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王の腕  作者: 白風水雪
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十三章〈崩壊〉中3

 白い廊下を歩く三人は北門を目指していた。

 法廷から出てすぐの廊下の窓から外の光景が見えている。楕円形の広い中庭があった。草原に細い木々が数本生えている。一説には裏口の当たる北門から正面突破した部隊を一網打尽にするためのものらしい。廊下が外のように明るいのは、吹き抜け造りの中庭の白壁が外界の光を反射させて神殿内まで届かせているからだ。

 楕円形の中庭に沿って緩やかに曲がる廊下を行く。

 その白く明るい廊下に時折信徒らしき者が倒れ伏している。すべてイオアニスが予め倒していた連中だ。彼らがエデンの使徒なのかは確かめる術はない。

 弁明できる者が皆意識を失ってるのでイオアニスしか彼らの事実を知らない。

 命を奪っていない様子なのは傍を過ぎる者たちに限ってヤバルは視認できた。とはいえ、些かやり過ぎな感もあった。先ほどから三人以外廊下に立っている人の姿がない。

 どこからかあるいは視界の隅で幽かなうめき声こそ聞こえるが、立ち上がれそうな人すらいない。


「気合い入れすぎだろ」

「僕を止めようとしてきた人たちは片っ端から静かになってもらったよ。もちろん殺してない。きちんと処置すれば助かる人たちだ」


 彼の金の眼は冗談を言っているものではなかった。

 つまり何人かは放置すると死にかねないらしい。

 倒されて数十分経っても立て直せないくらい痛めつけてられているのだ。三人に一人は生死を彷徨っていてもおかしくない。倒れ伏している者には血の色や臭いはないが青あざは腕や顔のところどころあった。

 ヤバルたちが歩いているのは単に先頭のイオアニスが走らないため、従っているに過ぎない。道案内の彼がこの先の状況を一番わかっているからだ。

 青の光の剣、アイオーンも出したままの状態だ。

 敵対組織に居場所を知らせてしまう危険はあるが、誰かいるのを知り得るのは敵だけではない。何かしらの意図や緊急性を敵対以外の誰かが察知してくれたら、それだけでも十分な助けになるかもしれなかった。

 だからヤバルもイオアニスに習って、半分以上は彼への警戒心でアイオーンを展開させたままで殿を歩いていた。五感は周囲の警戒を怠っていない。だが、不意に誰かを探す目をしていた。マリアが辛抱堪らなくなった顔で言った。


「なんなのよ。さっきからチラチラと何を探してるの」

「別になんでもねえよ。前見てろ」


 ヤバルは先を行く二人の後ろで足を止めてすらいたのだからマリアが気にするのも無理はなかったが、当の本人は説明をする気がなかった。


「またあなたがおかしくなったか気になるのよ。私のアイオーンはあなたが握ってるのよ。いい機会だから聞かせてもらうけど、あの大仰で人を見下したあなたはなんだったの。覚えてるの?」


 蒼の瞳に見つめられて、ヤバルは視線を逸らす。


「半分は。たぶん、もう乗っ取られることはない、はずだ」

「歯切れが悪いのよ。悪霊にでも憑かれたの」

「似たようなもんだ。頼むから気にすんな」

「アイオーンの能力なの」

「もういいだろ。済んだことなんだから」


 ヤバルは追求を不快にあしらった。

 金髪の頭を乱暴にがしがしとかいているなど、腹立たしさが態度に出ている。だが、マリアは食い下がった。


「良くはないわよ。得体の知れない何かが傍にいる人の身にもなりなさいよ」

「だから、もう終わったんだよ。たぶん、出て来ない。理由は知らん」

「何よそれ。自分のこともわからないの」

「うるせえな。そうだよ。わかんねえんだよ。これでいいか? ほら、止まらず歩けよ」

「やっぱりあなたにアイオーンを渡したままなのは嫌だわ。返して。返さないと動く気もないわ」

「あ? あんまし調子のんなよ。力尽くで引き摺るぞ」


 二人が剣呑に対面する。取っ組み合いでもはじまりかねない空気だ。

 先頭で少し二人を待っていたイオアニスが脳天気な調子で言った。


「君はほんの少しでもサイの慈愛に感謝したほうがいいよ。アイオーンを返さないのは君に無茶をさせないためさ」

「わかってるわよ。ヤバルのお友達の件でしょ。でも、あんな状況だと、私は守らなくちゃいけないものを優先するしかないじゃない」

「今の、話をしてるんだけど」

「…………」


 ともすれば引き返す算段も彼女の内には含まれていたようだ。咄嗟に返さないのは彼女が図星を突かれたわけでない。嘘で隠したくない決意があるからだ。マリアは後ろめたさのない態度だった。


「尚更返せるか」

「逃げることは最優先よ。ジューダス様と合流しなければならないし、救済教もひとりじゃないはずだから。それに、」

「おい。まさか俺のためか? あのとき焼き払おうとしたのも。血迷ってんじゃねえぞ。貴族様が平民に施しのつもりか。必要ない汚れは避けるもんだろ。あんたは自分の身だけを守ればいいんだよ」

