八章〈捕まった対価〉後
ヤバル (本名:サクラス・ザラスシュトラ)
マリア・オルレアン (滅びの魔女と恐れられている)
イサク・ジズ(貴族・国衛軍第十部隊・中佐)
ジューダス・ガリラヤ(貴族・国衛軍第六部隊・中尉)
ポルドレフ・ガーディン(ジューダスの部下・国衛軍第六部隊・軍曹)
マーイヤ・レイア(ジューダスの部下・国衛軍第六部隊・伍長)
モート・ギリティナ伯爵(貴族・港町プロピナの領主)
アーロン・クイール・シルヴィア(国衛軍百十三番隊国衛軍安全調律部隊第十分部隊副分部隊長・伍長)
レミエ・ラグドロビン(国衛軍百十三番隊国衛軍安全調律部隊第十分部隊・兵長)
登場人物が多くなってきましたね。
混乱をさけるために設定を作ったほうがいいのかな。
とりあえず。様子見で。
ヤバルの握り絞めたペンが折れる。握力に耐えきれなかったのだ。
彼自身も耐えきれず吠えた。
「おい! こんなもの全部なんて無理だぞ」
「誰がそれで全部だと言った。三分の一だ。あとの教材はレミエに取りに行かせている」
おそらくは食事のために使っていたと推測できる広い部屋。大きく長いテーブルには燭台型のランプが置いてあり、室内にぼんやりとした明かりをもたらしている。
人が三十人は向かい合って会食ができそうなほど大きなテーブルで、ヤバルはぽつんと一人だけ座って目の前の何重にも積まれた教材に苦しめられていた。
アーロンとの間で協力関係が結ばれてから一週間が過ぎていた。
最初の三日間は、アーロンとレミエの二人でヤバルを指導および監視にあたっていた。それ以降からあとふたり人数が増えた。ヤバルのような潜入候補ではない。当然ヤバルを監視し、指導に当たるほうだった。
同じ部隊の部下、とアーロンから簡単な紹介をされた。
ややぽっちゃりの体格で身長はヤバルと同じくらいの男性、ヒスイ・ルサールカ。
小柄で栗毛の女性、マイカ・カスヴァズ。
この二人のどちらかが必ずアーロンの館に常駐して、他アーロンは二日、レミエは三日に一度の割合でヤバルの指導に当たった。
そして今日はアーロンがヤバルの指導役だ。監視役も兼ねていたヒスイは買い出しに出かけている。
ヤバルはトイレと就寝以外ひとりになることがほぼなかった。
まず最初に文字を習わされた。四日過ぎたあたりから、たどたどしく簡単な文章は読めるまでになっていった。そんなヤバルに毎日夕方渡されるのが新聞なるものだった。
勉学もそうだが、一般常識や世間の情勢も学ばなければならないと、アーロンの提案でヤバルに読む事を薦められた。文章に触れる機会が増えれば自然と上達も早くなると、考えられてもいた。教育に比べて強制力は弱かったが、この段階でわかることが増えていたヤバルはとりあえず解読に勤しんでみた。
そこからヤバルは、この国の情勢を少しずつだが知るようになっていく。彼には自身の置かれている立場を、アーロンの言葉が真実かどうかを計る手段がなかった。知り得られるものは少しでも手元に集めて置きたいという考えがあった。
当然ヤバル個人に当たる情報はどこにもなく、捜索の『そ』の字すら載っていなかった。だが、未だイサクの事件が尾を引いているのは数日で察する。そして、それがどれほどの影響を与え、どれほど広がっていったのか理解するようになっていった。
そうしてヤバルは、自身の『もし』の立場をより明確に描けるようになった。
新聞はヤバルに隙あらば逃げる手を、何の策もないままでは悪手でしかないこと知らせていた。
しかし、これはアーロンの策略かもしれない。見えない杭を打ち込むために偏った情報を与えたことも考えられた。それでも庇護も後ろ盾もない状態では、今の状況から逃れる術がないことをヤバルはわかって受け入れた。
