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王の腕  作者: 白風水雪
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十一章〈燻り〉前

ヤバル (本名:サクラス・ザラスシュトラ 潜入捜査中偽名:サイ・セセラギ・シルヴィア)


マリア・オルレアン (滅びの魔女と恐れられている)

ジューダス・ガリラヤ(貴族・国衛軍第六部隊・中尉)

モート・ギリティナ伯爵(貴族・港町プロピナの領主)


アーロン・クイール・シルヴィア(国衛軍百十三番隊国衛軍安全調律部隊第十分部隊副分部隊長・伍長)

レミエ・ラグドロビン(国衛軍百十三番隊国衛軍安全調律部隊第十分部隊・兵長)


クラーク・サスラ(ヤバルのクラスメイト)

ウェールズ・アンヌーン(ヤバルのクラスメイト)


ヒスイ・ルサールカ(スラオシャ大神殿の従業員として潜入調査中。アーロンの協力者)

マイカ・カスヴァス(スラオシャ大神殿の業務員として潜入調査中。アーロンの協力者)

 ヤバルは、クラークやウェールズの声にも振り向かず、血相を変えて駆け出していた。彼が目指すのは出場者の入退場口廊下。階段を蹴るように降りて、右手に曲がり、一直線に通路をかけたところで、相手が角から出てきたのを捉えた。

 入退場口廊下付近には医療班や教員が控えている。緊急時に備えての対応だ。

 ヤバルの形相を見て、その教員たちが慌てて止めようとする。

 しかし、すでに目標を捉えたヤバルの方が一手早く動けていた。ヤバルは姿勢を崩し、足運びで滑るような動きをして、教員たちの妨害をすり抜ける。

 さらに力強く踏み込み、一気に距離を詰めた。

 殴るような勢いで、相手の胸ぐらをつかみあげる。


「どういうことだ。てめえ! どういうつもりでアイオーンを使いやがった!」


 マリアが、いきなり胸ぐらを掴まれてもなお冷静で、淡々と告げる。


「使うべきだったからよ。あれは試験試合。アイオーンを使用しなければ、彼とは十分にすら戦えなかったわ」

「それでもだ。点数取るだけの戦い方なら、他にもあったはずだ!」


 教員や救護班がヤバルを引き離しにかかる。しかし、ヤバルはマリアを解放しない。離れようとするマリアの身体を、力任せに服を引っ張って寄せた。鼻先が触れ合いそうな距離でにらみ合う。

 マリアも誰かに助けを求めず、ヤバルの眼力にも怯まず応える。


「私のアイオーンよ。使い方をあなたに指図される筋合いなんてないわ」

「でもよ、あんたは! それでも使わないと決めていたんじゃないのか!」


 教員や救護班がヤバルにほぼ怒声の制止の声を浴びせている。さらに力強く引き離そうとしている。

 しかし、二人には彼らの妨害はただの騒音でしかなく、互いが相手しか見ていなかった。


「ただの他人に言われる筋合いなんてないわ。さっさと離しなさい。あなたも、焼かれたいの?」

「この……ッ」


 ヤバルはさらにマリアの胸ぐらを掴む手に力を込めて、締め上げる。このままでは、マリアの身体をも持ち上げて首を絞めてしまいそうだった。

 いよいよ教員たちが本気でヤバルを大人しくさせようとしたときだった。後から来た何者かが、ヤバルから教員のひとりを柔らかく後ろへ下がらせる。そうすることで、その者は他の教員たちに己の登場を知らせた。


