五章〈未来の裏〉前
ヤバル (本名:サクラス・ザラスシュトラ)
マリア・オルレアン (少女)
イサク・ジズ(名のある貴族)
ジューダス・ガリラヤ(名のある貴族)
ポルドレフ・ガーディン(ジューダスの部下)
マーイヤ・レイア(ジューダスの部下)
モート・ギリティナ伯爵(港町プロピナの領主)
かなり距離が開けても聞こえてくる戦渦の音。
まだイサクたちがマリアを救うために囮になっている証でもあった。
人ひとりを背負った状態で全力疾走をいつまでも続けられない。ヤバルは馬を探すこともしたが、町の兵士たちから隠れて逃げながらでは無理があった。
仕方なく時折休みながら、走るペースを一定に保つことに努めてできるだけ長く継続して走っていた。
もうじき東区アロガンというところまで来ていた。
太陽は傾きかけていて、光に淡く赤みが滲む。
「ん――っ」
ヤバルの背中にベルトで肯定されていたマリアが身じろぎをする。ずっとぐったりしていた身体に力が入るのを、ヤバルは背中で感じた。
「……イサク様」
「ようやく起きたか」
「――っ」
ヤバルの背中でマリアの身体がびくりと震え、綺麗な白銀の髪が僅かに撥ねた。しかし、ベルトで固定されているため、それ以上の動きには無理があった。
走るのをやめたヤバルは呼吸を整えると、額の汗を拭う。全身に汗をかいていた。
肩越しに背中のマリアに振り向いた。
ヤバルからはマリアの顔を視認できるまで顔を向けることはできないが、少なくともマリアからは背中の主を知ることができる。
いくら縛られて動けないといっても、パニックを起こされて暴れられたらバランスを崩して倒れかねない。人ひとりを背中に縛った状態では、倒れてしまったとき一人で起き上がるのは難しかった。
ヤバルが振り向いて、わざわざマリアに顔を見せようとしたのは、彼女を安心させる意図もあった。
「あなた、は……」
マリアの声は震えていた。空よりも深い蒼の目で背中の人物を見つめる。まだ状況を把握できていない不安か、それとも気を失う前の恐怖を引き摺っているためか、辛うじて平静を持っているのだとヤバルに悟らせる。
「あんたが名をくれたヤバルだ。どうだ、立てそうか」
「……縛られたままだとわからないわ。あと、熱いわ」
汗が気持ち悪いと言わなかったのは気遣いからだ。
ヤバルの背中で少女は少しだけ身体を動かそうとしてみた。運ぶ目的でヤバルの背中に固定された彼女の身体は、膝を曲げる形で側面をヤバルの背中にくっつかせる状態になっている。ベルトは彼女の足や腕にもしっかりと巻かれていて、がっちりと固定されている。
自由が利くのは首と指のみだ。
マリアが身じろぎしたくらいではベルトが外れないようになっていた。
「まあ、もっともだ。熱いのは我慢しろ」
ヤバルは視線を巡らせる。適当に彼女を下ろせる場所を探した。マリアが動けるのなら彼女は自分の足で走ってもらう考えだ。人ひとりを背負って十数キロ走ったヤバルの身体は疲労困憊だった。喉も渇いているためのかマリアと会話するだけでも辛そうだった。
現在地は東区アロガンと中央区ヴェミラの境目あたりだ。住宅よりも畑や家畜の小屋が目立つ。身を隠せるものが少なかった。
ヤバルは馬車の跡が残る本通りから外れた納屋の影で足を止めていた。人と人が殺し合う戦闘の音もここからでは遠い。イサクのアイオーンの気配も感じられなくなっていた。
近くに兵士の気配どころか人の気配がない。あれだけの騒ぎだ。兵士はともかく、町民は家かどこか安全なところに隠れているのはヤバルでも想像は難しくなかった。
こうして足を止めてマリアと話せる機会を得られていることが、イサクたちの囮作戦が成功している証だ。
「イサク様はどこなの。マーイヤさんもポルドレフさんも」
「今嬢ちゃんを逃がすために頑張っているところだよ」
「ッ! 下ろして!」
身体の重心が後ろへ持って行かれそのまま転倒しそうになったのを、ヤバルは体勢を変えることで何とか踏みとどまる。
「馬鹿野郎。暴れるんじゃねえよ。頼むから静かにしてくれ。せっかくのイサクたちの苦労が全部無駄になるんだぞ」
「でも、でもでも、私のせいでイサク様たちが。私がもっと、もっとしっかりしていれば。今からでも間に合うかもしれない。だからお願い。イサク様のところに戻って!」