いくら偏っていたとしても、新聞に載っている情報の一定の事実性は無視できないものがあったからだ。
プロピナの検問規定の改定や貿易の制限など、これらの情勢を知っていくのはさらに後のことになるが、ヤバルはまだ逃げるときではないと推測し、その考えが正しかったのを知っていくことになる。
だから、ヤバルは一週間が過ぎた今は勉学に励み、アーロンが提示した条件の達成を目指していた。
とはいえ、文句ひとつ言わず黙々やれるはずもなく、度重なる苦行に耐えかねていた。数日分の溜まりに溜まった鬱憤を吐き出したのだ。
無理だとヤバルの吠えた先。こんなにも広い空間でテーブルの席にすら着かず、隅の角に腰を落ち着けていたアーロンは気だるげな視線をヤバルに向けていた。
「騒ぐ暇があるなら手と頭をフル回転させろ。お前に必要なのは継続と吸収だ」
「わかってんだよ。だからやってんだろクソが! おい。この半分に減らせねえのか。俺が覚えるのは必要なことだけでいいだろ」
「ならぜんぶだ。すべては学園に入るためだ。そして、潜入調査を続行できる最低条件を満たさせるためだ」
「俺は生まれてこのかた学校なんてところ行ったことがねえんだよ。そうだよ。あんた、腐っても貴族だろ。貴族様なりの方法を使えば俺がこんな苦労する必要なんてないだろ」
「裏口入学は使えん。口添えはさせて貰うがそれ以上は無理だ。今後の行動に差し支える」
「クソが……」
通常は人が数年掛けて学んでいく事を、ヤバルは数分か数時間の早さで身に付けなければならなかった。一から順番に学んでいくのは今さら無理がある。
一を教えられ、五を学んで、十を解く。残りの九までの手順をすべて自身で気づかせて吸収させる。無理矢理でしかない方法で学ばされた。しかも学問だけではない。テーブルや日常での作法なども、予め決められた日程通りにやらされていた。
「こんなこと続けてたらあと三週間で全部なんて絶対に無理だぞ」
「そのことだが。予定変更だ。少々手続きに手こずってな。あと一ヶ月延長だ。あと一ヶ月と三週間でぜんぶ覚えてもらう」
「一ヶ月増えたところで変わんねえよ。これだけじゃねえんだぞ。作法も何もかも全部は無理だって言ってるんだ!」
「無理の場合はお前を切り捨てるしかない。やめるか?」
「チッ。わかんねえところがある。教えろ!」
「代えのペンを持ってくる。それまで休憩していろ。ついでに血が上りきった頭を冷やしていろ。何本も無駄にペンを折られても困る」
「貴族様がケチケチうっせえなあ」
吐いた言葉はアーロンに届いていない。彼はすでに部屋を出ていた。
ヤバルは一人になったところで、数時間ぶりの休憩を手に入れることができた安堵を噛み締めた。椅子に背を預ける。
ぼうっとしていると、アーロンが出て行った扉とは別の扉が開けられる。
「あれ? アーロンさんは」
レミエ・ラグドロビンだった。長身の女性は両腕で数十冊の本を抱えていた。きょとんとヤバルに視線をやる。
「代えのペンを取りに行ったところだ」
「またなの。ヤバル君、物は大事にしなさいよ」
「金のある奴が貧乏人の言葉を吐くなよイラつく」
「お金が有るも無いも物を大事するしないの理由にはならないわ。アーロンさん外しているのか。せっかく手伝って貰おうと思ったのに」
よいしょっ、とレミエはヤバルの近くに持ってきた本をどさどさ置いた。ぜんぶ新たな教材だった。心底嫌な顔でそれらを見やるヤバルに笑顔で言う。
「まだあるからね。これの五倍くらい」
「……何が三分の一だよ。ぜんぜんじゃねえか」
ざっとアーロンの言ったその二倍以上は教材が積まれていく。いつかテーブルの板が抜けるのではと、不安な顔になるヤバルだった。