「そこまでにしてもらおうか」


 すらりと、速く、滑らかに、アイオーンの気配がヤバルの首筋に添えられた。

 ヤバルは、マリアと自分の間に現れた切っ先を、視線で追って後ろに見やる。ヤバルの知る剣のものだった。細く美しい、未来視の剣。ジューダス・ガリラヤのアイオーンだ。


「皆さん、そのままで動かないで頂きたい。私は、この少年に聞きたいことがあります」


 彼の登場は、ヤバルたちだけでなく、教員たちをも静かにさせた。

 ジューダスの剣は、何かの拍子でヤバルの首を落としてしまいそうだった。ヤバルだけでなく、教員たちも下手に動くことができなくなっていた。

 ジューダスが、冷たい笑みでヤバルを一瞥した後、マリアに視線を向けた。


「マリア。この少年は君の知り合いか?」

「それを確かめようとしていたところだったの。生き残りか、それとも血縁か。あなた、アナーヒターの名に聞き覚えはあるかしら」

「あな……なんだ……?」

「君がマリアに因縁があるようだったから、関係性を問うている。だが、どうやら、違うようだ」

「そのようね」


 ヤバルを置いて、二人だけで結論を出していた。その受け答えはまるで、ヤバルを知らないかのような口ぶりだった。ヤバルの表情に困惑が浮かぶ。

 教員に囲まれている状況で、ヤバルの正体が彼らにも知れてしまってはどうなるかわからないヤバルではなかったのだが、それ以上に、マリアたちに知らない他人とあしらわれたのが、彼の心に響いてしまっていた。

 剣呑で静かな空気に二人の足音が近づいてきた。

 ウェールズとクラークだった。ヤバルの変貌を心配して追いかけてきたのだ。

 駆けつけた二人はヤバルに呼びかけようとした声を飲み込む。目の当たりにした状況を把握できずにいた。滅びの魔女マリアとジューダス・ガリラヤの脅威が、二人を止めた。


「これは誰の知り合いだ」


 ジューダスが、ヤバルの首にアイオーンを添えたままで、ウェールズとクラークに振り向く。堂々とヤバルから視線を外せるのは、彼のアイオーンが未来視の能力を持っているからだ。

 この状況で誰が何をしようとしても、常に先手でいられた。

 ジューダスの声に誘導されて、ヤバルもウェールズとクラークの二人に気づく。チッ、と舌打ちをした。彼らふたりは、この場では無関係者だった。ヤバルが、ぽつりと、声を絞り出す。


「―――悪かった」

「ん?」


 ヤバルは、マリアを投げるようにして解放した。よろめいたマリアを、教員のひとりが慌てて寄り添って介抱する。


「すみませんでした。この人のアイオーンの凄さに当てられて、興奮状態にありました。暴力を振るうように見えたのでしたら、それは僕の思慮の無さが生んだ誤解です」

「つまり、こんな騒ぎになったが、マリアに危害を加える気はなかったと」


 はいそうです、とヤバルは肯定した。

 しかし、マリアに対して怒りを抱いていたのを、誰の目に見ても明らかな醜態をさらしてしまっている。教員たちも、ウェールズたちですらも、ヤバルの言に納得を得ていなかった。

 ジューダスのアイオーンが未だ下ろされず、ぴたりとヤバルの首に添えられているのが何よりの証明になっている。


「では、少年。……というのも、不便だ。君は、いったい何という」

「……サイだ。サイ・セセラギ・シルヴィア」

「セセラギ……。ああ、知っているぞ。無手の武術を編み出したところのはずだ。今は貴族でなくとも、その格式は受け継がれていると思っていたが、どうやら少し修正が必要のようだ。サイ。シルヴィアの、しかもセセラギを名乗る者なら、それなりの振る舞いをするべきだ。君の行いは、君だけでなく、家族も家も穢すことになる」

「そんなもの、知らない。僕の勝手だ」


 やれやれ、とジューダスが嘆息する。


「君はマリアの力に酷く興奮しただけと言っていたが、もし私たちに君を不快にさせる不備があったのなら、ここで申し上げてもいい」

「いえ。ありません。本当に、ただこの人の強さに当てられただけです」

「そうか。であるならば、こちらは然るべき手順を取って、この問題の処理をしてもらうことになるが。こちらに誤解があったにしろ、こちらは一方的な被害者で君は加害者になる。もし、不満にしろ何もないというのなら、君はただこちらの訴えで裁かれるだけになってしまうが」

「僕の思慮の無さは配慮の余地がないと思っています。今はなぜこうなるまでに自分を抑えきれなかったのか、その判断ができずにいたことが悔しいばかりです」


 ジューダスが、アイオーンをヤバルの首から下ろした。


「反省の意思はわかった。では、教員の方々、あとの処理をお願いしてもよろしいですか。この件は、サイの反省に免じて、こちらからは不問とさせてもらいます。学園側の適切な処置を期待しています。マリアも、それでいいね」

