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王の腕  作者: 白風水雪
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十三章〈崩壊〉中2

 天に御座す神王に届かんと目指す人の業。神殿と見上げるのは果たして神への畏敬か、憤怒に似た欲望か。石と、火山灰の泥で積み上げられたスラオシャ大神殿は、その白い外郭で人の願望を美麗に飾り立てて、今日も堅牢に健在している。

 ただ、今そこに集う人々は祈りに縋る信徒から、天を憎む亡者に成り下がっている。

 隻腕の金髪少年ヤバルと、黒髪と銀の瞳の少年クラークの二人は小窓から外郭を回って、三層の神殿内部に侵入していた。追っ手を伺いながら進まなければならない廊下で、柱の陰から人が現れる。

 構えるヤバルの横で、クラークがヤバルを宥めるべく前に出た。


「大丈夫だ。彼女も救済教のひとりだ。マリア様の状況は」


 一見修道女に見えるその人は白いフードを深くかぶっているため、顔が見えない。彼女はヤバルに一度視線をやってから、クラークの傍に寄って耳打ちした。


「わかった。ありがとう」


 修道女はフードの裾を押さえて、ヤバルたちの後方へかけていった。後ろからの追っ手の足止めをするつもりなのだ。

 その少女の背中をクラークは短く見送り、ヤバルに告げた。


「マリア様の居場所がわかった」

「どこだ」

「神殿法廷だ。君も聞いたことくらいはあるだろ。スラオシャ大神殿内に軍人と重罪人を裁くところがあるのを。マリア様はそこへ向かわされたようだ」

「本当なんだな」

「僕は彼女を信頼している。行こう。時間が惜しい。彼女のおかげで見回りの数も減っている。チャンスを無駄にしたくない」

「頼りにしてるぜ」


 ありがとう、とクラークは少し笑ってみせた。


「二層、観覧席を目指そう。あそこからのほうが手薄のはずだ」


 神殿法廷は地上一層、現在暴徒で溢れかえっている祈りの場の真反対に当たる。観覧席は貴族や関係者が傍観するために設けられたもので、構造上法廷の上、二階にあった。

 クラークの案内で三階廊下を急ぐ。

 二階に降りてから向かう選択も考えられたが、クラークの味方が用意してくれたのは大きく迂回する道順だった。一度四階にあがる必要があった。


「うまくいっているなら観覧席までの通路は手薄のはずだ。応援も集めてくれている。マリア様を助けるとき合流できるかもしれない」

「俺たちが早かったらどうする。待つか」

「いいや。僕たち単独で行こう。一刻を争う事態だ。せめての時間稼ぎくらいしたい」

「お前、忘れてるかも知れないからいうが、あいつは強いぜ」


 マリアは小国であれ、一国を焼き払ったと言われているアイオーンの使い手だ。

 彼女が本気になれば大神殿ごと灰にしかねない。一度だけでも彼女のアイオーンに触れたヤバルだからこそ、マリアの本気の恐ろしさがわかっていた。


「……あの方は優しい。来たるべき時まで、力の乱用はなさらないと思っている」

「なるほど」


 ヤバルも納得がいった。

 今でも大人しく連れて行かれているのは想像がつく。そもそもマリアは緊急時の迎えの司祭が別人であることを不審に思わないはずがない。

 きっとギリギリまで、あるいは骨の一本でも犠牲にならない限り、マリアは抵抗らしい抵抗をしないだろう。例えイサクの仇の手がかりだとしても、彼女が力を振るうのは最後の瞬間のみだ。

 ヤバルは苛立たしげに決心を固めた。


「とっとと行くぞ」

「そのつもりだよ」


 救済教の誘導が成功しているためか、ヤバルたちは見回りの兵士やエデンの使徒の信徒に出くわすことはなかった。

 スラオシャ大神殿の中央の塔を囲む四つのひとつ、南西の塔三階に降りて、礼拝場上部の廊下を通過する。礼拝場天井の点検などに使われるためのものだが、今日に限っては扉の鍵は開いていた。

 ヤバルがちらりと視線をやる下の階は、暴動の場に成り果てた礼拝場だった。

 白の礼拝場が赤く紅く朱くなっていた。

 狭いケースに入れられた動物の惨状そのもので、意思らしい意思は見えても、彼ら彼女らが叫ぶ言葉の意味までは聞き取れない。ただただ隣の誰かを踏みつけて傷つけることに無関心で、澱んだ空気を避けようと上へ上へもがていた。

