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王の腕  作者: 白風水雪
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一章〈呼び名〉後

ヤバル (記憶喪失。本名:サクラス・ザラスシュトラ)

マリア・オルレアン (少女)

イサク・ジズ(名のある貴族)

オルテイ(医者)

「そうだ。君に聞いておきたいことがあったんだ」


 全員の食事が終わり、そろそろ片付けに入ろうかというときだった。ヤバルが食器を纏めていると、イサクが言ったのだ。


「アイオーンというものを、君は知っているかな」

「なんだそれは」


 その問い返しは知らないことを意味していた。


「神王との誓いの証だ。かつて世界が滅ぼされようとしたとき、神王様が、共に戦いたいと願う民に与えた力だ」

「しんおう? 証? いったい何の話をしているんだ」

「神王教の話だよ。そうだったね。君はそれも忘れてしまっているんだったね。神王教というのは、この世界を生み出したとされる神王様を崇拝する宗教のことだよ。以前君の呼び名を決めるとき、思いつく言葉をいってもらったけど。ヤダルバオートは神王様の名前なんだ」

「ヤダルバオート……」


 まるで、最初からその名を知っているかのように、ヤバルは淀むことなく滑らかに呟く。自身の胸に手を当てている姿は、己に問いかけているようだった。


「神王教は多くの人が信仰している。君が信仰していたとしても不思議はない。ヤダルバオートの名が出たのもそのためだろうと、私は思っている」


 イサクは木箱から腰を上げて、天幕内のスペースがあるところまで歩く。手の届く距離にものはない。十分に両腕が広げられた。


「今から実際にアイオーンがどういうものなのかを見せよう」


 右手を前方へ翳す。


「まず、アイオーンを現出させるとき、このように光が発生する。これはアイオーンが形成される際に漏れ出た、私の精神の欠片だ」


 イサクの右手を中心に青白い光の粒子が出ていた。儚い光はうまれてはすぐ消えてしまう。


「王との誓いは私たちの魂と共にある。つまり、アイオーンはその所有者の魂の影響を受けやすい」


 次の瞬間、イサクの右手から黒い柄が現れた。それは地面へと伸びて、美しい両刃が突き刺さる。


「これが私の魂の形ともいえるわけだ。形は個人で様々だが、剣を形取ることが多い。戦いの誓い証だからだと言われている。例外もいくつか存在しているけど、いずれも武具、つまり戦に関連するものがほとんどだと聞いている」


 黒い柄と、鏡のように鏡のない刃を持つ剣。刃渡り一メートル半はある大剣は、無骨だがシンプルで逞しさがあった。まさに、イサクの人柄そのものを形取っていた。

 突然現れた剣を、ヤバルだけが驚きの表情で見つめている。

 イサクはただ一人何も知らないヤバルを嘲笑すらしなかった。


「アイオーンは決して稀少な能力ではない。神王との誓いはすべての生命に宿っている。この世界のすべてが、再び訪れる滅びのとき、神王と共に戦う力を授けられているんだ。神王教を信仰していない人も例外ではないよ。そして、君も持っているはずなんだ」


