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王の腕  作者: 白風水雪
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三章〈逃走〉後

ヤバル (記憶喪失。本名:サクラス・ザラスシュトラ)

マリア・オルレアン (少女)

エイディ・ガローン (記憶喪失前のヤバルと知り合い。ヤバルをサイと呼ぶ)

イサク・ジズ(名のある貴族)

ジューダス・ガリラヤ(名のある貴族)

ポルドレフ・ガーディン(ジューダスの部下)

マーイヤ・レイア(ジューダスの部下)

モート・ギリティナ伯爵(港町プロピナの領主)

 夜が深まり、空気は肌に感じるほど冷える。しかし、夜の世界でも町の混乱は一時の弱まりすら見せず、熱を帯びていた。

 どこかでは火の手があがり、どこかでは人の悲鳴があがる。すべて町の喧騒と混乱が飲み込んで、またさらに肥大化する。人々は逃げ惑うしかなかった。

 その眠ることのできない町の北東には、この町を納める領主の館が構えていた。プロピナの北にそびえる山脈を後ろに、林と平原の塀で囲んだ広大な敷地を持っていた。

 山脈の麓は、普段は海からのそよ風に緑が囁く穏やかな土地なのだが、今は混乱から逃げて領主に助けを求めてきた人たちが集い、異様なざわめきが風の音をかき消していた。

 領主は緊急事態のため、民の声に応えて敷地を開放し、人々を招き入れていた。

 敷地内のいたるところでは厚い布をつけただけの簡単なテントと、松明が可能なかぎり用意される。兵士たちも配置につかせて、彼らに見守られている中で人々は燃える薪を中心に夜を過ごしていた。


「噂によると、町では逃げだした罪人たちが好き勝手に暴れているらしい」

「外国の奴らは、金目のものを盗ってさっさと逃げていたって聞くぞ」

「勘弁してくれよ。ようやくこの町で新居構えたってのに……もうどうなるんだよ」


 不安と恐怖は響き合っている。

 ここが領主の地で、敷地内だからこそ、領主とその兵士たちに守られている安心感があるからこそ、彼ら町民は辛うじて冷静さを見失わず、秩序を保っていられた。

 だが、闇が世界を覆うのは、無意識の恐怖を燻らせる。ほとんどの人々が胸の内の不安で眠れない夜を送るしかなかった。

 町民を守る任務を領主より命じられた兵士たちは、交代で睡眠を取り、見張りに当たっている。そのひとりが睡眠を取るため兵舎に向かわず、館に足を向けていた。

 この町の兵士の鎧を着ているため、誰も彼を怪しまない。館に行く兵士は、彼だけではなかったからだ。兵士たちは館周囲の警戒も担っていた。

 その者は、見張りの兵士たちとは何食わぬ顔で別れて、真っ直ぐに館を目指す。彼の歩く足に迷いはない。音も気配も隠そうとしなかった。

 モート・ギリティナ伯爵の館は、敷地を囲む塀とは別に、高さ二メートルほどの塀で囲まれていた。敷地内の動物や侵入者を容易に館に近づけさせない目的のために造られていた。

 外国の玄関口でもある港町プロピナの領主の館だ。他国だけでなく自国からも、領主を狙う輩は度々した。それらに対処するため、塀を二重に構えているのは過度の反応とも言えなかった。

 館を囲む塀の正門まで来た兵士は、見張りとして立たされている兵士たちとは、一度目を合わせるだけのやり取りをしただけで問題なく門を通される。松明だけが頼りの真夜中で、兵士の顔をよく確認することも、階級を訪ねることもせず、見張り役は自分たちの主の館へその兵士を簡単に行かせた。

 館を守る塀の内側に入れた兵士は、そのまま館には入らず、裏手に回る。塀の内側、モート・ギリティナ伯爵が好んで植えている白薔薇が美しく咲いているのには目もくれず、ある一点を目指して歩く。

 月夜で幻想的な白に浮かび上がった白薔薇が、彼の去った闇を飾る。



 ランプの光だけが光源の、薄暗い地下空間。

 ヤバルは訪問者の音に目を開けた。誰かが牢屋の鍵を開けてたのだ。その無言で接近する何者かの気配で、地下室に訪れたくらいでは目覚めるはずのなかったヤバルの意識は、睡魔の闇から現実に浮上した。

