募金
その時俺は、駅から寮に向かって歩いて帰る途中だった。俺は今予備校生だ。とある事情があって高校を退学し、予備校に通いながら高認試験と大学受験を目指して勉強している。そしてこれまた特殊な事情があって家から離れて、一人で住むことになった。とはいっても完全な一人暮らしではない。寮では日曜を除く朝晩の飯が出るし、それを作るのは寮母さんだ。だから生活の全てを自分で自立して行っているわけではない。
まだ入寮してひと月も経たないから、友達もできないし、寝坊したり、洗濯をし忘れたりと、かつて親元で過ごしていた時には感じなかったいろいろな厄介ごとができて、正直面倒くさいが、まあ何とかやっていると自分では思っている。もっとも、友達ができないのは俺自身がコミュ障で話しかけることができないというせいでもある。というかほとんどこのせいだ。俺がかつて犯してきた過ちも、ほぼ俺に内在する劣悪な性質が原因で起きたことだ。コミュ障はその一面に過ぎない。
というのは今回話したい内容とはあまり関係がない。まあ少しは俺という人間を想像する助けになったかもしれない。だが俺が過去に何をやったかとか、そういったことは今どうでもいいのだ。気になって仕方がないところだろうが、ここでは触れない。また何かの機会があったら、その時に話そう。別に俺が自分の黒歴史を晒したくないとか、そういうわけではない。話そうにもそこまで大した話ではないし、知るだけ時間と脳の容量の無駄だ。とにかく今ここで話す気はないのだ。それだけは分かってほしい。
駅の所在は東京の某市。JR線の駅とだけ言っておこう。規模はそこそこ大きい。おそらく俺が以前家族と住んでいた最寄りの駅よりは二回りぐらい大きい。この駅の周辺は基本的に住宅街だから、朝と夕方はこのあたりに住む会社員や学生でごった返す。出口は北口と南口に分かれていて、北に歩くと商店街があって、夜もこうこうと明かりがついていて盛況だ。商店街というよりはグルメ街と言った方がいいかもしれない。南側はすぐ近くに巨大なデパートがあって、そこは全国規模で展開する大型チェーン店で、ここのは中でもその規模が日本一でかいらしい。この間入ってみた。確かに規模は大きかったが、中は閑散としていた。平日だったからかもしれない。
だが、これだけ語っておきながら申し訳ないことに、俺は北口からも南口からも出ない。この駅には北口、南口のほかにもう一つ出口があって、それは西側に開いていた。改札は南北のものに比べて狭い。狭っ苦しいがゆえに人の通りが少なく便利だから、俺はいつもここを利用しているわけだ。
さて、果たして塾帰りの俺がその出口を出ると、その女性はいた。出口のすぐそばで、通り行く人に何事か訊く。だがそっけなくあしらわれてしまう。しかし俺にはそのあしらう人の気持ちがよくわかったし、だからその人たちを責める権利もない。なぜなら俺も同じように無視して通り過ぎようとしたからだ。
ところがだった。俺にはその女性を無視することはできなかった。
「あの……」
向こうから話しかけられてしまったからだ。
「ちょっと、いいデスか」
片言だった。よく見れば日本人的な外見ではない。小柄で、肌が浅黒く、顔の彫りは深い。多分二十代ぐらいだと思うのだが、その刻まれた彫りがどことなく苦労と老いを感じさせた。服装は日本人と大して変わらなかった気がするが、俺はファッションには疎いのでよくわからない。髪は黒というより褐色に近く、日本人的なストレート剛毛ではなく、細かくウェーブして後ろで縛られ、時折吹く淡い風になびいていた。
手に何かを持っている。俺は目が悪いので、近づいてもそれが何だかよくわからなかった。平たいものだ。おそらく地図だろう、と思った。この外人の女性は、きっと道が分からなくて街行く人に尋ねていたのだろう。そう勝手に予測して、なんだ、こんなことなら、なぜほかの人たちは無視するのだろう、冷たいものだ、と自分の存在を棚に上げる。
「どうしたんですか」
俺は言った。
「実は……」
割と喋れるなこの人、と気づいた。観光客でこれだけ流暢に喋れるものかと、ふと疑問に思った。それにしてもどこの出身なのだろう。顔つきからして、白人でも黒人でもないのは明らかだ。かといって黄色人種でもなさそうだ……と、余計なことを考えていた時だった。
その時だ。まさに、その時だったのだ。
人々がこの女性を避けていた理由を、俺が知るのは。
「募金をお願いしてるんデス」
女性は言った。淀みなく、堂々と言った。