まだレミエが教材を部屋に運んでいる最中、アーロンが戻ってきた。
「ほら。今度は絶対に折るなよ」
「知るか」
ヤバルはわざとペンを折っているわけではない。ただ、イライラが重積した結果、右手に力が込められすぎて折ってしまうのだ。
「で、どこがわからないんだ」
アーロンがヤバルの後から解いている途中の問題集を覗き込む。
なんだかんだと、理由があるにしろヤバルは言われたことを熟そうと懸命にやり、アーロンはちゃんと付き合っていた。後でヒスイも買い出しから戻ってヤバルの指導に加わる。礼儀作法で、レミエも巻き込んで共にアーロンとヒスイからみっちり指導されることになるが、ヤバルの飲み込みの早さで大人のレミエが少しだけ恥をかくのは、今まで教育で散々いじめ抜かれてきたヤバルには一時の楽しい時間になっていた。
勉強期間と審査期間を合わせた三ヶ月後。ヤバルは無事編入する。
―――スラオシャ大神殿区域内、ダカーハージー学園。
鉄紺色の生地に白のラインが走る制服。一年生の赤のネクタイをきっちり締めて、ヤバルは教員に教室まで案内される。
一年D組。ヤバルがこれから学んでいく教室だ。
教員に着いて、教室に入る。すでに朝礼のために待機していた三十二名が、興味や品定めするような視線を新たなクラスメイトに向けた。
「えー。正確には昨日付だが、ダカーハージ学園に編入することになった。サイ・セセラギ・シルヴィアだ」
「サイ・セセラギ・シルヴィアです。よろしくお願いします」
教育で身体に覚え込まされた立ち姿勢。制服も乱れなく着こなしている。金髪も整えられていて、元の毛並みがいいことから上品なイメージを見る者に与えた。
偽名ヤバルは、潜入中偽名のサイ・セセラギ・シルヴィアに名を変えて、スラオシャ大神殿区域内のダカーハージ学園に編入した。アーロンの親族ということになっていて、性を借りることになった。
自らの名も年齢も、生まれも偽って。
生徒の視線の中には奇異のものも混じっている。彼らの視線はヤバルの存在しない片腕に注がれていた。ヤバルは学園内ではアイオーンを出すわけにはいかなかった。左腕一本のない編入生は、ただでさえ注目されるのをさらに輪をかけてしまっていた。
それでもヤバルは落ち着いた雰囲気を纏う。彼らの視線を気にも留めず。
すべて縁起だ。自信の見せることで今まで歩いてきた人生を、見る者に勝手に想像させていた。これからここで生き抜くため、自身の立場を確立させるための戦いはすでに始まっているのだ。
とても、平民の、しかも取り分け低い身分だったとは思わせない、爽やかで柔らかな笑みを見事作ってみせていた。
†
ヤバルが編入合格後、学園内の簡単な案内をされるとき最初に申し出たのは、スラオシャ大神殿内で唯一一般開放されている区域を訪れることだった。保護者同伴であるため、案内役の教員を着いていくヤバルの後にはアーロン・クイール・シルヴィアの姿があった。
トレードマークのトレンチコートはなく、皺のない軍服をしっかり着込んで、髪も整えて髭もちゃんと剃ってある、きちんとしたアーロンの姿は、ヤバルにはどこかおかしく見えて少しだけ笑ってしまった。
ふと、廊下を行くヤバルの視線が泳いだ先で、神殿の窓の外では畑仕事用の道具を両手に持って歩く男性、ヒスイの姿があった。
ヒスイ・ルサールカ。お腹の出た体系を作業着で包み込んで麦わら帽子をかぶっている姿は妙に様になっている。彼は数日前から潜入捜査で神殿内に潜り込んでいた。
ヒスイはヤバルを一瞥すらせずどこかへ歩いて行った。その反応はこれまでの様子を知っているヤバルからしてみれば、ヒスイは気づいているのをわかるものだった。