 異様な事態の前触れを、ヤバルの本能がヤバルの意識を強制的に目覚めさせたのかもしれない。いずれにせよ、彼が覚醒しかけた意識と目で捉えたのは、下に突き刺す刺突の構えで頭上に立つ兵士の姿だった。


「!」


 咄嗟にベッドの上で、ヤバルは身体を横に回す。壁と向き合う形になるヤバルの背中で、剣がベッドに突き刺さった。

 ヤバルは素早く身体を回転させて、反撃に出る。裏拳を剣に当てて、剣をへし折るか、上手くいかなくても衝撃で手を痺れさせる狙いだ。手が砕けるのも構わない勢いだった。

 だが、それは失敗する。

 外れたのではない。狙ったはずの打点より低いところに当たる。ほぼ擦ったようなもので、当たったとも呼べない反撃だ。

 ヤバルが振り返ったのは、左回転。しかし、当てるべき左手は、ヤバルには存在していない。二の腕から先がない。

 咄嗟の反応。無意識に近い反撃。

 ヤバルが繰り出したのは、在るはずのない左手の反撃だった。

 驚いたのは他でもないヤバル自身だった。反撃が失敗してから、左手がないことを思い出した顔をしたのだ。冷静な表情で見下ろす兵士とヤバルの目が合う。

 兵士が剣を抜く。

 ヤバルは追撃が出される前に、毛布を兵士めがけて投げた。左腕全体を使って、足の方向へ身体をずらす。毛布を貫いた剣の先がヤバルの鼻を掠めた。

 ぎょっとしたヤバルだが、しかし硬直せず、体勢をわざとベッドから転げ落ちるように崩した。床で転がり、兵士の側面で体勢を立て直す。兵士が剣を再度構え直す前に、ヤバルは兵士にタックルを決めた。

 脇腹と肋骨の間。鎧で覆われているものの、人体としても防御の弱いところを狙って身体をぶつける。全体重を乗せることで、兵士の身体をよろけさせた。しかし、右足で耐えられてしまう。

 耐え凌いだ兵士の左手がヤバルを掴もうとする。

 ヤバルは兵士の左手が触れる前に距離を取り、剣の追撃もかわした。視線は兵士が開けた牢屋をちらりと見る。現在の立ち位置は、ヤバルの左手側に牢屋の出入り口がある形だ。狭い部屋で兵士と対峙している。

 兵士は、拘置所でヤバルを地下牢まで案内したその人物だった。無表情の顔と目で、ヤバルを見ている。

 牢屋の出入り口は屈まないと通れないほど小さくて低い。素早く脱出し逃げ切るには兵士の隙を窺うしかなかった。

 兵士は出入り口に回り込む動きで、ヤバルに斬りかかる。ヤバルにはかわす以外の術がなく、出入り口から遠ざかるのを余儀なくされた。壁を背に、兵士とその向こうにある出入り口を睨む。

 ヤバルも兵士も、相手に考える隙を与えようとはしない。

 ヤバルは逃げるためのフェイントを、兵士は突きを出して攻め続けた。

 突きをかわしていたヤバルの身体が一瞬止まったとき、兵士はその瞬間めがけて、剣を振り下ろした。

 ヤバルはいっそう姿勢を低くして、振り下ろされる剣をかいくぐるような動きで、兵士と壁の間を抜けようとする。身体を止めて見せたのはわざとだった。

 狙う先は、出入り口だ。

 しかし、ヤバルは転んでしまい、出入り口の柵に頭をぶつけた。身を低くしたヤバルの足を、兵士が引っかけたのだ。仕掛けていたのは、ヤバルだけではなかった。

 ヤバルが咄嗟に顔を兵士へ向ける。痛みで頭を抱えている場合ではなかった。もうそこまで、ヤバルの命を切り裂こうと剣が迫っていたのだ。

 ヤバルは拳で剣の腹を叩いて弾こうとした。

 だが、その拳がある腕はまた左腕だった。気づいたときには遅かった。在るべき拳のない腕は、すでに剣へ向けて振るわれていた。

 死を直前にしたヤバルの眼球は死神の神託のごとく迫る剣に向けられている。逸らせないでいた。

 その少年の両の眼は、諦めの色はなかった。

 驚きから、抗いへ。

 ―――腕を使え、と誰かが言っていた。

 青白い光の軌跡が、ヤバルの左腕に沿って流れる。一瞬の時を駆けて、ヤバルのアイオーンが兵士の剣を弾いた。

 両腕の肘まである、黒いグローブ。革製のグローブは、在るはずのない左拳を形成していた。

 ヤバルは反撃に出る。

 ずれた剣に合わせて身体を傾けながら起こす。左肘の肉を多少斬らせてしまうが構わない。無理矢理身体を動かして、立ち上がる体勢のままで今度は右の拳を繰り出した。実感としては初めて具現化できたアイオーンだが、ヤバルの行動には躊躇がなかった。