 押し寄せた人と神殿内部から押し返す勢力が衝突し合って、激突地点で為す術無かった人たちは肉の塊にもなっていた。

 人の熱で押し上げられた汚物や血の臭いが否応なくヤバルの口や鼻に触れる。吐き気はあるが足を止めるほどではなかった。意識の切り替えひとつで慣れる。

 反対にクラークの方が臭いに当てられたか、歩む速度が落ちている。ヤバルは彼の背中に手を当ててあげる。


「頭をからっぽにしろ。無理なら単純なことを繰り返して考えろ。右足出したら左足だ。それだけ考えろ」


 クラークは小さく頷いた。ちょっとだけ歩く速さが回復する。

 礼拝場上部、天井の形に添って弧を描く廊下の対岸には入るときと同じ扉があった。二人は別の廊下に出て、誰もいないのを確認してから一息ついた。

 クラークは閉じた扉に背中を預けて深く呼吸を整えている。


「君は凄いね。訓練でもうけていたのか」

「自慢もできない境遇なだけだ」


 脂汗も滲ませるクラークの表情を一瞥して、ヤバルはつまらなそうに吐き捨てた。

 クラークは力ない笑いを溢す。体調を立て直した。表情に力を入れていた。


「よし。いこう」


 再びヤバルたちは急ぐ。二階へ続く階段を探した。



 スラオシャ大神殿二階北側、神殿法廷の上層、観覧席前には二つの部屋が設置されている。入る扉は別々だが、内部は別のドアで繋がっている併設の部屋だ。

 休憩の用途で使われる部屋だ。法廷に通じている。

 部屋の扉前にはそれぞれ二人ずつ待機している。彼らは神殿内の軍人ではない。白の礼服を纏っている。助祭か司祭だった。有事の際の単なる見張りにも見えるが、遠くで喧騒が聞こえる環境下で、四人だけが扉の前で一点だけを見つめて微動だにしてないのは明らかな不自然さがあった。

 クラークに助力をした修道女が見張りや見回りを一部手薄にしているはずだが、法廷周囲だけは堅牢を保っていた。

 神殿外部からの暴動に、法廷の内部の守りを固めているのはおかしい。


「外に四人見えるけど、中にもそれぞれ二人ずついる。計八人らしい」


 ヤバルは見張りを目視した後、クラークに見張り体制の説明を聞いていた。

 いくらクラークの仲間が手を貸してくれているとはいえ、廊下の壁に身を隠して長居するわけにもいかない。


「どうする。突破するか」

「それしかないだろうね。アイオーンを使う。マリア様に一瞬でも動ける隙を作りたい」

「……そうだな。あいつなら、こちらに異変があると知れば何かしら勝手するだろ」

「僕たちには最初から全力で行けるメリットもある」

「場所も人数もバレるが。よし。なら小手先の作戦がある」


 ヤバルが提案したのはとても簡単な作戦だった。

 見張りを突破できるだけの力量もなく、どうにか状況を悪くさせないためだけの足掻きに等しい。クラークは、無策より良いと、ヤバルに賛同した。


「行くぞ。ちゃんとアドリブに着いてこいよ」

「いつから台本なんてあったんだよ」


 クラークの顔に勇ましさの笑みが漏れていた。

 ヤバルが廊下の角から飛び出す。アイオーンをいつもの陰スタイルではなく、全力の具現化で現出させる。両腕形のアイオーン。失っていた片腕が完全な形で作り上げられる。アイオーン具現化できないスランプを克服していた。

 神殿の床が盛り上がる中を駆け抜けていく。神殿の材質で構成される人形数体、無骨な石の塊から人型を形成しながら前へ行く。ヤバルの後に続く。

 後方、クラークはアイオーンをすでに展開していた。人形の建造と操作はクラークのアイオーンの能力だ。

 クラーク、ヤバルの順序でアイオーンの具現化させていた。これには意味がある。

 作戦は簡単だ。

 クラークのアイオーンは土や石の操り人形を造ることができる。この人型たちの最先頭をヤバルがアイオーンを纏って走ることで、一時的に能力の誤認と過大評価をさせるのだ。

 まず一番近い見張りにヤバルが、身体が操られていると嘯きながら突っ込む。後方の人型の群れとさらに操り手のクラークに視線が集中するはずだ。その隙を作ろうとしていた。

 ちなみに作戦はここまでで、あとは互いの阿吽の呼吸に任されている。


「助けてくれえ!」


 ヤバルは額に汗を滲ませて酷く焦った顔で叫んだ。盗賊まがいの生き方をしてきたヤバルであれば、表情を作り出すのは難しくない。

 ドアの前の見張り二人が、ヤバルの姿とアイオーン二つの気配に視線を向ける。ヤバルの表情や叫び、彼の後ろから来る人形とその繰り手のクラークを捉えたが、応対は迎撃のみを選択した。

 一人も通さない命令完遂のため、排除目的以外の推察を切り捨てていた。

 ヤバルも作戦が通じないのを即座に悟る。ダメ元で付け焼き刃が通じるのを期待していなかった。見張りのひとりが腰の剣に手をかけているのを捉えて、初手の切り抜けを残り数秒にも満たない短い時間で思索する。