いつもマリアから感じていた印象の、少女の中に育ちの良さが見える気品が欠片もなかった。感情的になりそうだったときもあったが、今ほど酷くはなかった。
今のマリアはこんな状況でもなければ、ただ涙ぐんで駄々を捏ねる子どもそのものだった。
「戻ったところで何もできないだろ」
「私ならできる。だからお願い」
「……そうかい。そりゃすげえな」
ヤバルはマリアの会話に付き合うことをやめた。冷たく突き離す。時間を無駄にできないのだ。己の身とマリアの安全のため、身を隠せるのが多いところを探さなければならなかった。
マリアを下ろすのは、マリアがイサクの元へ戻ろうとしているので一旦やめた。
「移動する。頼むから大人しくしてくれ」
暴れられたら上手く走れない。体力も無駄にできなかった。
マリアが無理矢理身体を撥ねさせる。
「嫌よ。引き返しなさい。絶対に赦さないだから。逃げたらあなたを絶対に恨むから!」
「わかった。勝手にしてろ。もうお前の言葉を聞かない」
涙ぐんで鼻の詰まった濡れたマリアの声を聞いて、ヤバルは決意した顔で止めていた足を走らせた。
「嫌、嫌よ、やめて……」
彼女の声が絶望に染まっていく。それでもヤバルは足を止めようともしなかった。暴れても文句一つ漏らさず、踏み出す足に力を入れていた。
「やめて、とまって、お願い、お願いヤバル、お願いだから!」
「……」
「止まりなさいよ! 止まれ! 止まれえ!」
なおもマリアは抵抗する。
ヤバルは激昂した声で、駄々を捏ねるだけの子どものマリアに言った。
「いい加減にしろ! あいつらが残った意味を考えろ。正直、お前に関わって俺は迷惑してんだ! お前をここで捨てられたらどれだけ楽か。クソが! なんであいつらは俺なんかに頼むんだよクソが。ああ、クソが。俺はいったい何やってんだよ!」
「迷惑だったら今すぐ下ろしなさいよ! あなたには関係ないでしょ!」
このときのヤバルの表情は非常にわかりやすかった。腹の底から沸き上がる感情が顔に浮かび上がった。
ひと言で表現するのなら。
――カチンときた。
「ああそうだよ。迷惑してんだよ! お前を捨てたらお前を託した奴らの頑張りが無駄になるだろうが。迷惑でもここでそれを無駄にできるほど俺は賢くねえんだよ! 何が最善で、何が最悪かも判断できねえくらい馬鹿なんだよ! だからせめて頼まれたことをやり遂げることしかできてねえんだよ。ああ、クソ。なんでこんなことになってんだよ……」
「何を言っているかわからないわ。いいからさっさと下ろしなさいよ」
「嫌だっつってんだろ」
途端、マリアが静かになった。ヤバルの背中であれだけ続けていた抵抗もピタリとやめる。そして、ぽつりと言った。
「もういい。もう、どうなってもいいわ」
「!」
ヤバルは足を止めるしかなかった。青白い光が急速に眼前で集束し、一つのものを形成しようとしていたからだ。すり抜けてかわして無視することができないくらい、背中から聞こえた少女の声がとても冷たく、まるで奈落の底からうんざりした悪魔が呟いたような、そんな印象があったからだ。
「おい。お前、確か自分はアイオーンは持たないと言ってなかったか」
「私はこれを神王様との誓いの証だと思いたくないのよ」
ヤバルの前に形成されて出現したのは、ちょうど人ひとりが朱色の布で包まれたものだ。布の凹凸から人らしきものが内包されているのがわかる。
青白い光の集束で形作られたそれは、重力の影響を無視して宙に浮いている。その不可解で無音の佇まいは不気味さを際立たせていた。
「早く従いなさい。早くしないと私があなたを殺してしまうかもしれないわ」
「お前、自分が何をしているのかわかっているのか」
ヤバルは目の前に現れた朱色の布で包まれた物体から、アイオーンの気配を感じていた。気味の悪い朱色の物体がアイオーンなのは間違いなかった。
アイオーンは独特の気配を纏う。自分たちがここにいるのを大声で言い触らしているようなものだった。そのアイオーンの持ち主が誰であれ、生き物の視線は気配の中心に向けられる。
兵士がアイオーンの気配を不審に思って向かってきたら最悪の結果にしかならなかった。
