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王の腕  作者: 白風水雪
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十一章〈燻り〉後

ヤバル (本名:サクラス・ザラスシュトラ 潜入捜査中偽名:サイ・セセラギ・シルヴィア)


マリア・オルレアン (滅びの魔女と恐れられている)

ジューダス・ガリラヤ(貴族・国衛軍第六部隊・中尉)

モート・ギリティナ伯爵(貴族・港町プロピナの領主)


アーロン・クイール・シルヴィア(国衛軍百十三番隊国衛軍安全調律部隊第十分部隊副分部隊長・伍長)

レミエ・ラグドロビン(国衛軍百十三番隊国衛軍安全調律部隊第十分部隊・兵長)


クラーク・サスラ(ヤバルのクラスメイト)

ウェールズ・アンヌーン(ヤバルのクラスメイト)


ヒスイ・ルサールカ(スラオシャ大神殿の従業員として潜入調査中。アーロンの協力者)

マイカ・カスヴァス(スラオシャ大神殿の業務員として潜入調査中。アーロンの協力者)


 ヤバルは謹慎が解けて、復学したのだが、彼を迎えたのは腫れ物を扱うかのような、冷たいクラスメイトたちだった。

 寮のときでも気軽に声をかけてくれたはずの男子生徒や、廊下のすれ違いのとき挨拶をしてくれていた女子生徒も、今はヤバルを遠巻きに見ているだけで声すらかけない。

 ヤバルも、寮で謹慎中だったときから予期していて動揺はない。こんなものだ、と平然とした。

 ただ、二人だけ、いつもと変わらない態度で接する生徒もいた。

 黒髪と銀の瞳の少年――クラークと、金の長髪の少年――ウェールズだ。

 クラークは、寮の朝食の時も登校中も、いつもの優しさに溢れた笑みで話しかけてきた。気のままのウェールズも変わりなく、気分の向いたときだけ、クラークとヤバルとの会話に入った。

 謹慎中、ヤバルは、ウェールズから一度だけ珍しく真面目な表情をされて、なぜ暴走したのかと聞かれた。しかし、ヤバルはまともに答えを用意できず、本当に何もわからなくなった、としか言えなかった。

 そのとき、あたかも片腕との関係性を連想しやすいように、ヤバルは左腕の切断された傷跡を摩ってみせた。ウェールズは、そうか、とだけ返して、もう何も聞かなかった。

 一年Dクラスの担任教員が、朝礼をはじめるために入ってきた。

 教員が、ヤバルに露骨に冷たい一瞥をやる。教壇に立ってから、朝の挨拶に始まり、点呼を取っていく。だが、ヤバルの偽名のサイを呼ぶときだけ声が幾分か低かった。問題児扱いしているのが、生徒の目からでもわかるほど露骨な態度だった。

 担任教員やクラスメイトからの冷遇以外、これという問題もなく、朝礼が終わる。

 次の授業までの十分間、担任教員が出て行った教室の生徒たちには僅かな自由が与えられる。今のうちにトイレに急ぐ生徒や、近くの生徒か仲の良い生徒と雑談を始める生徒が出てくる。

 この時間は、いつもならヤバルもクラークやウェールズ以外の生徒からも声をかけられるのだが、今日はなかった。

 教室の雑音の中に潜んで、ヤバルに視線をやりながら声を陰口が囀る。さすがにウェールズやクラークも、彼らを堂々と止めるような行動には出なかった。

 ヤバル自身、あまり気にもせず、退屈そうな顔であくびをかみ殺す。腫れ物扱いや、穢れを見る目を向けられるのは慣れていた。彼は元々、最貧困層での育ちだった。父親が自殺してから、彼を引き取った親戚の居づらさに負けて、アウトローに逃げた過去を持っている。

 目下、学園での再びの問題行動で、雇い主のアーロン・シルヴィアがどのような判断を下すかの方が重要だった。今の立場を知るために、マイカ・カスヴァスに会う必要がある。

 彼女に対面すら望めないのなら、どのような手段を使ってでも、学園、スラオシャ大神殿からも脱出しなければならない危険性も出てくる。

 もうひとり、ヒスイ・ルサールカという男もいるのだが、彼との接触は必ずマイカを通して行われていた。つまり、どのみちマイカに会わなければ、ヒスイともコンタクトは取れない。