「……オルテイ先生も、か」

「もちろんだ。私のはイサク様のように強靱なものではないが」


 オルテイの手にも、青白い光の粒子と共に一本の剣が現れる。刃渡り二十センチ程度の、包丁にも見えるアイオーンだった。片刃で形状はナイフに似ている。

 確かにイサクのものと比べると刃も薄く、頑丈には見えない。

 イサクが笑って否定する。


「ヤバル。気をつけるといいよ。切れ味だけならばオルテイのほうが上だ。それは鉄をも切り裂くよ」

「さすがに鉄は少々難があります」


 無理とは言わないあたり、イサクの言葉も嘘ではないということだった。

 アイオーンとしては同種のものだが、形も個性も違っていた。

 と、ヤバルはマリアにも目をやる。イサクの話が事実であれば、彼女も彼女だけのアイオーンを持っているはずなのだ。だが、マリアは視線を逸らした。

 ヤバルから逃げているようで、ここに来てから一度も言葉を発していない。イサクやヤバルの言動に反応しているときがあるから、まったく無視をしているわけでもないのだが。

 ヤバルは嘆息してから言った。


「とりあえず、まだ思い出せることがないみたいだから、俺にアイオーンとやらの力があるかどうかなんてわからないけど。イサク、様。一つ聞いていいか」

「何かな」


 イサクの手から黒い柄の剣が消える。消失の際も青白い光の粒子を放っていた。オルテイの手にあったアイオーンも同様だった。


「アイオーンなんて力の話を俺にしてよかったのか。もし使い方を思い出したなら、俺は脱走のときに使うぞ」

「もちろん考えているさ。私からも忠告しておこうかな。この国でもアイオーンの無許可の使用や携帯は、基本禁止されている。ちなみに、さっきみたいに家の中や自室でただ出して、観るだけのためなら問題は無い。公共の場だと捕まるけどね。アイオーンの使用は、犯罪に関わるようなら厳罰、最悪死刑が下される。揉め事や喧嘩の場合でも同様だ。君のアイオーンで、もし人が傷ついてしまったのなら、君は死刑になっても文句は言えないよ」

「事実だよ。ヤバル。私たちは小さい頃から、アイオーンでイタズラするなと教えられている。秩序を守るためだ。これはワヒシュタだけでなく他の国も同じはずだ」


 オルテイも肯定することで、ヤバルに虚偽ではないと伝えた。気をつけるように、と注意の意味も含まれていた。


「誰もが使えるから厳しくしているのか」

「それもあるね。もう一つは、ここが聖地だからだ」

「……しんおうきょうのか」


 イサクは、ヤバルの答えに頷きを返す。


「そのとおり。この国の名はワヒシュタ。かつて、神王様が座して我々民を見守ったとされる聖地でもあるんだ。この国に神王教の本部もある。神王教徒にとってアイオーンは王との神聖な誓いなんだ。それを罪で汚そうというのなら、所有者として相応しくないと見なされて処刑される」

「わかった。覚えておくよ」


 そう言って、ヤバルは席を立つ。イサクやオルテイたちの分も含めて、食器類を纏め始める。

 食器の洗い場は、天幕が建つ一帯から少し離れたところにある河口だ。ヤバルが向かうことは不可能だが、いつもオルテイが誰かに頼んで洗いに行ってもらっている。そのための準備をしていた。

 海辺で拾われてからまだ数日としか経っていないが、ヤバルはオルテイの日常生活面の手伝いを少しずつやるようになっていた。


「こうしてみていると、君はもしかしたら左腕は義手をつけていたのかもしれないね。時折、左腕があるような動作が見えるよ」

「オルテイ先生も同じ事をいっていたよ。言われてみればそういう気もするけど、俺には結局わからないんだ。別になくても違和感はないし」

「何か切っ掛けさえあれば順調に思い出すようになるとは思っているのですが。こればかりは待つしかないと思います」


 オルテイがヤバルの現状に補足をする。

 実際、いくつかの実験めいたことをヤバルはすでにやらされていた。まずはスプーンやフォークの使い方から、字の読み書きや、服の着方など。日常生活の中の動作を何度も反復させられたのだ。結局のところ効果は見られなかったのだが。


「仕方ないことだね。そうだ。マリア。君は彼に聞きたいことがあったのではなかったのかな。だからこうして着いてきたのだろう」


 ヤバルはマリアに目をやる。マリアもヤバルを見つめ返したのだが、またすぐに逸らしてしまった。


「俺、お前に何かしたか。助けてくれたことには感謝している。だけど、こうも避けられたら、さすがに良くは思えないぞ」

「別に避けているわけじゃ……」


 ようやくマリアが言葉を発した。ヤバルにとっては数日ぶりに彼女の声を聞いた。


「まあいいや。で、聞きたいことってなんだよ。あんまり覚えていることがないから答えられるかどうかなんてわかんねえぞ」

「……」


 マリアは視線を下へ向けて黙り込んでしまう。イサクもオルテイも、事の成り行きを見守る構えのようで、ヤバルとマリアの会話に入ろうとはしなかった。

 ヤバルは手に持っていた食器類と一度テーブルに置き直して、マリアの返答を待つ。彼の意思が伝わったのか、やがてマリアが顔を上げたとき、何か意思を固めた表情をしていた。


「ソフィアという名に聞き覚えはあるの」


 それはマリアが浜辺でヤバルを見つけたとき、ヤバルの口から発せられた言葉だった。オルテイの元に預けられた最初のときも、ソフィアの名を呟いているのだが、それはマリアの耳まで届いていない。