 今持てる戦力ぶつけて強行突破に変じようしていた。

 ところが。

 ヤバルと見張りとが激突しようとしていたとき、休憩所向こう側、観覧席をさらに超えて、法廷からアイオーンの気配がひとつ、花咲いた。

 途端、悲鳴と怒号がヤバルたちのいる廊下まで響いてきた。

 一番反応が大きく出たのは廊下の見張り役の司祭と助祭の四人だった。法廷からのアイオーンの気配と騒ぎが何を意味しているのか理解しているからだ。

 この機を逃すわけにはいかない。

 ヤバルは助祭と肉薄していた。騒ぎに気を取られていた助祭を背負い投げする。


「突破するぞ!」


 もう一人の司祭が剣の束を取る。ヤバルの指示の声で我に返っていた。

 助祭を倒したばかりのヤバルは無防備になっている。クラークの人形が追いついて援護する。司祭を標的に絞って、司祭の気を引いていた。

 人形二体がかりで司祭を壁に押しつけた。材質が石のため剣の刃は通らない。司祭の反撃を物ともせず、自重任せで拘束したのだ。

 人形の動きは単純で、司祭も冷静なら避けられたはずだった。だが、事態の混乱が極まる状況下での接近する脅威に簡単な対処すらできず混乱してしまい、動きを封じられた。今にも窒息しそうな悲鳴を上げているが、ヤバルもどうこうしようと考えるほど余裕がなくなっている。

 残り五体の人形は他の見張りの方へ襲いかかって、ヤバルたちの突入の時間を作っていた。


「行こう」


 追いついたクラークがドアの部に手をかける。無警戒にドアを押そうとしていたのを見てヤバルは叫んだ。


「離れろ!」


 咄嗟にクラークの袖を引いて、左手をドアとクラークとの間に割り込ませる。ドアを突き抜けてきた剣が、ヤバルの腕に突き刺さった。

 ヤバルは顔を顰めながらもドアに体当たりをして、向こう側の司祭にぶつけた。クラークを庇った左腕からは血の代わりに青白い粒子が溢れる。ヤバルの左腕、肘から先のすべてはアイオーンなのだ。

 アイオーン損傷の精神的をダメージも負う。痛覚はあっても肉体ではない。


「突っ込むぞクラーク!」


 ヤバルの負傷に立ち尽くしていたクラークだったが、我に返る。もうひとりの司祭にアイオーンで斬りかかった。躱されても追撃して剣を交える。


「サイ! 先に行け! マリア様を頼む」

「バカヤロウ秒で着いてこい」


 ヤバルがドアをぶつけた相手にも決定打を与えていない。加えて隣の部屋の見張りは対策すらしていない。障害を排除してからの完璧な突入を目指していては、多勢に無勢で、全滅だってあり得た。

 だからヤバルに先を急がせるクラークを激励しながらも、ヤバルはマリアの元へ走るのを選ぶしかなかった。

 休憩所内の扉を蹴破る勢いで開けて観覧席に辿りつく。

 観覧席は半円の横に長い階段席だ。法廷の裁判官と罪人を見下ろせる造りになっている。

 法廷は三百人は収容できる円形の広い空間だ。木製の傍聴席があり、対面に裁判官席がある。その間に証言台があり、マリアがいた。

 綺麗な銀髪と蒼の瞳の少女をみまがうはずもない。

 彼女の魔女の象徴、アイオーンの朱色の布を纏う白磁像も展開されている。

 互いのアイオーンの気配で、位置も視線も把握までに時間を要しなかった。

 ヤバルの緑の目が、マリアの口がぼそりと動いたのも捉えていた。朱色の布が無数の刃を作ったと思えば、ヤバルのいる観覧席を攻撃してきた。両端を残すがほぼ全体をド派手に切り刻んだ。


「おまっ!」


 ヤバルは慌てて頭を低くして走る速度をあげて、躊躇う暇もなく崩れていく観覧席から飛び降りた。まともな着地ができずふらついてしまうが、怪我はない。

 マリアの胸ぐらを掴みかかりそうな勢いで詰め寄った。マリアはつまらなそうに蒼の目を細めた。


「殺す気か!」

「生きてるじゃない。やっぱりあなただったのね」

「ずいぶんとお気楽にアイオーン出してくれてるな。ついでに信条も捨てたか」

「私はもう選ばなくちゃいけない。ただ、そうしてるだけよ」


 ガラリ、と重い何かが崩れる音がした。マリアの視線の先では、傍聴席側、彼女のアイオーンの盾で瓦礫から守られた信徒や司祭たちの姿があった。頭を庇うように身を小さくしている。

 マリアは自分で壊した観覧席の瓦礫から司祭たちを守っていた。


「お前のファンか」

「そうみたいよ。熱心が過ぎて困っているところなの」


 マリアは瓦礫を部屋の端に落としながら、朱色の盾を引き抜いていく。信徒や司祭たちは、彼女に守られたことに怒りか戸惑いの表情をしていた。マリアを裁く前準備に尋問でもするつもりだったのか、彼らは傍聴席側を陣取っていたのだ。

