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王の腕  作者: 白風水雪
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三章〈逃走〉前

ヤバル (記憶喪失。本名:サクラス・ザラスシュトラ)

マリア・オルレアン (少女)

エイディ・ガローン (記憶喪失前のヤバルと知り合い。ヤバルをサイと呼ぶ)

イサク・ジズ(名のある貴族)

ジューダス・ガリラヤ(名のある貴族)

ポルドレフ・ガーディン(ジューダスの部下)

マーイヤ・レイア(ジューダスの部下)

三章〈逃走〉前


 ヤバルとエイディの二人は、古い地下水道をコイントスで決めた方角へ走っていた。出た面は裏。ヤバルの左手の方角だ。先に行くにつれて道は狭まり、歩道はすでになかった。かつての水道を走る二人は、バシャバシャと僅かに流れる水を蹴った。

 水の流れから、下る方向だということはわかった。

 しかし、この先が地上に繋がっているのかは二人とも知らない。

 地下水道は、地上から完全に閉ざされていて太陽の光が届いていない。視界の頼りになるのは、ヤバルとエイディがそれぞれ持つランプだけだった。地下水道の全てを照らせるわけがなく、地下水道の先は光をも飲み込む深淵のように二人の向かう先で闇の口を広げている。

 まだ兵士たちは地下水道まで辿り着いていないのか、それとも地下水道でヤバルたちとは反対の方角へ向かったのか。ヤバルたちの後方に追手の姿も気配もなかった。

 それでも二人は走り続ける。二人とも疲労が表情に出ていて、息もあがっていて、会話もほとんどなかった。しかし、走る足だけは止めなかった。再び闇が覆った後方の、いるかいないかもわからない兵士の幻影に追い立てられていたのもあったが、もしも本当に追いつかれてしまったときが絶望を意味しているのを知っていたからだ。

 古い地下水道のためか、分かれ道はない。うねる地下水道が続く。かつては水をそこからくみ上げていたらしき場所も道中でいくつか発見したが、どこも天井がすでに煉瓦と土で固められていて、地上までの道は閉ざされていた。

 二人は水くみ場所らしきところから地上に出られないとわかると、すぐに先を急いだ。

 どこでもいい。地上への道を探していた。

 これまでにない急激なカーブに差し掛かる。抜けた先で、二人は地下で初めてランプ以外の光を、暗闇に飲み込まれそうだった両眼に映した。


「おい!」

「ああ」


 エイディが並んで走っていたヤバルと視線を合わせた。ヤバルも短い返答と頷きで意思を伝えた。弱っていた二人の足に力が戻る。二人は走る速度を上げた。

 鉄格子が、二人の行く手を阻む。

 地下水道の天井までの高さは二メートル強。幅は一メートル五十センチほどだ。大人が二人並んで走り抜けられる地下水道は、天井から地面までを穿つ鉄格子で侵入者の進路を閉ざしていた。

 鉄格子には鍵の掛かった鉄のドアがついている。錆びてはいるが、むての人間が壊せるほど衰廃してはいなかった。当然、ドアを開ける鍵もなかった。

 しかし、二人の表情から希望は消えていなかった。彼らはみつけていたのだ。

 鉄格子で道が閉ざされた地下水道の天井から、外界の光が闇が佇む地下世界に降り注いでいた。大きく四角に切り取られた天井の十メートル以上向こうで、雲の流れる青空が見えていた。

 まるで絵画のような見事な青空から、不相応の無骨な鉄の梯子が伸びていた。それは、かつてこの地下水道を点検するために使われていたであろう梯子だ。煉瓦の壁に打ち立てられて、地下世界で地上に焦がれる亡者を救う蜘蛛の糸のごとく、ヤバルたちの手が届くところまで作られていた。


「やっぱお前はすげえよ!」

「俺も思うぜ」


 二人は互いの健闘を称え合い、ガッツポーズの腕をぶつけ合った。

 梯子は長い年月の間、人に使われた形跡はない。全体は錆と劣化で赤黒く見え、埃や正体不明の油に似たぬめりで汚れていた。一番近かったヤバルが梯子に手をかけて具合を確かめる。二、三度、強く揺さぶってみた。


