最終和
もう書かん思うとったやろ。甘いで。
ロクの話
1
月曜日はボクに何も影響しない。
学校に行くのにも、慣れた通学路を歩むにしても、見知った顔を見るにしても、そのどれもがボクの何かを変えるわけではない。
変わらないからこそそれを日常と呼び、その渦に飲み込まれる事に余震こそあれ震源地を見定められるわけではない。予想の範囲内での変化はそもそも無いのと同じなのだから。
相も変わらず授業を受け、クラスに空いた席を気にする事もなく時間を過ごす。将来使うかどうかだなんて韜晦もせず、今と少し先の未来で必要な知識だけを詰め込んでいく、知識を経験にし、縫い付けていく。
昼休みを告げるチャイムが鳴り、中庭のベンチへ向かう。
周囲は友達同士(果たしてその友達がボクの定義と同じなのかは甚だ疑問ではあるが)で弁当をつまむもの、アベックで話すもの、キャッチボールをするもの、それぞれがそれぞれの姿勢でここにいる。
ボクはというと、この有様だ。
「今日は! 今日こそは!」
「自信作だ、と」
鼻息荒く、その少女は腕を組んで自信満々にタッパーを見下ろすのだ。
「ロールキャベツは本当に得意なんです!」
「それはそれは」
まずキャベツを下茹でしないから形が悪い。かんぴょうを使って巻いているものの、裂けた表皮から中の肉が見えている。旨味を閉じ込めるという基本原則すらそこには存在しない。
「いただくよ」
「どうぞ!」
箸を刺す。割れるかと思いきや、キャベツの芯がまだ固く、容易ではない。どうにかして繊維のまだ残るそれを開き、一口大に分けた。
肉が 赤い。
「こ、これは・・・・・・」
まずそうだとか、食べにくいではない。
単純に体調に問題が発生しそうだ。
「どうぞ!」
その毒物に似た何か(失敬、ロールキャベツらしきもの、である)を自信満々に勧める。
出来うるだけ赤い部分をばれないように剥ぎ取り、口へ運ぶ。
「どうです? どうです?」
「・・・・・・うん、美味しいよ」
その嘘にすら、彼女は満面の笑みを浮かべるのだ。
「でしょう! ドリアに引けをとらないでしょう! ふふふ、隠し味なんですよ、これが!」
口の中で残る粉チーズのことだろうか、それともやけに主張してくるオレガノか、もしくは、まさかとは思うが 何故か甘ったるい汁のハチミツだろうか。
そのどれもが主張に主張を重ね、自己の存在をアピールし続けている。
「もし先輩と暮らすようになれば、わたしが毎晩毎晩お料理作って、仕事から帰ってきた先輩を出迎えてあげるんです! 玄関でおかえりなさいのチューをするんです!」
「それは素敵な家族計画だ。幸せすぎて 」
反吐が出るね。
その言葉を飲み込んで、何かで脳味噌を真っ黒にさせながら残りのデスロールキャベツを口に入れては咀嚼していく。
ただでさえ長いと感じるこの昼休みが、浦島効果に飲み込まれたかのようだ。
念の為に持ち歩いている征露丸の残弾数を確認しなければいけないな。
「ふふ、幸せだなぁ」
「鏡井・・・・・・」
もうタッパーに残ってる汚物は残り少ない。量だけは女の子サイズで助かった。
「未来? 先輩もついに将来の事とか考えてくれるようになったんですか?」
「ん? それは考えるよ。進学するのか、就職するのか。もしくはフリーターにでもなるか夢を追いかけるか」
前途は揚々とは行かず、かといって与えられた選択肢と掴み取った道に区別をつけず。
自分で敷いたはずのレールに乗れているかどうかも分からず。
「今日どうします? 珍しく部活が無いんですよ。この前、試合終わったばっかだし、しばらくゆっくりできるんですって!」
「ボクも暇だよ。特に予定はない」
「ほんとですか!? じゃじゃじゃじゃじゃあ! どっかお出かけします!? でも昨日も三日月行ったしなぁ。どうせなら一度帰って服も着替えたいですしぃ」
「でも一度家に帰ってって事になると、遅くなってしまう。今日は家に家族がいるから、あまり遅くまでは厳しいな」
