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王の腕  作者: 白風水雪
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六章〈望まれた光〉後

◆主な登場人物◆

ヤバル (本名:サクラス・ザラスシュトラ)

マリア・オルレアン (滅びの魔女と恐れられている)

イサク・ジズ(貴族・国衛軍第十部隊・中佐)

ジューダス・ガリラヤ(貴族・国衛軍第六部隊・中尉)

ポルドレフ・ガーディン(ジューダスの部下・国衛軍第六部隊・軍曹)

マーイヤ・レイア(ジューダスの部下・国衛軍第六部隊・伍長)

モート・ギリティナ伯爵(貴族・港町プロピナの領主)

 永世中立国ワヒシュタ。神王教の聖地であり、本拠地のあるスラオシャ大神殿のある国で、唯一外に開かれた玄関の港町プロピナ。モート・ギリティナ伯爵の治める領土で起きた争乱は、国史に残る大事件となった。

 神王教と対立し、ほとんどの各国から信仰すること自体を大罪としている救済教。神王教の神を真の神から世界を奪い取った偽物と談じて、世界の滅びを是とし、それこそがこの世界の真なる救いと説き、その先にこそ真の救済の神が現われると謳う宗教の信徒たちが起こしたものなのだ。

 事件の規模の大きさもあるが、その首謀者が大事件と語られる大きな原因になっていた。

 第十部隊隊長イサク・ジズ中佐が救済教を信仰し、滅びの魔女と恐れられるマリア・オルレアンを外界へ連れ出そうとしたという事実が、ワヒシュタ国内に衝撃を与えていた。

 イサク・ジズ。

 ジズ家は代々、神王教の本拠スラオシャ大神殿に遣えた神官の一族だ。彼ら一族は軍人としての経歴もさることながら度々神王教を代表する教皇にも選ばれている。

 教皇ディオニュシオス・アレオパゴス。この名は教皇と共に受け継がれる称号で、神学や科学の面で多大なる発見と発明をした、学者の英雄の名だ。

 それを引き継ぐ現在の教皇。本名はメルキセデク・ジズ。

 ジズ家旧領主であり、イサク・ジズとは祖父の関係にあった。

 民間人からしれみれば神に等しい存在の教皇の身内が、しかも直系血筋の孫が、それと対立する異教を信仰していたどころか、国交の重大拠点のプロピナを一時機能できなくなるほどまでの争乱を起こしていた事実は、衝撃どころ済まされなかった。

 イサク・ジズの大罪人として捕えられた事実と彼が起こした事件は、国民に不安と恐怖、現在の教皇への不信感を与える重大事件になった。影響は国内だけに留まらず、国外からも事実の確認と追及は免れなかった。

 国政にも大きな打撃を与えるに留まらず、神王教全体をも震撼させた。

 教皇としての絶対神話すら揺らぎかねない事件は、早急に解決が望まれた。

 国内から主にジズ家の領土の民や、イサクと関わりのある軍人たちからだが、無実や冤罪の訴えの声もあった。何かの間違いだ、と。

 イサク・ジズは、その性格や人柄から貴族からは変わり者と評されているが、それでも慕う者も多く、人望もあった。彼を無実と訴える声があってもおかしいことではなかった。

 しかし、プロピナの領主モート卿ならびプロピナ兵士たちだけでなく、イサクとプロピナまで同伴していた商人や貴族たちからも取った供述から、イサク・ジズが今回のプロピナ内で起きた争乱の首謀者で間違いないと、断定された。

 これらの証言には、ジューダス・ガリラヤも名を連ねている。

 ワヒシュタの首都ユーピテル。

 大罪人として捕えられて送られてきたイサクは、僅か二週間にも満たない特例ともいえる早さで裁判が開かれて、判決が下された。集められた証言と調書を元に、最高裁判官が出したのは死刑という判決だった。

 ワヒシュタの歴史にも名を残す貴族で、教皇の親族でもある者を死刑にするのは異例ともいえる決断だった。しかも、死刑でもスパイや内乱首謀者に下される、ギロチンによる首撥ねだ。

 主に国外向けの意味合いが強いものが選ばれた。

 当然国内から反発の声が、民間に留まらず貴族からも上がった。それはイサクを守るためだけでなく、今後の、裁判の権威の有り様を問うものだったのだが、しかしそれらは撥ね除けられ、死刑は判決の三日後に決行。

 これも異例の早さで、教皇の親族イサク・ジズの首は、ユーピテルの地に転がり、聖地を血で汚した。

 それから二ヶ月後。

 港町プロピナの争乱からおよそ五ヶ月半。

 ヤバルは、ジューダス・ガリラヤが住まう館にいた。ガリラヤ家の領土。ゲネローススと呼ばれるワヒシュタ北東地方のアールツトにいた。

 緩やかな勾配の続く山々に囲まれた盆地にある町だ。国内で三番目の高さを誇るタシチュルヌ山を後ろに控えた盆地は、古くから水に恵まれ、土地独特の気候から希少価値の高い薬草や固有の生物などがいた。

 ここに根を下ろした人々は、それら稀少なものを貴重として古くから大事に扱ってきた。生活の必要性から、それら希少性のあるものを薬や珍味、アクセサリーなどに加工して流通させることで、金銭を獲得しつつ、外界との交流をしてきた。

 盆地であるため、流通がなければ半ば陸の孤島と化してしまう。人々は必然性に迫られた結果故だったのだが、そうしていくことでアールツトという町は、薬や珍味、珍種のある町としての立場を確立できたのだ。