 エメラが屈辱に顔を歪ませて叫ぶ。マリアの迎えを装っていたときとは別人の形相だ。


「どういうつもりだ。我々の決死すらお前は弄ぶか!」


 滅びの魔女は死すべし、と罵声も飛ぶ。

 マリアは嘆息一つで聞き流している。どこ吹く風だ。彼女の視線は自分で崩壊させた観覧席へむけられている。


「もうひとりのアイオーンはあなたの知り合いかしら」


 マリアのアイオーンの攻撃は、観覧席だけでなく休憩所の半ばまで届いていた。法廷の二階部分は半壊以上で機能を果たしていない。崩れかけた休憩所にはクラークがひとりだけで法廷を見下ろしていた。

 マリアの姿に安堵するどころか歓喜すらしているようだった。

 他、少なくとも二人ほどいたはずだが、姿が見えない。二階の司祭たちの撤退が考えられた。


「俺に構わずお逃げください。ここで戦ってはいけない。一刻も早く離れるべきだ!」


 クラークは周囲に感知されるのを躊躇わないで声を響かせて、マリアに切迫した状況であるのを伝えていた。法廷の司祭たちの、マリアにだけ向けられていた殺意が、クラークにも寄せられていった。


「あのバカ……。こっちまで運ぶことできるか。お前の大ファンだと」

「いいけど。彼の言葉が気になるわね」

「嬢ちゃん相手に準備してないほうが大馬鹿だろ。大砲十台以上持って来いよ」

「私を何だと思ってるのよ」

「誰もが震えあがる滅びの魔女様だろ」

「面白くないわね」


 マリアはヤバルの冗談を雑にあしらう。アイオーンに手をかざした。クラークへ朱色の布が伸びていく。罠の一つや二つは彼女が躊躇する理由にならなかった。

 妨害を警戒していないようにも見える堂々たる振る舞いは、彼女が自身の強さを無自覚にも認めている現れでもあった。

 エメラが邪悪の笑みに顔を歪ませた。


「今より魔女の力を払う。魔女を裁定にかける。魔女に鉄槌を下す。さあ力場を発生させろ! お前の謀略もここまでだ、滅びの魔女よ」


 彼女は片手をあげた。合図だ。

 法廷の天井、三階ほどの高さから人の大きさほどの開口部があった。閉じられていた扉が開けられて、内部から丸い石が覗いて見えた。それが前進し、球体の一部を法廷天井に突起させる。

 ヤバルたちが頭上に気づいて見上げたとき、彼らにも異変が起きた。


「これは!」


 二人のアイオーンから青白い粒子が現れる。アイオーンが不安定で揺らいでいる。


「あはははははは。ここは法廷だ! 罪人は裁かれなければならない。屈服させ許しを請わせ地に額を押しつけて鉄槌を下すのだ! いかに魔女であろうと、ここでは無力だ!」

「そういうことね」

「鉄槌いってるわりには使ってるのは嬢ちゃんの二つ名の力なところが笑いどころか」

「なんだと」


 半狂乱に歓喜していたエメラがぴたりと止まって、ヤバルの小馬鹿にした態度に怒りで顔を歪ませた。

 マリアはそれでも冷静だった。


「余計なこと言わないで。あんまり彼女たちを刺激しないでよ」


 そして。彼女のアイオーンだけが消えていなかった。

 ヤバルのアイオーンは消え失せて隻腕になっている。天井にある丸い球体は巨大な滅びの欠片だ。何らかの仕掛けで、アイオーンを消失させる力を下部の法廷に放出していた。

 ところが。マリアはその滅びの魔女の由縁たる力は一時の衰えこそ見せたが、健在に姿を維持して、揺らめく朱色の布の隙間から陶磁器の肌を覗かせていた。

 誰もが目を疑う光景があった。

 滅びの欠片は、罪人を縛る拘束具にも使われている。装着された者はアイオーンの具現化ができなくなる。法廷にいる者たちで、過去に例外を知る者はいなかった。

 その例外が、目の前にいるのだ。

 滅びの魔女と忌み嫌われた、己の小国を焼き払った少女は、人々の恐怖と驚愕の表情に囲まれていた。まさに、魔女そのものにも見える立ち姿だ。


「嬢ちゃんには驚かされる」

「彼と合流できるかしら。私がなんとかするから」


 マリアの言葉は一変もしない表情からは乖離した余裕の無さが隠れていた。

 ヤバルは気づく。彼女は滅びの力の影響を受けていないわけではない。単に力尽くで抗っているのだ。

 朱色の布がゆらりと進む。

 エメラが狂乱の叫びをあげた。


「動くな! いかに魔女とはいえ、この人数では無傷でいられまい。愚行な考えを捨てなさい。信仰者たちよ構えを解くな! あの魔女に飲まれたら最後、魂を食われるぞ。恐れるな。あれ一つだけに我らの剣と槍が届けばいいのだ!」


 怯えきった猫のようにヒステリックな怒号を飛ばす。エメラの半歩下がった及び腰になりかけの姿を信徒たちの何人が気づくだろうか。彼らは恐怖に捕らわれながらも、あるいは捕らわれたが故に武器を握り直したのだ。