 ヤバルはきょとんとした後、ちょっとだけ考える仕草をしてから、首を振った。


「いや……知らない。それがどうかしたのか」

「そう、なの……。いえ、いいわ。私の話はこれで終わりよ」


 マリアはヤバルから視線を外す。もう話すことはないという意思表示だった。

 ヤバルだけが納得できない顔をした。


「ソフィアってなんなんだよ。お前のことなのか」

「違う! 私は! 私は……私はマリア・オルレアンよ。間違わないで」


 突然かっとなって立ち上がったマリアだが、すぐさま自分を取り戻した。しかし、その声はどこか弱々しさがあった。


「それはわかっているけど。なんなんだよ。いきなり」

「ソフィアというのは、世界を滅ぼそうとした終末の女王の名だよ。再び蘇り、世界を滅ぼすと言われている」


 イサクが説明した。


「マリアから相談を受けてね。君がマリアを最初見たとき、その名で呼んだらしいのだよ。ヤダルバオートと同じく、おそらく神王教の記憶から出た言葉だろうと私は思っている。きっと意識が混濁していて、目の前の人が女性の認識から、終末の女王の名が出てしまったのだろう。しかし、あまりその名は言わない方がいい。ヤダルバオートの名が伏せられるのは畏れ多い感情からだが、ソフィアは不吉な意味で避けられている。町中では絶対に言わない方がいいよ。最悪異教徒扱いで異端審問にかけられてしまうからね」


 ソフィアの名の意味を知ったヤバルはマリアに謝った。


「悪かったよ」

「……私も感情的になってしまって申し訳ないわ。ごめんなさい」


 両者は謝ったが、場の空気の気まずさまでは拭えなかった。嫌な沈黙が降りる。


「どれ。食後のコーヒーでも飲みましょうか。イサク様。いかがですか。イサクも、マリアも」


 オルテイが場の空気を取り持つ。話題を変えることで空気も変えようとしているのだ。


「いただこうか」


 イサクが率先して気軽な声で答える。オルテイの意図を読んでの行動だった。最も彼の場合は、単にオルテイのコーヒーを飲みたいというのもあるが。


「二人はどうするね?」


 オルテイがもう一度聞く。


「もらいます」

「俺も」


 マリアが怖ず怖ずと答え、ヤバルがそれに続いた。


「今日はどんなコーヒー豆なのかな」

「いつものです。ジューダス様が取引されているものですよ」

「ガリラヤ家が仕入れるコーヒー豆は絶品だからね。いつ飲んでも飽きが来ない素晴らしいものだ」

「ジューダス様が聞かれていたら、それこそ感無量でしょう」

「ははは。大げさだね」

「いえいえ。決してそんなことはありません」


 大人の二人は楽しげに会話をする。少年少女の二人はただ黙って聞いていた。

 それでも、苦い空気のままでいるよりは幾分も呼吸のし易い空間だった。



 ジューダス・ガリラヤが率いる一団が再出発し、港町に着いた。イサク・ジズとマリア・オルレアンは、ジューダスの客人として同行させてもらっている。

 団体には貴族だけでなく商人も含まれていて、今回港町を目指していたのは商談と、商品の仕入れをするためだった。

 マリアが休憩のため立ち寄った浜辺でヤバルを発見したことで、予定された日程より十日ほど遅れていていた。

 ヤバルの体調が整うまでの看病期間も、商人たちは先行して港町で商談などを進めており、一団の到着が遅れる分の調整はされていた。

 港町プロピナは輸入と輸出専用で、海外へ向けて開かれている。近海の漁は一切が禁止されていて、船の出入りや人の出入りも厳重に監視されていた。

 港町プロピナは船と多くの倉庫が並ぶ港と、町の住人が暮らす商業地に分けられている。商業地を、十メートルを超えるレンガ造りの塀で囲み、隔離状態を作っていた。内からも外からも、この町に入るためには一度検問を通らなければならなかった。

 塀で囲んだ町を港との間に置くことで、一種の分厚い壁を築いたのだ。

 ガリラヤ一行は、紹介状を提示することで衛兵が見張る検問を通過する。貴族と限られた商人のための大きな門口からプロピナに入った。紹介状が貴族にしか使えない特別なもので、衛兵の検査も簡単に済んだ。

