十章〈マリア・オルレアン〉後
ヤバル (本名:サクラス・ザラスシュトラ 潜入捜査中偽名:サイ・セセラギ・シルヴィア)
マリア・オルレアン (滅びの魔女と恐れられている)
ジューダス・ガリラヤ(貴族・国衛軍第六部隊・中尉)
モート・ギリティナ伯爵(貴族・港町プロピナの領主)
アーロン・クイール・シルヴィア(国衛軍百十三番隊国衛軍安全調律部隊第十分部隊副分部隊長・伍長)
レミエ・ラグドロビン(国衛軍百十三番隊国衛軍安全調律部隊第十分部隊・兵長)
クラーク・サスラ(ヤバルのクラスメイト)
ヒスイ・ルサールカ(スラオシャ大神殿の従業員として潜入調査中。アーロンの協力者)
マイカ・カスヴァス(スラオシャ大神殿の業務員として潜入調査中。アーロンの協力者)
ヤバルは、授業中のため生徒たちの喧騒が去った廊下で、噂の開かずの間まで来ていた。アプロの、エデンの鍵穴の話を聞いたとき、ここが浮かんだからだ。
この学園やスラオシャ大神殿には、一見して目的のわからない建造物がいくつかある。
一つは、学園の開かずの間。
とは名ばかりの、閉じた扉があるだけの壁だ。これは増築の際に残されたもので、扉を実際に開けても向こうには壁しかない。壁の向こうに部屋はあるが、扉の隣のドアから簡単に入ることができた。
元々は各部屋へ通じる大通りのような廊下が、扉の向こうにはあった。
しかし、増改築する際、その廊下をも部屋に変えて区分させたので、扉の必要性がなくなったのだ。また、ただの一室に備えるには大仰すぎるのも、扉を使用しなくなった理由の一つだ。
だが、必要性がなくなったのに撤去されず残された理由があやふやだった。当時の理事長が神託を受けて、学園の正道である扉を残すように指示したと噂もある。作業員が撤去しようとしたところ、何人も不運の事故で命をなくしたとも噂されている。
学園は、スラオシャ大神殿ほどにはないにしろ、歴史ある建築物でもあり、古いところでは築三百年を超えている。今では扉だけが残された本当の理由を知るのは、いないと、噂されている。
「しかし、鍵穴覗き込んでも、真っ暗で何も見えねえ。まあ、壁があるから当然か。エデンの鍵穴の夢が人の仕業とするなら、こういうところが関係してくると思ったが……。見えないなら使えねえよなあ」
サボりをしている生徒を探しているところで、近くを通ったついでに噂の検証をしてみたのだ。さほど残念そうな顔はしていない。むしろ、学園に来てからいつも時間と校則に縛られていたため、今の不良らしい行動を楽しんでもいた。
試し終えたので、再び当初の目的に足を向けさせる。アプロのアドバイスを思い出していた。
「中間ね」
どこがいいものかと思案する顔で、気楽な足取りでヤバルは廊下を行く。
学園の建物は西棟と東棟に分かれている。現在ヤバルの歩く東棟には、専門科目の教室が多く設置されている。廊下には時々授業の会話が聞こえていた。
窓は廊下の外側にしかなく、教室の中まで窺えない。音だけを頼りにしなければならなかった。
しかし、逆から見れば、教室側からも廊下の様子はわからない。
よほど足音を立てさえしなければ、気づかれる心配もなかった。ヤバル自身が、足音を消して歩くことを得意としていて、ただ通り過ぎるだけならば苦労はしなかった。
その教室が授業中で、どの科目であるかは、教室前の札と廊下まで聞こえる教員の声だけを聞いていればいい。
四階のある東棟で、ヤバルは現在二階まで散策を終えた。今のところ、エデンの鍵穴にも、サボタージュに使えそうな教室も見つけていない。
「簡単に見つかるようなところでもなく、見つかりにくい場所でもなく。まあ、人の目に見えて、疑われることが少ないようなところってことだろうけど」
学園で、それに該当する場所があまりに多すぎた。
「木を隠すなら森の中ってやつだな」
人の気配のない専門科目の教室を見つけたので、ドアに手を掛けてみる。当然鍵がかかっていて開かない。
ヤバルは鍵穴から中を覗き、最後に数秒ほど耳を澄ませてからその教室から離れた。