 狙うのは男の急所、股間部だ。

 兵士の膝が上がる。ヤバルの狙いを妨害し、反撃にも出る動きだ。


「ぉらぁッ!」


 ヤバルは止まらず、兵士の防御と反撃に上げられた左足を右の拳で殴った。鎧で守られている肘を、右の拳が砕けることも構わずに殴る。

 衝撃が伝わり、兵士の身体が揺らいだ。

 ヤバルは攻撃を無理矢理繋げる。兵士の身体は僅かに揺らいだだけで、体勢を崩すほどでもなかった。右足一本で耐え凌いでいる。

 しかし、この瞬間、兵士の身体は硬直を余儀なくされる。振り下ろした剣。防御に使った左足。右足一本は誰が見ても無理のある体勢であり、動くにはワンステップ予備動作を挟まなければならない。

 その瞬間を、ヤバルは逃がさなかった。すでに振るった右の拳で繰り出す。体勢を起こす動作の流れで、兵士の顔面のどこかを狙っていた。

 まともなヒットはしなかった。兵士の顔面を削るような攻撃になってしまった。まだ兵士は倒れない。


「!」


 兵士がヤバルの右腕を、剣から離した左手で下から掴む。そのまま自分のほうへ引き寄せようとした。すでに彼の両の足は地面を強く踏みしめていて、体勢は整っている。

 兵士は右の剣の柄でヤバルを殴ろうとした。

 その顔面を、ヤバルの左の拳が、右より素早く力強い突きで殴り飛ばした。気持ちの悪い音を立てて、兵士の顔面が歪む。兵士は後ろに倒れて、剣を落とした。

 ヤバルは兵士の落とした剣を蹴ることで、兵士が再び剣を掴むのを防ぐ。まだ動こうとする兵士の頭を踏みつけた。


「悪いな。どうやら俺の利き腕は左らしい」

「その、ようだ……」


 兵士の身体から力が抜ける。

 降参か、反撃の機会を狙うためか。どちらにせよヤバルは兵士に聞かなければならないことがあった。


「狙いは口封じか」

「……世界は、どこまでも私を苦しめる……」

「おい。聞いてんのか」


 兵士の頭を踏みつける足に力を加える。兵士の反撃の警戒も怠っていなかった。


「…………お前たちはどうやって拘置所から抜け出せた。あの地下墓地は行き止まりのはずだ」

「やっぱりか。地下水道だよ。地下墓地の向こうに、地下水道が通っていたんだ。なるほど。俺たちはあそこで死ぬ手はずだったんだな」

「……そういうことか。だから、礼を言われたのか」

「わけのわかんねえこと言うなよ。誰に俺たちを殺せって言われたんだ。今回の騒動もそいつが黒幕なのか。お前は誰に言われて動いてんだ」

「私は私の意思だ。この世界は滅ぶべきなのだ。この世界は在ってはならぬのだ。だからこそ、私たちはあの少女にすべてを託しているのだから。もうじきだ。もうじき彼女は、真に目覚める……」

「……おい。彼女ってのはまさか……。私たちってのはいったいなんだ。いったい誰が動いている!」


 感情的に動いたヤバルは、ぐったりとしている兵士の胸ぐらを掴み上げた。ヤバルの拳で醜く歪んだ、前歯が欠けて鼻が潰れた兵士の顔を眼前で睨む。


「答えろ! 今すぐだ!」

「……彼女とは、マリア・オルレアン。自らの郷里を焼き尽くした、この世界を終わらせる滅びの魔女の称号を持つ方だ」


 兵士の口からマリアの名が聞こえたとき、ヤバルの目に明かな怒りが宿る。


「そいつは今どこにいる。どこに連れて行った!」

「ここは憎き世界を生み出した神王の聖地。彼女の力が封じられてしまう危険がある。しかし、同時に、ここはかつての終末の女王が滅びの楔で大地を穿った地でもあると伝え聞く。神王の箱庭、エデンの園と呼ばれるどこかにそれはあると伝えられている。ならば、彼女が目覚めるに相応しいその場所を見つけ出すまで、彼女にはこの国を離れてもらうのが最善の策であると私たちは考えたのだ」

