一章〈呼び名〉前
一章〈呼び名〉
まだ夜が明けたばかりの浜辺。あたり一面には流木や海藻など、大量の海のゴミが流れ着いている。数日前の大雨の影響によるものだった。
一人の少女が砂浜を眺めながら歩いていた。足下に転がるゴミを、時折危なっかしく避けている。彼女の美しい白銀の髪が、海岸を吹き抜けた冷たい風に洗われる。風は海からの飛沫を陸に届けていて、少女は白銀の髪を押さえ、蒼色の瞳を宿す目を細めていた。
ふと、彼女は何かに気づいた顔でその目を見開く。一歩、二歩と見つめる方角へ足を踏み出し、やがてそれは駆け足に変わっていた。
「まさか、うそでしょ……!」
木の板にしがみついた姿勢で、少年が横たわっていた。まだ服や髪が濡れていることから、流れ着いてそれほど経過していないことがわかる。
少年の傍に駈け寄った少女は膝をついて、彼の胸元や口元に耳を近づけた。心音と呼吸を確かめたのだ。少女は、安堵した顔で砂浜に腰を下ろす。良い生地で仕立てられたロングスカートが砂で汚れてしまっても構わなかった。
しかし、すぐさま我に返る。慌てた仕草で服の胸元から笛を取り出す。紐で首に掛けられていたものだ。笛を持つ手の震えが彼女の緊張の表れだった。
大きく吸い込んだ空気すべてを、笛にぶつける勢いで吹いた。ピイィー、と甲高く響きのある音が海岸一帯まで広がる。
「ねえ、あなた! ねえ、聞こえる! 聞こえるなら――っ」
少年の手を握ろうとして息を呑んだ。彼の左腕の袖が不自然に曲がっていた。二の腕あたりのところから、質量を失って萎んでいる。
少年の袖を恐る恐るあげると、左腕は途中からが無かった。切断でもされたのか、傷口はすでに縫合されていて、その跡は無理矢理塞いだことがわかるほど酷いものだが、完全に塞がっていた。
少女は少年の腕の傷跡を見て、あまりの痛々しさに目を背けそうになった。だが、気を取り直し、少年の右手を握り締める。
「私の声が聞こえるなら指を動かしてみて。だめならまばたきでもいいから。何か応えみて」
すると、少年が小さく声を漏らした。彼の瞼が薄く開けられるのを、少女は見逃さなかった。
「聞こえる。聞こえるなら応えて」
「ソフィ、ア……?」
「――ッ」
少年の言葉に、少女の表情が凍りつく。明らかに動揺していた。少女の口が力なく閉じられて、少年に何か言おうと再び口を開きかけたとき。
「どうした! 大丈夫かッ!」
一人の男を先頭に、数人の男女が浜辺に駆けつけた。彼らの服装は平民のそれと違い、少女同様質のいい生地の服を着ている。全力で走ってきたためか、皆一様に息を荒げていて、服装も若干乱れている。
彼らは少女の笛の音を聴いて走ってきたのだ。
「大丈夫か」
先頭、ブロンズ色の髪の男が声を張り上げて、少女の下へ急いだ。彼女の傍で横たわる少年に気づく。
「イサク様。私は大丈夫です。でも、この人が」
「イサク様。ここは私が」
近寄ろうとしたところを、後から追いついた男の一人が止める。イサクに代わって、その男が少年の容体を確かめた。少年は再び気を失っていた。
「衰弱しているだけのようですね。左腕はかなり前に切断されたもののようです。傷口は古く、縫合もいいものではありませんが、完全に塞がっています。右腕にも大きな傷跡が見られますが、こちらも同じですね。すでに塞がっています。……この少年、遭難者の可能性が高いと考えられます。難破船の報告はありませんが、プロピナまで行けば何かわかるかもしれません。このあたりでは一番近く、大きな港町ですから。どうされますか。イサク様」
イサクは顎を撫でて、考える仕草をする。黒い瞳で少年を見つめた。
少年の容体を傍らで心配している少女がイサクを見上げた。