通りかかった部屋で、さらに人の気配がしない部屋の中からランダムに試していった。今のところ、どれも外れていた。
「今日どこかで必ずってわけでもねえだろうし……」
ヤバルは調べながら歩き続けて、四階まで上がってきていた。
結局、サボっている生徒も、エデンの鍵穴に関連のありそうな部屋も見つからなかった。
候補になりそうな部屋は見つかったから、収穫がまったくなかったわけではない。授業が終わる予鈴が学園に鳴り響く。
休み時間となれば、廊下だけでなくどこもかしこも生徒で溢れかえる。
万が一にも同じDクラスの連中に見つかる面倒を恐れて、ヤバルは今度は人があまり行かなさそうなところへ歩いた。
ヒスイに会う夕刻まで学園内をふらつく。今日は授業に出るつもりはなかった。
†
「で。いままでずっとサボタージュ?」
「そうだな。一日中学園をふらついてた」
「何か成果は得られたかしら」
「まだ何も。ついでに、いくつかの噂を確かめてもみたが、話に聞いていた事実とあまり違わなかった」
スラオシャ大神殿内、大礼拝堂。
長椅子の傍らで、ヤバルとヒスイは並んで座っている。余所から見て親しい間柄に見えてしまわないように、少しだけ離れていた。
「しかし、よくまあ毎日あんなつまらない勉強ばかりさせられているのに、サボっている奴は割と少ないんだな。三、四人で集まっている奴らをいくつか見かけた。ほとんどがCクラスかDクラスの生徒ばっかりだった。同じ一年もいた」
「接触はできたかしら」
ヒスイは女口調だが、声は野太く、見かけも違わぬ男だ。ジョリジョリと無精ひげのある顎を撫でる。
「一年の奴が同じクラスで、顔も知っていたからな。挨拶程度はしたぜ。誘われもしたが、今回は遠慮させてもらった」
「彼らからも話を聞けるくらいにはしておいてね。一応言っておくけど、あまり仲良くなりすぎないように。ああいう人たちは、学園にはもう長くいられないから。一年生のその子も、今年中に自分から退学するかもね」
「ああ。もうついて行けないとか、つまらないとか言ってたぜ。そういやそいつから聞いたんだが、Aクラスは学園側がサボることを認めてるらしいな」
「ちょっと違うけど概ねはそうね。一定以上の学力を身につけた生徒に限られて、なおかつ有力の血族や血縁の子で、三年生から許可されるわ。サボっているというのには語弊がないわけでもないけど、神殿の書庫で本を読みあさったり、教室を借りて科学実験をしたりと、自主学習する生徒もいるのよ。あなたお得意の貴族様優遇だけが理由じゃないのよ」
学園を見回ったとき、実験施設のある東棟で授業以外に使われているらしき教室がなかったことから、今回は本当に巡り合わせがなかったことが、ヤバルはここでわかった。
「優遇は優遇だろ。ああ、そうだ。こんなのも聞いたんだった。エデンの鍵穴を聞いたことがあるか」
「あら。あなたの耳にも入ったのね」
ヒスイの声音こそ平常を装っているが、表情には真剣さが滲んでいた。
「そのことについても、調べてくれないかしら」
「エデンの鍵穴みたいなものは昔にもあったのか」
「何度かね。ただの噂で消えたものもあるけど、異教騒ぎまで発展してしまったものもあったわね。今回もそれに似ているのよ。その夢の噂は。複数人で同じ夢のところとか。人為的に見えるところが怖いわね」
アプロと似た危惧をしていた。
「ここが神王様のお膝元であってもか」
「だからこそ、信仰心との境界はより明確にしておかなければならないわ」
ヒスイの眼は強い意志を秘めている。しかし、それは影よりも暗い闇の底を見据えていた。
「彼には、もう接触できたかしら」
彼とは、ガルラ・ヒンノム・ティンヤンだ。
ヤバルが学園に侵入した最大の目的だ。
マリア・オルレアンを救済教と思われる集団に攫わせて、イサク・ジズをクーデターの首謀者の罪を着せて、死刑に至らしめた。ワヒシュタの歴史に刻まれる大事件を裏で関与したとされた人物だ。
政界にも就いてる、現職の大司祭。学園では半月に一度、専門科目で特別教員として、神学を教えている。
ガルラの授業は、選択授業の一つだ。しかも、受けることができる条件が設定されている。神学のある程度の知識と、それに基づく成績、そして二年生以上だ。