後輩少女は肘を手のひらに置き、人差し指で唇を叩きながら視線を斜め上のまま左右に動かす。バックグラウンドミュージックをつけるなら『ポクポクポク』が適当だろうか。
やがて名案が生まれたのか、拳を一度打ち、
「でしたら黒壁に行きましょう! あそこならわたしと先輩の家の中間くらいですし、そのまま行って現地解散すればギリギリまで一緒にいれます!」
確かに妥当か。ボクもちょうど黒壁スクエアに靴を買いに行こうと思っていた所だ。
「では放課後! お待ちしてます!」
「ごちそうさま。また後で」
色気の無いタッパーをピンクの三角巾で包み、たったかと擬音を立てつつ、彼女は後者へ消えていった。
去り際に残した笑顔は紛れも無く本物だったし、そこに疑いを持つべきではない。
しかし何故かボクは疑惑を拭えないのだ。
それは楽しみなのが嘘 という訳ではなく、彼女の存在自体が何かふわふわしているような、掴みどころのないような印象を禁じえない。
いや、待て。
浮き足立っているのは自分ではないのか。
それこそ地に足がついていない、という比喩がぴったり当てはまるようだ。
不安があるわけではない。気負いがあるわけでも懸念があるわけでもない。
どこか、歪みを感じているだけだ。
2
黒壁スクエアは月曜日だというのに有象無象の命が蠢いていた。
平日、それも週の始め。逢瀬であるなら土日祝日に入れ込むだろうし、用事がある場合も同様だろう。済ませたもの、終わったもの、月曜日のデパートにそういうイメージを持っていたボクの先入観を壊すためにこの場所があるのだろうか。
いや、その一部を構成するボクと、そしてこの少女も該当を禁じえない。
自らの先入観を自らで払拭するのは果たして成長か。
それとも怠慢か。
どっちだっていい。ボクは寒くなるこれからの時期のために靴、あとは上着や少なくなってきた肌着を買いにきただけだ。予定の実がそこにあり、その中に『デート』というイベントが紛れ込んできただけにすぎない。
「先輩! ねぇ!」
「……? あぁ」
急かされる。何に? 彼女は何に急かされている? それに巻き込まれたボクは、何を目指して急げば良い?
時間は十九時半。まだ未成年が補導されるには少し早い。
周囲には学校帰りだろう、ボクらと同じ男女のコンビもいれば、同性同士で歩く制服姿も目につく。
自分が何者なのかを知らない。
人間とは考える葦である、と どこかで聞いた。
では考えない人間は、何に属するのだろう?
目の前のことしか見えない。自分の二歩先を知らない。それはそうだ。未来予知の特殊能力を持っていない限り、そんなものが分かるわけがない。
だから考える。
来るであろう未来の選択肢を、どれだけの『数』として認識できるかが人間を人間たらしめる。
それはとても残酷だ。
三人組の女子高生が立ち食いソバを食べるサラリーマンを指差して笑っている。
もしかしたらその昔、その人に命を救ってもらっているかもしれない。その気持ち悪いハゲたおっさんと、将来は結婚してしまうかもしれない。
そんな事は彼女達の頭の中にはない。
『キャハハ』。
そのゼロコンマ一秒のために、彼女達のその刹那の為だけにあのサラリーマンは存在している。
とても不愉快だ。
「晩御飯、何にしますぅ?」
なぜか腹部に鈍痛を感じている。胃の中に砂利がある気分なんだ。
その考えは消そうとしても消えない。ただ容易に浮かぶその考えを口に出す義憤は、ボクの人生に一度たりとて現れない。
「そば、いやうどんがいいな。さっぱりしたものがいい」
「いいですね! まだ暑いですし! あそことかどうです?」
視線の先にはそばとうどんをメインに据え、丼物と揚げ物をディスプレイしている店構え。
料理サンプルはどれも色鮮やかだ。緑は緑、赤は赤。白は白に茶色は茶色。
ボクの脳が悲鳴を上げている。