 盆地の土地性に飲まれず、むしろ土地の特性を生かして今日まで発展を続けてきた町は、田舎町と揶揄されることも少なからずあるものの、それでも古くからの威厳を首都ユーピテルまでも届かせていた。

 ヤバルはガリラヤ家の館の敷地内で、暖かな日差しに目を細めた。行く宛てもなく散策して、ちょうど良さそうな木を見つけたら根元に腰を下ろした。

 あまりに居心地が良すぎて、ここ数日の定位置になっていた。木からは鳥の鳴き声が聞こえる。二種類の声が応答するように交互に鳴っているところから、雄と雌の求愛行動のようだ。


「平穏すぎておかしくなっちまいそうだ」


 ぼやいて見上げた空は青空。雲が流れていた。

 彼の首で首輪が鈍く光る。アイオーンの具現化を妨げる、滅びの欠片と呼ばれる材料を混ぜて精製された金属で造った首輪。拘束具だ。

 本来は罪人に着けるものであるため、ヤバルの姿は必然でそれに見えてしまっていた。

 港町プロピナでの一件の後、ヤバルが次に目覚めたのは、アールツトに向かう馬車の中だった。それから道中一度小さな村に立ち寄ったくらいで、他に寄り道らしいことはしていない。十一日かけて馬を走らせたジューダスの部隊は、ガリラヤ家が治める領土の町アールツトに着いた。

 それからジューダスは、一ヶ月身を隠すように暮らしていたが外からの報を知って、首都へ向かった。イサクが裁判に掛けられるので、貴族に召集がかかり、ガリラヤ家のジューダスもそれに漏れていなかった。

 ヤバルやポルドレフ、マリア奪取の作戦に参加していた他十数名の部下を残し、ジューダスは新たに部下を追加し、再編した部隊を引き連れて首都へ出発した。

 ジューダスが再び故郷に帰ってきたのは、イサクの裁判が終わってから十四日後のことだった。アールツトと首都ユーピテルの距離から推測しても、イサクの死刑が決行されてからほとんど日にちを挟まず帰ってきたことになる。

 それから三日。ジューダスは自室に篭もった。

 ヤバルは何をしていたかというと、見張りの兵を着けられて、アイオーンの拘束具を着けられて軟禁状態にあった。行動範囲はガリラヤ家の館の敷地内であればどこへでも自由なのだが、常に見張りの目があった。

 館にはジューダスの家族も一緒に暮らしている。さすがに互いに無関係でいるのは不可能で、暮らしているうちに使用人も含め、ジューダスの家族と何度か言葉を交わした。

 とはいっても、相手は貴族。親しくなるようなものでもなかった。使用人かそれ以下。最悪言葉の通じる何か程度の、冷たい態度と扱いをされているのはヤバルでもわかった。拘束具を着けた姿は罪人そのものであるため、貴族に限らず普通の感覚を持つ者ならさけて当然ともいえた。

 ヤバルも自ら進んでジューダスの家族に関わろうとはしていない。廊下や庭など、すれ違うときに道を譲って、そのとき会釈する程度だった。一瞥もくれないときもあったが、ヤバルはそんなものだろうと特に気に留めていない。

 ここはガリラヤ家の領土で、彼らの機嫌を損ねないように気をつけなければならない。自分の置かれている立場を、ヤバルは正しく理解していた。

 その生活がかれこれ五ヶ月続いている。この館の人の動きや雰囲気、空気を感じ取れる暗いには館内部のことを把握していた。

 ジューダスがイサク・ジズの死刑の報をヤバルやマリアに伝えたのは、首都ユーピテルから帰ってきて部屋に閉じ籠もった、その三日後だった。それから一ヶ月。館内の空気が張り詰めていて、使用人たちも動揺を隠せずどこか落ち着きがなかった。

 館の空気が数日掛けて徐々に落ち着いていくのをヤバルは見てきた。

 ヤバルはガリラヤ家の館に来てからマリアの顔を見ていないが、イサク・ジズの死刑を知ってからの反応は想像に難くない。元々館に連れて来られてからマリアは暴れることが多かったようだが、イサクの死を知ってからの激化を、館全体の動揺から察していた。

 使用人たちの会話から拾った情報によれば、マリアは部屋に監禁同然で、拘束具を着けられたままの生活を強制されているようだ。

 マリアの部屋に入れる使用人も限られていて、常に複数人の兵士にも見張らせているようだった。

 身元不確かで密入国で、脱獄前科ありの犯罪者のヤバルより厳しい対応だった。

 イサクの死を知らされてからの一ヶ月。マリアの暴走もようやく治まりを見せていた。というより、ヤバルを含め館全体がそれに慣れていった事実のほうが強いのかもしれない。

 マリアの状態こそ知れないが、使用人たちから動揺や慌ただしさが薄らいでいた。

 実のところ、館の外でもジューダスが持ち帰ったイサク・ジズの死刑の報は、町民にも衝撃を与えていたのだが。それは館の敷地から出られないヤバルの知るところではない。

 マリアの騒動と同じくして、ジューダスを町の商人や有識者、他の貴族が訪ねてもいた。イサク・ジズの死刑の真相を知りたいと請う者や、ジズ家と親交のあるガリラヤ家の今後、領土の心配、物流や他の町の影響など会談の内容も多岐に渡る。