「私が守りたいだけよ。あなたの意思は関係ないわ」


 ヤバルは憤怒の表情だった。むき出しの感情を抑えようともしなかった。その感情は敵意に近い。マリアも怯まず彼を見つめ返す。どちらも互いに引かない。

 まったく空気を読もうとしないイオアニスだけが始終笑みを崩さずにいた。


「なるほど僕もそこに混じれば君たちのように愛し合えるのかな」

「「はあ?」」


 二人の怒りの矛先はイオアニスに向けられるが彼は臆さない。赤茶髪の少年が金の眼で二人を眺めている様は、無頓着や無邪気というより無垢だった。鈍感の比ではない。むしろ相手の怒りさえ理解しているかを疑われるほどだ。


「でもそろそろ遊んでる場合ではなくなるかもよ。なんとなくだけど、この先で待ち構えられてる気がするんだ。たぶんだけどね」

「敵か?」

「わからない。ただ、……うん、さっきから動いていないのだから待っているのは確かだよ」

「よし。初手撃退はなしだ。まずはこちらから顔見せとしよう。俺が行く。イオアニス、背中で警戒を任せていいか」

「光栄だ。君に襲いかかるものは須く両断するから安心して欲しい」


 誰の目にも明らかに、ぱあっと表情を輝かせるイオアニスにヤバルは念を押した。


「間違えても殺すなよ」

「わかってる。これでも練習したんだ。任せてくれ」


 ともすれば鼻歌が聞こえてきそうな上機嫌ぶりだった。

 マリアは訝しい顔こそしても口は出さず大人しく二人の後ろに着いた。楕円形の右に曲線を描く廊下の左手側、見事な曲線の壁がぷつりと消えている。北門への正面通路だ。あれより先は一直線になっている。

 反対側の中庭に通じる扉は視認するが開閉の確認まではしない。いざとなればアイオーンで突破すればいいだけで、袋小路説が本当ならば、万が一逃げる場合も最悪最後の手段でしか使えない。

 壁に身を寄せたヤバルが、まずはマリアのアイオーンから自身の順番に、相手に姿を見せた。

 北門前正面廊下に待ち構えていたのは、白いフードを被った人や教員、軍人や民間おそらくは商人の者たち、性別も、年齢も職業もばらつきのある集団がだった。

 マリアのアイオーンに彼らは一瞬顔を綻ばせるが、追従したヤバルを捉えて改めて警戒された。ヤバルは彼らが襲ってこないのを認めてから後方のイオアニスたちにハンドサインを送った。

 一見ではどんな人たちなのか判断しかねる怪しい集団だが、マリアの姿を捉えた途端、溢れる感情を隠しきれない人もいたことから、何者かは察することができた。一斉に、彼女に傅く様は一目瞭然だった。

 クラークの所属する魔女崇拝最大派閥の救済教だ。彼ら全員が素早く膝をついて傅いた。

 ひとり、おそらくは集団の代表の、司祭の礼装を着ている男が恭しく述べた。


「我らが救済の標、マリア様。無事の到着をお待ちしておりました。脱出までの道案内を任せください。お望みとあればすぐにでも」


 ヤバルがマリアに一瞥を送る。

 ここで接触を試みるのはヤバルの役目ではない。危険性があれば口こそ出すが、今の状況で彼らから有益な手段や情報を得るためには、彼女でなければならなかった。

 しかしまだ他にも問題点はある。

 マリア自身、救済教を殺意が漏れ出すほどに憎んでいるのだ。ヤバルの表情にも緊張が走る。彼女の、救済教を見下ろす蒼の眼は、今まで見たことがないくらい冷たかった。


「――手短に一つ。脱出の前に聞きたいことがあるわ」

「はッ。なんなりと」

「プロピナでのことよ。私を攫うよう手配した者は誰なの。事実を述べなさい」

「存知ません。弁明を」

「いえ。今は結構よ。時間が惜しいわ」


 強い意思の言葉でマリアは救済教の話を制止した。


「脱出の話をしてくれないかしら。なぜ私たちの道を遮っているの」


 混乱の渦中はスラオシャ大神殿であり、救済教信者が退けば、通路を真っ直ぐ行くと脱出できる。その道を敢えて遮っての脱出経路の話とは、ヤバルたちからすると不自然で訝しむ理由には十分だった。

 相手の男は語気を強めた。


「はッ。この先、あなた様を敵視する国衛軍陣営が待ち構えております。暴動化した一般人と誤っての鎮圧に偽装して蹂躙するつもりでおります」

「なるほど。あなたたちが滅びの魔女と崇める私でさえ危険と見做すわけね」

「あなた様はまだ覚醒を成されておりません。覚醒前のお優しいあなた様では直前まで力を使うのを躊躇われるでしょう。万が一も許せない我々としましては、無用な危険に晒すわけにもいかないのです」