今のヤバルはどれにも満たしておらず、彼の授業を受けることはできない。となれば、ガルラの学園滞在中に接触を試みるしか方法がなかった。
神学に関しては、ガルラは名の知れた学者の一人だ。その手の話題から関わりを持っていくのが常套だった。
しかし、ヤバルはまだガルラに会えていない。姿こそ何度か見かけたのだが、どのときも話しかける時間もなく、ただ遠くで見るだけだった。
命を天秤にかけられた任務を、進展がまったくないと報じるのは自身の無能をさらし、身を危険にする行為だった。だが、下手な誇張は立場をさらに悪くする。ヤバルは言葉を選びながら、現状を報告するしかなかった。
「まだだ。どれもタイミングが悪い。手を抜いているわけじゃない。ただ、強引に行きすぎて不自然に思われるのを避けたい」
プロピナでの、マリア奪還やその後の捕縛にも、ヤバルは中枢を担うような役目で関わっている。もしも、何らかの切っ掛けでガルラがプロピナとヤバルの関係性を結びつけてしまったときが、最も避けねばならないことだった。
ばれてしまっては最後。どちらにも命を狙われ、大罪を着せられて処されてしまう。
こうして情報報告しているヒスイすらも、ヤバルの命を狙う敵になりえた。
「あまり焦ることはないわ。ガルラの方は慎重にやってちょうだい。他に、救済教に通じそうな何かはあったかしら」
「……何も。なあ、本当に救済教を信仰している奴らなんているのか」
「ええ。おそらくだけど」
断言と、歯切れの悪い言葉。
「ガルラ・ヒンノム・ティンヤンも、本当に関係しているんだろうな。政治家様で、大司祭様で、教員もやっているような奴が、本当にプロピナの大騒動を起こしたのかよ。あいつが、学園に救済教を広めている元凶なのか」
ヤバルはガルラの職歴から、彼の潔白を訴えているわけではない。
学園に通い始めて一ヶ月以上になるが、救済教に関連しそうなことが何一つ見つかっていないことに、そもそもの調査の始まりとなった推測を疑うようになっていた。
命がかかっている。的外れの行動は御免蒙りたかった。
「なあ、いい加減教えてくれ。どうして、この学園に救済教が蔓延っていると思ったんだ。ガルラの何が怪しくて、どんな証拠があって、モート伯爵やプロピナの事件に関わっていると思ったんだよ。ただ怪しかったら報告しろなんて、無茶もいいところだろ。わざわざ俺みたいなのを捕まえて利用するくらいだ。大まかの目星くらいはついているはずだろ」
「………」
ヒスイは黙ってしまう。答え倦ねるというよりは、話すべきものを持ち合わせていない様子だった。知らないわけではない。話せない。彼の態度がヤバルに訴えた。
ヤバルから舌打ちが漏れる。少年から、もはやサイの仮面はとっくに外れ落ちていた。
「わかったよ。俺はただの捨て駒だ。言われたとおり調べは続けるし、報告もする。だけどな、ただ言われたままに行動するだけだと思うなよ。平民崩れでもな、頭くらいついてるんだよ」
「それでいいわ。あなたは、ただこちらの命令を実行していればいいの。対象の観察と、調査を続けていなさい。それの限りで、あなたは生きながらえる」
「糞が……」
言葉も取り繕わず、ヤバルは吐き捨てた。
これ以上話すこともないという態度で立ち上がる。
そのときだ。礼拝堂から出るために歩き出そうとしたヤバルは、この空間に満ちる空気の変化に気づいた。
立ち上がったからかもしれない。彼は、ヒスイよりも早く、大礼拝堂に徐々に伝播する人々の感情を感じ取っていた。
スラオシャ大神殿の大礼拝堂は、一般人にも開放されている。多くの参拝者が集い、ここでは平民も貴族も等しく祈ることができる。誰が入っても、誰が隣に座っても、それを咎めず疎まず、神王に跪くことができた。
しかし、このとき、大礼拝堂は一つの異物の侵入で、明らかな脅威と恐怖、忌み嫌う感情を人々に抱かせる。それは、神王への誓いや崇拝で、人々が築き上げた神聖性が浸食されるほどの存在ということだ。信徒の声に耳を傾けていた司祭でさえ、彼女の来訪は驚きを隠せていなかった。