「知っているわよ。物心ついたときにはみんな知っていることよ。あなたが引き返さないのなら、あなたがどうにかできる状況でなくしてしまえばいいだけのことよ。今なら許してあげるわ。今すぐ下ろしなさい」
背中にベルトで身体を固定されて、満足に腕一本動かせない身分の台詞ではなかった。
だが、今の彼女からはその状況でさえ問題ではないとヤバルに思わせるほどの威圧があった。
ずるり、と朱色の布がずれる。人の顔らしき凹凸の部分から、その内側を晒した。白い肌が覗く。人の色ではない。例えるなら石膏の白だ。白色の片目と頬がヤバルを見つめ返す。
「剣じゃないアイオーンなんて珍しいじゃねえか」
アイオーンは個人で大きさ、形、能力の有無や種類と多種多様の違いはあるが、ほとんどが剣の形をしていた。それはかつて、神王から与えられた力で、神王と神王との民の、共に滅びに立ち向かわんと誓った証だからだと言われている。
ヤバルの顔が引きつっている。余裕を作ろうとして失敗していた。
朱色の布から僅かだけ見せる白磁色の素顔。マリアのアイオーンの、見た目の歪さに違わぬおぞましさがあった。
「……人のこと言えないじゃない。あなたのそれもアイオーンだったのね。隠密の能力かしら」
「ただのコツだ。こんなの能力でもねえよ」
ヤバルは父親に腕を切断された過去がある。片腕の弱みを隠すため両腕のアイオーンをどうにか誰にもばれずに日常で使えるために編み出した術の結果が、隠密と勘違いされるほどの希薄な存在のアイオーンだった。
ヤバルのアイオーンは、まったく気配がないわけではない。しかし、日常では人や物等の気配が大きすぎるため感じ取り難くなっているだけなのだ。
静かなところ、それこそ無音でヤバルしかいないようなところでは、彼の腕がアイオーンだと気づく人も出てくる。
今はマリアがアイオーンを出しているため、アイオーン同士が共鳴を起こすことで、マリアはヤバルの黒いグローブがアイオーンだと気づいたのだ。
神王に与えられた力のためか、アイオーン同士は共鳴を起こし、互いに存在を教え合う。
「気配を弱めるコツなんて初めて見たわ。でも、そんなものはどうでもいいのよ」
アイオーンが共鳴を起こしても、それが他に知れることはない。ヤバルのアイオーンが知れるのは、あくまでアイオーンを現出させた所有者本人のみだ。
ヤバルはマリアにアイオーンが知られることを問題視していない。最も気をつけなければならないのは、マリアがヤバルのアイオーンを知ってもなお意思を押し通そうとする気迫だ。
ヤバルからは背中のマリアは見えないが、マリアの目は確かな自信と覚悟、そして内には狂気を潜ませていた。
「私のことを誰かに聞いたかしら。私は滅びの魔女と呼ばれているわ。それは私が自分の故郷をこのアイオーンで焼き尽くしたからよ。人も町も島も、生き物もそれ以外のすべてを、灰と塵に変えたわ。そして私一人が生き残った。故郷は未だ草木一本生えない荒野だそうよ。もう5年も前のことなのに。嘘と思うのなら、焼かれてみるかしら?」
「このままだと俺と一緒に心中だぞ。そんなに慕われたとは驚きだぜ。どうせなら相手選べよ」
「もう忘れたの? 話したわよね。私ひとりが、生き残ったのよ」
またずるりと、朱色の布がずれ落ちる。顔の左半分が露わになり、真っ白で無感情な、女性のものと推測できる顔が現われた。心なしか哀しみがあるようにも見える、無機質な顔だ。
ヤバルは堪らず下がってしまう。危険を感じ取っているのが顔に出ていた。まるで襲われる瞬間を必死で抵抗する、牙をむき出しにした獣だ。
整って呼吸が乱れ出す。走ってもいないのに汗が再び噴き出してきた。
ヤバルはマリアが決して冗談で言っているのではないと感じ取っていたのだ。
現状、身の安全を優先して逃げるには今すぐマリアの言に従い、彼女を解放することだ。
そうすればもうこんな厄介事からもおさらばできるうえ、マリアがアイオーンを出したせいでここへ向かっているかもしれない兵士からも逃げることができる。
畑と家畜用の庭と小屋しかない通りは、身を隠すところがほとんど無い。すでに誰かに目撃されていてもおかしくなかった。いつまでもここで足を止めてしまっていることも、十二分に危険だった。