ボクの人生において 色は色として形と意味を成さない。緑を赤と呼び、白を茶色と偽ることが蔓延している。そうでなければ全てが回らない。
いつだってここは人種の坩堝なんかじゃない。
概念の蟲毒だ。
「す……だ、ち? ってなんでしたっけ?」
「レモンだよ」
店内入り口に立てばこんな学生相手に深々と頭を下げ、敬語を話す男性がいる。
彼には彼の人生があったはずだ。こんな数秒、たかが数秒だ。彼が口にした「お客様、二名様ですか? どうぞあちらのテーブルへ」。その数秒を構成するのに彼は(およそ推測だが)四十年という月日を費やした。
「ご飯食べたら何しましょっか!」
届いたボクの天ざる、彼女の前にはカレーうどん。
ボクはこの少女が着ている薄手の白ニットセーターにカレーが飛ばないかだけを心配してればいい。それがボクの仕事であり、今やるべきことなのだから。
ボクらは食事や遊興、その他の金銭が発生したら、お互い変わりべんたんで支払いをすることにしている。今回はボクの番だったので財布を軽くすることになる。
「ごちそさまでした!」
「美味しかった。また来ようか」
最近、ろくなものを食べてなかったから、とは言えなかった。
フードコートを出ると、通路にガチャポンが並んでいた。
「わぁ! 捨て子ザウルス! かーわいい!」
「そうだね」
その筐体を見ることもなく、ボクはとことんリアルな動植物のガチャポンを探す。
お互い欲しいものをお互い小銭を出し合って購入する。
「あ、ついでに百均よりましょ」
「何か買うものあるの?」
「ありますよぉ! これから、えへへ……恥ずかしいんですけどぉ。先輩のお弁当、毎日作ろっかなって! だったら仕切りのやつとかぁ、爪楊枝とか! 可愛いのがいいな、って!」
目の前、一寸よりも近い先まで来ていた闇を、なんとか「全ての食材がアレルギー」という謎の最強バリアで撃退する。
楽しい。
楽しかった。
そのはずだ。
なのになぜだろう。
帰宅すると風呂上りの妹が二階から降りてきた。髪を乾かすのに洗面所に向かうのだろうが、ボクを見て表情無く口にした。
「なんでメロン」
そう。なぜだろう。
黒壁スクエアの地下のスーパーにわざわざ立ち寄って購入したまだ早熟のメロン。
どうしようもなく頭に浮かんで消えなかったので、小遣い支給日直後という言い訳をフルに活用し、夏目漱石を旅に出したのだ。
「別に」
「別にって。おかしくなったの? かあさーん!」
居間から顔を出す母は、ボクと妹の微笑を交互に見て、
「なに? 洗い物してるんだけど」
「にーきがおかしいの。メロン買ってきた」
「あらほんと。おかえり。デートどうだった?」
嘆息だ。
「違うって! にーきがメロン!」
「まぁ。メロンねぇ。お母さんもね、ちょうど安くなってたからメロン買ってきちゃったのよ」
無言で玄関扉の鍵を閉め、首肯するでもなく醜行するでもなく。
母親を目だけで動線から移動させ、冷蔵庫にビニールの袋のままメロンを突っ込む。それも野菜室ではなくパーシャルに。
「変な子。会話も出来ないのかしら」
「にーき、フられたんじゃない? 変だもん」
後ろから聞こえる陰口でもない言葉。
ずっとボクの心に木霊する「ここじゃない」という焦燥。自分が自分じゃない、ではなくて自分がここにいてもいいのか、間違えてないのか、という不安。
ズレたままで割となんとかなる人生という物語。
飛んでしまって付け直した一つだけ色の違うボタンを、気に入らなくて捨ててしまった後悔のようなもの。
認められなかった。
何も間違いが無い場所としておきたかった。
始まりはいつだってそう。クリアスタートじゃなきゃいけない。ただ、どこか途中で間違いに気付く。僅かな間違い、取り返しのつかない間違い。失敗。
その瞬間、全てを投げ出してしまう。
自分の見える世界が百点をキープしていなければいけない。
強迫観念にも似た何かの驕り。自分を構成するものが純粋で綺麗な黄金だけにしておきたい。混じりっけのないものにしておきたい。