 今はガリラヤ家の館を訪ねる人の波も一段落していた。

 平穏がようやく降りた館の敷地で、二羽の鳥がヤバルの寝転がって見上げる木から飛び立つ。雲の流れる青い空へ並ぶように飛んでいった。

 外から隔離された生活は外敵がおらず、何不自由もせず、時の流れだけが無情だった。すべてが作られた静謐だということさえ除けば。

 余計なことさえ考えなければ、このまま館で暮らせれば、きっとこの先、寝床も食い物にも困らない。苦労のいらない生活があるのだ。

 だが、ヤバルの空を見上げる顔は、どこか気にくわないといった表情だった。


「クソが……」


 見張り役の兵士がぼやいた言葉に視線を向けるがヤバルは気にしない。

 兵士は二十代くらいと若い。他二人、ヤバルの見張り役の兵士はいる。ローテーションで役目を代わっていて、主にこの二十代の兵士がヤバルの行動を監視していた。

 ヤバルはまだマリアに会っていない。ヤバルから会いたいとも誰かに言ってもいなかった。どこにいるか彼は知らず、誰かに聞いたところで教えてくれないのはヤバルにもわかっていた。

 彼自身、マリアに会いに行こうという意思はなかった。

 しかし、気になっていない、というわけでもなく。


「………」


 ため息が漏れる。

 平穏の檻で隔離され、外部からの情報は遮断されている。内部の情報も制限されているのは誰の目でも明白で、まるで真綿で締めつけられているようだった。

ヤバルはまだポルドレフやマーイヤたちにも会っていない。ジューダスや使用人の話によれば、おそらくこの町にいることは推測できるのだが、姿を見ていない。軍事用の宿泊施設に泊められているため、館の敷地から出ることができないヤバルが会うのは不可能だった。

 これもマリア同様、ヤバルは自分から会いたいとは思っていなかった。彼らが生きていて、この町のどこかにいる。それ以上を知ろうとしなかった。


「あ、こんなところにいたのね」


 ヤバルは少女の声に視線を向ける。質素な色合いで、しかししっかりとした素材が使われた服を着た女の子が、仰向けに寝転がったヤバルの足下に立っていた。

 ジニア・クニエーラ。マリアの世話役をしているメイドだ。

 会って間もない頃はヤバルを警戒していたが、打ち解けるとマリアの様子を伝えてくれるようになった。マリアを親身になって世話をしているようで、マリアがどうして今の状態になったのかも、一時期しつこいくらいヤバルに聞いてきてもいた。

 今は、ヤバルを見張る兵士――アタカマ・アルトに注意されて控えている。マリアの事はヤバルに伝えてはいけない情報の一つということだ。

 声を掛けた女の子が知らない顔ではないのを確認したヤバルは、視線をまた空に戻した。


「なんだよ。お茶の誘いならまた今度にしてくれ。というか、あの兄ちゃんを誘ってやってくれ。俺の心は開放的になるし、あの兄ちゃんは嬉しいで、一石二鳥だ。ついでに五月蠅いのがいなくなるので三鳥か。ぜひ頼む」