二人の潜入捜査員がいるのをヤバルは予め聞かされている。栗毛の小柄な女性、マイカ・カスヴァズもスラオシャ大神殿内のどこかにいた。彼らは別の任務で潜っているが、ヤバルとも協力関係にあった。状況次第では助力してくれることになっている。
まず最初にヤバルが実行すべきは、学園の生徒として完璧に馴染んでみせることだった。入学したらしばらくは余裕のなさから大礼拝堂を訪れることができても、ゆっくりできないかもしれなかった。
だから、ヤバルは確実に時間が作れて、ゆっくりとできるこの機会を逃すわけにはいかなかった。
ヤバルが潜入捜査の協力は、身の安全が最優先だが、もう一つの理由もあった。
大礼拝堂は本日も例外なく一般公開されていた。毎日礼拝者が訪れるため、閉めない限りは人がいなくなることはない。なので、礼拝のピーク時間を敢えてずらしてからの案内になっても、ヤバルたちが大礼拝堂を訪れたときは、礼拝者が十数人いた。
皆静かで、椅子や台座の前で両手を組んで静かに祈っている。身分は様々で、恰好から商人や貴族もいて、薄汚れた平民も、等しく同じ空間で同じものを崇拝していた。この一時の、この空間だけは、人の作った身分は礼拝者の誰にも見えていなかった。
「祈りますか」
声を顰めて案内役の教員がヤバルに声をかける。
真っ白で壮大に造られた祈りのための空間は、同じ白の柱が遙か高くある天井まであり、天界への道を思わせる。柱や壁の隅々には神王の物語の一部を形取って、金や銀が細やかに使われた装飾が丁寧に施されている。すべて順序に合わせて視線を巡らせれば、神王の物語が完成すると言われている。
この大礼拝堂が、神王の意思の中そのものであるのを、制作者は礼拝者に伝えていた。
神王教の熱心な信仰者でなくても一度は目を奪われるであろう神聖で清浄の空間は、ヤバルも例外にあらず見とれていた。
教員に声をかけられてから、初めて時間を忘れて硬直に近い状態で大礼拝堂を見つめていたことに気づかされる。
ヤバルはそもそも目的を果たすため、大礼拝堂への感動を断ち切った。いつまでもここで足を止めていい理由にはならなかった。
「いえ。絵は、どこにありますか」
「こちらですよ」
大礼拝堂の西側。天井の手入れなどのために登る階段への通路がある。階段は鉄格子で塞がれていて、一般人は先に行けないようになっている。天界を表す装飾や壁画の手入れのため、作業員や限られた人員が行けた。
普段は遠目からでしか確認できない飾りなどを間近で見られることができる、いわば神殿の裏の場は信徒から見れば是非一度は拝みたいところではあった。
しかし、ヤバルの目的は今回そちらにない。
窓のない通路。大礼拝堂の窓からの光が白い壁に反射されることのみで明るく照らし出されている。ただの白い壁に絵画が飾られていた。
いくつもの反射で柔らかくなった光が、訪れた人に温かみを与えながらも通路全体をふわりと包み込む。すべて計算された光の空間で、美しい額縁を添えられた絵画が壁に飾られていた。それはまるで、天界から地上を見下ろす神王の視点のようだった。
絵画は六つ。すべてスラオシャ大神殿の神官たちが選んだ作品だ。画家や絵画の持ち主の寄付から厳選されている。
全世界から教徒が訪れる神王教の総本山で、教皇のお膝元。ここに飾られることは、画家も寄付した者も何ものにも代えがたい栄誉だ。
毎年数ある寄付を願い出た絵の中から選ばれたものだけが飾られる。数は常に六つを決まっていて、新しい絵が飾られるときはその中から一つ持ち主に返されるか、保管もしくは別の神殿か教会に移転される。
一年しか飾られない絵画はざらだった。そんな激戦の中で、たった一つ、ここ数年残り続けている絵画がある。