交じり合う朱も無く、かといって白でもなく。
おかしな話だ。
笑いが止まらない。
3
翌日。月曜日の翌日は世界線が寝ている間に変わってない限り、火曜日だ。
夜明けから少し。ジョギングするスパッツを着用した中年男性一人だけの道を歩く。もちろんボクは登校なので制服である。もうカッターシャツではこの寒さを乗り切れそうにない。
何はともあれこの朝という時間が好きだ。
心なしか空気に排気ガスが少ない気がする。夜の愛に抱かれて冷めた空気が、太陽という日常で実態を取り戻していく感覚。いっそ騒ともとれる静寂。
自分の呼吸音すらサウンドスケープとして機能しそうなこの時間が、ボクは好きだ。
だからだろう、歩きながら何かを思う。決して自分が変わっているからではない。
これが高校生特有の哲学奔走ならまだいい。
ボクには無い没頭に埋没する幸せを知っているのは、とても妬ましい。
「…… 」
鳥のさえずりすらノイズミュージックのようだ。
自分の体が自分のものじゃない気になる。これはボクが動け、と命令しているから動いてるだけで、言うなればマジンガーやガンダムみたいなロボで、本当の自分は脳というコックピットに搭乗しているだけで。
考えずとも足は出る。合わせて体が揺れ、手はバランスをとる。
ムカデの歩き方はムカデに聞くしかない、という言葉を思い出す。ボクの歩き方は本当にボクにしか分からないのだろうか。
常識だ。当然だ。
普通。
何が?
「何してんだろ」
道中にある川の土手、その土手に下りる石段にボクは腰掛けている。朝露の匂いのする雑草にショウリョウバッタのオスがたなびいている。
君も一人か。
ボクの中でボクじゃない誰かが語る。
ボクは一人じゃない。
もちろんボクはボクだけだ。唯一無二。人権や思想なんかじゃない。人間は個人を個人としてとらえることに慣れすぎている。
そんなおためごかしを言うつもりはない。
ボクには家族がいる。認めたくないが愛してくれているだろう母親、なんだかんだと心配して昨晩もクッキーを手渡しにボクの部屋に訪れた妹。可愛い恋人。ボクを心の底からこの世で一番愛してくれるだろう少女。友人、と呼べるかは微妙だが級友。親戚。知り合い。好きな芸能人。かつて幼稚園の運動会で手を繋いで踊った園児。一度しか会ったことのないコンビニの店員。旅行先で遊んでくれた見知らぬ男性。単身赴任先で頑張っているだろう父親。
ボクの人生、ボクの周りにはたくさんの人間がいる。
その大事な、幸福な、とても愛おしい何かは。
ボクの心に波一つ立てないんだ。
「ボクは、おかしいのかもしれない」
自嘲ではない。もちろん自覚でもない。
はたしてこれは事実なんだろうか。真実なんだろうか。
今すぐにでも涙を流して叫びながら全力で手足をばたつかせ、このうだつの上がらない現状を打破してしまいたい欲求。
納得いかない。満足できない。
眼鏡に張り付いているようにどこを見ても代わり映えしないこの景色、今日も退屈で。
この等身大の体に詰め込まれた鬱屈を、誰が知る。
ボクの心の底に踏み込める奴がどこにいる。
どれだけ溢れていても、どれだけ恵まれていても変わらない。
自分が持つただ一つの望みが叶わない。
「お、何してんの」
そう、ボクに声をかけてくれる人間なんていない。
ただそれだけを望んでいるのに、ただそれだけがあればいいのに。他に何もいらない。手足だって家族だって恋人だってボクを作ったこの世界全てだってくれてやれるほど欲しているのに。
奇妙だ。
始まりはいつもクリアスタートで。
たった一点の黒いシミがあるだけで、そのキャンバスを破り捨てる勘違いの完璧主義だ。何も正解してない、何も成功してないのに、その一点だけで全てがゼロになってしまうんだ。
だからボクは進む。
前には、燦々と陽を受けて輝く川がある。
4