「恨みや憎しみは慣れています。問題ありません」


 教員の幾人かの表情から、安堵が見えた。

 国の中枢にまで影響力のあるガリラヤ家の発言は、学園側としても無視できないものがあった。

 要人のご子息を預かる学園は、その地位もそれなりのところに置かれている。貴族の身勝手な発言も、簡単には影響されないくらいの力はあった。

 しかし、例外は存在する。ジューダス・ガリラヤは、そのひとりだ。

 今でこそクーデターで暗い意味しか持たないが、神王教トップの教皇の孫であるイサク・ジズとジューダスの姉は結婚していた。個人としてだけでなく親族でも、ジューダスはジズ家と親密な関係にあった。

 そうだ、とさも今思ったかのようにジューダスは付け加えた。


「処置の件ですが、子どもの成長にはどうか寛大に。この年頃は、何かと感情も起伏が激しい時期でもあります。ひとつ一つに眉を立ててはせっかくの伸び時期に蓋をしてしまうようなものです。しかし、だからといって、すべてを見過ごすのもいいわけでもありません。大人は子どもの道しるべであるべきです。指導者であれば、なおのこと彼らを切り捨てるのではなく、導いてあげるべきだと私は思っています。教員の方々、どうか子どもを導かせるための適切な処置をお願いします」


 要するに、厳罰であっても、退学のような最悪のケースはなるべく避けるよう擁護していた。

 これはジューダスがヤバルを守った形になる。

 ヤバルは悔しさに歯を食いしばった。今すぐ怒鳴り散らしてしまいたい衝動を抑えていた。

 ジューダスのアイオーンが呼び水になって、廊下は生徒たちで溢れていた。何が起きたのか興味こそあっても、誰ひとり一定の距離以上近づこうとしていなかった。

 ジューダスのヤバルを擁護する格好は、外野へのポーズでもあったのだ。彼の力と人間性を、知らしめた。

 今この状況でさらに暴れてしまっては、もはやヤバルはこの学園に居られないどころの話ではなくなる。ヤバルは自分の正体を隠さなければならない。すでにそれを知っているマリアとジューダスには、勝ち札を一つ握られているようなものだった。

 大人しくするしかなかった。

 わかりました、と教員の誰かが答えたのを聞いて、ジューダスが改めてマリアに微笑んだ。柔らかで優雅にも見える動きで、マリアを誘う。


「おいで。マリア。帰ろうか」


 はい、と応えたマリアが、教員の手を離れて、ヤバルの横を過ぎ、ジューダスの元へ歩いた。マリアが傍に来るのを待ってから、ジューダスはようやくアイオーンの具現化を解いた。

 物見見物者でしかない群衆で溢れている方へと、マリアを連れて歩いて行く。

 まるで火をよける獣のように、あるいは逃げるように、生徒たちは道を空けていった。



 ヤバルの、マリアに暴力を働こうとしたように見えた事件は、ジューダス側の訴えがなく、また寛大な処置の要求があったことから、退学という最悪のケースは免れていた。

 しかし、ジューダスや学園側の顔もあり、不問にすることはできない。そのため、ヤバルは三日の謹慎と、拘束刑の処罰が下った。せっかく外されていた拘束具を、ヤバルは再び身につけさせられた。