〝朝焼けの夜〟。
エイディが一目見ることを夢見ていた作品だ。そして、ヤバルがスラオシャ大神殿を目指した最初の目的でもあった。
教員に大神殿や絵画の説明を聞かされながら、ゆっくり歩き着いたところでヤバルは立ち尽くす。
「ようやく見れたぜ。エイディ」
亡き友人に囁く。声は誰にも拾われるように顰めてあった。
語りたいことのある感動を、すでに伝えるべき相手のいない寂しさもすべて押し隠して、ヤバルは絵画の前に立ち尽くした。
数ある中で、この作品だけはなるほど神秘性が強く、一際存在感があった。
それはこの白い空間に添えられてこそ際立つもののように見えて、まるでスラオシャ大神殿に飾られるために描かれたかのようだった。
「ちくしょう。すげえじゃねえか……」
抑えきれない感動が溢れていた。言葉遣いも忘れている。
モナリザ作〝朝焼けの夜〟。エデンの園を描いたものとされている。
一点の光から赤や薄い水色が滲み、真っ暗な世界を蒼く染めている。全体的に蒼が多く静かで冷えたイメージに、赤い滲みが温かみを添えていた。日の沈む夕暮れの終わりにはない、何かこれからはじまる予感をさせる印象があった。
「素晴らしいでしょう。一日か、運命か人生か、はたまた世界か。人が何かの岐路に立ったとき、果てなく続く未来を見つめたときの、世界が開かれた瞬間のようで。私は悩みを抱えたときここにきて、原点を見つめ直します」
さらにモナリザという人物の解説など教員が絵画の解説をはじめるが、ヤバルは聞こえていなかった。
ただただ絵画に見惚れてしまっていた。
「……」
―――違う。いつしか目から感動の色が消え失せ、無表情で絵画を、見開いた目で射貫かんばかりに凝視していた。じりじりと顔が絵画に寄っていく。
絵も見ていない。
空虚な瞳はどこでもないどこかに囚われていた。
「……」
「おい!」
アーロンが異変に気づいて素早くヤバルを腕で止める。ヤバルは、はっとして気がついた。
「なんだ。俺、いったい……」
「どうした。何かあったのか」
「いや。すみません。この絵は、本当に〝始まり〟を描いたのでしょうか」
「え。あ、そ、それはどういう……」
ヤバルの変調に困惑するしかなかった教員が質問されて混乱する。
「この絵は素晴らしいです。感動で言葉を失うほどだ。しかし、僕には、この絵が〝始まり〟というよりは〝終わり〟に見えたのです。何かの抽象的な終わりというのではなく、たぶん、空が、大地が、世界が事切れる瞬間を描いたように見えたのです。モナリザは本当にこの絵に〝朝焼けの夜〟と名付けたのでしょうか。本当に、これはエデンを描いたものなのでしょうか」
「あ、ああ。それはこれから話そうとしたところでして。モナリザという作者は、この絵の完成後、失踪して遺体で発見されました。彼の家にはこの絵画一枚が残されていて、遺言らしき一枚の紙に〝朝焼けの夜〟と書き記されていたそうです。エデンの園であると解釈されたのには数年の歴史がありまして、まるですべてがはじまるような儚さと希望、不安がある光景の神秘性は、聖書の、エデンの園の夜明けに似ていると」
「聖書の……。そうですか。ありがとうございました。そういえばここから寮は近いのでしょうか。どのようなところなのか見ておきたいのですが」
「ちょっと遠回りしないと行けないですが。絵画はもういいのですか」
少しヤバルを怖がっているのが教員の表情の端々に見えていた。彼の視線がちらちらとヤバルの左腕にいく。欠損という異形と、先ほどの変貌とを何かの理由で繋げようとしているのはヤバルでもわかるほどだった。