 空気がひりつく。緊張が高まる。各者、弾けようとしていた。

 まさにその時。小さな異変が重い腰を上げるのだ。


『ソフィア。やはりそこいたのか』


 職人だ。

 ヤバルにしか見えない老人が、再び動いた。いつでも地面に腰を張り付かせてずっと何かを積み上げているだけの嗄れた、今まで背中ばかりを向けてきた人物が、ヤバルへ振り向いた。

 時にして、瞬きのようなものだった。

 ヤバルの身体がガクンと震える。一旦崩れ落ちそうになる身体を踏みとどまる姿勢で停止した。


「ヤバル……?」


 異変を察したマリアが呼びかける。

 呼びかけられて彼は俯いていた顔を歓喜に歪ませる。


「ようやく見つけたぞ。ソフィア。我が世界と友と、すべてを壊した、憎き、神の使いよ」


 ヤバルの身体がゆらりと揺れて、右手が朱色の布を掴んだ。マリアのアイオーンの一部だ。

 彼女の顔に戦慄が走る。マリアはヤバルが敢えてアイオーンに触れてきた意味を知っている。


「そのおふざけが何を意味しているかわかっているのでしょうね」

「貴様のその有り様こそ何のおふざけだ。力すらか細く今にも消えそうではないか。まるで残り滓どころか燃え尽きた塵だ」

「なに……? あなた、何を言っているのよ」

「しかし面白い事にもなっているな。どおれ、我がその塵を使いこなしてやろう。無様に自らが愛する神の信仰心にでも焼かれて、悲しみと絶望の断末魔をあげながら消えてしまえばいい」

「ヤバル! 目を覚ましなさい!」


 小さな少女の身体から放たれた恫喝が法廷を震わせる。

 遠巻きに吠えていたエメラの叫びすらかき消すほどの声量を受けて、ヤバルの身体はぴたりと止まった。未だ彼の目は怪しく濁っている。まだヤバルの意識は戻っていない。

 だが。マリアが声を張り上げたとき、僅かだが彼女のアイオーンが呼応していた。その影響がアイオーンを掴むヤバルに伝わっていたのだ。

 ヤバルの身体から力が抜け、マリアのアイオーンから手が離されて力なく垂れる。


「――――そうか。我は。なるほど……この焦燥は、真に忘れていたのは、この感情であったか……。我は。いや、我は、あの方ではなかった」


 今にも泣きそうで溢れ出しそうな感情を必死に抑え込んでいる眼差しが、マリアに向けられた。哀しみはない。熱のある感情があった。

 マリアの心配そうな顔を捉えてぎこちなく微笑みを作った。


「それ以上に、我は、この感情さえ思い出したことが哀しい」


 途端、ヤバルの身体が崩れ落ちるように倒れる。マリアは拾おうとするが間に合わなかった。


「今です。愚者が膝を突いた今こそ断罪に裁く時です!」


 刹那の静寂がエメラを正気に返していた。信徒たちをけしかけようとする。滅びの魔女の脅威は彼らの勢いを削いでいて、じりじりと距離を詰めるに留めている。

 ヤバルの具合を窺っていたマリアは横目で彼らを睨み、自らのアイオーンに手をかざす。一人ならば可能かもしれない逃避を捨てていた。

 強がりで維持されているアイオーンがいつまで保つか不明の状態で、応戦する構えさえしない。ヤバルを守ろうとする意思が強く出過ぎて防御ひとつの行動しか取れないでいた。彼女の強さでもあり、弱さでもあった。


「ほら見なさい。やはり滅びの力は効いている。今です。穢れ者が封じられている今こそ絶対の好機です」


 エメラはマリアが動かない理由を別の意味で、状況的には正しく読み取った。

 二の足を踏んでいた信徒たちに恐れが消えていく。信徒たちが互いで視線を合わせた。

 法廷の天井で叫びが上がった。

 切り札の滅びの欠片が設置されている天井での異変は誰もが無視できなかった。法廷の純白の天井から、人が、落ちてきた。叫びが近づいて来たか否かの瞬間で、鈍く砕ける音がする。エメラたちとマリアの間くらいの法廷の隅に落ちた。

 天井の滅びの欠片を操作していた一人だった。


「な――――」


 思わぬ妨害か異常事態かにエメラが言葉を失って滅びの欠片の方を見上げる。

 アイオーンの気配がもう一つ増えていた。

 青く光る剣が見えた。


「やあ。心配で見に来たんだけど。大丈夫かい。これで僕は君の友達になれるかな」


 天井部からどこか楽しげで嬉しそうにも聞こえる、少年の爽快な声がした。敢えて声を大きくして聞かせているようだ。

 青い光の剣のアイオーンを知っている人は多い。法廷に集う者たちも例外ではない。

 金髪混じりの白髪。イオニアス・アベスターグ。ハルワタート国の王族の編入生。試験試合も優秀で学園内最大派閥の剣聖に勧誘され加入した少年。

 話題の人物で、学園関係者ならば名前だけでも聞いたことあるくらい有名人物だ。


「状況はわかったよ。すぐ助けに行くよ」


 イオアニスの視線はエメラにも信徒たちにもマリアにすら向けられていない。ただひとりヤバルだけを見つめていたが、当の彼は気を失っている。イオアニスは滅びの欠片が覗いていた開口部から顔を引っ込めてどこかへ行った。