「イサク様……」
「大丈夫だよ。マリア。彼を助けるかどうかを考えていたわけじゃないから。ジューダス」
イサクは優しい笑みでマリアを安心させて、少年を調べていた男を呼ぶ。彼は立ち上がり、イサクの言葉を聞くことに失礼のない姿勢を取った。
「この少年の手当をお願いしたい。可能かな」
「直ちに。マーイヤ、ポルドレフ。至急、手当の準備を。彼を私たちの馬車へ。まずはそこで応急処置を施します」
女と男が短く返答をして、素早く動き出した。女が浜辺から駆け足で離れて、男が少年を背負う。互いに視線を交合わせるだけで行動を察知してからの連携だった。
「では、先に戻ります」
「はい。お願いします」
ポルドレフが走り出した。少年とはいえ人ひとり背負った状態でも、彼はそんなことを感じさせはしない速度で去って行く。鍛え抜かれた身体は、その程度は揺るがなかった。
「イサク様。私たちも参りましょう」
「そうだね。マリア、行こうか」
はい、とマリアは返事してから立ち上がる。声音には力が込められてなかった。
「どうしたんだい? まだ何か他に心配事でもあるのかな」
彼女の細微の変化に気づいて、イサクが声をかける。マリアは答えようとしたが、いえ、と首を振るのみだった。
†
木箱で作られた簡易のベッドで、少年は汚れのない白のシーツに包まれて眠っていた。彼の瞼がゆっくりと開かれ、天幕を見上げる。暫し、呆然とした。呼びかけられることに気がついたのは、その後のことだった。
「ここは……?」
「声が聞こえますか。聞こえるなら瞬きと一度して下さい」
白髭を生やした老人を力の無い目で捉えて、少年は言われたとおり瞬きを一度する。彼に白髭の男の声は聞こえていた。
「目は見えますか。これが何本かわかりますか。一本なら瞬きを一度、二本に見えるならお願いします」
一度瞬かせる。白髭の老人の指は一本だけ立てられていた。
白髭の老人は身体を起こし、傍らで様子を窺っていたイサクに畏まった態度で言った。
「ここまで回復すればもう大丈夫かと思います。驚異的な回復力ですね。さすが若いだけはあります」
「彼との会話は可能かな」
「いえ。単純な受け答えはできますが。しかし、まだ意識が朦朧としているところもあるので、答えも限られてくるかと」
「ありがとう。また後日にしよう。では、このまま治療を続けてくれ」
「はい。承りました」
イサクが天幕から退室する。少年は再び眠りについた。まだ起きていられるほど体力が戻っていなかった。
それからまる一日ほど、少年は眠り続ける。
次に目覚めたときも、彼が最初に目に捉えたのは白髭の老人だった。
「やあ、気分はどうかな」
少年は、顔を覗き込む白髭の老人に言った。
「あんたは、誰だ」
質問に対する答えではなかったが、白髭の老人は特に気分を害した顔をしなかった。柔らかな笑みで頷く。
「そうだね。まずは互いに自己紹介といこうか。私は医者のオルテイ。君の名前は」
「俺は……おれは……? 俺に、名前があるのか」
「名前は、そうだね。おそらく君にもあるだろう。どうしたものか……」
オルテイが考え込んでいると、天幕の出入り口が捲られる。ブロンズ色の髪の男が、白銀の髪の少女を連れてきた。イサクと、少年を見つけたマリアだ。
「おや、目覚めたみたいだね。具合はどうかな」
イサクがオルテイに少年の状態を聞く。オルテイは立つ姿勢を正してから答えた。
「会話ができるところまで回復しました。しかし、少し問題が」
「問題とは?」
「おそらくですが、遭難時の後遺症で記憶の混濁を起こしています。彼が嘘をついていなければですが。自分の名前を覚えていないようなのです。もしかしたら、他にも思い出せないものがあるかもしれません」