「大丈夫みたいだが、二人同時に登るのはたぶん危ないな。エイディ。お前が先に行け。俺が先だと時間が掛かりすぎる」

「サクッと行ってちゃんと安全か確かめてやるよ」

「気をつけて行けよ」


 古い梯子の負担も考え、ひとりずつ上ることになる。

 エイディが軽快な動きで梯子を上っていった。煉瓦の天井の向こう側で、完全に上りきったのを見てからヤバルは声を飛ばす。

「おーい。大丈夫か」

 兵士の有無。安全の確認のためだ。エイディからの何らかの返答を待つ。

 だが、ない。ヤバルは暫し待ってみるが、エイディが天井の切り抜きの向こうから顔を出すことは無かった。

 ヤバルは急いだ仕草で梯子に手をかけて上り始める。片手のためエイディよりどうしても時間がかかってしまう。それでも、彼の表情は少しでも早く行こうと懸命なものだった。

 天井に近づいたあたりで、ヤバルの表情に躊躇いのようなものが生まれる。彼はここで初めて地上の空気を肌に感じ取れていた。

 近づくにつれて大きくなっていく地上の音。

 それは決して、風や水の潺、鳥の鳴き声のような、平和な日常を想像させる類いの音ではない。

 一平方メートルの、大きく開けられた天井の穴を行く。

 金属や木、何か重いものがぶつかる音。

 人の怒号や叫び声、悲鳴が大きく、大きくなっていく。地下水道にいたときから、ヤバルたちの耳にも確かに届いていた音だった。

 ヤバルの表情に実感が宿る。梯子にかける手を急がせた。上りきって地上に顔を出したヤバルは、地下から這い上がれた喜びに浸ることができなかった。

 彼の目の前にはエイディが立っている。無言でいて、振り向かない。

 ヤバルたちが地下から抜け出せたところは、港側の塀が近くに見える路地だ。港側の塀に通じる本通りの道路から少し外れていて、薄暗くてどぶ臭さが漂っている。

 その町の片隅の狭い路地から覗き見える町の光景を、ヤバルはエイディの背中越しに見て、堪らず駆け出していた。彼の表情には焦りがあった。

 エイディの隣に並び、目の前に広がった地上の光景に立ち尽くす。

 地底の闇から抜け出せた彼らを迎えたのは、雲の流れる空の青を血の色に染めんばかりの、人の騒乱で溢れかえった地上だった。


「なんなんだよ、これ……。どういうことなんだよ」


 ヤバルの問いかけは隣のエイディに向けられたものだった。

 家が燃え、道では人同士が争い、馬が暴走している。

 武器や拳で人は、人に牙を向けている。争っている多くは兵士と脱獄者ではない。一般人と、一般人だ。混乱に乗じての物取りや、難癖からの罵り合い、胸ぐらをつかみ合って殴り合いまで寸前というところもあった。混乱がさらなる混乱を呼び、まるで火が広がり燃え上がるように、人の争いの動乱は過熱していく。

 町が何者かに攻められているわけではない。混乱には一貫性がなく混沌としている。

 永世中立国ワヒシュタの、外国のために開かれた唯一の玄関口である港町プロピナ全体が、負の感情という炎が人という薪を飲み込んで燃え上がっていた。

 山脈の間に構えた港町は、外国のための玄関口という特性故、海側と陸側が高く分厚い塀で塞がれている。そのため、海に行くにしても陸に行くにしても、プロピナから出るためには塀の関所を通過する必要があった。