叱る、とはとても良いものだ。良いものは決して無くならない。
叱ることができるのは、相手を愛しているからだ。自分好みに変えてしまいたいからだ。それが正解だと確信しているからだ。それを拒否するとは思ってないからだ。
愛するとは、相手を変えること。
自分も、相手に合わせて変わること。
それがボクの思う、ボクの信じるたった一つの価値観なのかもしれない。
「ほんといったいなんなんですかッ!」
怒号だ。これは、怒号。
病院で目を覚まして早二日。六人部屋にも関わらずこのご時勢でも閑古鳥が常駐している地方病院に、ボク以外の入院患者は嫌われているのだろう。
二日。二十四時間の二つ分。正確には面会の時間が定められているため、午前十時から夕方の六時までの八時間を両手分。
ボクは叱られていた。
「信っじらんない!」
それも十六時間、ひっきりなしに疑問を投げかけられている。
この小さな小さな少女に見える生き物は、ボクの眼をしっかと見続けながら同じ問いかけをただ繰り返していた。
「ほんと! もう!」
「ごめん」
答えた。最初に質問された時にボクは明確な解答として「自分でも分からないけど、なんとなくやっちゃった」と、そう思いを渡したはずだ。
それがどうにも受け入れがたいのだろう、この少女はそれでもまだボクから何かを引き出そうと躍起になってボクの胸を打つ。
「謝ってほしいんじゃないんです!」
また雷だ。
答えることも謝ることも許されない。彼女が納得し、受け入れ、自分の中の腑に落とすまで、ずっと続くのだろう。この繋がりという名の拷問は。
居心地の良い、地獄が。
「なんでなんですか!」
「ごめん」
怪我をしたわけではない。呼吸が止まった影響で脳にダメージがあってはいけない、という病院側のいらぬ世話が、この検査入院という時間を生み出している。
ボクは二日前から何度もそうしたように、ずっと握られている右手を握り返した。
「ほんとなんなんですかぁ……」
そして涙を落とす。これも二日、そして今日で三日繰り返される光景だ。
「いや、ごめん。本当に分からないんだ」
「わたしがっ……いるのに、なんで なんですか……」
嗚咽で聞き取りにくいのも同じ。
と、しかし閉口だ。自分にも分からないものを聞かれても無い袖は振れない。
「なんで、なんだろう。ふと思ったんだ。ボクは間違えたのかな、って」
取り返しもつかなくなったのかな、って。
「ただそれだけ」
「意味分かんないですッ! 意味! 分かんない!」
彼女の涙を拭く専用のタオルまでこのベッドには用意されている(あまりの号泣っぷりに看護婦さんが手配してくれた)。それを手渡して続きを口にしようと開くのだが、言葉の通じない何かに伝える手段をボクは持っていない。
聞かれても、問われても、脅されても。
在庫が無い倉庫に一人ぼっちだ。
後悔もなければ雑念も無い。ただ自分がしたことは間違っていた、とは遅ればせながら感付きはじめている。少なくともボクのしたことで色んな涙が流れることは、悪いことだ。
自分が愛されていると再確認できるのは、悪い気分じゃない。
もちろんそれを理由にすることはないけれど、この状況になって初めてその気持ちが理解はできるようになった。あくまで立場としての話ではあるが。
自分以外が信じられなくて白昼夢に怯え泣いていた心の中のボクでさえ世迷い言にされそうな既視感。
世界は廻る。もちろん自転や衛星の話じゃない。
車はギアが欠ければ動かない。はたして世界にとって、ギアとはなんなのか。
少なくともボクじゃない。ボクがいなくなったところで廻ることをやめるわけがない。ボクの世界は止まるだろうが、それは他の誰かの世界ではない。
自分が思っていることを他人が共有している世界じゃないからだ。
テレパスがいないのだから、当たり前だ。情報の共有はできても、価値観の共有ができても、思想の共有ができても。
世界観の共有はできない。