 今は、ジューダスの顔を立てるために保たれている復学の体裁も、これがいつ退学もしくは独房行きになってしまうのかわかったものではない。

 ともかく、現状の把握には、マイカに会わなければならなかった。

 幸い今回も、反省文の提出を要求されている。担任教員に渡すこともできたのだが、提出先が学園事務所になっているので、生徒自ら持って行っても問題にはならない。

 あの担任の様子だと、素直に事務所まで届けてくれるかも疑問が残った。

 自分の命のためなら、反省文の作成に数時間頭を悩まされても我慢できる。この努力が、担任の妨害で無に帰すのは絶対に許せなかった。

 頼れる人が少ない以上、自分で届けるのが無難だった。

 ヤバルは昼休みを利用して、行くつもりでいた。



 学生に与えられた休み時間で、最も長いのが昼休みになる。通常、生徒はこの時間に昼食を取り、残りの時間を他生徒との雑談や交流、遊び、勉強などに使う。

 ヤバルも学生の例外に漏れず、軽く昼食済ませてから一度教室に戻り、謹慎中に準備した反省文を持って、学園の事務所を訪ねようとしていた。


「よう。お前がサイ・セセラギ・シルヴィアだな」


 通学鞄から用紙を取り出したところで、ヤバルは声をかけられた。

 教室の空気が戸惑いに変わっていた。その異変に気づかされながら、ヤバルは視線をやる。 一人の男子生徒が立っていた。緑色のネクタイと、首元のバッチから、彼が三年C組の生徒だとすぐにわかった。教室が妙に静まりかえったのは、上級生が突然一年の教室を訪ねて、ずかずかと図々しく室内に入ってきたからだ。

 金の髪をオールバックにまとめて、制服は着崩している。左耳にはピアスをつけていた。常からの癖なのか、ヤバルを見る彼の顔は、どこか人を卑下しているような半笑いを浮かべていた。