 関所を通過できない者は、山と塀、四方を囲まれた港町プロピナに留まるしかない。燃え上がる地獄の釜の中を逃げ惑うしかなかった。


「おい。エイディ!」

「言っただろ。大きな騒ぎが起きるって」

「だとしても、これは反逆でもない! ただの動乱だ! 町規模の。最悪それ以上の! いったい何が起きてんだよ、エイディッ!!」

「俺が知るかよ!」


 胸ぐらを掴みかかりそうな勢いで問い詰めるヤバルを、エイディは睨み返した。


「でもチャンスだろ。こんなのもう絶対ないぞ! 俺はこの国を目指してきたんだ! そのためならなんだってするって決めたんだよ。何が何でも絶対にやり遂げるって。俺は決めたんだよ!」


 魂からの叫びだった。

 人を殺めてしまった手を握りしめている。何者にも汚すことを許さない信念を、エイディは胸に宿して立っていた。

 その迫力は、ヤバルが怯むほどだった。


「お前だってあのとき………っ! …………そうだよな。お前、記憶、無くしてんだよな」


 感情が暴走しかけていたエイディだが、ヤバルのたじろいだ顔を見て、表情から感情が消えていった。ヤバルの目を見つめ、寂しい顔で言った。


「―――やっぱお前、サイじゃないよ」


 絶望さえ感じさせる悲しい声で、エイディは拒絶を溢した。

 ヤバルが何かを言い返そうと一歩前に出る。そのとき。


「そこの二人。動かないで!」


 動乱の風に乱れて汗や埃で汚れてもなおも美しい、ショートの赤髪。凜とした目で睨みつける女は、ヤバルの知り合いだった。ジューダスの部下のひとり、マーイヤだ。

 マリアを連れていた集団で、ヤバルと多く接してきたひとりでもある。

 彼女はヤバルと共に行動していたときと違い、濃藍色の軍服を身に纏っていた。ベルトに帯剣していて、襟章が彼女の階級を証明している。紛れもない軍人として立っていた。

 本通りの港方面で、マーイヤは後ろに五人の軍人を従えていた。


「我々には君たちを拘束できる権利がある。我々に抗うことは、この国への反逆と同意と思え。わかったなら通りの真ん中へ出てきなさい。逃亡の場合、こちらは生死の保証はしないぞ!」

「やばいな。たぶんあれ、この町の兵士じゃない。ヤバル。一旦は従うぞ」


 エイディがヤバルの耳元だけに届く声で囁く。

 港町プロピナの兵士は、全身または軽装の鎧を纏い、それらにはワヒシュタの国旗とは別に、港町プロピナを統括する領主の紋章が掘られている。

 ところが、いまヤバルたちの前に現れたマーイヤたちの軍服には同じくワヒシュタの紋章はあるのだが、プロピナの紋章が見当たらなかった。

 別の紋章が、ワヒシュタの国旗と並んでいた。

 ヤバルより一歩前に出たエイディは、とても芝居がかった大仰な素振りで言った。


「これはこれは見るからにお偉いさんだ。たかが平民の俺たちに何の用で。こっちは今から混乱が遠ざかる場所を探そうというところなのですが。それとも、あなた方が俺たちを安全なところに案内してくれるのですか」


 軍服を纏うマーイヤは、その制服が与える威圧に劣らない態度で声を響かせた。


「悪いが、少なくともそっちの彼はただの平民ではない。一緒にいる君は彼の知人か。返答次第では、こちらも取るべき態度を取らねばならない」


 エイディの笑顔が僅かだが引きつる。ちらりと視線をやって、ヤバルに確認の意図を飛ばす。マーイヤの言う〝そっちの彼〟とは、他でもないヤバルだ。

 エイディの問いつめからヤバルは視線を逸らす。その態度は軍人との関係性を意味していた。


「我々は国衛軍本部所属、第六番隊だ。現在、この町を支配する未曾有の混乱の対処のため、プロピナ領主モート・ギリティナ伯爵の許可で行動している。我々に刃向かうことは、この町の領主だけでなく国に対しての反逆と同罪である」