ヤバルは立ち上がったとき、確かに聞こえていた。まるで呪いのような、畏れそのものの言葉を。
「滅びの、魔女」
「まさか。あれが」
「滅びの魔女」
「帰ってきたんだ。スラオシャ大神殿に」
大礼拝堂へ集い、または出て行く人の流れが、ぴたりと止まっていた。時が止まったかのような、唐突な静寂。
しかし、これが時の停止ではないことを、人々のざわめきが教えてくれる。静寂の中を、一人の少女が歩いていた。
おそらくは、スラオシャ大神殿に来るまで深くかぶっていたであろうフードを、今は外している。
白銀の髪が、扉より注がれる夕暮れの陽光で煌めく。彼女の、礼拝堂の台座をまっすぐ見つめる蒼い瞳は、逆光の陰の中でも色彩が浮かび上がって見えて、まるで淡く光っているようだった。
金色の光の中を行く、神秘的で、神聖性すら纏うような美しさだが、その幻想的故か、人々は彼女を人間に向ける目で見ていなかった。
人々は、見惚れるほどの神々しい光景の中にいるたった一人の少女を、化け物のように見ている。
マリア・オルレアン。
故郷を焼き尽くし、滅びの魔女と恐れられる少女だ。ダカーハージ学園の制服が、コートから覗く。彼女は学園の生徒なのだ。
大礼拝堂内で伝播し、徐々に満たしていく畏怖と忌む感情に導かれて、ヤバルはゆっくりと振り向いていた。
「―――」
今のヤバルの立場では、マリアに声をかけるのは危険だった。だが、それ以上に、ヤバルは動けなかった。誰に見まがうことのない美しさを目の当たりしたためか、それとも罪悪感からか、畏怖からか、身体が固まってしまっていた。
マリアは、ヤバルの立ったまま動けずにいる姿を一瞥すらしない。彼のいる長椅子を通り過ぎる。彼女の後ろには、ジューダス・ガリラヤの姿もあった。
台座の前で、マリアは膝をついて祈った。
誰もが息を潜める異様な静けさが、大礼拝堂を支配する。暫しの沈黙。マリアの祈りが終わるまで、大聖堂に居合わせた者たちは誰一人として動けなかった。
ジューダスがマリアの瞼がゆっくりと開かれるのを待って、彼女に声をそっとかけた。
「もういいのか。ここで祈るのも久しぶりだから、もう少し時間をかけてもいいのだぞ」
「ええ。私の身には十分すぎる時間をいただけたわ。それに、あまりここの人たちの邪魔をするのも気が引けます」
イサクの仇同然のジューダスと、マリアが何の障害もなく言葉を交わしている。
やがて立ち上がったマリアが振り向く。
ただ帰ろうとしただけの動きだったのだが、たったそれだけで、礼拝者には身体をこわばらせる者もいた。眉根を寄せて、不快さなのを隠そうとしない者もいた。
プロピナのクーデター事件の渦中、その存在。
イサク・ジズが救済教を信仰し、プロピナで暴れることになった原因。彼を死刑に至らしめた元凶。マリア・オルレアンこそが、イサク・ジズを惑わせて、救済教を信仰させたのだとまことしやかに語られるのも、少なくない。
イサク・ジズは人望のある人柄だったため、大礼拝堂の中には、マリアに憎しみを抱く者もいた。
ここで石の一つでもマリアに飛ばないのは、ジューダスが傍に仕えているからだ。イサク・ジズの一件で、いろいろと黒い噂が絶えないが、それでもクーデターを止めるのに一役かった功績もあった。
ジューダスが大礼拝堂に集う誰よりも高い地位にある貴族なのも、十分すぎる抑止力になっていた。
少女に仕える騎士の如しジューダスを連れて、マリアは礼拝堂を去って行く。誰一人として、彼女の進行を阻む者は現れなかった。
スラオシャ大神殿内の他の司祭や大司祭たちが大礼拝堂に駆けつけたのは、マリアが礼拝堂を出てすぐだった。彼らも、マリアの後ろ姿をただ見送るだけだった。
異質で脅威だった存在がいなくなったことで、礼拝者はようやく一人、またひとりと、礼拝堂を後にしていった。マリアのことに感情を荒げるものも少なからずいたが、ここが礼拝堂なのもあって、声はさすがに抑えていた。
大礼拝堂が、まだ戸惑いや蟠りを残しながらも、元の空気を思い出しつつある中で、ヤバルはただ立って動けず、マリアの背中を見ていることしかできなかった。