 法廷に来るのは考えるまでもなかった。


「なぜだなぜだなぜだなぜだ! 剣聖がなぜ大罪人を庇うのだ。どれほど男を侍らせているのだ。淫蕩め。汚らわしい魔女め!」


 事態を過大に読み取ってしまったエメラは焦り狂う。剣聖の乱入は下手をすればここにいる信徒たちでどうこうできるはずがない数の突入の危機感があった。


「力場は崩れた。抜剣しなさい! いくら魔女とて、剣聖が来るとて、今現在の優勢はこちらにあり!?」

「自由になれたのはあなたたちだけじゃないのよ。――サブロ」


 好機を逃すほど冷静でもないエメラがアイオーンを現出させて突撃を仕掛けようとしたところで、言葉を失った。

 滅びの欠片の抑制がなくなった今、マリアは自分も全力が出せるのだと、朱色の布を大きく広く展開させることで己を大きく見せて牽制した。


「その程度で私が恐れると見くだすなあ!」


 もはや情勢に躊躇いが許されないと切迫極まってエメラが先頭を切って出るのを、マリアは悟った顔に哀しみを滲ませた。エメラはただアイオーンを顕界させただけで、能力の使用も見られない。彼女の背中に鼓舞されてか狂気に飲まれてか、信徒たちも追従してアイオーンを次々と具現化させていった。

 マリアは選ばなければならない。

 脅しが利かない。身の危険もあるし、守るべき者もある。であれば、彼女の選択は逃げないことに絞られる。


「起きて。ソフィア」


 滅びの魔女たる由縁を刮目させるしかなかった。

 マリアのアイオーンは、朱色の布でグルグル巻きされた、宙に浮く人程度の大きさの物体が核になっている。その核部分の朱色の布が解かれていって、内部から白磁の女像が現れた。

 今のマリアのように哀しみが漂わせる雰囲気の顔を少し俯かせて、何かに堪えるかのように両の手を胸に当てて、心臓を抱きしめているかのような形をしている。

 マリアがソフィアを展開させても、それでもエメラも信徒たちも止まらなかった。


「大、馬鹿、野郎……! ガマリエル、展開だ!」


 一瞬で女の白磁像は朱色の布で包まれて、前方に無数の盾をエメラたちに向かって張り手のように突き出した。傍聴席ごと信徒たちを壁に押しやった。

 マリアが驚愕で固まってしまった。自身のアイオーンの操作に己の意思が介入されていないからだ。

 いつの間にか意識を取り戻したヤバルが朱色の布の端を掴んで立ち上がっていた。マリアが彼を守るために傍で漂わせていたものだ。ヤバルはそれに触れて自身のアイオーンの能力で主導権を奪ったのだ。


「お前は! お前はそんなんじゃなかっただろ、マリアッ!」

「私に触れるな。今すぐかえしなさい」

「嫌だね。ちょっと寝ぼけてりゃなんだこれは」

「サイ。そのまま押さえていろ。僕が足止めを引き受ける」


 クラークが混乱に乗して法廷まで降りてきていた。アイオーンを床に突き刺した。


「ヒステリーパニックドール!」


 信徒側を中心に床からいくつもの石の瘤が盛り上がり、圧倒的質量の人型の波を作りあげる。ヤバルによって押しつけられているのを、さらに石の重圧で圧迫していった。絶叫があがる。

 石の瘤はまるで発疹のように法廷全体、天井まで広がり続ける。


「行け! マリア様を、頼む」

「お前も馬鹿野郎だな誰がこんな無茶をしろなんて言った。逃げりゃそれでいいんだよ!」

「……行ってくれ。僕にはどうにも彼女たちを許せそうにない。そうだよ君たちを逃がすだなんて口実だ。ここからは僕の我が儘だ。直に崩壊がはじまる。僕のクソったれに巻き込まれたくなければ逃げた方がいいぞ」

「今の俺ならこの程度、全員守れるぞ」

「そうだろうね。君の奥の手を見られて感激しているし、羨ましくもあるし、嫉妬もしているし、怒りもあるけど。――こうすればいいんだよ?」


 クラークは申し訳なさそうな顔をこそしても一歩も引かない確固たる決意があった。無茶をする作用のためか、鼻血が滴る。彼の両目は充血していて血の涙が流れた。

 彼の宣告通り崩壊が加速していった。

 天井の瓦礫から守るためにヤバルは盾を頭上にも大きく展開させなければならなくなる。だが、彼の眼前にも足下からも石瘤が立ち上がった。


「このッ」


 複数体どころか無数で。石人形の形すら成さず津波のように床から盛り上がり続けていく。ヤバルたちを裁判席側に押し上げていって、かつエデンの使徒たちからも分断する壁にもなった。