 髪型や服装から推測されるのに相違なく、彼の声音や口調、雰囲気から、不貞不貞しく気の荒そうな性格が窺えそうだった。


「はい。えっと、いったいなんでしょう」


 とりあえずの反応をする。

 ヤバルは、目の前の上級生とは一度だけ会っている。不良生徒の態度に徹してみたとき、学園内をぶらついて、授業をサボタージュしていた生徒のひとりだ。

 いくつかあった集まりのうち一つの、ボスポジションにいた。

 顔は覚えていても、言葉を交わしたことはない。だから、ヤバルはなぜ彼が突然声をかけてきたのかわからないでいた。


「暇か。一緒に飯でも食わないか」


 この状況で、この口上は、単なる昼食の誘いではない。

 どのような意図があるのか。現段階では材料が少なすぎて、推測もままならない。


「いえ。これからちょっと用事が……」

「あ?」


 上級生が、口を半開きにして、眉間を寄せて、ヤバルを見下ろす。見くだす。

 彼の求める答えは、承諾の一つのみだった。

 このやり取りだけで、ヤバルだけでなく他のクラスメイトも、来訪の上級生がどのような人格の持ち主なのか理解できていた。いうなれば、主に暴力で物事を動かす人だ。

 それでもヤバルは、自身の正当性を主張する。誘いを断る理由の提示をすることで、相手の恥にかかせるのも回避する。


「反省文の提出です。謹慎中に書いておくように言われていたので。今日のうちに出さないといけないのです」

「そういうことか。じゃあ、俺も一緒にいってやるよ。事務所までの案内してやろうか」

「場所はわかっています。初めてでもないので」

「ひとりで行くよりかはいいだろ。寂しくないように着いていってやる」


 これ以上の抵抗は相手の機嫌を損ねかねなかった。

 ヤバルは、わかりました、と頷く。


「行きましょう。書き直しがなければすぐに終わります」

「おう。いいぜ。そのあとでいいから俺に付き合えよ」


 はい、とだけ短く返答してから、反省文を手に持って、学園の事務室へ向かった。

 上級生が後ろを愉快そうに着いてくるのが、嫌でも目立つ。さらに悪評が広まるのはさけられなかった。

 事務室が近づくにつれて、廊下の生徒の数も自然と減る。

 普段から自分たちを規律で縛る存在から、少しでも遠ざかる本能が働いているのか。学園の事務室は、心なしか生徒たちの喧騒から遠ざかった場所になっていた。

 人の集まりが変われば、当然空気も変わる。

 事務室前特有の清楚感のある雰囲気が廊下に佇んでいた。ここは規律を守るものと、それに従うものの境界線だ。

 ヤバルの反省文は、事務所にいる誰かに渡せば、生徒指導の教員まで届けてくれる。その教員が事務室にいるのなら、直接渡せばいい。

 しかし、ヤバルの目的は別にある。ここにいるマイカ・カスヴァスに会わなければならない。

 ヤバルに着いてきた上級生は、少し離れたところの廊下の壁に背中を預けて立っている。事務室外の廊下の壁に貼り付けてある張り紙を、興味深く眺めていた。

 ノックしようとしたとき、ドアが突然押された。迫ったドアの板をよけようと、ヤバルは反射的に身体を少しだけ仰け反らせる。

 まるでヤバルの来るタイミングでもわかっていたのか。マイカがちょうど事務室内からドアを押したところだった。背の低い彼女は、顔を覗かせて、ドアの前に立つヤバルを見上げる。


「おう。なんのようだ」


 男勝りの口調だが、彼女は正真正銘の女だ。

 小柄な身体でありながら、女性的な肉体がそれを証明している。栗毛の髪が彼女の可愛らしさを強調していた。


「反省文を持ってきました。すみません、生徒指導の――」

「今はたぶん食堂で昼食中だ。さきほど出て行ったから戻ってくるまでには時間がかかるだろう。俺が預かっておこう。責任を持って届けておく」

「ありがとうございます」

「これで二度目、だな。次はないぞ。しばらく大人しくしていろ。はしゃぎすぎても可愛がられる年はもうとっくに終わってる。三度目は、学園も助けないぞ。肝に銘じておけ」


 ヤバルは、すみませんでした、と反省文を渡すときに言葉を備え付ける。反省文を受け取ったマイカは、気をつけろ、とだけ言って、事務室内に引っ込んだ。

 マイカがいなくなってから、上級生がヤバルに近寄った。


「気にすんなよ。あんなこと言われても、どうせ間を置けばすぐに退学になることなんてないから」

「そうだといいのですが……」


 困ったように笑った。

 マイカの忠告が、両方の意味があるのは、ヤバルもわかっていたのだ。次に問題を起こせば、今度こそ殺される。


「次は俺に付き合ってもらうぜ。一緒に来い。お前をみんなに紹介してやるからよ」


 ぐいっ、と肩を組まれた。

 あまりの馴れ馴れしさに、嫌な顔が少しだけ浮かぶ。

 ヤバルは気のない生返事を返すのだが、上級生はそんなヤバルに構わない。力任せに、ヤバルを引きずるようにして、目的の場所へ連れて行った。

 ダカーハージ学園東棟。西階段三階と四階の間にある踊り場。

 ヤバルが、彼らと最初に出会ったことのある場所だ。

 彼らとは、ヤバルを教室から連れてきた上級生をはじめとする五名の男子生徒だ。以前、ヤバルがサボタージュして、学園内をぶらついてみたときに出会った集まりだった。


「おう。連れてきたぜ。こいつがサイだ。サイ・セセラギ・シルヴィア」

「へー。君が滅びの魔女に掴みかかった一年かい」


 踊り場では、四人の男生徒たちが座って談笑をしていた。そのうち、二年の一人が物珍しそうにヤバルを見上げた。空色の長髪を後ろで縛った男子生徒だ。


「そういえば、あのときもここで会ったよね」

「あ? そうなのか」


 ヤバルを連れてきた三年の男子生徒は、以前ヤバルとここで会ったのを覚えていないようだ。それと違って、空色髪の男子生徒はヤバルのことを覚えていた。この二年生は三年生と比べて印象も違っていて、とても落ち着いていて、柔らかな表情を常に浮かべていた。


「だから言ったでしょ。あいつだったろって」

「いちいち覚えてねえよ。そんなもん。お前、一回ここで俺らにあったことあったか」

「はい。まあ……」


 ヤバルは肯定してから曖昧に濁す。気の弱さを演出する。

 空色髪の男子が、ほらあ、と得意げに言った。三年生は舌打ちをするが、二人の間に険悪な空気はない。気の知り合った仲のようだ。

 三年生の男子生徒が、踊り場の集まりの最奥に当たるところまで歩いて腰を下ろした。


「お前も座れよ。心配すんな。俺らは別にお前とやりあおうとか、しつけしてやろうとか、そういうのでここに連れてきたんじゃねえよ。単純にお前と話してみたかっただけだ」

「ランさん。こんな調子だけどいいところあるから。そういえば、セセラギってさ―――」


 空色髪の男子生徒は、ヤバルに興味津々だった。

 セセラギの名やマリアの件などで、質問攻めになった。ヤバルは答えられる範囲で応じる。転校初日から質問攻めには遭わされてきたので、幾分要領のある回答で、相手を退屈させなかった。