マリアも、ジューダスも最後までヤバルの方を見ず、声もかけなかった。
長椅子に座ったままで事の経過を見ているだけだったヒスイは、ヤバルに何も言わない。ただ黙って席を立ち、他の礼拝者に混ざって退室していった。
ヤバルは、人々が動き出しても、自分だけ取り残されたかのように動かない。
そんな少年の顔には悔しさがあった。拳をきつく握りしめていた。
太陽がほとんど沈み、空は夜の色を滲ませる。夕刻もあと少しというところになっていた。
礼拝者も少なくなった礼拝堂から、ヤバルは出てきた。憂鬱な面持ちで、寮の方角に足を向ける。
「よう。サイ。今日もご熱心に絵画鑑賞に来ていたんだろうが、どうやらタイミングが悪かったみたいだな」
「ウェールズ。どうしたんだ。もうすぐ門限だろ」
ヤバルに声をかけたのは、ウェールズ・アンヌーン。同じDクラスの男子生徒だ。
さらさらの長い金髪、その美形の顔立ちもあって女子に人気が高い。転校生のヤバルと仲のいい生徒の一人だ。休み時間時々ヤバルに声をかけるときもあるが、大抵が女子たちと仲良く話をしている。
「滅びの魔女が帰ってきたらしいと噂が聞こえたから見に来たんだよ。彼女、顔がすげえ綺麗だろ。半年ぶりだからなあ。大人っぽくなってたか」
「転校生の僕に聞かないで。今日初めて直に見たところなんだ。なんというか、すごいね。主に周りだったけど」
マリアがどのように見られているのか、ヤバルは知っているつもりだった。しかし、今回の人々の畏怖と忌む感情を直接肌に感じて圧倒された。生々しい感情がどこからも彼女にまとわりついて、まるで毒に汚された沼地のようだった。
「あんまし言わない方がいいぜ。魔女の仲間と思われてリンチなんて、わりと冗談でもなかったりするんだぞ」
「マジかよ……。でも、どう見ても、ただの女の子だったぞ」
「見かけは美人でいいよな。けど、滅びの魔女の噂、故郷を焼き尽くしたのは本当らしいぜ。今でも草木一本生えていないそうだ」
「そんな力があの人にはあるのか」
ヤバルはマリアの力を知っている。噂の真偽はともかく、彼女にはそれを可能にする力があった。しかし、この事実をサイ・セセラギ・シルヴィアは知らないので、驚く振りはしておいた。
「噂だよ。噂。だってあの人二年だけど、学園に来て一度もアイオーンの力を使ったことがないらしいぞ。試験試合も棄権ばっかりだと」
「ふうん。たぶん、自分のアイオーンが嫌いなんだろう」
「あれだけ噂にされるくらいだからなあ。魂の欠片も嫌いになれるさ。あーあ、残念だ。一目見て起きたかった。噂の滅びの魔女」
ウェールズのそれは、さきほどの礼拝堂の人たちとは、真逆にも至りそうな反応だった。もし彼らなら、間違っても一目見たいとは言わない。
ヤバルはウェールズのそんな反応の理由をなんとなくわかっていた。
「女の子だから?」
「当然。男だったら興味すらないね。可愛い、超絶美人と来たら、一目見ない理由にはならないね」
実に誇らしげな笑みを浮かべて、ウェールズは言った。
ヤバルは、君らしいね、と笑って返す。
ウェールズの女性関係の話題は枚挙に暇がない。例え二股、三股の噂が流れたところで、同じクラスメイトは驚きもしない。そんな彼だからこそ、滅びの魔女に興味を持ってもおかしい印象がなかった。
「僕は帰るよ。もうすぐ門限だし。管理人の説教はこりごりだ」
「ははは。ようし一緒に帰ろうぜ」
仕方のないという顔を、ヤバルはした。
隣を歩き出すウェールズは始終楽しそうに笑っていた。
後日、ヤバルは認識の甘さを痛感する。
マリア・オルレアンの帰還は、学園中どころか、スラオシャ大神殿に収まりきれず、首都ユーピテル全体を騒がせる大事件だった。
学園には広報機関の取材を模した調査が入り、スラオシャ大神殿前は人々で溢れかえる。いつもの礼拝者に合わせて、国政やその体制の抗議デモが行われた。
滅びの魔女が帰ってきたことで、都内で燻っていた反政府思想の人たちに火がついたのだ。
その騒ぎは学園の寮に住むヤバルまで伝わるほどだった。
こうした騒ぎは、あと一ヶ月は続くことになる。