「ジューダス・ガリラヤがこの先で構えてくれているはず。彼が裏切ったとでも言いたいの?」

「彼は一個中隊で後方支援に回されております」


 マリアから息を呑む気配がした。彼女の動揺が表情に表れている。

 半信半疑だが、しかし無視できない情報を持ち、ここに傅いている彼を問い質さなければならなくなった。


「……どれほどの規模がいるのかしら」

「一個中隊ですが。剣証の十位以上、王剣の三人が神王誓証剣闘隊として率いています」


 ワヒシュタの軍隊、剣証の称号を持つ軍人が正式に率いる隊に名乗ることが許される軍隊名の意味するところを、マリアがわからないわけがなかった。

 これの編成は軍隊だけに意味が留まらず、政治色が強くなる。

 内外向けの実力証明でもあった。

 ジューダスも国の要請がなければ正式に称号の編成部隊を持ち出せない。であれば、この先に待ち構えているマリア殺害の陣営は、ワヒシュタ国自体が用意したことになっている。


「もし私が信じられないから証拠を出せと言ったらあなたたちはどうするかしら」


 すると膝付いて頭を垂れていた救済教全員が顔を上げて、マリアと話していた男も含めて、自然な仕草でナイフを首に当てて見せた。

 男が真摯な眼で訴える。


「まずは私から。あなた様の朱色に負けない鮮明な赤をここ献上しましょう。私はただの交渉人です。あなた様の案内は他の者でもできますので安心して見届けてください」

「待って」


 マリアの口から今にも泣きそうな声が漏れていた。どれほど覚悟を決めたところで、まだ少女なのだ。幾重に思惑絡み合う状況に加えて、目の前で集団自殺を公開されては堪ったものではない。

 ヤバルが堪えかねた顔で苛立ってマリアの隣に並び立った。


「信仰の度が過ぎるぜ。お話は十分楽しんだろ。とっととVIP扱いで頼むぜ。もちろん俺たちも含めてな」

「然らば手筈を整えたい。偽装をさせていただく。お仲間はアイオーンの収納を。我々で気配と数とを偽ります。まずはこちらでアイオーンを抜剣いたします。よろしいですか?」

「嬢ちゃん」


 男の情報が本当であれば脱出は不可欠だが、武装解除は素直に飲むべきではない。ナイフを首に当てたまま真っ直ぐな目を男は向けてくるが、一見の様子と事実の問題は別としていた。しかし男の言う偽装は理屈も仕組みも理解できるから、ヤバルはマリアに意見を聞くため呼びかけた。

 マリアは体面を取り繕わずに瞼を閉じて一度だけ深く深呼吸をする。冷静さを取り戻した。


「ヤバル、アベスターグさん。従って」

「だ、そうだ」

「僕はいつだって君の言葉を聞くよ」


 二人の了解を得たマリアは男に言った。


「お願いするわ」

「承諾しました」


 男ひとりだけが立ち上がって振り返ると、後ろで跪いたまま動かなかった信者たちが徐に自決用の武器を置いて、アイオーンを一斉に具現化させた。

 戦う意志のない表明のために全てのアイオーンを持つ右手が胸に強く当たられて、左手で抱くように押さえられている。

 ヤバルたちに向き直った男だけがアイオーンを現出させていなかった。自身の体勢を話す。


「私はマリア様の案内のために消える必要がありますから。このままです」


 マリアがヤバルに頷いてみせる。

 仕方ないという軽い仕草をしてから、ヤバルは自身のアイオーンを解いた。マリアも追従していて彼女のも一緒に青白い光の粒子となって消えていく。ほんの数拍だが送れてイオアニスもアイオーンを解いていた。実のところ、マリアの暴走を、ヤバルは用心から除外していなかった。イオアニスはヤバルの意志を違わず読み取っていた。


「これで準備は整ったな。こんだけのでかい気配だ。すぐに人が来るだろ。手短に頼むぜ」

「存じてます。それでは中庭に出ましょう」

「その前にあんたの自決ナイフを俺に渡してくれるか。あと、あんたと俺が先頭だ」

「……いいでしょう。では、参りましょう」


 男は不服そうな顔を一瞬だけ見せるが素直に従った。ヤバルたちの後ろにある扉へ行く。横を過ぎるときに渡されたナイフを懐にしまったヤバルも、彼の後ろに、少し距離を置いて着いていく。

 男の手が扉を押す。分厚い木製の大きな両扉の片方が金具の錆の音を立てながら、開けられていった。白壁の厚さだけの短い廊下の向こうで、外界の惨劇とは無縁の明るい中庭があった。


「どうぞ。マリア様。このとおり、まったくの安全でございます」


 男は中庭に足を踏み入れて両腕を広げてみせる。マリアを見るときだけ優しさがあった。

 イオアニスに目配せしてヤバルから先行する。中庭にあっても何も起こらないのを確認してマリアに頷いてみせる。縦列編成の順序は変えない。


「君のアイオーンは不埒極まりない」


 男がヤバルにしか聞こえない声で言った。

 ヤバルは、言ってろと表情一つ変えず返した。最後のイオアニスが扉を閉じる。向こう側の廊下ではアイオーンの気配が三つ一組で分かれていった。廊下に留まる気配が一番大きい。攪乱が開始されていた。


「で。これからどうするんだ。お決まりの地下通路でも隠されているのか」

「もちろんあります。神殿内要人を逃がすため、または資産隠蔽や横領のために用意されていたのを、増改築の結果、このような中庭になったのです。過去に迷い込んだ賊が何故か中庭で消失した事件と、雨水の排水から推測して……この話は止しましょうか。今回は使いません。奥へ行きますよ。時間が惜しい」