 堅牢な塀の向こう側は、人々の活気で煮えたぎっていた。溢れんばかりの人が通りにひしめき合い、皆忙しそうに足早に動いている。ガリラヤ一行の馬車は目の前の人波に乗ってゆっくり進行していった。

 馬車はガリラヤ一行以外にも走っていて、彼らも同様に急がず馬車を進ませていた。道行く人たちは馬車や人を起用に避け、この賑やかな流れが滞ることはなかった。

 ヤバルは、イサクやマリアたちの馬車ではなく、ポルドレフの部隊の馬車に乗せられていた。ポルドレフの他に十人あまりが馬車の荷台に座っている。その中には女の軍人マーイヤの姿もあった。彼女はポルドレフの部下ではないのだが、同行という形でポルドレフの部隊に入っている。

 馬車の後ろから見える町の活気にあてられて唖然としているヤバルを、マーイヤは微笑ましく見ていた。


「そんなに珍しいものなの」

「たぶん。俺に記憶がないからなのかもしれないけど」

「そういえばそうだったね。なあに、すぐに慣れるよ」


 彼女はヤバルが記憶喪失だということを気に使う様子がなかった。ヤバルもマーイヤの振る舞いを特に気にしていなかった。


「拘置所でも大人しくしておくんだよ。イサク様やジューダス中尉の厚意で普通より早く出られるんだから。たぶん母国送還になるだろうけどね」

「そのつもりだよ」


 ヤバルが再び外を眺める。ふと、彼の表情が変化する。何か思うところのある目をしたのだ。


「どうしたの?」

「―――いや、愛おしいと思っていたのだよ。触れるのが、怖くなるほどに……」

「ヤバル?」


 マーイヤに呼びかけられて、ヤバルははっとする。


「悪い。眠ってたか」

「……あんた。ううん。何でも無いわ」


 そうか、と答えてヤバルはまた外を眺めた。その目には、先ほどの深い慈愛の表情はもうなかった。

 ポルドレフが離れたところでその様子を窺っていた。何も言わず、ただじっと見つめ、もうヤバルに変化がないことを認めると、彼は荷馬車の揺れる床に視線を落とした。

 小一時間かけてヤバルを乗せた馬車は拘置所に着いた。

 拘置所前で止まった馬車は一台だけで、他は道中で分かれて本来の目的へ向かっている。イサクやマリアの乗った馬車は、ジューダスの乗った馬車と同行していた。マーイヤもここではすでにジューダスのほうへ別れている。ヤバルを連れてきたのは、ポルドレフと一分隊だ。

 ヤバルは腕や足を縛られてはいないのだが、扱いとしては密入国の容疑者にあたる。一旦身柄を預かる施設も、他の犯罪者と同じになってしまうのは仕方の無いことだった。

 ヤバルがこれから預けられる拘置所は、高さ五メートルは超える建物だ。黒っぽい煉瓦で造られていて、壁はゴツゴツしている。巨人がどっしりと腰を下ろしたような、重々しくも安定感のある建物は見るからに堅牢だ。

 煉瓦の色も相俟って、その重量感から近寄りがたい雰囲気を作っていた。

 ヤバルの表情がやや引きつり、中へ入るのを躊躇わせる。


「なあ、本当に大丈夫なんだよな」

「問題ない。すでに手続きは進められているはずだ」

「ほんとかよ……」


 ポルドレフに背中を押され、ヤバルはしぶしぶ足を向かわせるのだった。

 施設内に入ったヤバルは、出入り口付近で出迎えの待機をしていた兵士に身柄を引き渡される。ここでも縄で縛られるようなことはなかったのだが、有無を言わせぬ空気が兵士から放たれていた。