だから、マリアを早く解放して自分だけ逃げてしまうのは、身を守る術で最善だ。
それでもすぐにそれを選んでしまわないのは、ヤバルの人柄ゆえだった。優しいという言葉で飾るには不器用すぎる彼の魂が、この場でマリアを置いていく真似なんてできなかった。
マリアが自身の嫌うアイオーンまで出してヤバルを止めさせる心情を察せないほど、愚かでもなかった。
ヤバルの表情が引き締まる。覚悟を決めた顔だ。
「馬鹿を起こすな。あんたがやろうとしていることはイサクに対する裏切りだぞ。あいつらはお前に逃げて欲しいと思っているんだ」
「私が逃げたくないと言っているのよ」
「ああクソ。もういいわかった」
ヤバルが背中を撥ねさせてマリアの位置を安定させる。
黒いグローブの、アイオーンの気配が強くなる。否、希薄にされていたものが、明確に戻された。アイオーンを使う、とヤバルが意志を示したからだ。
「ならこちらも力任せにさせてもらう!」
地面を蹴って駆け出す。
一気にマリアのアイオーンとの距離を詰める。利き腕の左を伸ばしていた。父親に切断されて失った、アイオーンの左の黒いグローブは確かな質感を持っている。
ヤバルの狙いはマリアのアイオーンだった。黒いグローブで触れて何かをしようとしていた。
「それに触れるなあ!}
ヤバルたちの肌を震わすほどの大声が轟く。と、同時に、何かがヤバルの鼻先を掠めて地面に刺さった。矢だ。
鼻先から垂れる血を拭わず、ヤバルは矢の飛んできた方向を睨む。
先陣を切る二騎の騎馬。
その後方からジューダスが率いる十数騎の騎馬兵が地を鳴らせて、家畜の柵を飛び越えて一色線に駆けていた。蹄の重い音がヤバルたちへ迫る。
町の兵士ならばヤバルたちにとって絶望的な状況だった。今から逃げだしても無事では済まされない。馬と人間とでは、足の速さは勝負にすらならない。命が助かる可能性も極めて低い。
しかし、ヤバルへ駆ける騎馬たちの恰好は港町プロピナの兵士のものではなかった。軍服を身に纏い、鎧や甲冑にはモート・ギリティナ伯爵の紋章ではなく、国衛軍の紋章が刻まれていた。
遠目から軍服を視認して町の兵士ではないと知ったヤバルは、構えかけていた身体の硬直を解く。二騎の騎馬兵が剣を突きつけても逃げようとしなかった。
かわりとばかり、両手をあげて無抵抗で、手には武器も持っていないことを表した。
追いついたジューダスが、先の二騎を手の動きで下がらせる。
「良かった。アイオーンの気配がしたからもしやと思ったんだ」
心底安心した見本のような、顔と声音だった。
ジューダス・ガリラヤ。
今回港町プロピナに赴いた国衛軍の部隊を率いる男だ。夕暮れに溶け込みそうな茜色の髪と、蒼天を思わせる蒼い瞳。すらりとした長身で軍人らしからぬ身の細さだ。
プロピナに来ている国衛軍はすべて彼の部下だ。ポルドレフも、マーイヤも所属はジューダス・ガリラヤの部隊になっている。
イサク・ジズ、マリア・オルレアン、多数名の貴族や商人はすべてジューダスの客人として同行していた。イサクが時折ジューダスに命じて動く場面もあるが、それは国衛軍や貴族としての立場が上だからだ。イサクは自身の部隊を連れてきていない。
「ジューダス様。良かった。今すぐこの拘束を解いて下さい。早くイサク様たちのところへ増援を。私も一緒に連れて行ってください」
「ああ、ぜんぶわかっているよ。マリア。もう大丈夫だ」
ジューダスはヤバルの背中のマリアに優しく微笑んで、馬から下りた。後ろでは十数騎の騎馬隊が待機している。
訝かしい顔でヤバルは立ち塞がった。
「ずいぶんと反応が早かったな。アイオーンの気配が風に流されたか」
「作戦の内容から少しでも合流を早めた方がいいと判断してね。私が同伴する部隊だけを前進させていたんだ。そのとき、アイオーンの気配を感じて飛んできてみれば、といったところだ」
「なるほどねえ。なら、それはどういうつもりだ」
「どう、とは……?」
この状況でヤバルが相手を訝しむ様子を隠さなかったのは、もはやその段階をとっくに過ぎているからだ。
前数騎の影に隠れる形で、後ろの騎馬隊が弓や剣をいつまでも構えられる体勢でいた。まだ戦闘中だから当然でもあるが、しかしその視線はヤバルたちへ、取り分けマリアのアイオーンに向けられていたのだ。