 男の案内で左側に壁に沿いながら、細い木が点々とするだけの草原の、隠れるところもない中庭を歩いた。謎のくるくる舞いをする上機嫌のイオアニスが最後尾を行く。

 中庭の周囲四分の一、スラオシャ大神殿の西門側前を過ぎたあたりから、騒動の悲鳴や怒号が神殿内の壁を伝って聞こえてきた。南側の正門、騒動の渦中で真っ只中の礼拝堂に近づいたためだ。

 前を行く男の背中にヤバルは言葉をなげる。


「クラークもだったが、あんたらはみんな情報通なのか」

「戦術の基礎です。子どものお遊びみたいに手元で転がしてればいいわけではありませんので。自身の知覚を広げて盤面を形成し、勝利の詰めを刻んでいくのです」


 振り向かず歩みも止めず答える男をヤバルは鼻で笑った。


「二度も暴動を持て余す奴が豪語すると説得力が違うね」

「荒波というのは力任せに御するのが正解ではない。最近の子どもとなるとそんなこともわからないのかね」

「あ?」「おやどうかしました?」


 眉根を歪めるヤバルと、わざわざ足を止めてまで今日一番の作り笑みを張り付かせる男が睨み合った。マリアがため息混じりに言った。


「いい加減にして。地下通路は使わないと言ったわね。他の脱出経路があるというのね」

「はッ。敵対勢力も地下通路を把握していると考えています。であれば、正当法に近づけるのです。絵画通路、我々信者のひとりが壊したところまで来ていただきます。救護班に紛れた我々の仲間が駆け寄りますので、そちらの案内に従い、学生治療区域で保護されてください。この状況では他よりも安全と言えます」

「そこまでの道はどうするの?」


 男が指をさす。遠目に見える距離で、真っ白な壁に二階の窓から不自然極まりない茶色の梯子がぶら下がっていた。


「あれの縄梯子を使い、二階へ。あとは目的地廊下に飛び降りていただければ問題ありません」

「今さらだが丸見えだから追っ手が集まりそうに思うぞ」


 吹き抜け造りの中庭は上層から簡単に見下ろせた。もし遠くからの攻撃手段でもあれば確実に狙い撃ちされている。壁際に沿って死角を制限しているが全方位の警戒は無理があった。

 ヤバルは後方をイオアニスに任せて、前方の視認できる範囲に警戒を配っていた。


「ふん。わざとだからやって見せているのだよ。子どもは目先しか見えてないから困る。一から十まで説明しないといけないのか。オムツを取るのは早すぎたんじゃないのか」

「アイオーンでの攪乱と中庭の囮で、内外の敵を洗い出す気だな。お姫様は餌か」


 男は感心の声を漏らす。


「……ほう。もちろんマリア様の安全が第一だ。そのための攪乱だ。手配も抜かりない。我々はね、憤っているのだよ。犠牲になった者たちの志を嘲笑われたようでね」


 神殿内からのアイオーンの気配がいくつか増えていた。どこかで戦闘が開始されているかもしれなかった。

 ヤバルたちは、白い壁、縄梯子前に到着する。


「私から登りましょう。少しお待ちを。軽率に動かないようお願いしますね」


 男は縄梯子に足をかけて軽い動きで登っていった。一度も下を窺っていない。

 三人だけになった。ヤバルは男が窓に頭を突っ込んで入るのを眺めながら。


「信用できるか」

「いいえ。嘘であればと、ちょっと思ってるわ」

「そうか。ならなんで自害を止めたんだ」

「…………わからないわ」


 ちらりとヤバルが窺うマリアの表情は、何かしらの感情はなかった。

 その彼女を彼は茶化す気になれなかった。

 二階窓から男が顔を見せて上がれの合図をした。これもヤバルから行く。

 二階の窓ははめ殺しを無理矢理外した後が見受けられた。顔を突っ込んで内部を窺うと、先に入った男が冷たい表情で見ていて、白い廊下には赤の絨毯が敷いてあるが他に何もなかった。レリーフなどの装飾が壁や柱など繊細に施されているのは礼拝堂が近いためだ。

 窓の高さは床から一メートルくらいだ。

 ヤバルは一度顔を引っ込めると、外で窓枠に立つ。足から滑るように入った。窓枠の広さは人ふたり分の胴回りくらいあったが、梯子からの侵入では窮屈さを否めないのと、顔から床に寝そべるような入り方を嫌っていたため、自身の慣れた手法で侵入したのだ。