 マーイヤやヤバルたちの横を、人や馬車が我先にと過ぎていく。皆、港の関所を目指していて、道で立ち止まるヤバルたちに構うことすらしなかった。

 暴徒と化した人たちすら、マーイヤの恰好を見てから道の隅に避けている。マーイヤたちの着ている服の意味が、この国の人々にはそれほどの影響と威圧を与えているのだ。

 マーイヤの話は続く。


「そこの少年は、外からの密入国の疑いを掛けられ、拘置所から出ることができない身柄のはずだった。現在、拘置所は何者かの手引きによって混乱している。いったいどのように拘置所から脱出し、ここへ来たのか。そして、この町をも巻き込んだ混乱は誰の仕業なのか。そこの少年から知っていることすべてを話してもらわなければならない。もう一度聞くぞ、赤髪の少年よ。君は、そこの少年と知り合いなのか」


 エイディは、即答しなかった。もう視線はヤバルの方に向けられることはない。六人の軍人たちを睨んでいる。


「クソ……っ!」


 憤りを漏らす。エイディ自身も密入国の罪で、拘置所に拘束されているはずの身柄だ。

 エイディは笑顔を保ち続けたままで言った。


「何かの間違いじゃありませんか。こいつはつい先日も俺と酒を飲み交わした仲ですよ」

「君たちが酒を飲める年齢かどうかは置いてやる。遠回しなやり方もやめよう。私と同じ赤髪の少年よ。これ以上そこの少年を庇うのであれば、我々は君も拘束する。彼は私と顔見知りだ」

「――わかった」


 答えて前に出たのはヤバルだった。


「観念する。こいつには町の外までの道を聞いていただけだ。巻き込まないでくれ」

「君が抵抗しなければ何もしない」


 ヤバルがマーイヤたちの方へ歩こうとするのを、エイディがヤバルの肩を掴んで止めた。彼はこの状況でも笑顔を崩していない。早口でまくし立てる。


「こいつ頭おかしいですって。昨日、もうひとり俺がいたって叫んでました! お偉いさん方が探しているのはきっとそいつで、こいつじゃない。だって本当に昨日から一緒にいましたから」