 結局、ヤバルはずっと質問されるばかりで、会話らしいものはできなかった。それでも、この集まりは、特に空色髪の男子生徒は十分に満足できたようだ。

 最後まで座りもせず立ったままだったヤバルを、誰も眉を顰めたり、咎めたりしなかった。ヤバルが退席するタイミングが見つからず、教室に戻りたいことを直接伝えると、あっけなく解放された。

 空色髪の男子生徒に質問されている中で、時々他の生徒も会話に入ってきた。その中には、同じ一年Dクラスの男子生徒もいて、いかにも親しげに話しかけてきたが、ヤバルは彼がこの集まりにいたことを今日の今まですっかり忘れていた。

 彼とは、教室でもコミュニケーションを取った覚えもない。

 とりあえず相づち程度に返した。ヤバルと会話するのが目的ではなく、この場の発言を考えての行動だったのが、ヤバルでもわかるほど露骨だったからだ。

 この集まりの上下関係は、わりとはっきりしていた。トップが、金髪の三年生、ヤバルを連れてきた生徒だ。二位が、その彼と親しげに話す空色髪の生徒だ。この二人が、この集まりの中心であるのは誰の目に見ても明らかだった。

 一年Dクラスの生徒は、この集まりでは最底辺だった。パシリほど酷くはないが、発言力もいまひとつで、ほとんどの会話はトップ二人に合わせて相づちをするのがやっとだった。

 ヤバルは、また気が向いたら来いよ、と三年生に誘われて、はい、とだけ答える。踊り場を後にした。

 どこにでもある、あぶれものの集まり。

 ヤバルの認識はその程度だった。

 彼らのような集まりはどこにでもいる。自分たちこそが特別だと、主張が許される関係のみで構成されている。

 関係を持つ重要性は低い。積極的に接触する必要が無かった。

 せいぜい情報収集の時、使えるかどうか、くらいだった。

 特に空色髪の生徒は、あの集まりの中では異色で、それが三年生や他の生徒を惹きつけているようだった。裏のトップという言葉が当て嵌まる。

 ヤバルとの会話でも、知性のある言葉遣いがちらほら見え隠れしていた。

 空色髪の生徒は、二年のBクラスだったが。


「しまった。名前を聞いてない」


 ヤバルは、このとき、引き返して改めて聞いてみることもせず、さっさと教室まで戻っていった。



 ヤバルが、アイオーンを持つようになったのは、父親に腕を切り落とされた、あの悲劇から一年以上の時が過ぎてからのことだった。

 あれは、魘されていて、弾かれたように起き上がったときだ。ヤバルは、目の前に現れた、新たな腕に驚いた。

 青白い光の粒子が舞い、それらが輪郭をなぞるようにして作り上げた、肘まである黒いロンググローブ。

 ヤバルのアイオーンは、父親に切り落とされたはずの左腕に質量を与え、感覚を復元させた。それは、十一歳のヤバルの、とある早朝の出来事だった。

 少年の頬に涙が伝う。

 哀しみで表情を歪ませて、新たな力を、ぐっと握りしめた。

 ヤバルは、泣いた。声を押し殺し、まるで心臓に杭でも打ち込まれたかのように背中を丸めて。

 これが、ヤバルが初めてアイオーンを発現させた時だ。

 このとき、ヤバルの見た夢は、父親との惨劇だった。

 腕を切り落とされて逃げるヤバルの前で、父親は首を吊った。

 自ら命を絶った、惨劇の元凶へ、ヤバルは手を伸ばす。

 必死に、利き腕の、左腕を。

 切断されて、肘から先のない、血に汚れた左腕を。

 天井からぶらさがる父親に伸ばす。

 ただの肉塊になりゆく肉親に届かせようとする。

 そうして、ヤバルは、ついに腕が父親に届く光景を見ることが叶わず、目覚めてしまうのだ。

 ―――現在。

 スラオシャ大神殿内、ダカーハージ学園寮で眠っていたヤバルは、弾かれたように飛び起きた。腕の伸ばした先の左手は存在しない。

 つい先ほどまで魘されていた。

 彼が見ていた夢は、自分のアイオーンが目覚める瞬間のときと同じものだった。まだ記憶喪失になる前、サクラス・ザラシュストラの本名で生きていた頃のときの記憶の一部だ。記憶喪失になって、思い出せずにいた欠片の一つだ。