 窓も高くないので着地も労しなかった。


「コソ泥の入り方だな。よほどの教育環境が窺える」

「ちゃんと警戒に当たってろ」


 男の嘲りを取り合わず地上のマリアたちにハンドサインを送る。

 最後のイオアニスまで二階に着いてから男は縄梯子を引き上げた。廊下の隅に丸めて置くだけで隠蔽等の処分はしなかった。


「さて。ここまで来れば安心です。マリア様、移動の道すがら、プロピナでの弁明をさせていただいてもよろしいですか」

「私に得があるのかしら」

「おそらくあなた様は敵を間違えておられます。我々が憎まれるのは構いません。しかし、あなた様に危険が及ぶのは無視できません」

「俺は興味あるぜ」


 プロピナで起きた暴動は、クーデターとされ、イサク・ジズを主犯として他数名の罪人共々を処刑することで解決と見られている。

 イサク・ジズはマリア・オルレアンを最後まで守ろうとしていた。今は彼を慕っていたジューダス・ガリラヤが意志を継いでる。

 港町プロピナが崩落しかねなかった大騒動がなければヤバルは自国に送還されていたが、現在捕らえられ脅されてダカーハージ学園内の潜入捜査を強制させられている。イサク・ジズの共犯あるいは協力者として脅迫されている。

 ヤバルが港町の拘置所から大勢の犯罪者を逃がしたのは間違いないが、それも騒動がなければせずに済み、おそらくは大人しく送還を待つ身だったのだ。

 ヤバルは自身の解放の糸口を探していた。

 男に不愉快極まりないと言いたげな顔をされるが。


「いいでしょう。マリア様のお仲間にも聞く権利があります。我々の潔白を証言する者は何人いても困ることはないですし。それでは、マリア様とお二人、行きますよ」


 男はヤバルたちが着いてきているのを確認してから話しはじめた。


「あの日、我々は確かにプロピナに着いていました。とはいうものの、マリサ様を追ってというより、あなた様が国外に渡される示唆に、我々は踊らされたのです。と、後には言える顛末ですね」

「イサク様の知り合いの商人の方が、プロピナの領主、ギリティナ伯爵に商談を持っていくための護衛と、あとディオニュシオス様の文書を渡す使いで、私たちはプロピナに来ていたわね。踊らされたとは、誰に」

「……お恥ずかしい話ですが仲間にです。騙されました。彼の情報や私語に巧みに混ぜられた不安分子が……これも今に言えることです。彼がプロピナの仲間の連絡も請け負っていたので、現地での合流も上手くいかずに翻弄されてばかりでした」

「なるほど。で。のこのこ顔を出してみれば、町では罪人が暴れてるし、イサク・ジズも暴れてるし、身を潜めて終わってみたら罪をなすりつけられて主犯格は他人の首が置かれたわけだ」

「イサク・ジズは思想こそ違えていましたが、マリア様を大切に扱う振る舞いは我々もありがたく思っていました。我々としても驚く限りです。処刑された者たちに我々の仲間もいましたが、無関係の罪人が多く見受けられました」

「あんたに嘯いた奴は」

「イサク・ジズとは別に、大勢粛正された罪人たちと仲間と一緒に首が並べられてました。間違いありません。家族が脅されていたとも、恋人がいたとも聞かずわからず終いです」


 ねえ、とマリアが声を発した。非情の冷たさがあった。

 男は足を止めて振り向かざるを得なかった。ぎょろりとした彼女の蒼い瞳に睨まれて身体を強ばらせていた。


「じゃあ、私を攫い、イサク様を陥れ、処刑台で辱めたのは一体誰なの?」

「申し訳ありません。どうかここでは怒りを治めていただきたい。決死の覚悟で皆挑んでくれています。何より、あなた様を危険に晒すのは本懐にありません」


 暴発しかねない彼女の態度に跪いて男は懇願する。

 マリアはヤバルが止めに入る手を振り払い、男の胸ぐらを掴んだ。少女の力では男ひとり持ちあげることはできない。彼女も膝を突いての姿勢だが、男よりも一回り小さな身でありながら感情任せに凄む様は余計な言い訳を許さない怖さがあった。


「だったらどうして私の前に現れたのよ。自分の有益を示せないでも殺されないと思ったの?」

「マリア、よせ」

「あなたが、犯人であればよかったのよ!」「申し訳ありません」

「マリア!」


 ヤバルに男から引き剥がされる。マリアは怒りに顔を醜く歪めていた。男は跪く姿勢を正して頭を垂れていた。腕の中で溢れる怒りを持て余しているマリアにヤバルは言った。


「落ち着け。ここで暴れても俺たちが危なくなるだけだろ」

「イサク様は……私を助けてくださったのよ……」

「わかってるよ。わかってるから。せっかくの手がかりだろ。嬢ちゃんが聞かないでどうするんだ」


 マリアは大人しくしていた。ぐずっ、と鼻を鳴らしている。

 落ち着きを取り戻して優しくヤバルの腕に触れる。ヤバルも素直に解放した。


「もう大丈夫よ。ごめんなさい。まだあなたの安全も確保してなかったわね」

「この際それでもいい。おっちゃん、さっさと立ってくれよ。嬢ちゃんが気性荒くてすまなかったな。こっちで首根っこ押さえておくから安心して背中を任せてくれ」

「こんな状況なければお前の首を折っていたところだ。汚らわしい手で触れおって。マリア様に処罰を受けても我々に哀しむ権利はない。あのまま身を焼かれても私に悔いはなかったのだ」