「その言葉が本当ならば、君も拘置所から逃げてきた、と思っていいのだな」

「そういう話ではなくってですね」

「いいや。結論は出た」


 なんとか話の方向を修正しようとしたエイディの言葉を、マーイヤは首を振って断ち切る。目つきを鋭くして、二人を睨み付けた。


「ただちに、そこの二人を捉えろ!」

「クソがッ!」


 マーイヤの後ろの軍人と、エイディがほぼ同時に反応する。

 軍人が腰の鞘から剣を抜くのと対峙して、エイディが右手を前に出す。彼の手の動きに、青白い光の粒子が流れる。

 瞬時に、剣が現れた。

 先が二つに分かれた、片手持ちの剣。柄は木製で丸みを帯びている。

 ただの剣ではない。アイオーンだ。

 エイディは、己の魂を形作るアイオーンを一度振り下ろしてから、地面から一気に切り上げた。

 剣の切っ先の軌跡から現出されたのは、白い壁だ。まるで、インクが布に染み渡るような、しかし一瞬という短い時間で、港の関所へ続く本通りは白い壁で塞がれた。


「長くは持たねえ。今のうちだ」


 突然現れた壁に戸惑うのは、ヤバルだけではなかった。道行く人は慌てて足を止めている。

 しかし、一頭の馬が止まれず壁に突進する。紙の破ける音を立てて、壁に大きな穴が開けられた。

 アイオーンで作られた壁の材質は紙に近い。強度もそれに近かった。

 穴が開けられたことで壁の強度や厚さに気づいた人々はすぐに別の穴を開けて、再び関所を目指しだした。それは壁に向こうにいたマーイヤたちも同じで。

 馬の開けた穴からヤバルとエイディの二人を捉えていた。


「やっぱ無理があるかあ!」


 後ろを振り返っていたエイディが、マーイヤたちが壁を穴から通過してくるのを見て走る速度を上げた。

 全力で着いていくヤバルが怒鳴る。


「お前一体何したんだよ!」

「壁作ったんだよ。俺のアイオーンな、絵を描けるんだ。しかも、俺の想像通りに。現実に近い模写だって可能にするんだぜすごいだろ!」


 アイオーンは、神王教では世界が滅ぶとき神王と共に戦う誓いと、その力だと伝えられている。多くは剣の形を取るが、所有者の魂によってその形状は千差万別だ。

 そして、アイオーンは元が神王の力ゆえか、奇跡の力を宿す。アイオーンの能力の種類や大小の違いは、人の数だけあった。

 エイディが振るったのも、その一端だった。現在、その奇跡を見せた剣は、逃走の邪魔になるため消してある。


「真っ白じゃ意味ねえだろ!」

「ばっか。向こう側では俺たちが消えたみたいに見えていたはずなんだよ! あのクソ馬が台無しにしたけどな。即興にしては傑作だったんだぞ!」

「知るかそんなこと! ぜんぜん状況の解決になってないんだぞ」


 出現させた壁には持続時間が決まっているのか、強度の限界を超えるまで壊されたためか、青白い光の粒子になって消滅していく。

 追跡を妨害できたのはほんの数秒だった。


「だから無理があるっていっただろ」

「お前喧嘩売ってんのか!」

「あ!? 何て言ったかコラ! やんのかおい!」


 エイディがヤバルに怒鳴り返す。と、後方を走るヤバルに振り向いたエイディは、追手の存在を目に捉えた。


「おい。距離詰められてんぞ」


 ヤバルたちは、人の流れから逆走していた。港町の中央から港の関所へ急ぐ人々を避けながら走らなければならなかった。

 一方、マーイヤたちは人の流れを難なく逆らい、着実に距離を詰めつつある。


「わかってんだよ。お前もいっかいアレ出せよ。少しでも足止めできるだろ」

「簡単に言うなよ。毎回うまくいくかなんてわからないし、使う度に疲れるんだからな!」

「そのまま倒れて囮になれ!」

「誰のせいで追われてると思ってんだよクソ野郎!」


 脇道に逃げ込むか、近くの建物に飛び込む選択肢もヤバルたちにはあった。

 しかし、路地は争う人や物で溢れて閉ざされていて、建物は火事が発生しているところもあったことから、二人はそれらの選択をできなかった。ましてや追われていて、口論もしているため、彼らは冷静な判断ができていなかった。

 そして、ヤバルたちの二人が他の判断をする前に、マーイヤたちが先手を打つ。

 胸ぐらをつかみ合いそうな勢いで言い争う二人の横を、空を裂く何かが過ぎる。それは激しく回転しながら空中を大きく迂回する。他の逃げる人々の間を抜けて、ヤバルたちの眼前に迫った。


「おわっ!」


 ヤバルとエイディは慌てて頭を低くして回避する。あと数秒遅ければ、首と胴が分かれていた。

 しかし、今度はヤバルたちの前方の地面から突如無数の鋭い突起物が現れる。通路を横に分断する、三十センチ程度の岩の強度を持つ棘だ。

 身を低くした姿勢を狙った追撃は、逃げる二人の足を鈍らせるには十分だった。二人は慌てて足幅を合わせてから飛び越えた。それだけで、軍人たちは二人を捉える準備を整えていた。

 地面の棘は、マーイヤの後方を走る軍人のひとりの力だ。アイオーンの能力だ。

 突然現れた棘に怪我をする人や馬が続出し、驚いた人々も加わって、棘の壁で人の流れが滞留する。

 その人の群がりの壁めがけて、マーイヤが先陣を切って駆け出す。

 数十人の群れの中から、ヤバルとエイディの、咄嗟のジャンプからの着地で足下をもたつかせながら走るふたりの姿を、マーイヤは見失っていない。二人から視線から外さず、突起物を軽々と飛び越えて、ヤバルたちとの距離をさらに縮めた。

