを出してみると、君のそれがアイオーンであることに確証を得られる」


 曇りのない鏡のような刃の先がヤバルに突きつけられる。ヤバルは逃げようとしない。平然とした顔でいた。


「ポルドレフのおっさんが勝手に勘違いしていたことだから黙っていたが、実のところ、こんなもの俺のアイオーンの能力じゃない。単なるコツだ。片腕だけだといろいろ嘗められるから、なんとかこのままでいられないか。アイオーンを出したままでばれなくすることはできないか考えた結果ってやつだ。俺のアイオーンの能力は、手先が器用になって盗みが上手くなる程度だよ」

「興味深いね。そのコツっていうのは、どういうものだい」


 アイオーンの剣を構えているイサクが驚きに染まっていた。その目はヤバルを興味のある対象として捉えている。


「大したことじゃない。こいつを肌みたいにできないか、薄くしてみたら気配も薄くなるんじゃないかって思ってやってみたら、上手くいっただけのことだ」

「面白い。もしかしたら、君の辿り着いた境地は、いわゆる達人のそれの一種かもしれない」

「お褒め預かりどうも」


 ヤバルはあまり嬉しくないとばかりに肩をすくめる。


「イサク様。開けますよ!」


 廊下側からの騒ぎが大きくなっていた。必要外のアイオーンの現出は異常事態でしかない。外の兵士たちは、イサクが何者かに襲われている可能性を危惧していた。

 イサクからの応答がないことを耐えかねた兵士たちが、ドアを開けて客室に入る。マーイヤ・レイアとジューダス・ガリラヤの姿もあった。彼らはアイオーンを構えているイサクと、対峙して立つヤバルの背中を目に捉えた。


「君たちは動くな! そこで廊下への退路を塞いでいろ!」


 イサクがジューダスやマーイヤたちに声を飛ばす。ジューダスを含めた兵士たちは、ヤバルに飛びかかろうとするのをやめて、ドアを背中に並ぶ。ジューダスたちには、今まさにイサクのアイオーンによってヤバルが仕留められようとしている瞬間に見えていた。


「――私の殺意を、刮目しろ」


 途端、客室に黒い竜巻が現れた。黒い霧が暴風のように吹き荒れる。兵士たちから完全にイサクとヤバルが見えなくなった。客室が、黒い竜巻で、壁も床も天井も削られていく。

 ジューダスやマーイヤたちは、イサクの万が一の加勢にすら入れなくなった。

 その黒い暴力の中心で、ヤバルとイサクは無事だった。


「君が極意を教えてくれた礼として紹介しよう。これが私のアイオーンの能力だ」


 激しく回る黒い霧は、イサクのアイオーンの能力だ。

 人当たりが良く人望もあるイサクの内に封じられていた負の感情。貴族としての建前や、良識、良心の裏で静かに燃え続けていた感情が、黒い霧として解放されていた。


「醜いだろう。いつ見ても、私はこの醜さを好きになれない。この醜さが、まだ私に破壊を強いている」


 イサクの表情は、自身を嫌悪していた。

 黒い霧が暴力のまま周囲を巻き込み、飲み込み続ける様は、破壊の権化だった。

 もしヤバルがこの黒い霧に触れたならば、荒れ狂う力の流れに巻き込まれて、ひとたまりもない。

 客室に駆けつけたジューダスたちを分断できたイサクは、これからの動向をヤバルに説明する。


「君はこれから私から逃げたことになる」

「そして、あんたは俺を追う理由で動けるようになるってことか。てっきりまた捕まるもんだと思ったよ」

「そういうわけにもいかない。ここは君にとって安全ではなくなった。それに、君が死んでしまうのは、きっとマリアも悲しむだろうからね」

「あの嬢ちゃんが? よっぽどのお人好しだな」

「彼女は優しい。とても気高く、美しい。私の醜さが霞むほどに。時には際立つほどに。彼女の美しさは君も知っているだろう。だからこそ、こうして、身の危険に顧みず私の下まできたのではないか」

「どうやら俺はまだ記憶喪失らしいな。生憎嫌われてる記憶しかねえよ。いっただろ? 寝覚めが悪そうだったからだよ。俺はゆっくりと寝て、ぼんやりと起きる朝が好きなんだ」

「そういうことにしておこう」


 イサクのアイオーンの刃が、ヤバルに突きつけていたその切っ先から黒く染まる。黒い霧の暴力が一層激しくなった。


「うまく逃げてくれ」


 黒く染まったアイオーンの刃からも黒い霧の嵐が発生する。ヤバルは身構えることすらできず黒い霧の嵐に飲み込まれた。

 イサクの泊まっていた客室が、爆音を立てて半壊する。内側から力の濁流が暴れ回って破裂したような破壊だ。ドアや窓だけでなく、壁すらも吹き飛ばす。隣の部屋にも破壊の力は及んでいた。

 瓦礫と木材が散らばる中心で、イサクがアイオーンを握りしめて立ち尽くしていた。

 客室一つを吹き飛ばすほどの破壊を、なぜか踏ん張るだけでその場に耐えることができたジューダスたちは、自分たちが無事であることに、破壊の余韻がほとんど消えてから気づく。

 イサクが加減して調整したのだ。

 もはや客室だったかどうかでさえわからなくなった。あまりの惨状にジューダスたちは息を呑む。しかし、すぐさま我に返り、イサクに駆寄った。

 イサクは、ジューダスたちに向かって、さも悔しさのある表情で言った。


「賊を逃がした。牢屋に入れておいた少年だ。なぜ私の命を狙ったか不明だが、彼は今回の混乱を知る重要人物だ。いますぐ追ってくれ。まだ近くにいるはずだ」

「はっ――。ただちに手配を」


 ジューダスが応じて、短く素早い命令を兵士たちに飛ばす。マーイヤを指揮官に兵士たちは侵入者の捜索と追跡に急いだ。

 半壊した客室で、イサクとジューダスの二人だけになったところで、イサクはジューダスに落ち着いた調子の声で言った。


「時機にポルドレフが戻ってくるだろう。彼の報告のあと、マリアの捜索部隊を編成する。マーイヤたちには悪いが、今からでも戻るよう伝達して欲しい」

「はい。―――彼から、ヤバルという少年から何を聞かされたのですか」


 部隊一つを率いるジューダス・ガリラヤは、イサクに真意を問うた。

 しかし、イサクは今さら気づいたという顔をしたのだ。


「そういえば、彼の名を聞き忘れてしまった」


 再度の脱獄の罪およびプロピナの混乱の参考人、新人の兵士への暴行、同罪で捕らわれていた少年の殺害など、重罪人としてヤバルは指名手配されることになる。

 ヤバルの逃走は、モート・ギリティナ伯爵にも伝えられた。

 イサクは、ヤバルこそがマリアの行方を知る手がかりだと、また彼から直接マリアの行方の手がかりを聞いたのだと発言し、ヤバルを捕まえる名目で、マリア捜索部隊を編成する。

 ―――まだ日も出ていない、夜が薄まる早朝。

 イサク・ジズは部隊を率いて、未だ昨日からの混乱が燻るプロピナの町に出向いた。

はいっ! 初めましての方は初めまして。お久しぶりの方は更新ですよ!


少し早い気もしますが、更新です。調子がよかったので、前編をあげます。

この調子で進めることができたらいいなあ、と思う今日このごろです。

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