 男は悪態をついて立ち上がると背筋を伸ばして、乱れた服装を整えた。襟を正してマリアに言った。


「マリア様、お気を付けください。この国にはあなた様の命を狙う者がいます。それはおそらく、国の中枢に近しい人物です」

「覚えておくわ」

「ありがとうございます。ようやく私の本来の目的が果たされました。あと少しで目的地も近いです。急ぎましょう」


 男の肩の荷が下りたのか、彼の表情は誰の目にわかるほど柔らかな優しさがあった。

 朱い絨毯の廊下をしばらく進むと、男の言葉の通り、廊下の風に乗って血の臭いがしてきた。怒号や悲鳴も大きくなっていた。


「ここまで私を信じてくださりありがとうございました。こちらから下に行ってください。あとは他の者が請け負います」

「おっちゃんはどうするんだよ」


 クラークのアイオーンで廊下が突如崩壊して、一階を瓦礫で埋めていた。瓦礫の上を歩けば礼拝堂には行けそうだった。崩壊の穴は近寄るだけでも足場からまた崩れてしまいそうな脆さがあった。ヤバルは下を覗きながらここで別れを示唆する男に問うた。


「仲間の脱出を。できる限りを尽くします」

「あなたの敵の中に私の望む仇はいるかしら」

「一部は。そもそも我々は異分子ですから。排除される身分ですからわかりかねます」


 マリアにはことさら恭しく応えている。


「わかったわ。気をつけて。まだあなたが犯人ではないと認めてないから」

「ありがたく聞き入れました」


 男は大仰な一礼でヤバルたちを見送った。

 一階瓦礫の山は足場の悪さを否めないが、ヤバルたちは躊躇わず飛び降りていった。


「で。こっから誰が俺たちをおわ!」

「お待ちしておりました。マリア様とご友人ですね?」


 礼拝堂の方へ危なっかしく瓦礫を降りていってすぐ、どこからともなく現れた修道女にヤバルたちは声をかけられる。笑顔の圧が強い女だった。

 それからの手際が見事だった。

まだ混乱騒ぎが続いている中で、修道女の他に新たに数人が現れてヤバルを素早く囲み応急処置や状態知見もほどほどにして、学生治療区域までの連行も速やかに済まされた。

 学生治療区域は全学年Dクラスの男子学生寮が施用されていた。

 寮は四クラス各一区域与えられていて、Dクラス寮は規模の小ささあっても、人の収容だけなら全四学年合わせると十分な広さになる。五つの寮を繋ぐように天幕が張られ、不要なドアは取り外されて人通りと空間が確保される緊急の改装がされていた。

 立地は大神殿や学園から一番離れていて、大神殿区域内の軍施設からは近かった。他には利用者の政治的問題からの消去法でもあったが。他国王族や貴族の多いAクラスは今回の候補からは最初から除外されていた。

 ヤバルたちは四年生の寮の食堂に連れていかれていた。Dクラスとはいえ、ただ人を寝転ばせるだけなら五十人以上は入れる広さがある。患者の状態も比較的軽い人が収容されるところだった。

 ヤバルたちの他にも怪我をしている者や眠っている者もいたが、多くは混乱で保護された学生たちだった。

 上級生が部屋の見張りを任されている。時折慌ただしい声が遠くに聞こえていた。


「この感じだと俺の部屋も誰かに使われてそうだな。仕方ないか。ま。あとは大人たちがやってくれるのを待つだけだな」


 ようやく休めることができたヤバルは、床に敷かれた薄い布団にごろんと寝転がる。彼の顔にはすでに睡魔があった。外の日もずいぶん傾いている。長い一日が終わろうとしていた。


「そうね。ジューダス様がここにいると気づいてくれればいいけど」

「あいつのことだ。抜かりないだろ。イオアニス、トイレか? お前もさっき済ませておけばよかっただろ」


 膝を抱え込んでいるマリアの向こうで立ち上がったイオアニスに声をかけた。

 日の落ち始めの薄暗がりで表情は誰の目にもぼんやりとしか見えないが、何か目的のある顔だった。


「僕はここから別行動するよ。君はもう大丈夫みたいだし」

「さっき軍人に言われなかったの。動かない方がいいわよ。怪しまれたら捕まっても文句言えないわよ」

「サイ。また明日」


 マリアの忠告を聞かないどころか声すら届いていない反応だった。ヤバルに手を振って、彼は静かに退室した。見張りの上級生に止められなかった。上級生はイオアニスが隣を過ぎてから遅れて振り返っていた。

 上級生からすると、イオアニスが部屋から出た生徒かただ廊下を歩いている生徒か判別できなくなっていた。困惑する視線に構うことなく、彼は堂々とDクラス五年生寮を出て行った。