その最中だった。マリアが帰ってきてから一週間が経った頃。マリアの長旅の疲れが癒えてきたとき、彼女の留年をかけた試験試合が行われることになった。
半年以上の休学が、試験試合を棄権し続けてきた彼女の成績を危うくしていた。ここで満足な点数を得られなければ、留年確定になる。最悪は、退学の可能性もこの時点で提示されていた。
学園はイオアニスのとき以上の盛り上がりを見せた。
当日、ヤバルも彼女の試合を観戦している。観客席でクラークとウェールズの友人二人に挟まれて座り、マリアを見守った。
彼の首には拘束具がない。一週間の罰を終えて、外されていた。
そのヤバルの表情は、複雑な心境が浮かんでいた。
マリアに恨まれていて当然で、もし正体をばらされたら退学どころか処刑までされかねない。そんな不安はもちろんあったが、今の学園の、マリアを畏れ、忌み嫌い、蔑むのを全体で楽しんでいるかのような空気が、ヤバル自身が好きではなかった。
もちろん、多数の生徒が作り上げた空気に、すべての生徒が同調しているわけではない。
隣のクラークは良心の呵責に揺らされても、すり込まれた嫌悪感を拭えないでいるような顔でいた。ウェールズは声こそ出さず静かに見ているが、表情はマリアを好意的に見ていた。
間もなくして試合が開始される。
ヤバルの知るマリアであるのなら、彼女はアイオーンを嫌い、使うことを拒んでいた。故郷を焼いた力を、マリアは呪っている。
―――しかし、初手でマリアは、アイオーンを具現化して見せた。
おそらくは学園での具現化は初めてなのだろう。闘技場の観客席からは、彼女のアイオーンの異様な姿に驚き、ざわめきが起こる。
朱色の布でぐるぐる巻きの何か。一見して不気味な物体が、マリアのアイオーンだ。包まれたものの大きさが、ちょうど大人ひとり分なところも、それの中身を連想させてより一層気味悪い印象を与えていた。
他の生徒の誰よりも、マリアの力と覚悟を知っていたヤバルが、驚愕の表情で見つめていた。知らず拳を握りしめていた。
†
審判役の教員の合図で、マリア・オルレアンはアイオーンを早速具現化していた。
相手の男は、剣証九十四位。剣術、体術の対戦ならば、マリアに勝ち目はない。決して不得手でもないのだが、それ以上に実力の差が大きすぎた。
しかし、それすらも埋めてなお、圧倒できる力を、マリア・オルレアンは持っている。
故郷を焼き尽くした、自身が呪う力。
自身でさえ、不気味に思っている力。
マリアが、アイオーンに手をかざす。宙に浮く、朱色の布に巻かれた物体は、布を徐々に解いて伸ばしていった。マリアの意思に合わせて自在に動く。
「!」
対戦相手が一気に間合いをつめていた。
一瞬で数メートルを移動する。速攻を得意とする戦い方で、マリアとの距離を肉薄しようとしていた。
それをマリアは、あえて受け止めた。
刃が大剣のほど太い短剣。外見からも頑強そうに見える短剣が、マリアの懐まで迫っていたのだが、朱色の布がそれを阻んだ。ただの布に見えるそれもアイオーンの一部で、剣の刃を布のしなやかさと鋼のような強度で通さない。
間髪入れずマリアの反撃が始まる。
「サブロ」
アイオーンの布で編み上げられた針のような剣をいくつも作り出して、至近距離にいる男に突き出した。
男が距離をとりつつ、それを回避する。
まだ試合は始まったばかり。男は手の内すら見せていない。これからどうやって学生のマリアが彼と戦うのかと、ほとんどの生徒が、マリアを滅びの魔女と呼んでおきながら彼女の勝利を予想していなかった。
だからこそ、彼女の復帰デビュー戦ともいえる、この試験試合は凄まじく衝撃的だった。
対戦相手の男は教員で、マリアの実力を測る仕事もある。そのための試験試合だ。
マリアに幾分か戦える余力や機会も与えながら、戦わなければならない。
要するに手加減している。
追撃も、アイオーンの能力も、段階を追って見せていくつもりだったのだ。
しかし、マリアがこのとき望んでいたのは早期の決着だった。
「ソフィア」