ジューダスは、すぐにヤバルが怪しんでいる原因を察した。
「ああ、すまない。マリア、アイオーンを引いてくれるかな。君がそれを出している限り、私たちは君にも剣を向けなければならくなる」
「すみません。今すぐにでも」
「いいや嬢ちゃん引くんじゃねえ。イサクよりこいつのほうがよっぽど貴族様らしいぞ。腹に何を抱えているか得体の知れねえ顔だ。嘘の皮が固くなりすぎて胡散臭さが滲んでんだよ」
はあ、とジューダスが大げさなため息をつく。哀しい目をヤバルたちに向けた。
「―――やめよう。今は一秒を急ぐ事態なんだ。こんなところで無駄に時間を割いている場合じゃない」
「一秒も急がせねえよクソ野郎。駆けつけられた理由はまあいいとしてもだ。おいあんた、どうして一度も俺を疑っていねえんだ?」
「先にイサク様からの報告を貰っている。あの方の置かれている状況も、君がマリアを預かっているのもそれで知っていたんだ」
「おかしいぜ。あいつは確かにすでにジューダスには指令が出してあると言っていた。つまり、あんたは関所のところで、嬢ちゃんを運ぶ誰かを待っていなくてはならなかった。だが、それが俺だと決まったのは今日の昼あたりだ。しかも逃げている最中だ。指令はそれ以前に出してあったはずだが、どうして俺が嬢ちゃんを運んでくるとわかっていたんだ。あんた、犯罪者で脱獄したばかりの俺が嬢ちゃんを背負っているのを見ても、まったく驚かなかったよな?」
「イサク様の方から早馬が来てね。それですべてを知っているんだよ」
ヤバルの警戒心は強くなるばかりで、表情に出ていた。ジューダスはヤバルの猜疑心むき出しの言葉を、誤解だと切り捨てようとはしなかった。
「ああ、あれはそういうことか。その早馬の奴はどこにいるんだ。前に出て所属と名前を言ってみろ。イサクが出した奴なら俺も知っているぞ。そいつが無事にお前たちのところまで辿り着けているなら、きっとそいつが出てくるはずだからな」
「ちょっと待っていなさい。彼は今とても疲れていてね。後ろで休ませているんだ」
「ッ」
ジューダスが後ろの騎馬隊へ向かって振り向いた瞬間だった。ヤバルが弾けたように動く。自らのアイオーンを、マリアのアイオーンへ伸ばした。
一瞬であったため、他の国衛軍の反応は遅れる。ただ一人、ジューダスが追いつけていた。
青白い光が煌めく。
空気が鳴るほどの高速。
大きく踏み込んだ位置からの振り上げられた剣が、ヤバルの目先を切り裂いた。
「!」
咄嗟にかわしたヤバルは、しかし足を払われてバランスを崩してしまう。側頭部を強い力で押され、身体は横に倒れていくのを止められない。マリアが短い悲鳴を上げる。ヤバルの手は、マリアのアイオーンには届かなかった。
地面に叩きつけられたヤバルの頭を、ジューダスが踏みつけた。
細い剣がヤバルに突きつけられる。
簡素を思わせるデザインでありながら、細部には細やかな銀の装飾が施された、片手で持てる剣。ジューダスのアイオーンだ。
「なるほど。君はそんなことができるのか。恐ろしいね」
ヤバルのアイオーンを見やるジューダスは、戦慄のあまり笑みすら浮かべていた。彼のその態度、その口振りは、ヤバルが何をしようとしていたのか知る言動だった。
「クソが。もう少し油断してろよ」
「できるわけがない。君もだが、そもそもマリアのアイオーンは危険すぎる。マリア、今すぐアイオーンをしまいなさい。彼と、君をも殺すことになる」
「ジューダス様。いったいどういうつもりなのです。私たちに敵対の意思はありません。ヤバル、あなたは何をやろうとしていたの。こんなことで時間を使う状況ではないのよ」
「馬鹿野郎。お前はまだあいつが仲間に見えてんのか。お人好し通り過ぎて正気を疑うぜ」
「何を言って―――」
「マリア。早くするんだ。さもないと、まずはこの少年から黙らせる」
「ジューダス、様……?」
ジューダスの顔を見上げたマリアは表情を凍らせた。彼女の今まで見たことのない彼がそこにいたのだ。冷たく、侮蔑が滲む目で見下ろしていた。
突然、ヤバルの顔が蹴られる。口の端が切れて血が飛んだ。腹に追撃が入る。吐瀉物が地面に散った。
「ジューダス様。やめてください! 私にも彼にも何もする気はありません!」