 イオアニスがいなくなってから、マリアは不満げな声を漏らす。


「なんなの、彼」

「ほっとけ。さみしくて眠れないなら腕を貸すぞ」

「……ジューダス様が来るまでそうしてようかしら」

「すみませんでした」


 これまでにない素早さで姿勢正しく座ると頭をさげた。


「冗談言える元気があって安心したわ」


 マリアは嘆息する。

 ふと静けさに混じって、ひそひそと話し声が流れてくる。滅びの魔女、と。誰かひとりの気づいた囁きが部屋中に伝播していた。彼女の白銀の髪と蒼い眼が目立っていた。

 今回の騒動は基礎こそ反政府思想だが、暴動自体は滅びの魔女抹殺を掲げている。そんな彼女が同じ部屋で治療されるのを受け入れられない人がいても当然だった。

 何より大騒動の引き金を引いたのは彼女自身だ。万が一にもそれを知れてしまったらここでも暴動が起きかねなかった。


「別の部屋を頼んだ方がよさそうね。あなたも来なさい」

「ありがたく。やれやれ」


 眠りかけた身体を怠そうに動かす。見張り役の上級生に話すマリアに着いていった。

 見張りを任されているだけの生徒は困惑していたが、廊下にいた別の生徒が近づいてきて、すぐに事情を察してくれた。国衛軍より予めマリア・オルレアンの保護は別室を宛がうよう言われていたらしい。

 混乱に手違いはつきものだ。

 マリアはその生徒から案内を聞いて、念のためにもう一枚を持ってきていたヤバルに手招きをした。


「場所を聞いたわ。でも知らせられてないから直接ここの指揮を執っている国衛軍に聞いてくれだそうよ。医療班の宿泊室に行きましょう。そこならとりあえず誰に聞けばいいのかだけでもわかるはずよ」

「なるほど。賢いね」


 あの人が教えてくれただけよ、とマリアは何でもないように答えた。

 日も落ちはじめ、騒動は鎮圧に向かっているらしく、宿泊室にいる医療班は業務が一段落して、忙しさから解放されたばかりのようだった。

 天幕の張られた通路を横切って三年生の寮の一室を訪ねていた。

 十数人がテーブルと椅子にもたれ掛かっていた。酒の臭いはしないが酔い潰れたかのような有り様だ。部屋の隅に用意された就寝用ベッドで寝ている者もいる。二つしかなくすでに満席だ。

 ドアから一番近くの椅子に座っていた男が、まだ問題があったのかと最初の対応こそ面倒くさそうな表情を浮かべたが、マリアの顔を確認するや否や状況を理解した。

 治療の際、おそらくはこの中の誰かに一度は顔も見られたはずだが、忙しさに忘却されたか、それともこの部屋にはいない別の救護班だったか、あるいは救護班に扮した救済教の手の者だったか、マリアが学生治療区域で保護されたのをこのとき初めて認知された。

 ヤバルたちに詳細の推測は難しいが、ともあれ事情は理解されてもらった。すまないと謝られて、すぐに案内する話になった。最初に対応してくれた軍人の彼が案内を率先してくれた。

 Dクラスは主に学生の避難所として使われていると説明される。要人や一般市民もそれぞれ別に保護されているが、すべて学園側か軍が管理しているらしい。

 また特例の他国王族や貴族の子息令嬢はBクラスにて護衛されているが、それでも来賓扱いされないことに腹を立てる輩もいると、僻みか偏見かの陰口まで聞かされる。その特例に当たるマリアとしては、聞いていてあまり気持ちの良いものではないのは明らかだった。

 すれ違う見張りや他の軍人との会話を聞くあたり、この軍人はとても人当たりがいい印象で悪い人ではないのは確かなのだが。


「で。俺たちはどこへ案内してくれるんだ」

「軍施設まで通してくれとのことだ。申し訳ないね。これも命令なんだ」

「Dクラス寮から離れるんだな」


 そうだ、と軍人の男は返した。

 天幕を抜けて夜空の下に出た。月の明るい夜だ。

 ヤバルたちは助祭や神殿内労働者の居住区に差し掛かっている。レンガと木材のしっかりとした家ばかりだ。だが、寝静まった気配はなく人の気配もなかった。息を潜めているといよりは人がいなくなっていた。

 居住区の通りの向こうに森らしきものが月明かりで見えていた。

 果樹園だ。人の頭程度に育てられて果樹は神殿内に住まう人の貴重な食料源でもある。

 真っ直ぐ果樹園を突っ切ればスラオシャ大神殿南口、正門に続いていた。

 既存の軍施設からは真反対に当たる。他学年の学生寮からも遠ざかっている。新たに軍施設が仮拠点として創設されたとも考えられるが。

 ヤバルは欠伸しながらマリアに目配りをしたが、怪訝な顔で返されてしまったのでため息をする。マリアから何よと言いたげな目で睨まれながらヤバルは軍人の背中に問うた。


「これから向かう先の軍の施設は誰の管轄でどこなんだ」

「秘匿義務がある」

「誰の命令だよ」

「秘匿義務がある。頼む。従ってくれ」

「こっちは誰もが震え上がる滅びの魔女様がいるんだぜ!」

「最っ低!」


 罵倒混じりにもマリアはアイオーンを現出させた。もちろん言葉はヤバルに吐いたものだ。アイオーンの具現化、現状でこれ以上の牽制と緊急信号に勝る手段がなかった。

 民家の影、男の後ろからだけでなく、ヤバルたちを囲むように怪しい者が数人現れた。黒いフードをかぶり、口元を布で隠している。不意の一撃はすでにあって、マリアが近辺民家を巻き込むことに厭わず振り回した朱い盾で、身体ごと弾かれて後退している。