「頼んだぞ」

「了解です。行け。奥だ」

「ヤバル。大人しくしてるんだぞ。イサク様やジューダス中尉の顔を潰すようなことは絶対にするなよ」


 兵士に背中を強く押されていたヤバルは、返事として右腕をあげて見せた。古傷のせいで中途半端にしか挙げられなかった。すぐに、その腕は兵士に降ろされる。

 無表情の兵士に押されるがまま、ヤバルは施設の奥へと歩いてく。ちらりと後ろを振り返ると、外光を届ける入り口は小さくなっていた。ポルドレフらしき人影はなかった。

 兵士に命じられるがまま歩かされ、何度も角を曲がる。やがて、地下へ続く階段を降りた。ここまでで十人近い兵士とすれ違っている。

 地下の空間は言い様のない異臭が充満していた。光源は自然石の壁に掛けられた数個のランプのみだった。一つの廊下に向かい合う形でいくつもの小さな部屋が設けられ、そのすべてが鉄柵で区切られている。多くの部屋の中には人がいて、虚ろな目や鋭い目を、新参者に向けていた。挑発などは起きなかったが、無言の迎えは、むしろ地下空間の威圧をより強くしていた。

 ここは、いわゆる地下牢だ。


「俺はここで大人しくしていればすぐに出られるんだよな」


 ヤバルは不安に駆られた表情で、自分をここまで連れてきた兵士に訊く。しかし、彼は相変わらずの無表情で、入る部屋を指定するのみだった。

 兵士の腰には剣がある。下手な抵抗は身の危険を意味している。ヤバルは従うしかなかった。

 畳一畳程度の狭い部屋に入れられ、鉄柵には鍵が掛けられる。排泄物用の桶が一つと、もう洗われず何十年も経ったかのような汚い布が一枚のみ、部屋に用意されていた。


「マジかよ……」


 早くも、ヤバルの表情には後悔と焦りが浮かんでいた。

 しかし、ここまで来てしまっては、もはや脱獄も容易ではない。ヤバルはイサクの手配が済むの待つしか無かった。

 だが、二日経っても出られる気配はなかった。水も食料もごく少量しか与えられず、飢えと渇きに苦しめられる。兵士に訴えても無視されてしまう。

 ポルドレフの言葉を信じて待つと決めたヤバルは、あまり騒ぎを起こせなかった。イサクが進めてくれているはずのせっかくの手配を、無駄にしてしまうかもしれなかったからだ。

 昼か夜かもわからない空間の隅で、ヤバルは長い時間膝を抱えて耐えるしかなかった。

 ふと、ヤバルの耳に何かを積み上げる乾いた音を聞く。

 鉄格子越しのランプの淡い光が届いているところで、何者かが腰を曲げて座った姿勢で、何かを積み上げていた。

 いつ入ってきたのか。同室者は背中を向けたまま、黙々と作業をしている。ぼそりとした声が、ヤバルの耳まで届いた。


「あれはいったいなんだったのだ。あの感情はいったい……。あのとき、何を見たのだろうか。わからない。靄がかかったかのように思い出せない。ただわかるのは、私の手の中には未だ焦がれた感情が燻っているということか。ならば私は」

「……お前、誰なんだ。いつ入ってきたんだ」


 ぴたりと積み上げる音が止む。

 ヤバルの空虚な目が見つめる先で、腰を曲げたままの者は一切振り向かず答えた。


「誰でもいい。私は最初から此処にいた」

「俺が入るとき、お前はいたのか」


 また、何かを積み上げる音が鳴り出す。

 ヤバルの目に、その者の手が背中越しにちらりと見える。老人と思わしき皺だらけの、干上がった手だった。


「なぜ、出ようとは思わない」


 返ってきたのは答えではなかった。


「出られないからだろ。それに、そのうち出られる」

「いつだ。それはいつになる。今か、明日か。わからないのなら、それは出られないのと同じだ。そのうちとは、いったいどこまで続く? 地平の果てに辿り着くのとは、どちらが早い?」

「………………何、わけのわからないことを言ってんだよ」


 いつしかヤバルの目には力が戻っていた。数日ぶりの話し相手を得て、これまで抑えられていた感情の矛先を、すべて老人に向けていたのだ。


「――腕を使え」

「会話しろよ。クソジジイ」

「そこにあるだろう。何故使わない」

「生憎片腕があるけどよ。これで何をどうしろってんだよ。まさか、牢屋をぶっ壊せと言うんじゃないんだろうな」


 ヤバルは右腕と、二の腕から先のない左腕を、老人の向かって前へ出して見せた。片方が腕の途中から布がぶらりと垂れ下がり、もう片方は古傷のせいで、指は親指と人差し指、中指の三本までしか満足に動かせなかった。