 ヤバルは襲い来る石の波から、マリアと自身を盾で守ることしかできなかった。デュナミスの巨腕を後方に出してなんとか踏ん張ろうと抗ってもみたが、巨腕をついた地面からも崩されて、足場もまるで地面が巻き上がるような、石のうねる崩壊が繰り返される。堪らず全ての朱色の布を盾に変えて防御に力を注いだ。圧倒的質量の前では堪えるのがやっとで、法廷の扉まで押しやられた。

 ヤバルとマリアは狭い球体の空間に止められてしまう。

 背後には法廷の扉があり、そこから出ろと言わんばかりだ。

 脆いはずの瓦礫の壁は押し返せない。アイオーンの剣で切り崩しても上から別の瓦礫が落ちてくるばかりで、むしろ危険だった。ヤバルが盾で留めているが、時間の問題でもある。瓦礫の向こうでまだ崩壊が続いているようで、地響きがして、そのたびに小さな欠片が盾の隙間を通ってヤバルの頬や肩に落ちていた。


「私に任せておけばよかったのよ。あなたは、また、私の覚悟を無駄にした!」

「あんたの覚悟はいつから安くなったんだ。さっさと立て。ここから離れるぞ」

「安い……? あなたがそれを言うかしら。どうしてあなたはいつも私の邪魔をするの」

 膝を抱えたマリアが蒼の瞳でヤバルを憎々しげに睨みあげた。憎しみはイサクのときように。

「あんたが自暴自棄すぎるからだ」

「自棄になってないわ。最善を取っているのよ」

「あの場で全員を焼き払うのをか。笑わせるな。あんたは人殺しが趣味じゃなかっただろ」


 ヤバルはマリアがソフィアを出してまでの、命を奪うような行為をする場面ではなかったと咎めていた。


「だったらどうすればよかったのよ。私の選択がもし間違っていたら、今度こそ私の大切なものを失うかもしれない。私はそんなのもう嫌なのよ!」


 人として完全に壊れ果てたところから回復したとはいえ、マリアはイサクが処刑されたショックを克服していなかった。起伏は激しくても一線を頑なに越えなかった以前と違い、今は何がきっかけで暴走してもおかしくない危うさが見え隠れしていた。

 ヤバルは諭すように一句一句大切に言葉にした。


「それでも、嬢ちゃん、あんたは軽々しく人の命を奪うな。血に汚れても魂だけは捨てたらだめだ。どうか気高くあってくれよ」

「偉ぶるのは苦手」

「そういう意味じゃないんだよ」


 マリアの拗ねた返答にヤバルは困って頬をかく。言葉の真意を幾分伝えられたのか二人の間の空気が少しだけ穏やかになる。

 しかし悠長にしている余裕は最初から無い。アイオーンの盾が瓦礫の重量に堪えかねていた。頭上の瓦礫がじわじわと近づいて来ている。


「とりあえず立ってくれるか。外に出ようぜ。サンドイッチみたくなりたくないだろ」

「…………」


 まだ何かいいたげだがマリアはもそりと立ってくれた。

 法廷の扉は崩壊の余波で多少歪んでいる。見たままだと開くかどうかも怪しいところだが、マリアは自ら先に扉を開けようとした。

 扉の向こうから声がした。


「あ。ごめん。下がってくれたら嬉しいよ」


 マリアがさっと手を引いた瞬間に青の線が扉を走った。咄嗟にヤバルが彼女の肩を引いて離れさせる。

 二人が疲労や言い争いに削がれて気づくのが遅れたのだ。アイオーンの気配は少し前から確かにあった。青の光の切っ先と声から、誰が来たのか察してヤバルは不愉快を表情に隠さなかった。

 切られて崩れた扉の向こうからイオニアス・アベスターグが嬉しそうに目を細めて迎えた。

 法廷で助けてくれた感謝を述べずヤバルは開口一番に問い詰める。


「あんた、さっき嬢ちゃんも切る気だったか」

「まさか。ちゃんと一言断りを入れたでしょ。何よりそんなこと今したら君は怒るし、僕と絶交するだろ。僕は君と友達になりたいんだ」


 ヤバルは舌打ちする。明らかな苛立ちで。


「退けよ。一刻も早く出たいんだ」

「ごめんよ。君が無事なことに安堵してしまっていた。さ、どうぞ」


 イオアニスの金の瞳は相変わらずヤバルしか見ていない。滅びの魔女と忌み嫌われていて、この騒ぎの渦中でもあるマリアすら眼中にない。先に出るマリアをちらりと一瞥こそするが、そこら道中の通行人かもしくはそれ以下の興味しか示していなかった。