 貴族のジューダスと事を構えて、マリアにも暴行と並ぶ行為をしたことから鑑みても、この処置は十分に寛大で寛容なものだった。


「なるほど。そういう経緯で、また拘束具をつけているのですね」

「そういうことです。これ。僕はいつまで通えばいいのでしょうか」


 と、うんざりした顔でヤバルは聞いた。その首や右手首には、拘束具がつけられている。

 ヤバルは、アイオーンを出せなくなったとき、カウンセリングとして告解部屋を通うように言われていた。本人の意思はない。学園側の規定に則った判断で命じられたのだ。


「前回は、あと数回、あなたの状態次第で免除できたのですが。今度はそうもいきません。学園側の許しが出るまで、少なくとも週に一度は必ず来てください」

「マジですか」

「本当です。守らないと今度は謹慎程度では済まされませんよ」


 告解部屋は、人ひとりしか入れない狭い空間だ。向かいの聞き手側も同じ造りになっていて、壁には鉄格子をはめた小窓があった。

 聞き手側は黒いベールで顔を隠している。部屋に入る前に、ベールで隠す前の司祭と挨拶するため、顔を隠しても誰が聞いているのかヤバルもわかっている。

 顔が見えていない方が話やすいと考えられ、告解側に配慮した格好だった。

 ヤバルの告解相手は女の司祭だ。まだ若い方で三十を超えたばかりらしい。


「どうしてまた騒ぎになるような行動をしたのですか。それはあなたのアイオーンと関係があるのでしょうか」

「まったくの別問題です。今回は、ほら、なんとなくむしゃくしゃするときがあるでしょ? 間が悪かったんですよ。ちょっと暴れたくなって」

「マリア・オルレアンのアイオーンの力に当てられて興奮したため、と報告があがってますけど……」


 ジト目で睨みつけていそうな声音だった。


「今思い出しました。そのとおりです。気が動転していたんですよ」

「はあ……。調書にはあなたはもう少し気が弱くて真面目な性格と書いてあったはずなんですけど。やはりこうして会話していると、まるであなたは別人みたいです」


 最近の慣れもあったせいか、ヤバルのサイとしての化けの皮が薄くなっていた。言動の端々に本来の顔が見え隠れする。

 もとより付け焼き刃の取って付けたような設定人格なのだから、ボロが出るのも時間の問題でもあった。


「転校してきたばかりでちょっと構えていただけなんですよ。周囲に気を許し始めた証拠とでも思ってください」

「本人が言うと酷いですね」


 女司祭がため息を漏らす。

 ヤバルとの告解部屋はため息が多かった。


「しかし、今回は特に騒ぎになってますね。それだけ問題が大きかったのです。気をつけてくださいなんて問題の話ではないですよ。アイオーンを出せなくなったことが、あなたをそこまで不安定にさせているのでしょうか」

「自分でもわかりかねます。あのときはどうかしてました、なんて常套句しか思いつきません」

「別に綺麗で丁寧に言葉を並べて見せなさいとは言ってないのですけど。改心なんて上等なものも求めてませんから、せめて反省か後悔くらいは見せてください」

「反省も後悔も十分にしてるよ」

「あなたの場合は開き直っているというのです」

 いいですか、と女司祭は場を切り直す。

「アイオーンが出せなくなったショックが計り知れないのは、こちらも理解はできます。しかし、だからといってその憤りや不満を他に向けていい理由にもなりません。問題の相手側も、あなたを特別訴えるようなことはしないと言われていますが。相手が相手だけに、あなたに罰を下して、学園も、その周囲にも、示さなければならなくなっているのです。こうやって罰を下されていろいろと不自由な目にあっているあなたですが、これでも守られているということを、まずは自覚してください」

「わかっていますよ」

「本当ならどんなにいいか」


 数回の面会をして、女司祭は嘆息こそしても、そこに苛立ちはない。ただただ、目の前の少年を思いやっていた。


「それで、最近はどうなのです。アイオーンの具現化はできるようになりましたか」

「僕のこの状態見えてます」


 ヤバルは女司祭に敢えて首の拘束具を見せる。


「もちろん。知ってますし見えてます。ただ、アイオーンの具現化はわりと感覚だけでもできそうなときはわかるものなのですよ。それは、拘束具をつけられたときも同じようです」

「個人差がありそうですね。僕は以前と何も変わらずわかりません。でも、そうですね。ただなんとなく、具現化できそうにない気はしてます」


 本音のある言葉をこぼして、ヤバルは表情を暗くした。不安があった。視線は、存在しない左腕に向いている。


「そうですか。焦らずにしましょうか。実技方面の成績に不安があるようでしたら、教員に相談してみるといいわ。対処してくれるはずです。学生の生活はどうですか。騒ぎの後、何か不便だったり、不都合だったり、不満などはありますか」