 彼女の手には、腰の剣とは別の細い剣があった。刺突に優れた、細身の剣。レイピアと呼ばれるものだ。


「ふ――っ!」


 レイピアの刺突が放たれる。まだヤバルたちとの距離は十メートルあり、当然剣の先が届くはずもなかった。

 だが、エイディの右足の脹ら脛が裂け、血が飛び散る。エイディは体勢を崩して転びかけてしまう。マーイヤが一気に距離をつめて、エイディの立て直そうとしている足を払い転ばせた。

 ヤバルも思わず足を止めてしまう。エイディを見捨てるという選択をできなかった。

 二人の動きが止まった瞬間、マーイヤの後を追って駆けていた他の軍人たち五人がヤバルたち二人を、マーイヤごと完全包囲する。

 軍人たちの腰からは剣が抜かれていた。

 なんとか逃走路を見つけようとするヤバルの仕草を、マーイヤがレイピアを首元に突きつけて止める。


「動かないで。これが最後よ。ヤバル」


 彼女の目の鋭さは、ヤバルに突きつけているレイピアにも劣らなかった。


「わかったから、その物騒なものを下ろしてくれないか」

「それはこれからのあなたの態度次第ね。聞きたいことがいくつかあるわ」


 ヤバルは完全に観念する。肩の力を抜いてマーイヤを正面から見つめ返した。棒立ちに近い姿勢をしている。逃げる意思がない表明だった。

 ヤバルたちを囲む軍人の周りでは、地面から現れた棘で怪我した者や、道を塞がれたことで怒った人々が軍人に抗議していた。一人が怒鳴り出すと、連鎖的に他の人々も声を大にして怒鳴った。

 両サイド、二人の軍人がその対応に当たる。

 怒りを露わにする彼らだが、軍人の胸ぐらを掴みかかるような真似はできないでいた。

 大勢の怒声の中で、マーイヤはレイピアをヤバルの首元からおろさず、冷たい声で言った。


「まず一つ。あなたたちはどこから出てきたのかしら。どのあたりを通って、ここまで辿り着けたの」

「教えられねえなあ……」


 ぼそりと言葉を溢したのはエイディだった。地面に転ばされた状態で、顔だけをマーイヤに向けて睨み上げていた。


「男同士なんだよ。察してくれねえかな。騒ぎが起きるまで人気の少ない暗がりの路地でナニをしていたかなんて。せっかく隠してんだから」

「よくわかった」


 マーイヤがため息をついた。彼女のレイピアが青白い光の粒子になって消える。


「君たちから情報を得るには場所が悪いようだ」


 細い腕から想像のできないほどの力強い拳が、ヤバルに向かって放たれた。いきなりでかわすことも防御すらできず、まともに顎にうけてしまう。ヤバルはそのまま倒れて気を失った。

 サイ、とヤバルを呼ぶエイディも、他の軍人の鞘で殴られる。腹も蹴られて、気絶こそしなかったが痛みで動けなくさせられた。


「モート伯爵の館まで運ぶぞ。ポルドレフ軍曹とも連絡を取ろう。手がかりを一つ得た、と。急ぐぞ!」



 何かを積み上げる音を、ヤバルは聞く。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 繰り返して、繰り返す。何度も積み重ねている、終わりがどこにあるかもわからない、今にも消え失せそうな、か細い音。


「――いつまで、そのままにしておくつもりか」


 嗄れた老人の問いかけ。

 ヤバルの答えはない。


「なぜそのままにしている。そこにあるだろう。ずっとそこに。失せ物にしているのはお前だけだ。無くなってもなければ、消えてもいない」

「―――」

「ただ、お前が見えていないだけだ。視覚が頼りないなら、それ以外の五感に頼れ」

「――――」

「元よりお前は目より素晴らしいものを持っているだろう。さっさと拾い上げろ。――片腕では心もとないか。そんなはずはないだろう。その腕は片方の理由に捕らわれるほどのガラクタではないはずだ。お前の腕だろう。なら、ガラクタにしているのは、誰だ」