「なるほど」
イサクは、仰向けに寝ている少年に視線を移す。少年は話の内容に理解が追いついていないのか、力のない目で見返すだけだった。マリアは少年を心配していることが表情に出てしまっているが、何も言わなかった。事の成り行きを見守っている。
「少年、君は一種の記憶喪失の状態に置かれているようだ。何を忘れ、何を覚えているかは、これからゆっくり知っていくといいだろう。差し当たって、とりあえず君の呼び名を決めようと思う。呼べる名がないというのはとても不便だからね。なんでもいい。思いつく名を言ってみるといい。そこから、君の名を決めるとしよう」
「俺の、名……」
「考え込むことではないさ。思いつく言葉を言ってみるといい」
少年はぼんやりとした表情で言った。その唇が名を紡ぐ。
「――ヤダルバオート」
医者のオルテイは息を呑み、少女も驚きが表情に浮かんだ。ただひとり、イサクだけが眉一つ動かさず、優しい表情のままだった。
「それは神王様の名だね。神王教を信仰している者なら、父でもあり神でもある神王様の名を知っていても何の問題もないだろう。なるほど。君は神王教は知っているわけだね」
「しんおう、きょう」
聞き覚えのある言葉の反応ではなかった。
「そういうわけでもなかったか。失敬。忘れて欲しい。ともあれ、神王様の名をそのまま呼び名にはできない。マリア、何かいい案はないだろうか」
「え、わたしですか」
突然話を振られて、マリアは声を素っ頓狂な声を上げる。
「そうだよ。君がこの少年を見つけたのだから、君も名を決めるのに一役買ってくれないか」
「しかし……。では、ヤバル、というのはどうでしょうか」
「神王様の名を捩ったわけだね。ではそれにしよう。君の呼び名はヤバルだ。いいかな」
「ヤバル、俺はヤバル。ヤバル」
少年は何度も呼び名を繰り返す。覚えようとしていた。マリアは慌ててイサクに言った。
「い、イサク様、しかし名をそんな簡単に決めてしまって良いものでしょうか。もっと慎重になるべきでは」
「ただの呼び名なのだから難しく考える必要なんてないんだよ。記憶が戻ったら改めて本名を呼んであげればいいのだから」
「しかし……」
マリアは尚も食い下がろうとする。少年の声がそれを止めた。
「ヤバルでいい。他にわからないし。名が無いと不便なら、それがいい」
「決まりだね。マリア。彼はその名がいいと言っているよ」
イサクが決定の意思を改めて表明することで、マリアの反論を封じだ。納得しがたい顔のマリアだったが、やがて観念した。
「……わかりました。私もいいと思います」
マリアからの同意も得られて、イサクは満足げに頷いた。
「うん。さて、呼び名が決まったところで、今度は私たちの自己紹介を簡単にしよう。私はイサク・ジズだ。よろしく」
イサクに促されて、マリアが続いた。
「私は、マリア・オルレアン。よろしくね」
「マリアは君の命の恩人でもある。海辺で気を失っているのを彼女が見つけたんだ」
「そう、なのか。ありがとう」
「いいのよ。あのままにすることができなかったんだから」
口ではそう言うマリアだが、頬は少しだけ染まっていた。
「このとおり真面目で可愛い女の子だ」
「イサク様。茶化さないでください」
「私は事実しか言っていないよ。君のその心の美しさはとても尊い」
マリアの顔は真っ赤になって黙り込んでしまった。イサクと医者のオルテイが笑う。温かい雰囲気につられて、イサクの頬も自然と緩んでいた。
「では、最後に君の看病をしてくれた者を紹介しよう。医者のオルテイだ。君がそこまで回復できたのは彼の腕あってこそだ。マリアと同じく命の恩人だよ」