 ほとんどの記憶が戻っているとはいえ、まだいくつかの大切なものを彼は思い出せていない。

 ヤバルは、ここが学園だと思い出した顔をして、安堵のため息をする。額には汗をびっしょりかいていた。頬も濡れていて、それは汗とは違うものだった。


「ちくしょう……」


 たまらず漏れた言葉は、悔しさがあった。

 初めてアイオーンの力が発現した瞬間の感情が、蘇っていた。

 ぐっと己を抱きしめるように背中を丸めて、あのときのように、ひっそりと泣いた。

 少年の悲しみに合わせて、首や右手首の拘束具が冷たい音を寄り添わせる。


「ちくしょう………っ」


 夜明けを、窓のカーテンから差し込む光が教えてくれる。

 また一日がはじまる。

 生き延びるための、サイ・セセラギ・シルヴィアの生活が。



 その日、夢に魘されていたヤバルは、早くに目覚めていた。まだ睡魔を引きずりながら、夜明けが近い朝の静かな空気から、異変の気配を感じ取る。外のざわめきが、男子寮まで伝わってきていた。

 すぐに制服に着替えて部屋を出たところで、ウェールズを見かけた。ちょうど彼も廊下に出て外へ向かう様子だった。


「何かあったのか」

「わからない。西の方に人が集まっているのが見えたから、たぶんそこだ」

 

「西……。学園までの並木道あたりか」

「たぶんだぞ。サイ、先に顔を洗ってきたほうがいい。目、腫らしたままだぞ。あと寝癖も」


 指摘されて、ヤバルは一瞬驚いてから、ばつが悪い顔をした。

 顔を洗うなどの目的の生活水を扱う井戸は、寮の外、東側に面した敷地内にある。騒ぎが起きているらしい西の方角とは、反対だ。

 いつもは、早朝から順番待ちでごった返す井戸も、今日は少し寂しくなるくらい人がいない。ウェールズなどの多くの生徒は、朝の準備をほどほどに、顔の洗うのを後回しにして、並木道へ急いでいた。