「腕はそこにあるだろう。腕を使え」

「だからお前はいったい何を!」


 ヤバルは老人を蹴り飛ばそうと上体を起こす。

 そのとき、まったく別の声を聞いた。


「お前、もしかしてサイか!」


 はっとした顔で、ヤバルは声の方角へ目をやる。斜め向かいの牢屋。ランプの光に照らされて、鉄柵越しに見えたのは、ヤバルと歳が近く見える少年だった。

 老人の姿はすでにない。彼の手元にあたる位置には、ただ一つ、豆一つにも満たない小さな石が二つ重ねて残されていた。


「やっぱりサイだ。お前も捕まったのかよ。でも安心しろよ。もうすぐ出られるからな!」


 忽然と消えた老人。

 あまりの不可思議な現象に、ヤバルは呆然としてしまう。そんなことにもお構いなしに、少年は立て続けに話していた。


「ずっと一人でぶつぶつ言ってるもんだから、イカれた奴がいるのかと思ったぜ。ここで随分と酷い目に遭わされたんだな。外の空気吸ったら治るからそれまでの辛抱だ」


 先ほどからやけに親しげに話しかけてくる少年を、ヤバルは知らない。正確には覚えていなかった。密入国を企んでいたとき、輸送船で仲の良かった少年だった。

 ヤバルが記憶喪失だと知らない少年は、喜々としてこれから起こる事を話し出した。


「俺は実は密入国を企んでたんだよ。こうしてあっけなく捕まっちまっているけど、これも作戦のうちだったりするわけなんだぜ」


 五月蠅い、と他の牢から苦情や怒号が飛んできても、少年はやめない。むしろヤバルに聞かせようと声を張り上げていた。


「詳しくは聞かされていないんだけどな。もうすぐこの町で大きな騒ぎが起きる。それに乗じて脱走して身を隠す寸法だ。あとは、この町から出る奴と残る奴にも別れるんが。俺は残るほうなんだよ。これでもちゃんとした仕事もらってるんだぜ」


 見張りの兵士が、いつまでも話をやめない少年に腰の剣を抜いた。ランプの光を受けて淡く輝く切っ先が突きつけられる。


「お前、いい加減にしておけ。殺す権利もあるんだぞ」

「あいよ。でもお兄さん。ごめんなさいね」


 もう一人の兵士が、剣を抜いた兵士の後ろに近づいていた。鞘に入れたままの剣で、後ろから、その兵士の頭をぶっ叩いた。

 鈍く大きな音が鳴る。剣を抜いていた兵士は鉄柵に顔面を叩きつけられ、床に崩れ落ちる。ぴくりとも動かなかった。冷たい床に真っ赤な血が静かに広がる。


「殺さないのか?」

「放っておけば死ぬ。鍵は渡しておく。この地下室の全部の牢屋を開けていけ」


 ヤバルを地下まで連れてきた兵士だった。無愛想な顔と声で、少年に鍵の束を投げる。


「わかった。あんたはこれからどうするんだ」

「関係のないことだ。俺はもう行く」


 上の方から人の雄叫びや怒号が聞こえてきた。すでに事は始まっている。

 兵士が地下牢から素早く去って行った。少年は拾った鍵で牢屋からあっさり出る。他の牢から自分も出せという声が飛ばされるが、少年はまずヤバルの前に立った。


「で、どうするんだ。サイ」


 ヤバルは迷いのある表情で、自分をサイと呼ぶ少年を見つめ返す。


「どのみちさ、このままだとここもヤバいことになるぜ。逃げても逃げなくても、兵士に見つかったら殺されるだろうな。サイ。これは脅しじゃない。友人としての助言だ。ほら、今でも聞こえるだろ。たぶん上じゃ殺し合いが始まってるぜ」


 人の叫びや何かが壊れる音が激しくなっていた。


「俺は……」


 ここから出なくても、いずれ出られるはずだった。だが、その保証は崩される危機にある。ヤバルに迷いが生じた時点で、もはや答えは決まっていたのだ。


「出ようぜ。サイ」


 最後の一押しは、目の前の少年の無邪気な笑顔だった。

 ヤバルは鉄柵へ歩く。

 それを答えと受け取って、少年は鍵を鉄柵の鍵穴に差し込んだ。ガチャリ、と重い音が立ち、外界とを隔てていたものが取り払われる。

 もう、後戻りはできなかった。

一章分割後半になります。

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