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レゼイロ 100:0  作者: 水色
4/6

四話

うんこ食べ蔵

ヨンの話



1


 いきなりお腹を掻っ捌かれて、石を詰められた気分だ。何の謂れも無い濡れ衣で、嘘吐きと罵られる気分だ。切った髪の毛を破格で売り払われた気分だ。接吻で初めて口臭に気付いた気分だ。目覚めた方が地獄だった気分だ。魔女が深夜営業だった気分だ。

 何よりもまず、納得が出来ない気分だ。

 三回目はまさかの自宅だった。

 それも風呂上りなのでバスタオルしか巻いておらず、着替えすらしないまま部屋に入り、頭を拭こうと腰のタオルを解いて頭に被りなおした。

 そんなまさか今。

 真っ裸のボク、迷彩服を来た幽霊。

 何よりもまず、納得が出来ない気分だ。

「待て、ちょっとだけ」

 またもぶつくさと小声を漏らし始めた幽霊に、とりあえず肩にタオルを下げて近付く。これはある意味でシュールレアリズム。

 そして聞き取る余裕も無いまま彼女は消えた。最後にようやく間に合ったものの、代わり映えもしない「豆乳メロン」だけが残される。

「空気、とかさ。雰囲気とか。タイミングが一番大事なのを知らないのかよ」

 呆気にとられたわけでもないが、頭を拭く作業に戻る。まぁ、そんな事もある。何時しもボクに都合が良いように世界は進まない。それこそ物語のように結末に向かって進んでいくものではない。絶頂は何度も塗り替えられ、終了は先延ばしにされる。不明は未明のまま残り、徒労と化す。空虚が与えられて少しばかりの結果だけで希望を見るしかない。

 何、たかだか裸を見られて何も得られなかっただけだ。見様によってはこちらが対価を支払わなければいけない。

「にーき、お風呂上がったなら言ってよね」

 そして勝手に入ってくる妹。どうしてこうデリカシーや恥じらいに乏しいのか。情緒がまったく無い。それはもう十数年もお互い、慣れた事だからだ。

 ボクは返事もせず動作を続ける。それは肯定でも否定でもない抗議。言葉も表現も表情も無く、切り出さない事であえてコミュニケーションを計ろうとする怠慢。

「お母さんが遅くなるからきちんと歯磨きして電気消して寝なさいって」

 周囲の中でボクはまだ子供だ。中学二年生らしい媚び方で妹は小言を伝達する。その内実に含まれているものの総量は軽い。ボクにしてみれば、軽いのだ。

 事実ではない。納得ではない。

 電気をまめにオンオフするのは逆に消費に繋がる。そんな知識や事実は無意味であり、何の力も持たないから。その奥にある『言う事をきちんと聞く』『逆らわない』『いつもと同じ様に生き、段取りを勝手に変えない』。ボクからすればどうでもいいものが感情の大半を占める。

 だからなんだというのだ。電気代を稼いでくる母親の言付だ。守って発生する損にボクが心を痛めるわけではない。もちろん、懐も痛まない。

 真実は意味を成さない。ありふれた、触れ慣れた間違いだけが横行し、ボクを残して先へ先へと進んでいくのだ。そして取り残されたと文句を言うボクに、ついてこない方が悪いと嘲笑を下す。なんともやりきれない世の中の構図。

「くすり(くすり笑)、シャンプーがもう無い」

「だから? 自分で替えなよ」

 そんなものだ。

 ある程度の水分を体の表面から撤去し、風邪を引かないように厚手のスウェットへと着替える。陽が落ちるとまだまだ寒い。

 喉が渇いた。

 下階に向かい、冷蔵庫へ。階段の手すりを無意識に撫で、段鼻の滑り止めを踏みしめる。角に残った埃を見ても、掃除をするわけでもなく放置する。

 八枚のガラスを仕立てたダイニングキッチンへの扉を引き、少し前に買い換えた冷蔵庫を開く(なんとどちらからでも開く事の出来るものだ。しかし、左側面が壁に密着しているために結局は片方からしか開けないのだが)。麦茶にしようか。それともコーヒー牛乳にしようか。

 と、下から二段目にメロンを見つける。切り分けられており、ラップを施されたオレンジ色の果肉が、無性に気になった。

 二つある。という事はボクと微笑のものだろう。そうに違いない。

 取り出し、シンク横の調理台に置く。内側の水滴を果肉につけないよう丁寧にラップを剥がし、フルーツスプーンを引き出しから取り出す。

「……」

 思い出してもう一度、冷蔵庫を開けた。扉の内側に並んだ麦茶、牛乳、ポン酢にドレッシング。小袋のしょうゆやからし、ミルに入った胡椒。その中、一際場所を取る四角形のパック。