「港か」

「今さら遅い。この町の騒ぎは私たちの手の内だ。彼女を拐かす教皇の手先でも近づけない。お前なら尚更。諦めるのだ。この世界は滅ぶべきなのだから。最後の時を、心を静めて待っていろ」

「ふざけろよクソ野郎! てめえの妄想なんざ聞いてねえんだよ」


 ヤバルは兵士を乱暴に突き飛ばす。兵士の身体は壁にぶつかり、力なくそのまま床に崩れ落ちた。

 呆然としていて倒れたまま動かない兵士を、ヤバルは冷たい目で見下ろす。


「最後だ。俺の相棒はどこにいる。教えた後は好きなだけひとりで妄想に浸からせてやるよ」

「………」


 兵士は答えない。感情のない表情で黙っている。


「死にてえのか、お前。俺が殺せないとでも思っているのか」


 ヤバルは兵士を脅すため、兵士の剣を拾いあげた。兵士に拾われないように蹴って弾いていたため、離れたところにあった。幸いベッドを支える木製の足に当たっていたから、ベッドの下まで滑り込んではいなかった。

 剣の刃を半分だけ覗かせる剣を持ったヤバルは、固まってしまう。自分で持つことで兵士の剣をじっくり見る機会を得た。だから、彼は剣についた、まだ乾いて間もない血の跡を剣に見つけたのだ。


「……おい。この血はなんだ」


 爆発しそうな怒りを抑え込んだ低い声でヤバルは聞いた。ヤバルの背中の向こう側で未だぐったりしている兵士が視線すらヤバルに向けず答える。


「人の血だ。あいつは私と話しすぎた。情報の売人の顔も覚えている。お前よりは、殺す優先度が高かった。私たちの計画を滞りなく遂行させるためには、あいつの存在は邪魔になる可能性があった」

「……誰の血だ」

「お前の知っている奴だ。名前は確か……」

「!」


 兵士が言うよりも早くヤバルは振り返って駆ける。兵士に向けて血で汚れた剣の切っ先を向けていた。すぐにでも倒れている兵士の喉元を貫ける位置だ。

 それでも兵士は死すら恐れない表情で微動もしなかった。


「エイディ、だったか」

「てめえ……!」

「ちょうどいい。もうこの世界は嫌になっていたところだ。滅びを目の当たりできないことは残念だが、特等席で待つのもいいだろう」


 ふー、ふー、とヤバルは荒い息を立てて、何とか爆発しそうな感情を抑えていた。剣の持つ手は震えていた。


「その怒りを我慢する必要はどこにもない。なぜなら、私を生かしたところで君の友人は生き返らず。ましてや、あの方に辿り着けるわけでもない。例え誰かに頼ろうとも、今の君の発言を、いったい誰が耳を向けて、信じてくれるというのか。すべては無為だ。君が私を生かそうとも殺そうとも、経過も結果も揺るがない。ならせめて、私を楽にしてはくれまいか」