あくまで眺めるだけの産物だ。
独立したそれぞれの世界観で、関わっていくしかない。だから何かが無くても、何かが欠けても世界は廻るのをやめない。
やめられない。
面会時間が始まって、正確にははじまる一時間は前に部屋に突入してきた少女の顔を見つめる。
「先輩が、いなくなったら」
「うん」
「わたしは死にます」
「うん」
「何も無いもん。この世に何も無くなっちゃう」
「うん」
うん、とは。
許容か。それとも迎合か。
その言動の意味するところとは、いったいなんだっただろうか。自問自答に答えは無い。いつまでも頭の中で疑問が疑問として残り続ける。
拒否ではない、迎撃ではない。
それだけは言える。
ただ黒と白の二元論、極論だけで人間関係は進捗しない。いつだって良い「落としどころ」というものが必要で、そこに入れ込むに最適な布が「うん」と紡がれただけだ。
「わたし、先輩と結婚するつもりなんです」
「うん」
「こんなに好きなひと、もう一生出会えないと思います」
「うん」
「だから、もう馬鹿なことしないでくださいよぉ……」
それに、ボクはなんと答えたのか。
目の前で、ついさっき、本当に自分の口からどういう響きの言葉が出たのか記憶に無い。
「結婚、ね」
本当に例えばの話だ。
「ボクが君に恋をしなくなって、浮気したらどうする?」
「そ、そ! そんなの! 絶対許しません! ほんと許さないから!」
空いている手を揉む。
「じゃあさ、ボクがご飯作る時間があぁ 仕事とかでね。無かったときに、コンビニのご飯で済ましたりする?」
「? なんの話なんです?」
「いや、いいから。どう?」
「たぶん、うん、はい。そうするかもです」
その時のボクの顔は歪んでいたんだろう。
笑顔でもなく、哀愁でもなく、号泣でもない。歪んだ表情。いまだ名称の無い感情に支配された精神が、ボクの表情筋を全方向に引っ張ってしまってたんだろう。
彼女は 、
彼女なら 、
「そんなこと言わない」
「へ?」
「百舌なら そんなこと言わない」
そんなボクの顔を見て、この小さな少女はきょとんと音が聞こえるほど眼を丸くするのだ。
怪訝そうに唇に指を当て、首をかしげ、上目遣いで覗き込む。
白いカーテンが揺れている。換気のために開けられた窓からボクの好きな朝の空気が入ってくる。早朝ではないものの、まだ純度の高い空気が。
いつだっただろうか、あれはこの少女がボクに告白をした時だっただろうか。
自分が愛されるなんて夢にも思ってなかったときだ。
ボクは知らない少女から告白された時に感じた。色んな疑問、色んな欲求、色んな思索、色んな承認、色んな高揚。
そのどれもがボクの中で答えでなかった。
愛するものに愛されたい。
思考を持った植物が顕現してから、その希望は付きまとっている。
だが世界はいつだって不安定で、そんな都合良くは歩を立てていない。
いや、いい。そんなつまらない紆余曲折はどうでもいい。
いつか愛せるだろう、いつかボクにも分かる時が来るだろう。そんな不確定な、ともすれば逡巡にすら捉えられる感情でボクはこの少女との交際をスタートしたんだった。
あれから少しの月日が流れた。
この少女は全力でボクを愛してくれたのだろう。
ボクはどうだ。
いつまでもつまらない、中途半端に良いだけで何も生み出さないこの脳味噌と、自分にしか分からない自慰を独りよがりに堪能しただけ。
黒い羊のようだ。歪んでしまった。
楽しかった夢を見ていた。
きっとどこにでもある喧騒なのだろう。人生のスパイスなのだろう。何かの経験なのだろう。
そんな些末な出来事は、ボクを何も変えやしなかった。
楽しかったのも、幸せだったのも、悲しかったのも寂しかったのも、ボクの感情を揺さぶったのはこの少女だ。この少女だけだった。
でもボクを変えたのは、この少女ではなかった。
「百舌は 」
きっとどこかで分かっていたことなのに。
「やだぁ」