「いちいちうるせえな。くそジジイ」


 仰向けて寝かされていたヤバルは、重そうな瞼をようやく開けて、ぼんやりと天井を見つめる。口にした言葉の感触を確かめるかのような、唇を何度か同じように動かしている。


「……夢かよ」

「そのようだな」


 ヤバルが入れられたのはモート・ギリティナ伯爵の別館の牢屋だ。覚醒したばかりのヤバルが溢した言葉に応えたのは、ポルドレフだった。

 医者のオルテイの下で治療を受けているとき、そのテントの見張りをしていた男だ。気軽に会話できた仲でいえば、オルテイやイサクの次に言葉を交わしている。

 彼は頑丈な鉄格子の向こうから、ヤバルに冷たい目を向けていた。マーイヤ同様の軍服を着て、その上から胸や腕、足には鎧を纏っていた。一見して軽装だが、鎧は厚く頑丈だ。ポルドレフの軍人としての恰好だ。

 ヤバルは簡易のベッドに寝かされていた身体をけだるそうに起こして、ゆっくりと自分が閉じ込められている空間を見渡した。

 周囲は堅牢そうな岩を積み重ねて固めた壁。埃とカビの臭いが狭い部屋を充満している。牢屋の鉄格子は、拘置所のそれよりも太くて丈夫そうだ。鍵穴も簡単には壊せそうにない。

 モート・ギリティナ伯爵の館は、外国との玄関口という町柄、スパイなどの侵入者が時折現れる。国政にも関わってしまう侵入者を一時的、もしくは表に出すことなく管理するところが、現在ヤバルが閉じ込められている別館の地下牢だった。

 ヤバルはさほど慌てもせず、焦った様子も見せず、部屋を観察していた目をやがてポルドレフに向ける。


「実はぜんぶ夢で、とかじゃないわな。めんどくせえ。俺に何か用か、ポルドレフさん」


 ヤバルは、捕まえられている立場には相応しくないふてぶてしい態度と目をしていた。反抗的とも取れるものだ。

 がっしりとした中型体躯のポルドレフは、大きな顔の口をへの字に曲げていた。


「ずいぶんと人が変わってしまったな。それが本来のお前なのか」

「知らん。記憶は相変わらずだから比べることもできん」

「そうか。では、単刀直入に現状を伝えよう。今、お前の相方の少年には尋問が行われている。お前が知りうる情報次第では、少年の身柄の安全は高まるだろう」


 ヤバルは鉄格子越しにポルドレフに鋭い目を向けた。


「俺は頭が良くないんだ。回りくどく言われてもわかんねえよ。お前らが欲しいのはなんだ」

「一つ目だ。マリア様が何者かに攫われた。心当たりはあるか」


 マリアとは、ヤバルの命を救った少女だ。毛先の細い白銀の長髪。美しい蒼の瞳。細い体つきは荒事には不向きだろう。


「あいつが攫われた? なんで」

「二つ目だ。現在起きているプロピナの混乱。町全土に及んでいて、すべての対応が後手後手の現状だ。何が目的だ」

「……知らねえよ。俺が知りたいくらいだ。俺たちはその騒ぎを利用して外に逃げだしたんだ。こっちからも質問をいいか」


 しかし、ポルドレフは応えない。一方的で、会話の主導権を主張した。


「お前はこちらの質問に答えればいい。三つ目だ。では、どのようにして外に逃げた。あの拘置所は堅牢な事で知られている。外からの侵入はおろか、脱出も不可能と言われてきた。外には包囲網がしかれて、二つしかない出入り口から出た脱獄者を問答無用で殺していたはずだ。どのようにしてその包囲網を抜けてきた」