「彼はそんなつもりもないようだがね」
何度も苦しそうに嘔吐いているヤバル。震える黒い手が、そろりとジューダスのアイオーンへ伸びるが、ジューダスは足で踏みつけて簡単に防いだ。
「大人しくしていなさい。君がどんなに足掻いても私を欺くことはできないよ。マリア。さあ、アイオーンをしまいなさい。そうすれば、この少年も抵抗が無駄だと悟る。いや、私が少年を殺すという選択をしなくて済む」
「マ、リア……! マリア! なんでもいい。こいつらをそいつで蹴散らせ! あとはぜんぶ俺が引き受けてやる! 俺ならそれができる!」
吐瀉物を飛ばしながらの、ヤバルの必死の叫び。
ここで捕まればすべてが終わる。何としてでも、逃げなければならなかった。
しかし、マリアは迷いと怯えの表情を浮かべるばかりで、何もできなかった。
「無駄だよ。マリアは決断できない。そして何より、私が先を行く。マリアが決断したとき、私たちに抵抗する意思を持ったとき、そのときが君たちの死だ」
ジューダスが断言する。
ヤバルの首元にアイオーンの先を突きつけた。皮膚から赤い血が溢れる。
「私のアイオーンは数秒先の未来を視る。君の行動もその意味も、先を視て知ったことだ。だから、吠える君を私が放置しているのも、私が優勢の未来が今も見えているからこそだ。わかるかい。君が今も隙あらばと狙うその手も、私にはすでに見えているのだよ。警告したはずだ。次は殺す」
「ヤバル。ジューダス様の言っていることは全部本当よ。彼は、未来を視ることができるわ」
動いたら本当に命がない。
事実上の忠告をマリアからも受けた。ヤバルはジューダス自身の言動からも、マリアの言葉の意味を正しく理解していた。
クソ、と悔しさを溢す。指がぴくりと動いて、しかしそれ以上の動きはできない。躊躇いがすべての次の動作を殺していた。
「諦めろ。もう君たちは何もできはしない。君たちの先に、常に私の剣がある」
ジューダスが絶望を突きつける。だが、ヤバルの目からは闘志は消えていなかった。
諦めてはいなかった。
しかし、手段がないのだ。
そんなとき、ヤバルは、カチ、と何かを積み上げる音を聞いた。
聞こえてくるのはもはやお馴染みの老人の声。
自称職人の声だ。
「どんな目を持っても、所詮は人。身の丈のものしか見渡せない。ならば、人の外から手を伸ばせば、あるいは……」
職人の姿はヤバルの視界にはない。だが声は届いていた。
しかし、ジューダスもマリアも、職人の声には反応らしい反応をしていなかった。その現象をヤバルは胸中で受け止める。毒づきたい感情を抑える。
静かに、ヤバルの目に力が宿った。職人の溢した言葉が聞こえていた。
「そうだ。腕を使え。お前の腕を思い出せ。唯一無二の、お前の腕だ。わからないのか。答えはすべて腕が知っているぞ。海のときも、お前はどうしてこの島まで辿り着く流れに乗れたのか。もうすでにわかっているはずだ。そおら、あとは腕のままになぞれ」
ヤバルが短く息を吐く。その瞬間、彼の黒いグローブはジューダスのアイオーンに伸びた。
「な――!?」
黒いグローブは、未来視の剣に触れていた。
ジューダスの顔が驚愕に染まる。未来が見えているはずが、ヤバルの手をかわすことも防ぐことすらもできなかった。
生じた一瞬の隙を、ヤバルは逃がさず掴み取る。
ジューダスの剣を握りしめて、引く。剣を離さない抵抗を利用して、ヤバルは身体を一気に起こした。マリアのアイオーン目指して飛び出す。
剣を掴んだときにできた傷口から漏れる、青白い光の粒子が軌跡をつくる。
最後のチャンスだ。
この状況で反応できている数名がいても、ヤバルが最速をいっていた。ジューダスの絶対にひっくり返すことができないという自信が、反応を一拍遅らせていた。ジューダスの動揺は他の兵士にまで影響して、全体がヤバルより早くは動けていなかった。
ジューダスをも恐れさせる、マリアのアイオーン。滅びの魔女、その呼び名の原因に触れることができた。
ヤバルの目的は、まずはマリアのアイオーンに触れることだ。触れさえすれば条件を満たしていた。ジューダスを警戒させた能力が、発動する。
ヤバルのアイオーンは、他人のアイオーンを自らの所有物として操ることができる。触れた瞬間から、アイオーンはヤバルのものになるのだ。