 ヤバルも気づいていたがリーチ差で彼女のほうが速かった。


「なんだよ。嬢ちゃん、やっぱり気づいていたのか」

「油断してなかっただけよ。次私を滅びの魔女だなんて呼んだからぶっ飛ばすわよ」

「悪かったよ。で、兄ちゃん、どうするよ? 引くかやるかだぜ」


 ヤバルはマリアに背中を預けていて後ろを振り向き様に言葉を投げた。

 子ども相手の油断と、無理な強行をしない男と、黒フードの妙な躊躇いや士気の低さが窺える連携の甘さが、ヤバルとマリアに構えせ、対応される結果になっていた。

 また、ヤバルたちも今日一日の騒動でまだ神経が張り詰めてしまっているのもあり、救済教の男からは国衛軍側にも命を狙っている者が潜んでいると情報をもらったばかりだ。

 だが。マリアのアイオーンを間に睨む合う軍人の男は申し訳なさそうな顔になる。どれほどの力がひとりの少女に宿されていたとしても、現状を覆せるのは彼女が軍人の場合に限られていた。彼女は学生でしかない。実力差は拮抗していない。

 ヤバルたちは不意の一撃を弾くことができた時、牽制に生じた一瞬で、この場を鎮圧するべきだった。長引く牽制と脅しは相手に想像と現実の擦り合わせをさせて、勘定を許す悪手になった。

 詰まるところ。男に冷静さを取り戻させていたのだ。


「誤算だった。変更だ。すまないね。過小評価はこちらの責任だ。君たちは、ここで殺す」


 男の冷たい目に捉えられて、ヤバルは全身を怖がらせた。

 彼らの攻撃は一時に濃縮されていた。

 地面を駆けた男が間合いを詰めて、マリアのアイオーンが対応に回される。その時にはすでにヤバルの正面と横に、ふたりの黒フードも接近していた。ヤバルも咄嗟に対応するがふたりがかりで地面に押さえつけられて、それに気を取られたマリアも、別方向から男の脇をすり抜けて現れた黒フードに腹を刺されそうになった。

 マリアは懐から出したナイフで黒フードの短剣を防いだ。救済教からヤバルが奪ったものだ。学生治療区域に着いたときヤバルがマリアに自分で身を守ってもらうために持たせていたのだ。

 それでも絶対絶命は覆らない。

 次ぐ手の対応が間に合わない。連続でたたみかけられたら潰れるしかない。アイオーンは男と他三人を足止めしている。マリア自身でもうひとり相手にしている。

 ヤバルの救出は間に合わないし、自身もあと数秒で殺されてしまう運命にあった。

 滅びの魔女たる力を自爆に等しい規模で暴発させたとて、自身の命を守れるかさえ不明だった。

 それでも希望に縋るのであれば使うしかない。

 ヤバルの命を切り捨てる決意が彼女にできればの話だった。

 刹那の躊躇い。

 追撃の短剣が。

 もはや防御のナイフは間に合わない。

 ところが。突如として、短剣を持つ男の頬が裂けた。鮮血が飛ぶ顔を反射的に仰け反らせるが、空気を静かに裂いて月夜に舞う旋回の刃に一歩引かざるを得なくなっていた。

 旋回の刃の奇襲を受けたのは、マリアを襲っていた男ひとりだけではなかった。ヤバルを取り押さえていた二人と、マリアのアイオーンに対応していた三人までそれぞれ一枚ずつが飛んでいて、防御か回避を余儀なくされていた。

 彼らが回避に間に合ったのは、旋回して飛ぶ刃がアイオーンそのものだからだ。ヤバルたちの加勢か第三勢力か、いずれにしても刺客の妨害が現れた事実には変わりなかった。

 続けざまに、地面から硬質化した土の棘が刺客たちの足下を襲う。折り返すように上空から襲い来る旋回の刃も加えて、一時ヤバルから距離を取るしかなかった。

 しかし。マリアに攻撃していた刺客は、一度は回避に専念していたが距離こそ取らず、むしろ決死の肉薄を仕掛けていた。マリアのアイオーンと対峙していた男たちも、ヤバルを取り押さえていたふたりでさえ、標的をマリアに絞っていた。

 地面からの棘に肉を裂かせながらも、今一度短剣を振るう。その腕が裂ける。最初の頬と似た傷が走っていた。

 何者かが月夜に駆けて、少年少女が刺客に襲われている場に乱入した。

 マリアの背後の刺客を切って怯ませ、再度マリアの命を突こうとしていた短剣の男の腕を再度切り裂いた。深く裂かれたために刺客は短剣を握りきれず落としてしまう。

 ヤバルはこれら連携を既視感のある目で捉えていた。身を持って覚えていた。

 月夜でもわかる、ショートの赤髪の軍人。素早く滑らかな動きをする女性の肉体。

 国衛軍六部隊、マーイヤ・レイア軍曹。

 ジューダス・ガリラヤの直属の部下だ。

 レイピアのアイオーンを携えてマリアの護衛に着いた。


「全員うつ伏せになれ! 両手を頭の後ろにつけろ! 反抗した奴から切り刻むぞ!」


 アイオーンの具現化は気配を発生させる。ある程度の距離まで存在を感知させていた。マリアが初手に取った牽制が、マーイヤを間に合わせたのだ。

。。。

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