 兵士が目つきを鋭くしたが、ヤバルは気にしない。

 ジニアは少し怒った顔をした。


「私がうるさいっていいたいの」

「今から寝ようとしていた奴がいて、そんな奴の心境をまったく気遣わず、勝手に隣でずっと話しかけてくる奴がいるとしよう。お前はどう思う」

「うるさいわね……」

「だろう。わかったならあの兄ちゃんとよろしくやってくれ。あのあたりは人気も少なくてやるにはもってこいだ。館の二階からは丸見えだが、盛り上がるから別にいいだろ」


 ヤバルは塀で囲まれた敷地に隅を指さした。ヤバルの言わんとしていることはジニアも理解していて、表情には不愉快を隠すことなく浮かべる。


「なに? 機嫌悪いからって当たらないでくれるかしら」

「わかっているなら察しろよ。そして寝かせろ」

「そういうわけにもいかないのよ。私は仕事でここに来ているんだから。あなたに、ジューダス様からよ」

「だったらさっさと話せばいいだろ」


 ジニアがジューダスからの言伝を持ってきても、内容は単純だ。下っ端に詳細は教えられていない。ひと言で済むはずだった。


「あなたが脱線させているんでしょう。私は仕事と言ったのよ。あとであなたが聞いていませんでしたでは、私が怒られるんだからね」

「はいはい。なら、あっちの兄ちゃんにも伝えておけばいいだろ。若い女に飢えてんだ。声の一つひとつを覚えてくれる。あとで思い返して楽しむために」

「………」


 ジニアの疑わしい視線が若い兵士のアタカマに向く。アタカマは心底迷惑な顔をした。


「馬鹿に付き合うな。用件をそこのクソガキに伝えてくれ。しっかりこいつが聞いていた、と後で証言しよう」

「すみません。お願いします」


 二人のやり取りを、ヤバルはつまらそうに聞いていた。その少年の耳にジニアの言葉が届く。


「今日の正午過ぎ。食事を終えてからよ。〝私のところへ来い〟。確かに伝えたわよ」

「昼飯過ぎてからだと、ジューダス様は確か執務室か」


 ジニアはアタカマに頷いた。


「はい。お願いします。ヤバル! 聞いたわね」

「はいはい。聞いてました」

「絶対行くのよ! 今度忘れてたら許さないからね!」


 以前もジューダスに呼び出されたことがあり、ヤバルがわざとすっぽかしたのだが、そのときジニアは先輩のメイドにこっぴどく怒られたらしい。

 ヤバルは、ジニアが長いスカートを翻していなくなるのを待って―――しかし、彼女はばたばたとヤバルの下へ戻ってきた。寝転がったままのヤバルが視線だけをやる。


「お前……なんだよ。急ぎすぎだろ」

「忙しいのよっ! ぜぇぜぇ……」


 ジニアはなんとか呼吸を整えてから、ヤバルをびしりと指さした。


「あなたに報告。マリア、今日はちゃんとご飯食べたからね!」

「なんでそれをわざわざ俺に言うんだよ……」

「自分の顔見なさいよ。辛気くさくてカビ生えそうなのよ」


 兵士が微かに笑ったのを聞こえていたヤバルは、面白くないと顔をしかめる。


「じゃあ、今度こそ行くからね。ちゃんとジューダス様のところに行くのよ」


 手を振るだけで答える。すでにジニアは背を向けて走り出していた。兵士がジニアをまったく止めようともしなかったのも、ヤバルにとっては面白くないことだった。

 舌打ちをしかけて、止める。代わりにため息をついた。

 仰向けに寝転がるヤバルの視線はどこまでも広がる空を見ている。この塀の向こうに広がる世界を。



 赤いカーペットがどこまでも敷かれている廊下は、煉瓦の壁と石柱が支えていて、窓が少ないため薄暗い。辛うじて窓から差し込む光とランプの燃える光に薄暗く照らされていた。

 まるで、安易に踏み込むのを阻むかのような空気が静かに満ちていて、重厚感を出していた。

 ヤバルは重苦しい空気を、足を踏み込ませることで、身体で割っていく。あまり気乗りしていない顔を隠そうともしていない。陰鬱な面持ちで、執務室の前に立った。

 ジューダスがヤバルを執務室に呼び出すのは今回が初めてではない。だいたい三日おきぐらいには呼び出している。

 内容は質問の応答のみ。ジューダスが日々の生活や体調、館の気になる点など他愛のないものを聞いてきて、ヤバルはつまらなそうに答えるだけだ。

 当初は何を企み、何をするつもりなのか疑いを持っていたヤバルは、常に警戒してジューダスの一問一投に耳を傾けていたのだが。こうも同じ事を一ヶ月も繰り返されると、さすがに嫌になる感情が先に立ってくる。

 聞かれる内容もほぼ変わらない。時々、マリアのアイオーンに触れたときのことを訪ねられもしたが、特別におかしかったのは一度目だけで二度目は話すことがない。たった一つ、〝職人〟の存在を除いて、ヤバルはすべてを話していた。

 それも一ヶ月続けば、話すことさえ億劫になってもなんらおかしいことではなかった。

 もう何度目か分からないため息をついて、ヤバルは執務室の扉をノックする。あまりここで時間を使っていると、ヤバルの後ろの兵士が不機嫌度合いを増して、強制的に執務室にヤバルを入れかねなかった。

 人に押されるくらいなら自分から。


「入れ」


 一度静寂の空気が降りるのを待つ、完璧な間を置いてから、執務室の扉の向こうから訪問者を許す声がした。

 応答があったのであれば入らなければならない。もう隠せなくなった面倒臭いという顔のそのままで、ヤバルは扉を押した。

 ジューダス・ガリラヤ。国衛軍第六部隊中尉。ガリラヤ家の次期領主だ。現領主、イーシュ・ガリラヤは現在首都ユーピテルに赴いている。ジューダスは不在の席を預かっていた。

 彼は手元で滞りなくペンを走らせている。すらすらと一瞬の淀みすらない。部屋に入ったヤバルを一瞥しただけで、机の書類に視線を戻した。

 見張り役の兵士は入ってきていない。ジューダスの執事の姿も室内にはなく、執務室にはジューダスとヤバルの二人だけになった。


「どうだ。最近は」

「……」


 これはすでに何度も繰り返していて、思い返すのすら辟易する問いだ。ヤバルは心底嫌な顔を浮かべて無言を答えとした。


「そうか。あれから変わりはないか。マリアのアイオーンに二度も触れた、そのときから」


 これも同じ質問。

 ヤバルは答えをすでに持っている。そして、ジューダスに以前に伝えてある。職人の存在は語っていないが、もう話せることはなかった。


「あのさ。今日という今日は言おうと思っていたことがあるんだけど」


 ヤバルは相手が領主補佐に務めていようが、貴族であろうが、軍人であろうが、もう気にしないといった素振りで話を切り出した。

 ここはジューダスの故郷で、彼の住む館。

 ジューダスの合図一つで、ヤバルの生死が決まる。ある種の死地でもあった。もし殺されても、誰もヤバルの死には騒がず、ジューダスを罪には問えないだろう。

 ヤバルの身柄は、そこいらの獣かそれ以下も同然だった。

 当初は様子を見て、今日まで自分の立場を見計ることに努めたヤバルだが、もはや我慢の限界に達しつつあったのだ。

 怒鳴り散らすような無謀な真似こそしないが、不満の態度を出さなければ現状は変えられないと判断していた。頭の片隅で。

 八割は、表面の顔どおりの、苛ついた感情からだ。

 さきほどからずっとジューダスは書面から視線を上げない。ヤバルの顔を一切見ようとしていなかった。それもヤバルが腹を立てる理由だった。


「いい加減ここから出してくれないか。寝泊まりには不満は一切ねえが、アホみてえに平和だと本当に身体から苔が生えそうなんだよ。刺激とかそういうのを求めているわけじゃねえぜ。俺を自由にしてくれ。あとこれを外させてくれ。肩が凝って仕方ないんだよ」