 妹がダイエット用にと買ってある豆乳だ。

「……さすがに無いか」

 半信半疑だ。が、興味は深く、人間を時として狂わせる。

 気付いた時にはキャップを外してメロンへとぶっかけていた。せめて少し別皿に取って味見でもすれば良かったのだが、時既に遅し。ひどく艶かしい化粧を纏ったゲテモノの完成だ。

 掬う。口に運び、咀嚼する。

「水臭い」

 ボクの感想はそれだけだった。

 だからボクには永遠に幸せが訪れない。




2


 昼休み、とは一体どのようにして過ごせばいいのか。

 朝に携帯電話へと一通のメール。要は昼御飯を持ってこなくても良い、との文面ではあったが、さすがに空腹には耐えられまいとラップで包んだおにぎりを持参した。

 四時間目の終わりきっかり五分前、しっかりとした腹時計でやはり空腹が襲ってきた。

 チャイムと同時におにぎりを貪る。

 二つ目を食べ終わった頃、着信する電話。呼び出し。校門付近のベンチ。弁当はいらないと連絡したはずなのに、どうしてだかおにぎりを頬張っているボク、タッパーに詰められたロールキャベツ。涙を浮かべた後輩。

「まっっっったく意味が分からないです!」

「だって弁当を持ってこなくてもいいわけないじゃないか」

「当然、作ってくるから食べさせてあげるって意味に決まってるじゃないですか! 彼女が信用出来ないっていうならもう末期です!」

 こんこんと説教は続いた。来いと言われなくても察するのが人間だ、彼女という存在の再確認の必要性、文面をそのまま受け取るのは理解に苦しむ、といった内容だった。

 もちろん、わざとではある。そこまでボクは馬鹿ではない。だがそんな日常に一石を投じてみたくなるのもまた、人間ではないだろうか。

 声にはせず、黙々と頭を垂れて言葉を受け流す。嵐はいずれ止む。

「試合、負けちゃいました。でもでも、今度は勝つんで、また応援来てくださいね!」

「すごく広いんだな、あそこ」

「だって大きな大会とかもありますもん。あ、これ。この前言ってたロールキャベツ。でね、でね。サンドイッチでしょお。卵焼きでしょお。おかずもウィンナーとか、ほら!」

 肉よりも豆腐の方が多いロールキャベツに、具の少ないサンドウィッチ。塩のまったくきいていない卵焼きに、足が不揃いなウィンナー。お世辞にも美味しいとは言いがたい料理の数々だった。

 でもそんなものだ。美味しいか美味しくないかではない。彼女の手料理に舌鼓を打ち、美味しいねと笑顔の一つでも返せばいい。決してミンチの練り方や具とパンのバランス、塩ではなく出汁で味をつける方法や綺麗に足を開かせる主婦の知恵なんかではない。

 だから間違ったまま進んでいく。この娘も間違ったまま進んでいくのだ。

 でもお前にはそんなものはないんだ。

「お、愛妻弁当かい。一個もーらい」

 一つ、つまんで。

「んー?」

 次々と吟味していく。

「……あのね、後輩ちゃん。良い事を先輩が教えてあげるけど、これね。こいつらの名前はね、生ゴミって言うんだよ。食材の無駄だから、今度からはお母さんに作ってもらってその安っぽい自尊心と庇護欲を満たしてね! でも娘がこれなら親もどうせろくでもないし、もう何も作らないでお店の世話になるのをお勧めするよ!」

 吐き捨てられた爆弾。零れ落ちる大粒の涙を見ながら、百舌鳥はケタケタと指を差して笑うのだ。釣られて笑いそうになるのを必死に堪え、崩れ落ちそうな少女の肩を抱く。

 目だけで百舌鳥に退席を促すが、こいつは退かぬ媚びぬ省みぬの権化だった。

「味音痴は人音痴! お前ん家、おっばけやーきし!」

 どうやら間違えて憶えているようだったので今度、訂正しておこう。

 そしてとうとう泣き出してしまった女の子の面倒臭さに辟易しながら、昼休みは過ぎていく。なんだかんだとボクは時間を潰すのが得意らしい。



3


 そんな百舌鳥から連絡があったのは深夜の三時だった。丑三つもとうに過ぎ、魑魅魍魎すら残業扱いな時間に、ボクは舌打ちを放って電話を切った。

 なおも明滅。切断。

 それを三回ほど繰り返して電源を落とすと、次は窓へ投げつけられる石。その数たるや、知らない内に増えているベルマークの点数のよう。

「何時だと思ってんだ、クソ女!」

「よ、こんばんみ。ちょっと河原でヤンキー共が喧嘩してるから見に行こう!」

 開け放った窓から流れ込む空気は冷たい。手についた結露をカーテンで拭って、渋々と寝惚けた頭で考える。昨夜は少し早めにベッドに入ったので、もうこれから二度寝に入れそうに無い。それに明日は隔週にあたる土曜日で休日だ。母親は仕事が泊まりだと言っていたので、今は妹と二人の家。深夜に抜け出してもお咎めは無いだろう。