 ヤバルは怪訝そうに眉を寄せた。


「偶然抜けてきた、と思えないのか。なあ、ポルドレフさん。あんたのいい口だと、俺ら以外にも脱出に成功した奴がいるみたいだぞ」


 ポルドレフは失敗を犯す。ヤバルの言葉を惚けることも、流すこともできず、黙ってしまったのだ。これが何を意味するのか、今のヤバルは気づけないほど愚かではなかった。

 ヤバルがにやりと笑う。


「情報交換といこうぜ」

「……お前に情報を知る権利は無い。続けるぞ。いったい誰の手引きでお前たちは港の関所近くまで逃げることができた」

「ちっ……。知らねえよ」


 ポルドレフの態度はそれ以上揺らぐことはなかった。子ども相手に意表を突かれてしまったことが、彼の警戒心を強めたのだ。

 一方、ヤバルも必要以上に交渉を持ちかけない。引き際を見極めていた。


「俺たちは突然誰かが脱獄を始めて拘置所内が騒ぎで大変なことになったから、このままここにいても殺されそうだったから必死に外へ逃げだしただけだ。他にわかることはない」

「牢屋の鍵は閉められていたはずだが。誰が開けた」

「俺はそのとき寝てたんだよ。騒がしくて起きたら開いていたんだ」

「そうか。ではもう一人の方に聞くとしよう。大人しくしていろ」


 ポルドレフが背を向けて去ろうとする。ヤバルは添えつけてあった靴も履かずベッドから降りて、冗談めかして言った。


「おい。あいつは繊細なんだ。優しくしてやれよ」

「心配せずとも命までは取るつもりはない。殺しては意味が無い」

「もう一つ。本当に、あのお嬢さんは攫われたのか」


 ヤバルの態度は軽く、顔には笑みを浮かべている。しかし、ポルドレフを見る目は真っ直ぐで、込められた意思や感情は、相手を小馬鹿にしたような笑みとは違っていた。

 足を止めたポルドレフが、真剣な面持ちの顔を俯かせた。拳を握りしめる。


「……本当だ。この騒ぎに関わりがあるかどうかは調査中だが。関係があることはおそらく間違いがないだろうと、イサク様の見立てだ。俺も同意見だ。しかし、混乱の規模が大きすぎて、いったい誰が主導で事を動かしているのかわからない現状だ」

「……やっぱ、あいつには何かあるのか」

「そんなもの……! あの子の意思には関係のないことだ」


 彼の言葉にも声にも、マリアを攫われてしまったことへの悔しさがあった。何も事情を知らないヤバルにも伝わるほど、ポルドレフの表情は苦渋に歪んでいた。


「今度こそ大人しくしていろ。事態が落ち着いたら解放される」

「ああ、そうだ。思い出した事が一つあるんだが」


 去ろうとしたポルドレフを、ヤバルはもう一度止めた。


「なんだ」

「実はよ、俺の牢屋をあけてくれた奴なんだが。兵士に恰好をしていたぜ。ほら、あんたが俺を預けた兵士だ。あいつが俺の相棒のエイディに手引きしていた。それと俺たちは地下水道を抜けてきたんだ。兵士に聞いた逃げ道だが……いや、いいや。ともかく、俺たちが逃げてきたのは地下からだ」

「………わかった」

「ああ、あともう一つ。今度は聞きたいことなんだが」

「……なんだ」

「これで最後だ。ここってよ、俺以外に、誰か入れられたりしたか」

「今日はお前だけだ。どうかしたのか」

「―――いや。寝ぼけていたみたいだ」

「しっかり休んでいろ」


 ポルドレフは鎧の音を響かせて歩いて行った。ヤバルも、もうポルドレフを呼び止めようとせず、しばし彼の背中を見送り、やがてベッドに飛び込んだ。

 一分も経たず、ヤバルは深い眠りについた。

はい!

覚えている方にはお久しぶり。忘れた方、初めての方は初めまして。

二ヶ月とちょっとぶりの更新ですね。もう忘れられているでしょう。ええさすがに。

更新遅くて申し訳ないっ。


さて、今回は前編となります。

というのも、一章や二章の長さだと、ネット小説では読みにくいのではと考えたのです。今後、やはり以前のままがいいと思ったときは、また元の長さに戻そうと思います。いやゆる試行錯誤というやつです。

まだ後半に時間がかかるから、という理由からではありません。たぶん。


しかし、後編がまだできあがっていないのも事実です。

もう暫しお待ちを。

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