 ヤバルのようにわざわざ井戸で顔を洗う生徒は少数だった。

 この学園に来てからの問題行動の影響で、ヤバルが井戸を訪れると、僅かな数いた生徒たちも足早に去って行った。ひとりになってしまっても、ヤバルに動揺はない。

 慣れどころか、最初から気にしていなかった。潜入捜査の理由で、この溝を回復させねばならないが、今の手立てがないため、構うだけ無駄というものだった。

 桶に取った水で顔を何度か洗うと、さらに頭にもかけた。

 タオルで水を拭き取り、幾分すっきりした顔になったところで、隣に人が近づいたことに気づいて視線を向ける。


「クラーク。どうした。今日は」


 黒髪に銀の瞳の少年。

 いつも人に優しくするのを地で行くような彼だが、人を和ませる童顔にも影を落としていた。

 心なしか目が虚ろだ。


「ああ。サイ。おはよう」


 声をかけられて、初めてヤバルの存在に気づいたかのような反応だった。

 クラークの目元にはクマがあった。心ここにあらずの様子だ。

 すでに顔を洗うのを済ませてヤバルを待っているのが通例になっているほど、彼の朝は早かった。ましてや、目元にクマが残るような夜更かしを短絡でする人間でもない。

 ヤバルが、何かあったと勘ぐるのも当然だった。


「寝不足か。珍しいね」

「……そうか。ちょっとね。でも、悪いことではないんだ。結構、目立つかな」


 ちょっとだけ自信がなさそうな笑顔だった。

 むしろ、ヤバルはそんなクラークの反応に安心した。


「いいや。大丈夫だと思うよ。なあ、ところで、何か騒ぎが起きているようだけど。知ってるか」

「え? そうなのか。悪い。今初めて知った。そうか。さっきから静かだと思っていたけど、井戸に誰も来なくて、そっちに行ったからなのか」

「今更かよ。待っててあげるから、さっさと目を覚ましてくれ」


 やれやれ、とヤバルは笑う。

 クラークの準備が整うのを待ってから、騒ぎのするほうへ二人で向かった。

 学生寮区域から学園までの間にある並木道。

 初夏に綺麗な花を咲かせる木が、間隔を持って植えてある。幹が細く、最長でせいぜいヤバルの身長くらいまでしか枝葉も広げていない。

 ヤバルたちがそこへ駆けつけたときには、すでに騒ぎの収束が教員や軍人たちで行われている段階にあった。問題の中心から生徒他無関係者を遠ざけている。

 生徒たちが近くの教員に事情を聞いてみてもいるようだが、どうにも納得のいく回答が教員の口から語られていなかった。生徒は食い下がり、教員も一歩引かず首を横に振っている。

 ヤバルの到着は、何人かの生徒をぎょっとさせる。素性を知らなくても、ヤバルの拘束具は目立つ。しかし、騒ぎでほとんどの生徒はそれどころではなくなっていて、視線を一度やるだけで半ば無視していた。

 意図していないところで少しだけ見渡しがよくなる。ヤバルは群がる生徒の中からウェールズを見つけて、近くまで寄った。


「よう。で、何があったんだ」

「何かがあったかはわかるんだが……」


 言葉に迷っているようだった。

 ヤバルはウェールズの視線を追って、そちらを見やる。

 教員たちの壁。その奥で軍人たちが、後ろに何かを隠す形で囲んでいた。

 大きな布まで持ち出して、緊急の遮蔽を作っている。数人が布を潜って行き交っている。時折、向こう側がちらりと覗いてもいたが、何が起きているのかわかるほどでも見えていない。

 ヤバルの耳は、周囲の声を拾っていた。


「人殺し……?」

「え。誰か死んでるの」

「だってほら。あそこ」

「でも誰が」

「そういえば、あいついないぞ」

「まだ寝てるよ」

「見えないね」

「こっちこっち。あそこ、赤いのが」


 声こそ潜められているが、隠す気はさらさらないようだった。みんな口々に勝手にしゃべっている。その積み重ねが、一つの大きなざわめきを作り上げているのだ。

 と、ヤバルは、この騒ぎのずっと隅で、軍人が人混みを割って誰かを誘導しているのを見つけた。道を開けろ、と動かない野次馬に怒鳴っていた。ようやくの体で、壁役の教員たちにたどり着く。

 確認のやり取りの後、最奥へ進んでいった。

 ヤバルの視線は、軍人と連れて来られた人物を追っていった。

 軍人が連れていたのは、ガルラ・ヒンノム・ティンヤンだった。

 ヤバルの接触しなければならない最終目標の人物。命との取引で与えられた任務だ。

 港町プロピナのクーデターに関わりがあるとも教えられていた。

 ヤバルは反射的に渦中へ近づこうとするのだが、教員たちの壁をすり抜けるどころか、すでに押し寄せている野次馬の壁に阻まれる。足を止めるしかなかった。


「どうした。何か見えたのか」

「ガルラ・ヒンノム・ティンヤン大司祭が、あの中心に連れて行かれた」


 奥を睨みながら、ヤバルはウェールズの問いかけに答えた。

 目撃した光景は別に隠すべきことでない。むしろ、伝えて、どのようなことが推測されるかの情報そのものを入手するほうが、優先される。


「神王教絡みなのか。それとも―――、まさか」


 近くのクラークがぼそりと漏らす。何か思い当たるところがある節だった。

 現状の変化が乏しい。

 ガルラ大司祭が布の遮蔽の奥に入ってから、一向に出てくる気配がなかった。

 軍人たちの壁に阻まれて、布の向こう側で何か行われているのか、ヤバルたちからではまったく見えない。こんな騒ぎになっても、依然として何が起きているのかまったくわからなかった。

 教員たちの態度も不可解で、群がる生徒たちの侵入を防いでも、帰そうとはしていない。帰る生徒を呼び止めもしていない。敢えて、その場の流れに任せているようだった。

 やがて痺れを切らし始めた生徒たちも現れて、変化のない騒ぎが収束するどころか徐々に大きくなる。苛立ちなどの負の感情もちらちら見え始めたときだった。

 一人の軍人が布の向こうから出てきて、教員たちに何かを伝えた。

 教員が一斉に生徒へ視線をやり、今日の午前の授業は中止だと大きな声で宣言した。継げて、全生徒朝礼が行われる旨が告げられる。

 時間はいつもの朝礼時間より一時間ほど遅らせるそうだ。

 教員たちは、生徒へさっさと朝の身支度を済ませてしまえと、半ば怒鳴るようにして、野次馬を散らしていった。当然、ほぼ掴みかかりそうな勢いで教員に問いただす生徒も現れるのだが、いいからさっさと行けの一点張りで突き通される。