「改めてよろしく。何か少しでも気分が優れないときは遠慮なく言ってくれるといい。適切な対応を約束するよ」
「わかった。そう、するよ……」
返事をする少年改めヤバルの声に力がなくなっていた。医者のオルテイはヤバルの様子の変化を診て、イサクに申し立てる。
「イサク様。そろそろヤバルの体力も限界のようです。彼の身体を鑑みるに、医者としてこれ以上の面会はお薦めできません」
医者の言うとおり、ヤバルの目は今にも閉じられそうだった。目覚めたばかりの彼は、まだ完全に回復していなかったのだ。
「そうだね。今日のところは帰ろう。また明日、来てもいいかな」
イサクは医者の言葉を素直に聞き入れていた。白髭の老人を信頼している表れでもある。
「はい。明日にはまた回復していると診ています」
「マリア、戻ろうか。大丈夫だ。単にまだ体力が戻っていないだけだから」
ヤバルから目を離せないマリアの背中を軽く押す。
マリアは逆らわず、イサクと共に天幕の出入り口へ歩いて行った。
去って行く彼らの背中を、眠りかけているヤバルが見つめている。毛布の中で、マリアへ右手を伸ばそうとしている事実を知る者は、ヤバル以外いない。
唇が小さく動き、擦れた声が漏れた。
「ソフィア……」
その声も、誰にも聞こえていなかった。あるいは本人にすら。
†
ヤバルが保護されて五日目。
ようやく歩けるまでに回復したが、まだ満足に身体を動かせているとはいえない。医務室の天幕の外を歩くヤバルの足取りは弱々しかった。表情も何を考えているわけでもなく呆然としていて、ふと振り返っては、何もない平原を暫し眺めるばかりだった。
外を動ける範囲は決められていて、見張り役のポルドレフが常に監視している。医務室の天幕から十メートルほど離れると注意を受けた。
他にもいくつかの天幕が周辺に建てられている。馬車も数台見受けられ、馬や天幕の数から、どこかへ向かう何からかの団体であることは誰の目に見ても明らかだ。
団体としては中規模程度だが、ポルドレフ以外にも、他の天幕や馬車、荷物などを見張っている者たちや辺りを巡回している者もいて、警護体勢がしっかりしていた。
「俺はどうして、ここに来たんだ」
未だヤバルの記憶は戻らない。
腰についている巾着袋にはハルワタートの硬貨が入っている。
ここはワヒシュタ。つまり、外国の硬貨だ。そこから推測される結論は、ヤバルがハルワタートの人間で、何らかの事故か事件でワヒシュタの浜辺に流れ着いたということだ。この話はオルテイから聞かされている。
しかし、これらの話を聞いても、ヤバルは思い当たる節のある表情を浮かべなかった。
「それもこれも、もうすぐわかると思います」
少し距離を置いたところで常に見張っているオルテイが答える。
ヤバルの体力が回復し、容態が安定次第、港町へ向かう予定だ。輸送船が着く町で、ヤバルの捜索願が出ていないのか調べるのだ。
「そうだといいんだけど」
ヤバルは、外国や硬貨、空や雲など、それら単語を知識としては記憶がある。だから、人との会話を支障なくできていた。
しかし、国の名前や硬貨の種類、自分や人の名となると何も覚えていなかった。これまで人生の記憶も。
オルテイ曰く、ヤバルの現在の精神は非常に不安定な状態に置かれているはずらしく、いつパニックに陥ってもおかしくない。自分がわからないということは、それほど危険なのだ。
早い段階で呼び名を与えたことは、不便だからとイサクの提案から始まったことだが、パニックの症状を緩和する効果が望まれると、オルテイから説明を受けた。
「俺は、ヤバル……」
名を呟くと、ヤバルの表情から気持ち程度だが、不安の色が薄らいでいた。
ふと、あたりからいい匂いが漂ってきた。香辛料の、肉と一緒に焼かれた香ばしい匂いだ。ヤバルの腹が自然となる。