 首の拘束具をこれ見よがしに嫌がってみせる。

 ヤバルがここを出たいと切り出すのは今回が初めてだった。今までも幾度か機会はあったのだが、イサクが死刑にされて一ヶ月、ヤバルがここに連れて来られてもうすぐ半年が経つのを待ってからの申し出だった。


「そうだな。良い頃合いだと思っていた。明日、お前を解放しよう」

「―――は?」


 ジューダスと争うことは望んでいない。しかし、あまりにあっさり要求を許諾されて虚を突かれてしまった。

 呆けているヤバルを置いて、ジューダスは相変わらず書面に筆を走らせている。


「ちょっと待て」

「あと一ヶ月くらいなら住まわせてやれる。何か準備が必要なら用意もさせよう」

「そうじゃねえ。いや、用意してくれるなら有り難く頂戴させて貰うが。そうじゃねえ。頃合いの話だ。いったいどういったタイミングだ。そんな簡単に解放できるならどうして俺を半年近くここに閉じ込めた」


 ヤバル自身も頃合いを見計らってのことだった。

 だが、まるで言えばすぐにでも出て行けたような物言いをされては、文句も出ようというものだった。


「まだ五ヶ月と二週間だ。単にイサク・ジズの事件の、国内の動きを窺う期間が必要だっただけだ。巻き込まれたとはいえ、お前も当事者だ。ここにはマリアもいる。お前たちをここに置くことで、少しは混乱の流れを計れるものかと様子を見ていた。それも終わった」

「あーはいはい。そういうことですか。で、結果は」

「知るときはお前の首がこの地に眠るときだが。聞きたいか」

「丁重に遠慮するぜ」


 あっさり引き下がる。

 秘匿するあたり、それなりの成果はあったということだ。

 ここで初めて、ジューダスは手元のペンを止めた。顔をあげてヤバルを見た。


「それで、お前がここ出たいのはいつだ。明日か。それとも一ヶ月後か」

「明日だ。明日ここを出る。いい加減ここから出ないと、いつ嬢ちゃんかあんたに殺されるかわかったもんじゃねえからな。あいつが部屋から出られるようになるまでに逃げさせてもらう」

「では、いくらか金銭を用意しよう。数日は寝泊まりできる程度だが。他にも必要なものがあればここで言っておけ」

「金をくれるなら有り難く頂くぜ。あとは食い物。日持ちするやつを持ち運べるくらいの量で頼む。それから服だ。こんな行儀良いのじゃなくて、そこいらの町民が着ているやつにしてくれ。デザインは任せるが、平民の常識に寄せてくれ」


 ヤバルは希望を遠慮せずに言った。

 用意してくれるとなれば、とりあえず言ってみたのだ。相手の許すボーダーぎりぎりを狙っている。可能なかぎり貰うつもりでいた。

 ヤバルの今の服装は、使用人の簡易の服装を着ていた。ベストなどの上着、ネクタイもつけていないが、シャツに使われている布は誰が見てもそれとわかる上質だ。

 この恰好で町を歩くのは、どこかの貴族かその使用人くらいだ。平民では有り得なかった。


「ああ、そうだ。馬車と御者を頼む。この国の首都に行ってみたいんだ」

「ユーピテルに? それはなぜだ」


 ジューダスの表情に訝しさが浮かぶ。ヤバルの真意を図ろうとしていた。


「あそこに、確か有名な絵画があるんだろ。エデンの園が描かれた奴だ。俺の相棒が一目見るのを夢見ていたものでもあるんだ。あいつの代わりってわけでもねえが。エイディがあれだけ見たいと言っていたものなんだ。いったいどんなものなのか、一目見ておきたい」


 エイディは、ヤバルがワヒシュタに密入国する際に忍び込んだ船で知り合った友人だ。港町プロピナの争乱で、事件に関わり、口封じに殺された。彼の夢は神話に出てくるエデンの園を見て、自分で描くことだった。

 神王ヤルバダオートが残した箱庭。エデン。

 ワヒシュタはこの世界でエデンの園に最も近いところだと言われている。多くの教会の壁など描かれたり、額縁で飾られたりしている。

 その中で一番有名なものが、神王教の総本山スラオシャ大神殿にあった。


「エデンの園、か」

「なんていったか。モナ、モナ……」


 ヤバルは船にいたとき聞いたエイディの話を思い出そうとしている。


「モナリザ作〝朝焼けの夜〟だ」

「おお、それだそれ。あいつ、それが本当にエデンなのかどうか見たかったんだと。夢に一度だけエデンを見たことがあって、そのときの感動が俺に絵を描かせているとかおかしいことをいっていたんだが。夢に出てきたエデンは本物で、それが有名な〝朝焼けの夜〟と同じものなのか確かめたかったらしいんだ。きっとそれを見たら夢のときの記憶をはっきりと思い出して、エデンの園がどこにあるのかわかるはずだって。そして、夢じゃなく、本物のエデンを見ながら、それを絵に描きたいっていってたんだ……と、話が逸れちまってるな」

「構わない。エイディという少年の件はこちらにも落ち度はあった。いい機会だ。不満や怒りを言うことを許そう」

「余計なお世話だクソ貴族。自惚れんな。それで、馬車は出してくれるのか」

「理由は理解した。しかし、首都はイサク・ジズが処刑されてまだ一ヶ月だ。お前の身が危険になるぞ。事件には救済教が関わっていた。あのような連中がまだどこかに潜んでいないとも限らない。また、国衛軍でなくとも事件の真相を調べようとする者たちは多くいる。お前が当事者である以上、連中の手は確実にお前の背中を追っている」