 いかに貴族や王族、他国の有力者の息子といえど、大人が力を振りかざす勢いで畳みかけられてしまっては、引き下がるしかない。

 教員と生徒、上下関係がはっきりとする瞬間でもあった。

 ヤバルたちも仕方なく引き下がる。他の生徒に混じって戻るしかなかった。

 そのとき、どこからかぼそりとつぶやきがヤバルの耳に聞こえる。


「救世の印? 本当か」

「間違いない。俺は見た」


 振り向いても、誰の言葉だったのか、人の数が多すぎてわからなくなっていた。

 これだけ音も多いと、一つ不安もある。


「空耳か」


 つぶやきは雑音に飲まれて消えた。

 ウェールズとクラークはヤバルより少し前を歩いていて、聞こえた様子がない。先ほどのかすかに聞こえた会話が気になったことで、ヤバルの歩みが僅かに遅くなり、その分だけ二人から離れたのだ。

 ヤバルは、前を行く二人に追いつこうと足に力を入れたとき、彼の耳に、カチ、カチ、と何かが積み重ねられる音が聞こえた。

 耳聡く、ヤバルのつぶやきを拾った存在がいた。


「いいや。我も確かに聞こえたぞ。救世の印。あれは、そう、まるで突然降り注いだ希望に戸惑い、恐怖し、内からの歓喜にすら戸惑っているような、産声をあげる赤子の振る舞いのような声だった」

「お前、それが何なのか知っているのか」


 一ヶ月近く気配すら感じなかった存在でも、現れてしまえば、ヤバルは穏やかではいられないほど感情が波立った。すでに苛立ちが声にも出ていた。

 そんなヤバルに構うこともなく、相変わらずで、職人はただ語る。


「印とは、つまり兆しか。何から救われたいと願うのか。しかし、救いは光だ。闇がなければ、光は見えぬ。光もなければ、闇も消える。であれば、救いの前には絶望が降り注ぐ。平和を願い、安寧を望むとき、眼前もその身も絶望が貪っているだろう。既存の平和が崩れてこそ、救世はさらなる輝きを手に入れる。ただただ業にまみれた欲で救世を望むのなら、それは不幸に焦がれる乙女のような、たちの悪い盲目だ」

「語るなら司祭か修道士にしろ。役に立たねえ耄碌め」


 毒づいて、職人の声から逃れようと、歩く足を速めた。


「どうした。何か言ったか」

「なんでもないよ。ただ、この騒ぎは結局なんだったのか説明されてないから、いろいろ考え込んでいただけ」


 ヤバルは、振り向いて聞いたウェールズに素っ気なく答えた。

 前を歩いていたウェールズとクラークの二人を追い抜いて、ヤバルは寮へひとり足早に戻った。

 まだ朝食を取っていないのだ。

 のんびりしていれば、食い損ねてしまう。

 何が起きたにせよ、今日という一日は始まったばかりなのだ。

 本当にそろそろキャラ紹介欄を考えている今日この頃の、白風水雪です。

 というわけで。

 初めましての方は、初めまして。

 お久しぶりの方は、お久しぶりです。


 さあて。何やら思わせぶりなものぶちまけてからの、ぶった切りみたいな終わり方をしてしまいました。物語本編に関わる伏線は八割?くらい書き出せたはずです。


 ここから、いよいよ、物語を収束、加速化、終わりへと駆け出していかせていく予定であります。

 読者皆様の予想を良い意味で裏切ることができるように励む所存でありますので、どうか最後までお付き合いください。


 では。

 これにて。


 次の更新は未定となります。

 しかし、来月末には必ず更新しますので。まだ月二回更新ができるかどうか不明です。

 ゲリラ更新みたいになってしまったら、そのときはごめんなさい。

 ツイッターや活動報告なので、更新の際はしっかり広告していますで、よかったらそちらでご確認ください。

 ツイッター、フェイスブックなど、同じ白風水雪で登録しております。

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