「この現状ですね」


 即答だった。


「それ以外で、何か、ありますか」


 いい加減にしろ、と言葉の裏で言われていた。

 ヤバルはこれまたわざとらしく、肩をすくめてみせる。


「今日が謹慎最終日なので学園でどういう扱いになるかはわかりません。ただ、クラスメイトとは寮が一緒なので、一日に一度は顔を合わせる機会はありますが、あまりいい目では見られていないみたいですね。特別酷い目にも遭ってもいないのでなんとも言い難いのですが、転校初日より悪い意味で距離を置かれているのは感じています」

「しばらくは続くでしょう。だからといって、もう問題を起こさないでくださいね。これ以上は、おそらく学園も庇いきれません」

「望んでこんな状況を作ったわけじゃないんだけど」

「今後はお願いします。さて。明日からの学園ですが、もし何かあったら、いつでもここへ来てくださいね。相談に乗るわ。学園側にも意見を通せるようになっているから、助力もできるはずです」

「成績面の不安とかも学園側に助力をお願いできるのか。謹慎中の分をどこかでプラスに変えてくれるとか」

「もちろん。課外授業が二倍になるらしいです」

「自力でなんとかします」

「よろしい。―――明日の学園生活再開に向けて、今日はこれくらいにしておきましょうか」

「はい。ありがとうございました」


 席を立って、ヤバルは告解部屋を退出する。少し遅れて、女司祭も出てきた。

 スラオシャ大神殿にある告解部屋は、生徒用と一般用で分かれている。生徒用は礼拝堂から離れたところにあった。狭い廊下の奥に三つある部屋が、告解部屋だ。

 そのうち一つからできてきたヤバルたちは出てきたのだ。

 女司祭が、外に出てから黒いベールを外す。金色の髪と孔雀石のような瞳の美しい女だ。


「いつでもいいからね」


 女司祭――エメラは慈愛の笑みを浮かべた。

 はい、と答えて去るヤバルの背中を、温かく見送った。



 教会まで来たヤバルの足は、ここに来たときだけ向かうところがあった。スラオシャ大神殿が選出した絵画を飾る廊下だ。ヤバルはそこで、有名な絵画のひとつ〝朝焼けの夜〟を見に来ていた。