「あああああッ!」


 力を込めて下ろされた剣の先は、兵士の喉を貫かず、床の岩に突き立った。


「エイディはどこだ」

「それを知ってどうする。亡骸に意味はない」

「どこだって聞いたんだよクソ野郎! 答えろ!」


 ヤバルは兵士の頭を掴み上げて、兵士の顔を正面から睨み付けた。


「……ここと同じ別館の、尋問の部屋だ」

「ちっ!」


 兵士の頭を乱暴に捨てると、ヤバルは駆け出していた。兵士の剣もその場に捨てている。追手の危険も忘れて、開け放たれた牢屋の鍵を閉めて兵士を隔離することもしなかった。

 ただ、エイディの下へ急ぐことを何より優先したのだ。

 一人残された兵士のつぶやきは続いていた。

「なぜ私は彼に教えたのか。あの方のことも。少年のことも。何故だろう。誰かを救うために必死な彼に惹かれたか……。そうかもしれない」


 それは、自白に近い。


「きっと、そうなのだ。そうなのだろう。なあ、エミリ、サーミア。私も、間に合いたかった。救いたかった。お前たちを………」


 それは、今は亡き娘と妻の名だった。

 没落貴族の成れの果て。一等兵の濡れた声は牢屋の壁に反響し、他の誰かの耳に届くこともなく悲しく消えていく。



 ヤバルは別館の地下空間を走っていた。横を過ぎる他の牢屋に人はいない。ヤバルの他には誰も捕らえられていなかった。

 石壁の通路にはランプが灯されていて地下全体は薄暗い。ヤバルを襲った兵士以外、他に見張りらしい兵士もいなかった。いくら捕まえているのがヤバルとエイディの二人だけでも、見張りが誰もいないというのはおかしかった。

 その状態が異常であるのを、ヤバルは感じ取っていた。警戒で周囲に意識を向けながら、エイディを探す。兵士の言葉どおりであるならば、ヤバルがいる別館のどこかにいるはずだった。

 ヤバルは、エイディの姿を見て、エイディが本当に殺されているのかどうかを確かめたかったのだ。

 別館の造りは単純だ。牢屋は地下、途中L字に曲がるだけの一本道。地上はまたL字に曲がっているだけの、地下と同じ造りだ。この町の拘置所よりは牢屋の数も少なかった。


「この国に来て牢屋しか見てねえぞクソ」


 ヤバルは階段を駆け上がる。通気口の穴以外の外に通じる窓もないため、ヤバルが自分がどこを走っているのか把握できていない。さっきまでいた牢屋が地下で、現在地上の階に到達したところなのだが、それすらわかっていなかった。

 相変わらずの石壁が続く。と、鉄のドアが右の壁にあるのを見つけた。

 エイディの居場所は同じ別館だとヤバルは聞いている。つまり、この建物内の部屋のどこかにエイディがいるのだ。

 いかにも頑丈そうな鉄のドア。

 通路からは内部を覗けない。開けてみるしか、エイディがいるかどうかを確認できなかった。

 ドアノブに手を掛ける。ヤバルの警戒に反して、ドアに鍵は掛かっておらず、簡単に訪問者を受け入れた。外開きのドアを、ヤバルは引いた。


「―――――」


 ヤバルは言葉を失って立ち尽くした。そこには、一つの世界が広がっていたのだ。

 ランプと椅子が二つだけの、極めて簡素すぎる部屋。拷問器具類はない。エイディが受けていたのは尋問だけだからだ。

 四角の部屋の構造と椅子二つの凹凸、ランプの光源を計算に入れた、視覚的立体描写が施された絵が、部屋一面に描かれていた。

 太陽が照らす丘の上で、一本の剣を掲げた何者かが立っている。それに呼応し、続くかのように幾人が拳を振り上げている。まるでその群集の一部になったかのような錯覚を起こさせるように、ヤバルの視点からは振り上げられた拳の向こうに、剣を掲げる者を見つめるようになっていた。

 ヤバルは、何が起きたのか把握できていない顔で、一歩を踏み出した。自身のアイオーンの腕を、丘で剣を掲げる者に向けて伸ばす。

 その瞬間、世界は崩壊した。青白い粒子の光となって消えていく。

 本来の、尋問の部屋が姿を現した。

 ヤバルは我に返る。急いでエイディの姿を探した。そして見つけた。

 ドアを引いて開いたヤバルの隣で、壁に背中を預けて座っていたのだ。左肩から大きく肉が裂けていて、夥しい血が尋問の部屋に広がっている。


「エイディ!」


 ヤバルが慌ててエイディに触れた拍子で、エイディの首はだらんと前に倒れ、力のない身体はそのまま動かなかった。彼の身体はすでに体温を失いかけていた。呼吸も止まっている。中途半端に開かれた瞼は何も映しておらず。

 ヤバルはエイディの顔を起こしてあげた。尋問とはいえ、殴られ蹴られもしたであろう。腫れた顔の頬を両手で包むように持った。

 ヤバルの顔は悔しさと悲しさに歪んでいた。もう、ヤバルにはエイディが死んでしまっていることがわかっていた。


「ああ、ああ……!」


 振るえる唇で、ヤバルは必死に彼へ手向ける言葉を紡ぐ。


「すまない。間に合わなかった。俺は……お前の足ばっかりを引っ張って。貸し、返せなくなったじゃねえか。船の時も、牢屋から出してくれたときも。気が合うって理由だけでお前は」