距離を取らされた男が目にしたのは、まるで翼のように大きく広げられた朱色の布と、その中核に見える存在だった。それは、白磁色の像だ。
哀しみを秘めた表情の、瞼を閉じた女の像だ。
不気味な物体の正体は、それはそれは美しく儚い女性の姿をしていた。
「ッ!」
だが、男がこれを見たとき、表情を真剣なものに一変させる。彼の行動はとても素早く、もはや本当の戦闘をしている気迫を持って、アイオーンを地面に突き立てた。
彼のアイオーンの能力は、地形変動だ。
アイオーンを突き刺した地面の高度に影響されるが、半径数十メートルの地形を隆起させたり、陥没させたりすることができる。また、程度があるが、造形も可能だ。
本来ならば、彼の瞬発力を生かす地形を形成し、相手を攪乱させることが常套手段として使われる。
しかし、男は、今回は防御のみに使用した。
地面をいくつもの壁に分けて隆起させていく。自身は地面を陥没させて地面下へ沈ませることで、わずかでも回避しようとした。反撃の糸口を捨て去って、防御と回避に能力のすべてを使い切る。
次に訪れるものを、そうでなければ凌ぎきれないと判断した結果だった。
そして―――。
「世界を、焼きなさい」
一瞬の煌めきが、マリアがソフィアと呼んだ白磁色の女の像から放たれた。それは、真っ赤な炎を生む。
空気が焦げる。
ゴウ、と音が会場に轟いて震わせた。
闘技場内の気温が一気に高まる。
たった、一度のみだった。
マリアのアイオーンが放った煌めきから生まれた炎が、男の土の壁を焼き払う。炎はそれだけに止まらず、闘技場の白い壁も黒く燃やしていた。
近くの観客席に座っていた生徒の何人かが火傷をして、騒ぎになっている。
「ごめんなさい。まだ、続けるかしら」
マリアの見つめる先、土の壁が塵になって散った向こう。地面のくぼみから身を乗り出した男が苦笑いをしていた。顔や腕にいくつもの火傷ができている。
完全に防ぎ切れたわけではなかったのだ。マリアの炎の熱は土の壁を貫通し、地面下に逃げた男を熱だけで外傷を与えていたのだ。
熱の凄まじさを、男が身をもって証明していた。
「いや。降参だ。俺では君に勝てない」
身体の煤を払いながら、男は敗北を宣言した。
会場が歓声よりどよめきが生まれる。信じられないものを誰もが目にしているようだった。
観客席にいる大半の生徒が、マリアの力を所詮は噂と侮っていたのだ。現実に顕現されたものがあまりに圧倒的すぎて、唖然としていた。
審判役の教員が、ちらりと男に目配りの確認をしてから、勝者を宣言する。
「勝者。マリア・オルレアン」
鮮烈な復帰デビュー。
しかし、やはり会場は依然として不穏な動揺があるのみだった。ささやかながら拍手をしているのは、数人の教員と軍人だった。
風が生まれている。
熱気の流れが、会場内に風を作っていた。
マリアは白銀の髪が乱れるのを手で直す。その表情は冷静で、とりわけ特別な感情があるようには見えなかった。
ふと、彼女の目が何かを捉えた。ほんの一瞬だったが、このとき、マリアとヤバルは目が合った。
ただ、それだけだった。
マリア・オルレアンは、対戦相手の男と挨拶程度の言葉を交わすのみで、称賛も少ないまま会場を後にする。
滅びの魔女の実力は、こうして生徒の誰もが知るところになった。しかし、あくまでこれは力の一端だと知る者は少なかった。
彼女はまだ、全力を出し切っていないのだ。
ヤバルを含めて、数人のみが、これを知っている。
よっしゃあ!
目標の月二回更新を達成しました。
というわけで。
初めましての方は、初めまして。
お久しぶりの方は、お久しぶりです。
無事に、半月で更新できました。
いやあ。やってみるものですね。なんとかなりました。
しかし、話のテンポも執筆速度も、やはりだいぶ余裕が違いますね。本当にないです。
まだまだ半月更新を挑戦してみますが、やはり無理だと思ったときはやめます。
あまり蛇足を挟みたくもないので、本筋のみに狙いを絞って、話を進めていきたいです。
というわけで。
まだまだ暑いときが続きますが。皆さん、体調にお気をつけください。
では。またの更新をお待ちください。