しまった。俺は思った。俺の身分は一応学生ということになっている。学生にいつも付きまとうものが一つある、それは金の問題だ。親がよほど金持ちで過保護でない限り、世の学生たちは、大人と違い収入が少ないため、遊ぶ金がほしくても、バイトで稼ぐか我慢する。俺も同じく、親に寮費を払ってもらい、親からの仕送りで生活している以上、無駄金は使えない。
だが、ここまではまだよかった。俺はすぐに気を取り直した。どうせ募金と言っても、せいぜい百円や二百円放り投げておけばいいはずだ。そう高をくくって、俺は言ってしまった。
「いいですよ」
そこで俺は、この女性が手にしていた物体が何かを初めて知った。それは、バインダーに取り付けられた名簿だった。微々たる視力を少しでも高めようと俺は目を細めて、その名簿を凝視した。するとそこには、罫線がずらりと並んでいた、いや罫線ではない。表になっている、そして上端には「お名前」、「金額」と記されていた。
「でハこれにサインしてくだサイ」
女性はボールペンをとりだして俺に渡そうとした。俺がペンを受け取るとほぼ同時に、女性はその持っているバインダーを差し出し、名前を書けと促す。あまりに手際がいいので少々面食らった。
おずおずとペンのキャップを抜き、バインダーを受け取り、署名しようとして、改めてその名簿をよく見てみたのだったが、
「某山某男、1000円」
「某川某子、1000円」
という感じで、五、六人の名が羅列されていた。マジかよ、相場が千円単位だったとは。俺はこの女性に出会ったことを心底後悔した。千円以上の金額は今の俺にとっては大金だったからだ。
ここで俺は考えた。このまま走って逃げようか。そうすれば俺は千円もの大金を払わずに済む。俺にとっては最高の結果だ。だが、俺の周りにいる通行人たちは、俺のこの行動を見てどう思うだろうか? 突然走り出した俺を見て驚くだろう。あるいはこの一部始終を眺めている人間が――もし万が一いるとするならばだが――いたとしたら、俺のダッシュする後ろ姿を見て、お前は彼女の故郷で苦しんでいる人々を何とも思わないのか、募金していれば飢え死ぬ子供の一人でも救えたかもしれないのに、ひどい奴だ、人非人だ、と糾弾するかもしれない。そうしたら俺はこの駅を利用する通行人たちに七十五日は軽蔑の視線を浴びせられて過ごさなければならないだろう、相手が会ったことのない人間たちとはいえ、こうなってしまうのは俺にとって好ましくない。
では俺はこのまま、自分の意思に反してお金を払うのか? 微々たるものとはいえ、それで人の命が救えるなら、それはそれで結構なことだ。だが、自分の意思に反した決断を下すことは、当然俺のためにはならないし、主体性に欠ける典型的日本人と思われるだろうし、そんな気持ちでお金を払ったところで苦しんでいる人々のためになるものか? 答えは否だろう。第一、そのお金が本当に正しい目的で使われるものなのかどうか、非常に怪しいところだ。どこかで聞いた話だが、金を募るにあたっては役所の許可がいるらしい。当然悪用の恐れからくるものだろうが、だとしたらこうして堂々と募金活動をしている女性たちは、公の許しを得てやっているのだろうから、信用に足る……と言えなくもない。しかし、決定的なのは、それを論じたところで、今の俺にそれを確かめるすべはない、ということだった。そもそも団体名も知らないし、具体的な活動内容も知らない。
俺は悩んだ。ひとしきり熟慮した。しかし結論は出そうになかった。そうして煮詰まっているそばから、その女性はお金を払うよう促してくる。イライラした。何とかしてこの場から逃げ出したいと思った。だが状況は俺を束縛してやまない。
ついに、俺はこの枷を断ち切るために、財布を開けた。中から折りたたまれた千円札を一枚抜き出す。未練で一瞬手が止まった。肖像と目が合った気がして驚いていると、目を合わせてきた野口英世が俺のこの状況をせせら笑っているような気がして腹が立った。女性の表情があからさまに輝いた。金、金というものは万能だ、どんな人間でも笑顔にすることができる、やはり世の中金なのだ、そう現実逃避しながら俺は言った。というより、無意識に口をついて出てきていた。
「募金……しますよ」
俺はそのままペンを取ると、名簿に名前を書いた。「山本 翔」、そして金額を書いた。「1000円」そのまま女性にお札を手渡した。
俺は脱力した。長年自分を縛っていたしがらみからやっと解放されたような気がしていた。「ありがとうございマス」女性は笑顔でそう言って俺から去っていった。
女性の後ろ姿は、他の募金者を探そうと懸命になって、前かがみになっていた。俺はそれを眺めたが、何とも思わなかった。