彼らのような人間は少なからずいる。大多数の、いわゆる常人と違うところが見えてしまうと、それを異常と見なして必要以上に気にして、距離を置きたがるのだ。まるで伝染病のような扱いをする。
しかし、ヤバルは教員の視線に気づいた様子を欠片もみせず、にこりと爽やかに笑ってみせる。
「はい。満足しました。すみません。あまりの素晴らしさに興奮しすぎていたみたいです。もう大丈夫ですので、寮への案内をぜひお願いします。アーロンさん、いいですよね」
「いいぞ。あとで送る荷物も厳選しないといけないからな。困らせてしまうことになってしまって申し訳ない。この子もこうして落ち着いたことですし、案内して下さい」
「わかりました。体調を崩されたのかと心配になりました」
「昔から変な奴なんですよ。ははは」
アーロンは戯けてみせたが、まだ困惑の残る教員はぎこちなく笑ってみせるのみだった。
「ええと。では。こちらです」
教員は寮への案内をはじめた。ヤバルの後を歩くアーロンが、教員の背中を窺いながらそっと聞く。
「お前、本当に大丈夫なのか」
「問題ねえよ」
声はぶっきらぼうだが表情だけは爽やかだった。
そのヤバルの耳には、彼にだけしか聞こえない音があった。
―――カチ、カチ、カチ。
何かを積み上げる音が単調に続く。音の先で、ただひとり蹲るように小さくなって、ずっと何かを積み上げ続けている老人の背中があった。薄汚れた布切れの服から、干上がって嗄れた腕が伸びて動いていた。
自称職人を名乗る存在だ。
「お前は覚えているか。すべてが終わる瞬間だ。空の一点が煌めき、刹那のあと世界のすべてが破壊に飲み込まれる。あの瞬間は、我の目に焼き付いている。今も、忘れられない。あの神の使い、ソフィアが落とした神の鉄槌だ。我が子らを閉じ込めた箱庭ごと焼き払った天の一撃だ」
―――カチ、カチ、カチ。
ヤバルは聞こえる音も声もすべて無視をする。歩き続ける。だというのに、なぜか老人との距離は離れていない。音も遠ざからない。
「あの者が世界に残った爪痕を覚えているのかは知らないが、望みだけなら読み取れるだろう。あの者は安寧の眠りを望んで、すべてを消し去るのを望んでいる。己以外の何かに払われて、消えてしまいたいと叫んでいる。あれの光に払われようとしている暗闇こそ作者自身だ。もしくはそれの過去だ。自身のありようを哀れに思い陶酔している。自己完結の一瞬がアレの正体よ。故に光は、その世界を描き上げた作者をも飲み込む神秘性が必要になった。神のごとく神を消し去れるほどの奇跡だ。あそこがエデンの園と思われるようになったのも頷ける。もしくは、本当に作者はエデンでの記憶の欠片を持っていて、意識的か無意識かで描き上げたのかもしれん。どちらにしても、なるほど美しさは誕生の一瞬に見えて、始まりを思わせる。どちらに見えたのかは、鏡の映りようと言ったところだろう。―――ところで、お前はどっちに見えていた?」
「うるさいと言っているだろクソジジイ」
「何をさっきからぶつぶつ言っているんだ。本当に大丈夫なのか」
「問題ねえっつってんだろ」
アーロンの心配を冷たくあしらった。
ただ前だけを見ていく。少しでも早く、自称〝職人〟の老人を振り払いたかった。
「ここは神殿だろ。さっさと無念晴して消え去れよ」
「あれに意味は無い。あれに意味を与えるのは見た者の心のみ。我の心はこの一握り。ゆえにあれの意味を与えることはできない。この、烈火に燃ゆる一欠片のみ……」
ヤバルにも理解することができない言葉を残して、職人は音もなく消え去る。
「なんなんだよ……」
呟きが聞こえたようで、後のアーロンが何か言いたそうな視線を向けている。ヤバルは振り返らずともわかるアーロンの反応にうんざりして、誰にも聞こえない小さな音で舌打ちを溢した。