まるで狙ってたかのようなタイミングで、天幕からオルテイが顔を出した。
「ヤバル。昼ご飯にしよう。入ってきなさい」
「はい」
振り返りながら返事をする。
ヤバルはまだ身体の節々にぎこちなさを残す動きで天幕へ向かった。
顔を覗かせると、天幕の内部ではオルテイが釜の火の具合を見ていた。ヤバルの姿を確認し、曲げていた腰を伸ばす。
「テーブルのセッティングをしてくれないか」
ヤバルは文句言わず、木箱を集めてテーブルに見立てた土台にテーブル掛けを広げた。元は医療器具や書類などを広げておくところだが、食事時だけはテーブルに変わる。
「皿はいくつだ」
「ひとり一枚でいいよ。今朝のパンがまだバスケットにあるから、それもテーブルに頼むよ」
別の木箱から食器類を取り出す。二枚の皿と、スプーンとフォークもそれぞれ一本ずつテーブルの上に置いた。
ヤバルの手つきを見ていたオルテイが言った。
「君のその仕草は、時々無いはずの左手を使おうとしているように見える。しかし、右手だけでも極端に不便を感じている様子もない。もしかしたら、義手を着けていたのかもしれないね」
「……わからない。何も思い出せないんだ」
パンが入ったバスケットをテーブルの中央に置いた。布が被せてあったので取っておく。
「時々、何か懐かしさを感じるときがある。空を見ているとき、海を見ているとき、あるいは草原を風が吹き抜けたとき。だけど、結局何を懐かしんだのかわからないんだ」
ヤバルはやや顔を俯かせて、あれはまるで、と言葉は続ける。
「何かを見守っているような、そんな感覚に似ていて……でも、なら、俺はいったい何を」
自分でも整理しようがないものを、ヤバルは言葉にしようとする。オルテイは手元の鍋を見ながら、少年の様子を観察していた。
「やあ。今日は気持ちのいい青空が広がっているね」
ブロンズ色の髪で、肩幅が広くてがっしりとした体格のいい男が、白銀の髪の少女を連れて医療室を訪れた。天幕を捲り、とても爽やかな笑みをヤバルたちに向ける。
「これはイサク様。どうされました」
「一緒に昼食でもどうかと思ってきたんだ。君たちの分も持ってきたんだが、もう少し早く来ればよかったかな」
イサクの目はオルテイの手元に向けられている。
天幕内で暖炉も兼ねている釜の鍋では、干し肉を一度お湯で戻し、赤い実の野菜と香辛料と一緒に煮込んでいるところだった。
「いえ。イサク様たちも一緒にいかがでしょうか。多めに作っておりますので、四人に分ければちょうどいいかと」
「そうしようか。ヤバル、すまないが皿を追加してくれないかな。それとスプーンとフォークも」
イサクとマリアの両手はそれぞれパンを持っていた。
「……わかった」
医師とはいえ、オルテイはたかが平民だ。彼が料理を出し、貴族のイサクがそれを食べるのは二人の親密さの表れでもあった。
ヤバルが新たに出した皿にパンが置かれる。
「オルテイ。椅子に使っていい木箱はあるかな」
「ありますよ。あの端にあるものです」
オルテイが鍋の前から離れようとすると、イサクは止めた。
「ああ、いい。君は料理に集中していてくれ。これくらい自分たちで用意しよう。マリア、手伝ってくれないか」
マリアはこくりと頷いてイサクに着いていった。
貴族のイサクと客人のマリアが、力を合わせて木箱を運ぶ。親子にも見える微笑ましい光景だが、ヤバルは珍妙なものを見る顔をしていた。
今イサクたちがしていることは、普通の貴族なら付き人にでもやらせている作業だ。泥臭さのあることは、まず自分から好んでしない。
貴族の性格の問題もあるが、それは貴族として厳格さと、平民との身分の違いをつける意味合いもあった。だから、尚のこと平民のいる前では貴族としていなければいけないはずだ。