「十分承知だ。でも、ワヒシュタにいる限り同じだろ」


 イサク・ジズの件は掘り下げない。

 ヤバルでも、踏み込んではいけないところだとわかっていた。


「この町から出たらお前はただの密入国者になる。もし捕まっても、私はお前を助けない。プロピナの事件を盾にしても、こちらは切り捨てる。国衛軍も関わりを切る」

「わかっている。そこまで甘えるつもりはねえよ」


 ジューダスはヤバルの目を見つめる。ほんの数瞬だけの短い間だった。


「そうか。わかった。馬車と御者も手配させよう。しかし、食料と水は御者の分以外増やせない」

「十分だ。最低ユーピテルまで持てばいい」


 ヤバルはもう一歩踏み込んだ。


「あと、金はもうちょいくれないか。何しろ無一文だからな。せめて安定した収入ができるまでの金額を貰えると助かるんだが」

「……日数は半月飲食と宿泊代の分だ。首都の一般料金の平均を合算したものだ。新たに馬車と御者の費用も加算さている現状、これ以上は……そうだな。お前の持ち物から作り出さなければならなくなる。オルテイが薬物の試験体を欲しがっていた。確か、新薬の麻酔だそうだが」

「あんたの指定する金額だけで十分だ。あとはなんとかするよ」


 半ばジューダスの言葉に被せた。

 オルテイは、遭難したばかりのヤバルを診ていた医者だ。看病生活でオルテイの性格をヤバルは知っている。常に落ち着いた聡い人格の持ち主だが、実験となると人が変わる。探究心が、まるで子どものように若々しくあった。

 実験は、普段は動物で試していた。料理の趣味も、食す物の医学的見知から身体に起こる影響を調べる一環からだった。


「では、品と金銭、それから馬車と御者を用意する。服の件だが、こちらはクロベニに用意させる。あとで採寸を取らせてもらう」


 クロベニはジューダスの執事だ。六十歳の男性だ。


「あんまし上品なものは遠慮願うぜ。てか、そこいらで売っているもので十分なんだが」

「無駄な出費を避けるためだ。クロベニのセンスに疑問はないが、万一サイズが合わない場合、それを私の執事が用意させた服という事実が気に食わない」

「貴族様なりの拘りね。こっちは貰う立場だ。あんたの好きにしてくれ」


 ここらがボーダーラインだ。ヤバルは引き下がった。


「用意は夕刻に終えるだろう。こちらもクロベニに案内させる。確認しておくといい。クロベニがお前のところに着くまでは、いつもどおり好きにしていろ。そんなに待たせることはないと思っているが。今は他の仕事をやっている」

「わかった。なら、そうさせてもらうぜ。ああ、あとひとつ、要望があるんだが」


 ジューダスは表情に感情らしいものは浮かんでいない。ただ、作業に戻ろうとしていた手の姿勢などを直そうとする仕草がないことから、彼の言わんとしていることは窺えていた。

 仕事の続きをやるから出て行け、だ。

 ヤバルは引き下がらず、たが少しだけ辛そうに聞いた。


「手間の取ることじゃないんだ。嬢ちゃん……マリアの様子はどうだ」

「ジニア・クリニエーラから聞かされていると報告を受けているが」


 見張りの兵士のアタカマが、ジューダスにマリアの情報が使用人を伝ってヤバルに漏れているのをすでに報告していた。アタカマはジニアを注意していたが、厳しくはなかった。

 ジューダスも半ば黙認していた、ということだ。


「最近会話したと聞いた。あと、メシも食べたと。でも、それはあの姉ちゃんからの言葉だ。あんたの見立てを聞きたい」

「……なるほど。ジニア・クリニエーラはおそらく伝えていないのだな」


 ジューダスの言葉の意味を図りかねると、彼が説明した。


「私もだが。お前にも、強い憎しみを持っているようだ。自傷まがいの行動や罵詈暴言がしばらく続いていた。三週間くらい前は、栄養失調と脱水症状で意識が混濁して命に関わるところまできていた。極度の衰弱から回復させたが、今度は放心状態が長く続いていて、一人では排泄すらままならない状態にもなった。ただ、一週間くらい前から放心状態から回復し、ジニアと少しずつ会話するようになった。今日は自ら食事をしたと聞いている」


 三週間前は、ちょうどジニアがマリアに関しての報告や質問を控え始めた時期と一致にする。マリアが危険な状態になったため、迂闊に話すことを許されなくなったのだ。

 ジニアが今日マリアの報告をしたのは、マリアが回復傾向まで持ち直し、大丈夫だと暗に伝えたからだった。もちろんヤバルには表面上の、言葉通りの意味までしか伝わらないが、それでもマリアが食事できるくらいの状態にあることくらいは伝えたかったのだ。