 昼間は外の光が廊下の白い壁で反射して、まるで白の光の通り道のような廊下になる。夕暮れ時の今は、太陽の茜色を受けて、まるで赤い血を思わせた。

 それは毛嫌いされるような汚らわしい光景ではなく、生命力に溢れているのを想像させる色だった。

 赤い廊下にいくつか並ぶ絵画の中で〝朝焼けの夜〟は、その美しい描写もさることながら、エデンの園を描いたとされることでも有名だった。

 礼拝者の中でも、この絵画を見てから帰る者もいた。

 とはいっても、いくら有名でも展示されてから数年経つのもあって、〝朝焼けの夜〟を鑑賞する人は毎日いても一人かふたり程度だった。

 その中に、ヤバルもいた。

 ヤバルは、他と違って、〝朝焼けの夜〟しか見ない。それだけを見つめて、長いときは一時間以上動かないこともある。彼は、この絵画に引き寄せられていた。

 夕暮れ時は、礼拝堂内も、絵画の廊下も人が少なくなっている。〝朝焼けの夜〟は、ヤバル以外は見ていないときが多かった。

 しかし、今日は違った。先客がいた。

 しかも、ヤバルがいつも立っているところから、その者は〝朝焼けの夜〟を見ている。

 ヤバルは仕方なくその者から距離を置いた後ろに立ってから、場所から立ち退くのを待った。いつもの定位置からでないと、ヤバルは〝朝焼けの夜〟を見る気になれなかった。

 視線は、自然と〝朝焼けの夜〟を鑑賞している先客に向けられる。

 老人の男だった。簡素だが、質のいい布の使われた服を着ている。どこかの貴族かそれに並ぶ商人の服装だ。

 髪のない頭。頬に見える皺が歴年を感じさせる。


「どこかで、お目にかかったことでもありましたかな」


 ヤバルの視線に気づいてか、老人は絵画から視線を外さすに問いかけた。


「すみません。いつも僕がその絵を見ているところで先客がいたものですから。つい珍しく思ってしまいました」

「ははは。久しぶりに絵画を見に来たのです。ちょっと感慨もありまして、時を忘れておりました。もしかして待たせてしまってましたかな」


 嫌みに聞こえない話し方だった。振り向いた老人の笑みは知的で、柔らかな人柄を印象させる。

 ヤバルは、老人に応じて柔らかな態度で返す。


「いえ。僕も時間をかけてしまう方なのです。どうぞゆっくり見ていってください。僕は礼拝堂の方で待たせてもらいます」

「お気を使っていただきありがとうございます。ですが、私はもう戻ろうとしたところでして、どうぞ見てください」


 老人がヤバルに場所を譲る形で退いた。

 〝朝焼けの夜〟とヤバルの間に隔たるものがなくなる。ヤバルは定位置まで歩こうとする。その自然で、まるで絵画に吸い寄せられているかのようなヤバルに、老人が声をかける。


「エデンはどこにあると思いますか」


 ヤバルがすぐに応えられなかったのは、絵画に意識が傾いていたという理由もあったが、何より自身の格好が人に声をかけられるのに相応のものをしているとはいえなかったからだ。老人が絵画に集中していたときならまだしも、ヤバルに場所を譲るとき、ヤバルの拘束具が見えていたはずだった。

 ヤバルの身につけている拘束具は、罪人に使っているそれとまったく同じものなのだ。

 告解部屋は裏口を使えたが、絵画の廊下は一度礼拝堂を通らなければならない。そのとき、数名の礼拝者とすれ違い、さすがにヤバルの首元の拘束具に気づいて、ぎょっとしていた。

 学生服で罪人のような格好をしているのだから、無理もない。

 学園の罰則対象者だとわかっても、それほどの問題を起こす人という印象は強く残る。結果、ヤバルを腫れ物のように扱い、皆、逃げるように距離を置いた。先ほどの司祭のような役職でもなければ、事情を知らない限り、好き好んで関わろうとするのは変わり者のすることだった。

 マリアの件の前から拘束具をつけて、ここには来ていたのだが、周囲の人の反応は変わっていない。

 ヤバルは、老人の方へ身体を向けた。拘束具が老人からもはっきりと見えるようになるが、老人の笑みは崩れなかった。

 聖書では、と老人が言葉を続けた。


「エデンは、神王が滅びの使徒を退けた後、朽ちた世界に再び緑が戻るその日まで、残された生命が再び世界に根を張れるように、と造られた箱庭だと書き記されています。そのエデンはどこにあるのでしょうか」


 授業の一環で、ヤバルもこのあたりの知識は得ている。

 滅びの使徒でも侵略できない領域。

 この世界にあって、この世界ではないところに安置されていると言われている。

 どこ、と明確ではっきりとは、教科書でも授業でも教えていない。


「世界の果て、とかでしょうか。もしくは、ほら、滅びの穴の向こう側とか」


 滅びの穴。

 海にぽかりとできた、暗く昏い穴のことだ。この世界が滅びに向かっている証明の一つにもなっている。滅びの穴の発現は未だ解明できておらず、最近も小さな船を飲み込むくらいの大きさならば、滅びの穴の確認は新たにされている。

 最も大きな事件は五十数年前になるが、一つの島がまるごと滅びの穴に飲み込まれた。

 今でもそれが記録にある中で最大規模の滅びの穴で、それが確認された後から、人々は世界の滅びを本当の意味で恐れるようになった。

 この世界は滅びに向かっている。これは世界各国の共通認識だ。


「まだ見ぬ向こうこそ可能性に溢れている、というところですかな。なるほど。確かにありそうです。世界を滅ぼす力の向こう側で、なお残る楽園こそがエデンなのかもしれません。夢想する人の願いは、見果ての先が例え絶望でも希望の欠片を見いだそうとするものですから」


 老人がくつくつと笑い、不穏な雰囲気を纏う。


「哀れ哀れ。人の盲目は、いつになっても同じものを見つめている。しかし、少年。人々の焦がれる希望のあやふやさとは裏腹に、エデンはあるのです」


 断言だった。

 人のエデンを求める願いを嗤い、しかし、それはあると言い切っていた。

 老人のヤバルを見る目は、焦点があっていなかった。ここではないどこかを見、狂気を孕んでいる。

 ヤバルは、もはや〝夜明けの夜〟どころではなくなっていた。

 老人が語る。


「では、エデンはどこにあるのでしょう。確かにあるのに、未だそこへ行く手立てが見つかっていない。夢想の果て、夢も現も境界が消失したとき、導が現れるのでしょうか」

「さ、さあ……」

「そうです。その通り。わからないのです。私たち生命は何もわかっていないのです。いつか滅びが来るのわかっておきながら、いつ救われるのか知らないのです。それはなぜでしょう。知る必要がないから? 知る手立てがないから? 私は違うと考えています。いずれも違うなら、ではどうして私たちは滅びからの救いを知らないのか。私はこう考えています。―――忘れているのです、と」