 ヤバルは朱色の布でぐるぐる巻きの本体を引きながら慎重に廊下に出てから、瓦礫に堪えていた盾を解いた。途端崩壊がはじまってヤバルたちがいた球体の空間は瓦礫に消えた。

 瓦礫の向こうでアイオーンの気配はあるが、クラークの安否は不明だ。崩壊はもう止まっているかも、音と振動の激しさが落ち着いただけしかわかることはない。

 崩れて閉じられた法廷を眺めていたヤバルにイオアニスが言葉をかける。


「君の友達がもうひとりいたね。助けるかい?」

「馬鹿いえ。どうやってだ。まだ離れる必要がある。崩壊の規模がでかすぎる。この神殿がどれだけ腰が強いか知らないが、最悪に巻き込まれるのはごめんだね」

「見捨てるの」


 彼女としては聞いてみただけのことだが。マリアの言葉とはいえ、ヤバルは聞き捨てにできなかった。本気で睨む。


「あいつの意志を無駄にしたくないだけだ。半分は自業自得の自殺に俺たちも追走するのはクソヤロウのやることだ」


 マリアは黙ってしまう。ヤバルに臆したわけでもないが、反論がなかったわけでもなかった。かけるべき言葉を見失っていた。


「じゃあ道案内をしようか。北門までの道の確保は粗方済んでいるよ」

「至れり尽くせりだな。前払いしたいから金額を言えよ」

「僕と友達になろうよ」

「気持ち悪いから却下だ」

「あはは。わかった。でも君に死なれて欲しくないから守られてくれると嬉しいな」

「消し炭にするぞ」


 ご機嫌のイオアニスの表情がヤバルをさらに苛立たせる。

 何を思ったかヤバルはマリアのアイオーンをイオアニスに向けた。魔女の力を知らないものは学園にいないはずだが、イオアニスは笑顔を崩さない。彼の手に握られているアイオーンもぴくりとも動かない。

「彼女を穢したくないからどうせ使わないのに。そんな君が好きだ。そんなことしなくても、聞いてくれれば僕はいつだって君に真意を話すよ。僕は君の友達になりたいんだよ」

 暫し視線がぶつかる。睨みと笑みだが互いに拮抗するどころかすれ違いすぎて交わりすらしていない。数秒にも満たない僅かな時間だったが、根負けしたのはヤバルの方だった。


「案内しろ」

「ありがとう。嬉しいな。僕が君の役に立てるなんて。小躍りしていいかい?」

「静かにしてろ。今度こそ本当にキレかねない」


 あはは、とイオアニスは上機嫌で歩き出した。ヤバルたちが着いてくるのをちょっと離れて待つ。二人のやり取りを黙って窺っていたマリアが小声で聞いた。


「ねえ。彼はなんなの」

「こっちが知りたいぜ。どう見えるよ」

「あなたにも熱狂的ファンがいるのね」


 面白くもない、とヤバルは吐き捨てる。観念したかのように嘆息した。


「嬢ちゃん、先に行け。俺が殿だ」

「私のアイオーンを返しなさいよ」

「まだ借りる。悪いがあんたを戦わせない」

「自分の身を守れないんだけど。あとベタベタ触られたままなのが気持ち悪いわ」

「こっちで守るから我慢しろ。別に好かれたくてやっちゃいないんだよ」

「……なんで助けに来たの?」


 一歩進んだマリアが二歩目を躊躇って振り返った。心の内を隠さない無防備な問いだった。期待と不安もない。純粋な問いかけ。

 反面のヤバルは嘲る顔で吐き捨てる。


「ラブロマンスがご所望か?」

「やっぱり好きになれないわね。嫌いよ。あなた。大嫌い」


 背中を向けられてしまった。彼女はそのまま急ぐこともせずイオアニスの方へ歩いて行った。ヤバルもその後ろに続いた。

 彼の表情は誰にも見えないところで、ほんの少しだけ楽しそうに笑みを溢した。だがすぐに消える。つまらなそうな顔でマリアのアイオーンを連れる。

 三人の背後から枯れた老人の声がした。その声はヤバルひとりしか拾えない。


『愛しい愛しい人よ。どうか救われてくれまいか』


 いつものように何かを黙々積み上げることをしなくなっていて、動かない屍と何ら大差ないほど朽ちかけの老人職人が、幽かな潤いを残す眼差しでマリアを見つめていた。


『あなたの心はもはや変わってしまわれているのでしょう。おそらくあの方も同じ。しかし、変わらずの朽ちかけは願わずにいられません。この声が届かなくとも。祈りが届かなくとも。我はあなたを想わずにはいられません。これはかつてのあの方のお心と想っていただいても構いません。だからどうか。どうか、今のあなたを大事になさってください。ご自分の幸せを大事になさってください』


 彼の声も涙も。唯一拾える少年の耳に届くことはなかった。

 何かしらの気配を感じ取ったヤバルが振り返るが、その緑眼に職人の姿は映らなかった。白い廊下に崩壊の瓦礫しか見えていない。すぐに興味を無くして、イオアニスとマリアに合流した。

。。。

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