少なくともイサクの知る貴族とはそういうもので、それが常識でもあった。
平民のオルテイとヤバルがいるのだから彼らにやらせるのが、本来の貴族だ。外のポルドレフを呼びつけてもよかったのだ。
「珍しいかね」
そう聞いてきたのはオルテイだった。一生懸命木箱を持ち上げるマリアと、彼女に歩調を合わせているイサクを見ている。
「貴族は、もっと違う人間だと思っていたから」
「それは記憶かな」
「わからない。ただ、そう思うんだ。いや、それだけじゃない。……何故だろう。そうじゃないといけないと、思うところもある」
ヤバル自身、自分の言っている意味を理解していない風の顔だった。あまりいい感情ではないようで、彼の目は暗さが滲んでいた。
「何か思い出せそうかね」
「わからない。ムカついているのだけしか、わからないんだ」
「そうか」
オルテイはそれ以上言及しようとしなかった。鍋のスープを皿に盛っていく。
「ちょっとスペースがないから詰めることになるが、問題ないかね」
「ええ。イサク様。料理を広げるには十分です」
「他に手伝えることはあるかい」
「もう出来上がりましたので。席について待っていて下さい」
「そうかい。では、そうさせてもらうよ」
イサクとマリアは並んで木箱に座る。
「ヤバルも座ったらどうかな。私もすぐに席に着くから」
オルテイに言われて、ヤバルは少し迷ってからイサクの前の木箱に座った。マリアと目が合ったとき、明らかに彼女が避ける態度で目を逸らしたからだった。もう何度か会っているはずなのだが、彼女はなぜかヤバルを避けたがる。直接会話をしたのは、呼び名をつけられたときだけだった。
最後にオルテイが席に着いた。さっそくとヤバルが手を伸ばしかけたところで、周囲の様子に気づいて手を止める。
ヤバル以外の三人が食事前の祈りの準備をしていたのだ。正面のイサクに目で促され、しぶしぶ従う。
右手を上に、左手を下に、棒状の何かを持つ形を作る。右手の親指を額につけ、瞼を閉じて祈りを捧げるのだ。片手しかないヤバルは、右手のみでそれを行う。
イサクが代表して祈りの言葉を述べた。
「神王と、神王が生み出した世界に感謝を」
神王教。この世界を生み出したとされる存在を崇拝する宗教だ。オルテイから、この世界の人のほとんどは神王教を信仰していると聞かされているが、ヤバルはやはり思い出せることはなかった。
ヤバルが神王の名を呟いたのも、神王教を信仰していたからかもしれないと聞かされた。
数拍の間を置いて、イサクたちは瞼を開けた。
「さて、食べようか。マリアはオルテイの料理ははじめてだったね。シェフ顔負けだからきっと気に入ると思うよ」
「恐縮です。今日はうまくできたほうではあると思っています」
「それなら尚更だね。さあ、ヤバルも。私たちの持ってきたパンも食べてくれ」
イサクに薦められるがまま、ヤバルはパンを食べてみた。
堅めの生地のパンにハムと野菜を挟んで、ソースを加えたものだ。いわゆるサンドイッチだ。ヤバルは物自体の知識は知っていた。この手の料理は珍しくもない。
だが、一口食べて、ヤバルの表情が変わる。
一度サンドイッチを離してから、自分の囓った跡を見つめる。パンと、その間に挟んであるものを見つめていた。上質のハムと、瑞々しい葉物野菜、そしてソースが堅めの生地のパンに挟んであった。
二口目に進んでからは、今度は止まらなかった。あっという間に食べ終わる。
その食べっぷりを、イサクは満足そうな顔で見つめていた。
「気に入ってもらえたようで何よりだ」
「……うまかった」
仏頂面ではあるが素直な感想だった。