だから、ジューダスは彼にアイオーンが触れることを嫌っていた。アイオーンを奪われると、当然その能力はヤバルに使用権が移る。つまり、この数瞬を、ジューダスの未来視は封じられている。
ヤバルの手を離れてからの、アイオーンの所有権が元の持ち主に戻る時間は、ある程度の上限までは触れていた時間に比例する。
触れた時間が僅か数秒であれば、ジューダスの未来視が復活するのもすぐだった。
だが、ヤバルにはその僅かな時間さえあれば十分だった。
まるでアイオーンが別の異物にすり替わったかのような違和感と、突然未来が見えなくなった動揺が、ジューダスに、ヤバルがマリアのアイオーンに近づけるまでの時間を作らせてしまう。見えていたはずの視界に突然暗幕が下りたならば、誰だって一瞬は動きが止まってしまう。ヤバルはそれを作りだしていた。
ジューダスが動くよりも、兵士に指示を出すよりも早く、ヤバルはマリアのアイオーンに触れた。あとは、滅びの魔女と恐れた力で周りの兵士を蹴散らせばいいだけだ。
他人のアイオーンの能力と使い方は、触れた瞬間から感覚としてヤバルの身体に伝わる。知識は得ないが、道具の使い方は身体が知らせてくれる。
ヤバルには、未来の瞬きが見えていた。ジューダスからアイオーンを奪った一瞬、その数秒先にある一瞬を視ていた。マリアのアイオーンに触れるその瞬間を。
腕を後ろに振って、ヤバルは左の袖口から跳びだしたフォークとナイフを後ろへ投げる。狙いはほとんど定めていない。少しでもジューダスの邪魔ができればよかった。フォークとナイフは、ヤバルが民家に忍び込んでいたとき盗んでいた物だ。
自身のアイオーンの能力が限定的なため、通常は服の中に仕込んだナイフなどを取り出したり、投げたりして、手品よろしくの手先の器用さで相手を欺いてきた。
ヤバルとしてはアイオーンの手先の器用さが主力であり、その能力は奥の手。使わないにこしたことがないものだった。
だが、使わざるを得ない状況であれば、躊躇はない。できない。
あと数歩もない距離まで、マリアのアイオーンに詰めた。
腕を伸ばす。触れてしまえば、あとは意思のままに、マリアのアイオーンですべての障害を焼き尽くせばいいのだ。
そして、触れた。
その背後、ジューダスの抗いが、ヤバルを追いかけている。まだヤバルは朱色の布に触れた瞬間だった。マリアのアイオーンを使用する前に首を撥ねれば間に合う。
異物と化した自らのアイオーンを握りしめて、ジューダスの一閃は、しかしヤバルの首で止まってた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
ヤバルは、まるで頭が膨れて弾けるのを抑えるかのように、両手で頭を押さえていた。生誕とは真逆の、命を削られる痛みを訴えるかのような絶叫を上げた。
「ああああああああああああッ! ああ、ああああああッ! ああああ、ああああああああああ! あああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
その影響は、マリアにも伝播していた。
腕や足をヤバルの背中に縛り付けられる形で固定されているため、彼女は曲がっている身体をさらに小さくしようとすることしか許されていなかった。
突然苦しみだした二人を、未だ消えることなく存在するマリアのアイオーンが冷たく見下ろしている。
「手を出すな! 暴走はない。繰り返す! 暴走はない。手を出すな!」
ジューダスは迅速に判断を下す。
少年少女の二人が苦しみだしたのを呆然と見つめていた兵士たちだが、我に返って現状の危うさを知ったのだ。マリアの、島一つを焼き尽くすアイオーンの危険を知っているため、彼らはその前にアイオーンを破壊するか、所有者のマリアを殺してしまおうと動こうとしていた。
兵士たちの行動と判断は正しい。もしジューダスが何も知らなければ、彼ですら剣を二人に振り下ろしていたかもしれない。
止めたのは、ジューダスにアイオーンが未来を見せていたからだ。ヤバルの能力の効果が切れて、ジューダスに所有権が戻っていた。
彼は、ヤバルとマリアの二人がただ苦しみ何もできない未来が見えていた。