 自身が記憶喪失と重ねてか、ヤバルの表情に動揺が浮かぶ。


「私たちは忘れているのです。アイオーンがなぜ剣の形をしているのか、なぜ戦う形をしているのか、考えたことはありませんか。それは滅びに立ち向かうためです。滅びの使徒に対抗するためです。あなたたちは、かつての王と共に戦った記憶を魂が覚えているからこそ、アイオーンとしてその証が形になっているのです。王との誓いが生きている証です。あなたたちは知っているはずなのです。この世界の生命であるならば、必ず知っているはずなのです。救いの瞬間を、エデンへの導を! あなたも、忘れているのです。あのエデンを、あの光景を、結末を!」


 アイオーンが神王から与えられた力で、それが誓いの証でもあるのはヤバルも知っている。世界の共通に近い常識でもある。

 親から子へと語り継がれて、人々は脈々と誓いを受け継いできた。

 父親には左腕を切り落とされたが、それでもヤバルは父との温かい思い出を覚えていた。

 アイオーンの意味をヤバルも考えたことがある。

 なぜ自分のアイオーンは剣の形をしておらず腕なのか、と考えたこともあった。

 だからこそ、老人の心境がわからないわけでもないのだ。

 だが、ヤバルは老人に付き合う気がなかった。むしろ、このままだと興奮状態の老人に何をされてしまうのかわかったものではない。


「あの、俺、そろそろ門限がありますから」

「そうか。それは残念……」


 老人が食い下がらず、あっさり感情も落ち着かせた。

 あまりの気の変わりように、ヤバルは困惑するが、老人の気の変わらぬうちにと足を急がせようと、出口へと身体の向きを変えた。

 その背中に老人の声がかけられる。


「エデンは、どこにあるのか。そういえば、語っていませんでしたな」


 嗤う声で。


「エデンは、アイオーンの、その先にあります。扉を見つけなさい。この世界と対抗する力は、そこにしかありませんよ。―――あなたが一番それを身を持って知ったはずでしょう?」


 ヤバルはそろそろ絵画の廊下を抜けようとしていた。ちらりと、後ろを見やる。

 もう老人の姿はない。

 絵画の廊下は、右に曲がるが、その先は鉄格子で行き止まりだ。あの老人の格好からすれば司祭の役職についていても、不自然はない。スラオシャ大神殿の関係者ならば、鉄格子の鍵を持っているからだ。


「おかしい爺さんだったな。職人といい……。勘弁してくれよ」


 がしがし、と乱暴に頭をかいて、ヤバルは寮へ帰った。

 誰もいなくなった絵画の廊下で、〝朝焼けの夜〟が、やはりどの絵画よりも異彩を放っていた。

 絵画の廊下は、外の光を白の壁に反射させて、夕焼け色を廊下全体に行き渡らせる。

 その黄昏の光のせいか、エデンの夜明けの瞬間が描かれたはずの絵画は、エデンが燃え上がる一瞬を写し取ったかのような美しさを持っていた。

 はい。どうも。

 月二回更新を失敗して申し訳ありません。


 というわけで。

 初めましての方は、はじめまして。

 久しぶりの方は、お久しぶりです!


 ええと。このあとの話ですが、私の実力不足とスケジュール管理不足で、〈後〉の話も、かなり高い確率で来月の末になりそうです。

 ここから話はもう一段階複雑化させてから、収束、加速化の流れになる予定であります。ある意味ネタバレでしょうか? ともあれ。そのような見当でいます。


 では、皆さん、季節の変わり目ですので、体調には気をつけましょう。

 具合を崩しやすい時期なので。


 ではでは。これにて。


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