 つまり、兵士に注意されたからという理由だけではなかった。

 そんなジニアの心遣いを、ヤバルは拾う余裕が無かった。


「そう、か」


 ヤバルの表情に影が落ちる。伝えられた事実に衝撃を受けていた。

 マリアの状態の酷さはヤバルの想像を超えていた。


「命に関わる状態は数日前のことだ。現時点は心配するほどの問題はない。ただ、会おうとはしないほうがいい。ふい、私やお前を思い出しては、暴れ出す始末だそうだ」


 身体は回復しても精神の傷が大きすぎた。

 彼女はもしかしたら、もう以前のような生活を送ることができないかもしれない状態にあった。


「……別に会いたいとは思ってねえよ」


 会えるわけがない、という言葉を、ヤバルは飲み込んだ。


「ならいい。話は以上だ。そろそろ退室しろ。私にも仕事がある」


 彼は再び書面に視線を落とした。手元ですでに作業が開始されている。


「ああ、わかった。なあ、もう一つ、聞いておきたいことがあるんだ」

「なんだ。手短に言え」


 ジューダスはもはや手を止めようとしない。書面から視線を外さなかった。

 ヤバルの話を本当に取り合おうとしていなかった。

 それでもヤバルは、聞いた。


「あんたのアイオーン、もう一つ能力があるだろ」

「……」


 滑らかに筆を走らせていたジューダスの手が、ぴたりと止まる。

 ヤバルを静かに見つめた。


「何を見た」

「イサクがギロチンで処刑される夢だ。その首を、嬢ちゃんが抱いて泣いていた。嬢ちゃんもその後殺された。もっと他に何かを見たような気もするんだが、はっきりしているのはこれだけだ」

「そうか。私のものとあまり大差なかったようだな」

「やっぱりあれは、予知夢か」

「未来は、二種類あると私は見ている」


 アイオーンの能力で、数秒先とはいえ可能性の数だけの未来を一度に視ることのできるジューダスが私見を述べた。


「一つは、可能性の数だけある未来だ。現実の出来事次第で可能性のなくなった未来から消えていくことになる。私はそれを人為的に選んでいる」


 これはジューダスのアイオーンを使ったことのあるヤバルも理解できていた。


「もう一つは、普遍性の強い未来だ。どの行く先にも共通して存在する通過点のようなもので、いうなられば必ず起こる事象、運命とも言える。お前が見たのはそれだ。私は運命点と呼んでいる」

「なあ、あんた、やっぱり」

「以上か。なら退室しろ。私は仕事があると言ったはずだ」


 ヤバルの言葉を遮った。

 すでにジューダスは作業を再開している。ヤバルはまだ何か言いたげだったが、小さくため息をついて退室した。

 予知夢には、現実との差異があった。現実は、イサクが処刑された現場にマリアはいなかった。ジューダスの元で監禁されている。

 この事実が何を意味しているのか、ヤバルは薄々気づいていたのだ。

 だから、ジューダスに言葉を遮られたとき、無理にでも言おうとはしなかった。

 廊下ではアタカマが待機していた。内部の話を盗み聞きしていた様子はない。ただ、ヤバルが出てくるのを待っていた。

 ヤバルが廊下を歩き出すのに合わせて、アタカマも後ろを着いていく。

 まだ昼を過ぎたころだ。

 ヤバルの旅支度の用意が完了のは夕刻になるとジューダスは言っていた。日が暮れるまでには時間があった。

 クロベニを訪ねろとは言われていない。ヤバルはジューダスの言葉どおり、好きにさせて貰おうと日向でもう一度眠るために外を目指した。

 彼は休息を望んでいた。

 廊下。カチカチ、と何かを積み上げる音をヤバルは拾う。


「なぜ、触れぬ。触れれば知れるぞ。もう一度だ。あの欠片に触れろ。我は思い出す。この猛る意味を思い出すのだ。ソフィア、ソフィア、ソフィア。その名はいったいなんなのだ。見つけ出さねば。この憎悪の炎が燃ゆる意味を、見つけ出さねば」

「うるせえぞ。クソジジイ」

「どうした」


 声を顰めたはずが、後ろを歩くアタカマには聞こえてしまったようだ。


「なんでもねえよ」


 ヤバルは歩く足を速めた。自称職人の何かを積み上げる音から、少しでも離れるために。



 翌日の早朝。執事のクロベニに仕立てられた平民用の服を着て、ヤバルは館の敷地の外に出た。煉瓦とセメントで作られた壁の向こうでは、すでに馬車と御者が用意されていて、水や食料などの荷物も積み込まれていた。

 これらは前日の夕方。ヤバルはクロベニと共に数量を確認していた。

 見送りは少ない。次期領主のジューダス・ガリラヤと、彼の執事クロベニ。それから門番の兵士数名くらいだ。ポルドレフやマーイヤ、オルテイはともかくとして、ジニアの姿もなかった。

 もとよりただの平民、しかも最底辺のヤバルは見送りに顔見知りが少ないのは気にするところではなかった。

 次期領主の貴族が見送るだけでも平民には特別なことなのだが。そもそもヤバルは、貴族という生き物が好きではない。なので、ジューダスの見送りにヤバルは皮肉を入れて返した。


「貴族様が見送りとは豪勢だな」


 ジューダスはヤバルの言葉を咎めもせず受け流す。もはやこの両者の間では、このようなやりとりが自然な形にもなっていた。


「お前が町を出るのを見届けるためだ。そこの御者はモナズ・プイスという。お前を首都のユーピテルまで送り届ける任を預かっている」

「知ってるよ。さっきあんたの執事から聞いた。自己紹介もすませてあるぜ。好みの女まで知り合えるほどは親密ではないが」


 馬の具合を見ていたモナズがヤバルたちの会話を聞いたのか、ジューダスを目に捉えると軍人がする敬礼をしてみせた。慌てていて、ばたばたして、とても五十六歳の男性がやっていい仕草ではなかった。