 エイディの顔を、せめて安らかに眠った表情に変えた。


「お前、子どものころ、夢に出てきたエデンの園をこの目で見るって言っていたじゃないか。絶対に絵にするって。俺が誰よりも最初に本物のエデンを描いてやるって。夢があるじゃなかったのかよ。こんなところで休んでいる暇なんてないだろ………馬鹿野郎」


 ヤバルの言葉は、彼がこの国に流れ着く前の記憶のものだった。


「なんか、物騒そうなエデンだったぞ。お前が話してくれた、生き物たちが集うところじゃまったくないぞ。なんで最後にこんなのを描いたんだよ。お前の見たかったエデンがどんなものなのか、これじゃわかりようがないだろうが……」


 と、ヤバルの目が鋭くなる。遠くに聞こえる接近者の足音に気づいたのだ。

 哀しみはすべて相方の亡骸において、ヤバルは尋問部屋のランプを割った。暗闇に身を潜めた。迅速な行動だ。



 一人の兵士が別館を訪れていた。


「確かにアイオーンの気配を感じたはずなんだが……」


 王との誓いの証、と言われているだけあって、アイオーンは独特の気配を纏う。個人差はあるもののほぼ同質の気配で、一定の距離であればアイオーンがどこにあるかをこの世界のものたちは感じ取ることができるのだ。

 アイオーンは王から分け与えられた創造の力の一部だ。独特の気配を纏うのは、これが共鳴を起こしているからと言われている。

 つまり、通常アイオーンが現出しているのであれば、例え暗闇の中であってもアイオーンの在りかは感覚で把握でき、そこから所有者の割り出しも可能だった。


「誰か呼んだほうがよかったか……?」


 そう言いながらも兵士の足は止まらない。


「ランプが点いているってことは、誰かが捕まっているってことだよな……? なんで誰も見張りがいないんだよ。それとも、地下のほうに……」


 この兵士の階級は二等兵。十五歳になったばかりの新米だ。人手が足りない理由でかり出された新人で、まだこの館の構成も全体の隊としての動きも把握できておらず、与えられた仕事をやるだけで精一杯だった。

 任されていたのは、北側に凹みを向けたコの字の本館、西棟一階の廊下だ。使用人たちの部屋が多い西棟一階。その全体ではなく、正門のある南棟と接している一部を見張るよう命じられていた。

 彼が見張る廊下には窓があり、月明かりで夜闇の向こうに、綺麗な中庭を見ることができる。見事な白バラの庭園だ。

 遡ること数分前。

 夜の長時間の見張り中で、二等兵は尿意を覚える。いくら仕事中でも生理的反応まではどうにもならない。仕方なく相方のひとりに声を掛けて用を済ませることにした。

 見張りは二人一組。ちょっとの時間だけなら一人しても問題ないだろうと判断したのだ。

 二等兵は館の外へ出る。冷たい夜風が鎧で守られていない肌を冷やす。時機に鎧も冷えれば、肌寒く感じる気温だ。

 敷地の端。塀のところで小用を足した。開放感で二等兵の頬が緩む。

 さっさと持ち場に戻ろうと、身支度を調えた二等兵は館へ足を向ける。そこで、彼の視線は西棟の先。渡り廊下で続く先にある別館に吸い寄せられた。


「誰か、いるのか……?」


 別館がどういうところなのかは、上司から話で聞かされている。

 しかし、二等兵は今日誰がそこに収容されているのかまでは聞かされていなかった。彼の中では無人であるはずの別館なのだ。

 その別館に、アイオーンの気配があることに気づいた。



 ヤバルは息を潜めて待っていた。闇に沈んだ目つきは鋭く、狩人のそれを思わせる。焦りも動揺もない。ただただ、静かに彼は待っていた。

 ドアが開く。真っ暗の部屋に光が差す。

 尋問部屋のドアの構造は外開きだ。外の者がドアを引いて開き、顔を覗かせる。


「真っくぁ――! っ! ――ッ! !!」


 屈めた身体をドアのすぐ横の壁にくっつけて待機していたヤバルは、ドアを開いた者が誰か視認するよりも早く、狙いの顔と首めがけて腕を伸ばした。反抗すら許さない速さで一気に部屋へ引き摺り込み、多少音が鳴ってしまうことも構わず足でドアを閉める。