「うん。持ってきた甲斐があるというものだ。しかし、オルテイ。また一段と腕を上げたね」
「ありがとうございます。今日のテーマは血液です。血や心臓など、それにいいと言われているものをベースに作ってみました」
「ほほう。それは興味深い」
イサクの目つきが変わる。今日一番楽しそうな目をしていた。
それはオルテイも同様だった。
「お聞きになりますかな」
「待て。まずはこちらから素材を当てよう。トマトはわかる。あとは――……」
イサクの料理の分析が始まる。
オルテイも正解と間違いを答え、次に使われた食材から、その効能の解説に入る。オルテイは食と健康の繋がりも研究していた。つまり、食事は彼にとっては医学の実験でもあった。
イサクもオルテイの話に興味津々で、自らの知識を持って時には反論さえしている。とても楽しそうで、完全に二人だけで盛り上がってしまっていた。
ヤバルとマリアは半ば蚊帳の外だ。時折、あぶれ者同士で二人の目が合うのだが、やはりマリアから逸らすのだった。その度にヤバルの表情の不機嫌度数が上がっていた。
「ヤバルは、記憶のほうはどうかな」
いきなりイサクから話を振られて、ヤバルは食事の手を止めた。
「まだ、何も。何か思い出せそうではあると思うんだけど」
「そうか。あと二日ほどで私たちはここを発つ。しかし、君をこのまま放って置くわけにもいかないんだ。だから、近くの港町まで連れて行こうと思っている。そこで君の捜索願が出ていないか調べるつもりだ。暫く施設に預けることになってしまうと思うが、いいかね」
ヤバルは一度イサクから視線を外した。暫し黙り込んでから、意思のある目を向ける。
「拒否権はあるのか」
「残念ながら無いね。これは私たちの立場もあるんだ。理解して欲しい」
すっぱりと言われてしまった。しかも笑顔で。隠し事のない綺麗すぎる断言だ。
ヤバルは驚いて目を丸くしていたが、すぐに落ち着きを取り戻す。嘆息してから言った。
「まあ、妥当だろう。身元不明の、しかも外国の奴をうろつかせるわけにはいかないもんな。下手をせずとも密入国扱いで犯罪者だからな」
「できるだけ良く取り扱ってくれるよう働きかけてみるよ」
「ああ、頼むよ」
「もう少し食いつくものかと思ったが。不満はないのかい」
そう言ったのはオルテイだ。反論を許されない立場にいるヤバルへの助け船だった。
食事を再開していたヤバルは、むっと眉を寄せる。口の中の物をゆっくり飲み込んでから答えた。
「あるに決まっているだろ。記憶がない状態でただ逃げ出すことは無謀だから、町まで大人しく連れて行かれるだけだ。施設まで行ったら後は自由にしていいんだろ」
ヤバルはもはや自分の振る舞いを作ることをやめた。逃げるときは逃げるぞと言ったのだ。
食事も格好つけず、がつがつと荒い食べ方をする。音を立てようが、スープがテーブルに飛び散ろうがお構いなしだ。
しかし、イサクはヤバルの開き直った態度を気に入ったらしく、愉快そうに笑ってみせた。
「はははっ。今の君のほうが実に君らしく見えるよ。ちょっとは君が見えてきた。いいよ。好きにしたらいい。―――ただし、その場合、次はこちらも一応敵として見るからね。気をつけるんだよ」
ヤバルの表情が、一瞬だが硬直した。
「……覚えておくよ」
イサクの笑みの裏に隠された脅威を感じ取ったのだ。
二人は残りの料理を食べ始める。ヤバルはもういつもの表情だった。イサクはご機嫌な笑顔のままでサンドイッチを頬張っている。
オルテイは二人の空気にさほど気にしていなかったが、マリアはとりあえず衝突がなかったことにほっとしているのが表情に出ていた。
とりあえず。読みやすいように分割しておきます。
改編の機会はまた今度。