止まった時間を動かすのは。
「百舌、百舌って。わたしならここにいますよ」
金属と金属がこすれあった音がした。
ボクの中にあった錆びついた何かが、強い力で動き出した感覚。
「あ 」
「なんか照れちゃいます」
両頬に人差し指を当てて顔を赤くする少女は、破顔した眼でしっかりとボクを見ている。
この一瞬一瞬で消えていくだろう記憶と、この一瞬一瞬で作られていくであろう記憶が綯い交ぜになって、攻め立ててくる。
冬にはまだ早い。
動かなくなるには、まだ早い。
レイの話
騒動を起こしたところで学校という機関は優しくなったりはしない。
結局、事故として扱われたボクの奇行は、叱責と少しの心配を伴っただけで何もボクの日常に異物を入り込ませる隙間を作らなかった。
それはそうだ。
体にも精神にも異常が無く、馬鹿みたいに朝早くに登校していた学生が一人、川に落ちただけなのだから。
星の王子様の話を思い出す。
ヘビの腹に入っていたのは、結局なんだったのだろう。
とりあえずいつものように四時半での起床を試みたボクだったが、一階に腕を組んで仁王立ちしていた母親の圧力と説教を食らって結局は七時半というひどくまともな時間での登校と相成った。
これもこれで、良い。
いつも食べられない(いや、意図して食べていない)朝食をひどくゆっくりと嗜むことができる余裕。
食後のコーヒーなども堪能しながらの高貴な時間。
テレビのニュースがこの近所の河川敷での殺人事件を垂れ流している。少女が一人、亡くなったらしい。とても痛ましいことだ。中学校あたりの卒業写真だろうか。可愛らしい少女の写真が映し出されている。
なんとなく名前を眼で追うが、読めない。カガミイと読むのだろうか。
犯人がまだ捕まっていないということで、親の間には連絡網が回っているのだろう。やっとピットインを迎えた母親の口が、また最速をもって走り出した。
と、言われても正直、何をどうすればいいのか分からない。
いつものように、普段となんの変わりなく登校すればいい。
「いってきます」
秋の日差しとはこんなにも強かっただろうか。
朝の空気とはこんなにもぬるかっただろうか。
「じゃ! 行きましょ!」
待っていた(信じられないことだが、恐らく舞っていたのだろう。汗をかいている)少女がボクにシュタっ、と右手を見せる。
お目付け役を買って出るとはご苦労なことだ。
「百舌ちゃん、よろしくね! このバカがバカなことしないように見ててね!」
「ラジャです、お母さん!」
根回しの早いことで。
しっかりと組まれた腕から感じる熱意の方がこの陽気よりも遥かに熱い。
「いってきまーす!」
「はーい!」
気恥ずかしさと嬉々、どちらの対応にも困る。
横を歩く少女を見つめる。この子の何かを考える。
「なんですかぁ?」
嬉しくてたまらないのだろう。叫び出したくて、走り出したくて、自分の中の何かが自分を食い破って出てきそうで。
何も無い。ただ、見ていただけだ。
しかし見ているだけ、と言っても見ていたのは事実だ。それを疑問視されるのは当然である。
「いや、別に」
「? …… ふふっ。なんですかぁ。今日も可愛い百舌ちゃんですよ!」
まぁ、いい。
これも幸せになるのだろう。
これを何と呼ぶか、と問われればそう答える。
「先輩と一緒に登校できるなんて夢のようですっ!」
「そう、かなぁ」
「そうですよ! それにお母さん公認ですし! これはもう婚約者なのでは!」
そう、だろうか。
「ほんと嘘みたい!」
嘘、じゃないからここに君がいて、ボクがいるんだろう。
そうそう嘘が本当になっても困る。
「あらためまして!」
少女が二歩、前へ躍り出る。
綺麗な、四十五度のお辞儀。
「これからも、よろしく」
上げた顔は、ボクのよく知っている顔で。
でもその表情は、シニカルでラジカルでニヒルな笑顔だった。
とても暑い。
まだ残暑なのだろうか。
とても、熱い。
終わり
レゼイロ