「マリア・オルレアン、ヤバルを予定どおり拘束する。拘束具の着装を急げ!」
部下に指示を飛ばす。
臓腑を吐き出さんばかりの叫びを上げていた二人が、糸の切れた人形のようにぴたりと静かになった。気を失ったのだ。ジューダスにはこの未来が見えていた。
部下たちが急いでヤバルとマリアを囲む。
素早く正確な対応を見せる部下の手さばきを確認しながらも、ジューダスはマリアのアイオーンへの警戒を解いていなかった。
すでに気を失っているヤバルのアイオーンは消えているが、まるで独自の意思があるかのように、同じく気絶しているはずのマリアのアイオーンは顕在している。
その肌に覚えるほどの不気味さを、朱色の布から覗く、白磁色の無感情の目が無言で語っている。マリアが滅びの魔女と恐れられる力を持っているアイオーンだ。
いわく、そのアイオーンは。
「滅びの使徒、か」
かつて、神王ヤダルバオートが作りだしたこの世界を滅ぼそうとした悪しき存在。神話で語られる、現在までも人々の心に深く根ざした畏怖の対象だ。神王が世界を光で満たしたとき生まれた影の存在とも語られている。
語られる神話の伝説は現代までも現実に存在し、続いている。
この世界でいくつも確認されている島や海の消滅現象。滅びの使徒ソフィアが世界を滅ぼすため、神王との戦いの最中でも残した、滅びの力の爪痕だ。それが今もなお世界を蝕んでいるという。
マリアのアイオーンが滅びの使徒が残した一端だと恐れられ、彼女自身も滅びの魔女と恐怖されるのも、その絶大な力が神話に重なるからだ。
何より、人の全身を朱色の布で覆った異様で不気味な姿は、見るものに畏怖に似た感情を抱かせる。
ジューダスは、自身のアイオーンをしまった。青白い光の粒子となって消えていく。数秒遅れて、マリアのアイオーンも同じ在り方で消えていった。
青白い光の残滓を見送った。
この未来も、すでに見えていたことだ。
だが、ジューダスはすべてが片付いてから視線をある方向へやった。
ベルトで固定されていたマリアを外したヤバルは、腕を背中に回されて縄で縛られている。彼の右手首には手錠型の拘束具が着けられていた。
拘束具にはアイオーンの現出を阻害する力がある。滅びの使徒ソフィアが世界に刻みつけた力が宿ると言われている物質を素材にしたものだ。
その物質は神王の力の一部でもあるアイオーンを分解するのだ。装着者は満足にアイオーンを現出することができなくなる。当然、マリアにも着けられていた。彼女にはさらに首輪型の着けられて、ヤバルより厳重にされている。
ジューダスの視線は、その拘束具が着けられたヤバルに向けられていた。
一瞬だが未来視をかいくぐった事実が、ジューダスの彼に対する意識が変わっていた。注意しておくべき存在がもう一つ増えたのだ。
ジューダスの目は、ヤバルに問いかけていた。
あれは何だったのか。
あの一瞬に何をしたのか。
しかし、その少年は力尽きて意識を失っている。
問いただし、聞き出すことはできない。
未来を知るものならいざ知らず、常に未来を先読みしその先を行くジューダスを出し抜いたあの一瞬を、ジューダスは戦慄していた。
「ジューダス中尉。準備ができました」
拘束されたヤバルとマリアは、それぞれ別々の馬の背に固定されている。他の兵士たちのほとんどが馬に乗り、いつでも出発する準備を整えていた。
それらを全体を見渡すことで確認して、ジューダスも自らの馬に乗った。
「よし。移動するぞ。目的地は東区アロガンの関所だ」
現状は慌ただしく煮えたぎっていて、何者も待ってくれない。
せいぜい置き去りにされぬように、そして可能な限りの自身の都合に見合った未来を手にするために、もがき苦しみながら、未来への選択を余儀なくされていくだけなのだ。
はいっ!
というわけで、一ヶ月の定期更新は守り切りました。いやあ危ない。
この調子で最後までいきたいですね。頑張ります。
あ、挨拶を忘れてましたね。
初めましての方は初めまして。
お久しぶりの方は、……一ヶ月ぶりですね!
もう少し執筆速度を上げたり、安定させたりできたらいいんですけどね。
なかなか難しいです。
ともあれ。半分ずつの投稿ではありますが、なるべく定期的にやっていこうと思っていますので、今後ともよろしくお願いします!