†
クラス担任の教員に指定されて、予め用意された空席に着いた。
朝礼は点呼からはじまり、クラスメイト全員が揃っているのを確認される。
ヤバルの初日の掴みは上々だった。可も無く不可も無く。珍しい編入生の立場でありながら、しかも左腕欠損というハンデを背負った身の上を盾にもせず、特別目立った非常識な態度を取る事はなかった。積極的なアプローチはしていない。物珍しさから近寄ってくる生徒を嫌がらず、好感を持てるよう接していったのだ。
生徒たちの他愛のない話にもついていけている。二ヶ月の猛特訓が生かされていた。腕の質問もされるが、慣れたものだ。親の仕事で昔怪我をしたということになっている。父親に切断
されたとは話していない。
同情を誘うまでもなく、彼らからしてみれば左腕の欠損は同情を買うのに十分な素材になっていた。ヤバルが望む形にしろ望まない形にしろ、生徒たちはヤバルを優しく迎え入れた。
自身が優位に立つ立場だと勘違いした目線で、ヤバルという弱者を可哀想だと勝手に哀れんでいる。
ヤバルはただただ文句もいわず、彼らのその上から相手を見下ろす視線に甘えた。利用しない手はなかったからだ。
ヤバルにはこの学園でやらなければならないことがあった。アーロンから任務を言い渡されていた。
このスラオシャ大神殿区域内の、ダカーハージ学園は当然度合いや宗派の違いがあっても、すべての生徒が神王教を信仰している。
その学園での密かに浸透しているかもしれない救済教の調査だ。神王教とは対立関係にある宗教で、世界の滅びを是として、神王ヤダルバオートに敵対する滅びの女王ソフィアを崇めている。
救済教がいったい何人の規模で誰が関わっているのか調べなければならなかった。
そして、その後ろの存在だ。
政界の人間が関わっている可能性があるという。そのひとりが、ガルラ・ヒンノム・ティンヤン。イサク・ジズに次ぐ、次代の教皇候補だった。
自身の命を賭けられた任務だ。
ヤバルは慎重にダカーハージ学園自体の観察に徹した。最初の数日は全体把握に努めた。
初めましての方は、初めまして。
お久しぶりの方は、一ヶ月ぶりですね。
今月はいつもより少しだけ早く更新できました。これも感想を書いてくださったり、ブックマークを登録してくださったり、読んでくださる読者様の方々がいるおかげです。
時々アクセス数とかを確認しております。読んでくれているかどうか、ついつい確認したくなりますので。モチベーション、大事ですね。言い訳ですけど。
大事なことは、いかにどうやって自分を切り替えるか、でしょうから。持論です。
さてさて。まだまだ話は長くなります。
いよいよ学園編突入です。実のところ、本来は、「王の腕」はこのあたりからはじめる予定でした。しかし、あまりに設定が大きすぎて扱いきれず、しかもまだ私自身世界観を掴めていないところもあったので、ワヒシュタに渡ってくるところからはじめるしかない、という結論になったのです。
これをいかに面白く、かつ読者に簡潔に伝えられるかが腕の見せ所なのでしょう。当時、とういか今もですけど、私にはまだ伝えきれるだけの技術がありませんでした。
この「王の腕」が終わったとき、もしくは少し余裕ができたとき、次作はもっとわかりやすい展開ができるようになろうと思います。そのためにも、日々精進です。
さて。ではこのあたりで。
またの更新をお待ちください。
追記:テュルソスって誰よ。いやまあプロトタイプみたいな。ええ。そんな名の人がちらりと出てきていたので、ヒスイに置き換えました。
話もヒスイが買い出しに出ていたので、戻ってきた人物は彼です。失礼しました。