 相手が状況を把握できず焦ることしかできないとき、ヤバルは引き倒した相手の頭部を中心に攻撃した。技も何もない。まるで野獣か、怒り狂った何かのように、知性の欠片もない暴力を振り下ろした。

 暗闇で何も見えていない。相手もヤバルもそこは同条件だ。唯一違うのは先手を打ったのがヤバルで、彼だけが部屋の全体像も相手の身体の位置も把握しているということだった。

 ほとんど何もできない相手が頭を庇い、やめろと言っても聞かない。声を殺すように口を狙い、頭部を庇う手を離すために腹部を踏んだ。

 十数分続けて、ヤバルの手はようやく止まる。相手の息が弱まっていることに気づいて止めたのだ。念のために腹部あたりを思いっきり蹴り飛ばす。

 相手が何かを吐き出した音を聞いてから、ヤバルは慎重にドアを開けて部屋に光を入れた。廊下に他に兵士の姿がないのを確認して、部屋で顔を腫らして倒れている兵士に視線をやる。


「やっぱり若い奴だったか。たぶん新人か。わりいな、もうこっちはなりふり構ってられねえんだよ。時機に誰かが来てくれるか、痛みが引いたら帰ってくれ。まあ、叫んでもいいぜ。たぶんしばらくはできないだろうけど。悪かった」


 最後のひと言にヤバルの心が込められていた。

 ドアを閉めるだけで鍵をかけることもドアの固定もせず、ヤバルはその場を後にする。早いところ別館を出なければならなかった。別の兵士がまた来ないとも限らないからだ。

 先を急ぐ。

 が。


「ようやく掬い拾いあげたか」


 全力で走るヤバルの後方。今にも枯れ果てそうな声が、距離を無視してヤバルの耳に届いた。

 ヤバルは無視せず、足を止めて振り返る。


「――職人」


 丸めた背を向けて、何かを積み上げ続けている老人を、ヤバルは職人と呼んだ。少年ヤバルの表情や声から、ヤバルと老人は知り合いであることを物語っている。


「まさか外国まで俺を追ってきたのか。よっぽどご熱心で感激だが、生憎俺は枯れたジジイに欲情できるほど器用じゃねえんだ。時間もねえ。これっきりで消えてくれると少しはお前の熱烈な愛に応えてやれるかもしれねえが」

「どこへ行こうと考えている。どちらも自己満足だろう。どちらを満足させる気だ。その心か、それとも自身の身体か。お前はどちらを選び、どこへ行く」

「人の話を聞かねえのも相変わらずだな。だいたいてめえはなんなんだ。お前もこの国に来たかったのならもう満足だろ。幽霊の類いならさっさと成仏しろ。聖書も読めねえが祈ってやるくらいはできるぞ。ただし三秒で消えろ」

「お前が知っている。我は職人。ただ造ることが取り柄の枯れ枝」

「てめえが何造ろうが興味もねえ。俺は行くぞ」


 構ってられるかとばかりに、ヤバルは職人に背を向ける。その少年の背中に老人の声が届いた。


「忘れるな。お前が何を選ぼうとも、望まずとも、願わずとも、祈らずとも、例えその足を止めてしまっても、お前の結果は常にある。忘れるな。今のお前も、その先のお前も、すべてがお前に集約していることを。忘れるな。そして、思い出せ」


 ヤバルはすでに職人の言葉を無視して走り出していた。もはや職人の声はヤバルには届いていない。


「お前の本当の腕を、思い出せ」


 カチ、カチ、カチ。

 一定に鳴っていた積み上げる音が、ぴたりと止まる。老人の腕も、止まっていた。丸めた背中をやや丸めて。


「―――――………我は、いったい何を忘れてしまったのか」


 ヤバルが脱獄したのが知れるのは、それからも数刻しなかった。二等兵は保護。同じ尋問部屋にあったエイディの死体は、ヤバルが事実に関わっていると断定される。

 エイディを殺し、ヤバルを殺そうとした兵士の姿は、どこにもなかった。牢屋には剣だけが残されていた。

はい。一ヶ月かかっての後編です。

気長に待っていただいた方々ありがとうございますっ。


前編で一つ変更をしたのを、ここで書いておきます。以前は、「モート卿」と書かれていた人物名ですが、「モート・ギリティナ伯爵」に変更しております。これに伴い、マーイヤの台詞も一部変更しました。


では、次の四章まで。暫しお待ちを。


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