 顎を浮ついていて、ジューダスを目の前にしての緊張が、離れたところにいるヤバルにも伝わりそうだった。

 ジューダスは、見るからに汗をかくモナズを笑わず、軽く敬礼だけ返す。


「面白いおっさんだな。あれ」

「信頼は置ける。道すがらわかるはずだ」

「そうかい。旅の楽しみにしておくぜ」


 モナズはすでに馬の面倒を見る作業に戻っている。まだ彼に残る緊張が馬にも伝わり、馬は嫌そうに首を振っていた。

 黒浅い茶色の髪。緑の瞳は優しさがあった。彼も敬礼したことから軍人であることは窺えるが、五十六歳の老齢の腕は枯れ木のように細かった。

 ヤバルはジューダスの言葉を、この場はそのまま受け入れる。ヤバルはユーピテルまでの足が手に入れば文句はなかった。


「出発前だが。何か他に不備はあるか」

「ないぜ。服もばっちりだ。首も軽くなって金も貰ったしな」


 服装は平民の着るそれだが、デザインはヤバルの風貌を引き締めていて、サイズもずれがなかった。首からは拘束具が今朝から外された。ようやくの解放感をヤバルは味わえた。

 彼の肩には少し大きめの麻袋がかけてある。旅の着替えが入っていてもおかしくないが、中から聞こえた音は、ジャラリとした金属音だった。

 半月分の硬貨が入っている。ヤバルは硬貨の入った麻袋の重みを楽しんでいた。

 ジューダスは、ヤバルの服装を問題なしとみていた。執事の仕事に満足していた。


「さて、そろそろ行くか」

「そうだな。もしかしたらあの窓から嬢ちゃんが見張っていると思うと落ち着けないからな」

「まだ安静中だ。お前が出て行けば、気晴らしに空くらい見せてやれる」

「それじゃ、少しはご機嫌取りに足を速めるか。いろいろありがとよ」


 貴族相手に不躾で礼儀のない言葉をいって、ヤバルは馬車へ小走りしてさっさと荷台に乗り込んだ。荷台からモナズに出発を急かす。

 モナズは視線をジューダスに送った。頼りなくおろおろしている。

 ジューダスが頷きで、出発の承諾する。モナズは敬礼で返して、程なくしてヤバルを荷台に乗せた馬車が出発した。

 少しばかり荷台をふらつかせて馬車は行く。

 離れていく馬車を見送るジューダスの傍に立つクロベニがぽつりと言葉を溢す。


「これでようやく館も元の静まりに戻るでしょう」

「そうだといいのだが」

「ジューダス様……」


 声は心配するように寄り添うようなものだが、老齢のクロベニはジューダスの吐きかけた弱音を咎めていた。


「そうだな。もう少し、これはやめておこう」

「今晩、蔵から秘蔵のワインを出しましょう。あの四十年前、この地で生まれた〝最上の朱〟とも賞され、先代のディオニュシオス・アレオパゴスも口にされたものです」

「そうか。あれがまだ残っていたのか」

「はい。おぼっちゃんの特別なときのために、と。密かに」


 ヤバルをおぼっちゃんと呼べるのは、この館では彼の両親や祖父母を除けば、執事のクロベニのみだった。彼は長い歳月ガリラヤ家に務めてきた。

 昔は遊び相手、成長してからは勉強や礼儀作法の先生としても、成人してからは頼れる見本、迷ったときの相談役として。いつもそっと傍に立つ執事。


「そうだね。今夜、飲もう」

「はい」


 少しだけ口調が子どもっぽくなっていた。

 クロベニは静かに頷いた。

 ジューダスが振り返れば、眼前には彼の住むガリラヤ家の館が建っている。


「光、か」

「なんでございましょう」


 溢した言葉の意味を、クロベニは問うた。


「彼が、彼女を光と言っていた。あの真意を、私はまだ知らない。何かのたとえだったのか、それとも、と。託された想いまでわかっていれば、私は少しでも多く彼女を救えただろうかと考えてしまう。これはもう弱音だな。やめよう」


 しかし、クロベニは咎めなかった。


「おぼっちゃんは、もう十分に、十分にあの子を救っています。それは、このクロベニ・グラシアールが存じております」

「ありがとう。さて、仕事を始めよう。今日はどのくらいあるのか」

「昨日の三倍の量になるかと」


 一瞬だが、ジューダスの顔から表情が消える。

 やがてぽつりと言った。


「……今夜は美味い酒になりそうだ」

「それは間違いのうございます」


 ジューダスの館に戻る足取りは、若干重そうだった。

 はいっ!

 お久しぶりの方はお久しぶり。

 初めましての方は初めましてぇ!


 というわけで、「王の腕」望まれた光、後編でした。

 ええっと。毎月28日を目標に更新してきて、何度か違ったりもしてますが、とにかに28日を目標にしてきていて、今回更新が遅れたのは単に忘れていたとか書けていなかったとかそういうわけでもなくてですね。

 気づいてたら30日になっていたとか、ええと、カレンダーを見ていなかったとかそんな感じでして。うん?なんか余計に駄目ですね。やめましょう。


 ともあれ。「王の腕」望まれた光、後でした(二度目)!。

 なんやかんやありますが、毎月更新を目指していくので、皆さんお付き合いください。


 ここからは話の大きな流れでの後編が始まります。

 ヤバルたちの行く末を見守って下さい。

 では。次の更新まで。

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