 ちょっと待ってろ、と声を落として寝巻きから外行きの服へと着替える(ボクにだって羞恥心はある。決して、百舌鳥の好感度を気にしての行動ではない。断じてそれだけは無い)。袖を通すのに躊躇う程の冷たさ。上着を厚手にするか薄手にするかで迷い、結局はインナーをもう一枚増やす結論に落ち着いた。

 隣の部屋で寝ている事だろう、妹を起こさないように。ドアレバーをゆっくりと下ろし、フローリングを鳴らさないように階下へ。今や家鳴りすら轟音に代わる。

 玄関の扉ではなく、掃出窓を開ける。勝手口としても作用している黒いサッシは、さすがの文明。静かにスライドしていき、玄関から予め持ってきていた靴をモルタル台へと置いた。

 しっかりと施錠し(このアルミサッシはなんと外側から鍵で施錠が出来るのだ。これもそれも母親の防犯観念の賜物だろう)、庭を通って玄関門扉まで。

 百舌鳥はそこにいた。煌々と照らす外灯の下で、いつもと変わらぬスカジャンを羽織り、電信柱にもたれかかっている。

「ここじゃなんだし、コンビニにでも行くか」

「シャーベットが食べたい」

「死ぬ気か」

 ここから最寄りのコンビニエンスストアまで歩いて十分。住宅街に隣接する県道に出れば、会話をするのに問題も無いだろう。

 明滅するネオンの光。昔からある定食屋の看板がまだ出ている。恐らく、仕舞い忘れだろう。

「で、なんだ。こんな深夜に」

「用が無くちゃ会えもしないなんて、薄情な話だねぇ。なら早く何か考えなきゃ」

「……別に、そんなわけじゃないけど」

 でもこんな時間に会いに来るなんて普通じゃ考えられない事だ。ボクが良い人で、君が変な人じゃなければ成立しない式の中、ボクらは今     蠢いている。

 この世の割合がどちらに傾いているのかは定かではないが、その二つはどうしても交わらない部分がある。変は変、常識は常識。混在は不可能なのだ。

「ほら、わたしと遊んでくれるのはお前だけだし、それに今日の昼間の事も謝っといた方がいいかなぁなんて不肖にも思いまして」

「ボクを笑わせようとした事か? 別に気にしてないよ」

 おや珍しい。百舌鳥にそんな殊勝な精神が存在していただなんて。

 逆に居心地の悪い気持ちがふつふつと込みあがってきて、もう少しで謂れも何も無い後輩を罵倒する所だった。もしかするとそれこそがこの魔女の思惑かもしれない。

「ごめんなさい」

 素直に、その言葉は百舌鳥の口から飛び出てきた。あまりにすんなりと通った冴え渡る声。返す言葉に詰まり、口ごもったまま「お、おう」だなどと慰めにもとれる答え。

 歩きつつ話す。本当に何も用など無いらしい。時折、話題が出てこないのはその為だろう。安心しろ、そんな時の為にボクはお前用の話題をいくつかストックしてあるんだ。

 しかし、時は残酷だ。それを披露する前に二人はコンビニの前に立っていた。

 深夜の店舗に愛想を求める方が野暮だ。大学生であろう、バイトの青年が挨拶もせずにバックステージから出てきてレジに立った。

 アベックだと思われただろうか。彼が不幸なら嫉妬を買っただろうか。彼が幸福なら同情を買っただろうか。何にしろ、ボクらに何も伝達はされない以上、話の種になるしかもう生き残る術は他にない。

「うぉ。見て、喜先。鯖の味噌煮込みシャーベットだって」

「は? そういうのは普段買うもんではないだろう。後悔先に立たず」

「アボガドとマグロのサラダシャーベット味とどっちがいい?」

 もう二つは買う事が決定しており、その二択は酷な終末を予想させるに余りあるものだったが、それはこんな時間に付き合ってやってる手前     今更断るのもおかしな話だ。

 この寒い中で食べるのも気が引けたので、店内に設置されたテーブルに二人で座る。店員もいなくなり、不思議な静寂が訪れた。

「ちゅーでもする?」

「お前さ、監視カメラ意識しすぎ。ボクとキスするのを罰ゲームとして捉えてるのも腹が立つ」

「他のお客さんに見せ付けるのも有り。そうそう、罰ゲームっておかしな話だよね。ゲームで罰って。あ、間違ったからバツでバツゲームなのかな。喜先、どう思う?」

「どっちでもいい。こんにゃくすら危ない世の中だ。もしかしたら十年後には会話も禁止されてるかもしれない。ほら、頭の中に機械埋め込んでさ」

「反重力で物体形成したり、音楽や絵が電脳でコミュニケイトな話してんの?」

「……。いいよ、もう。少し不思議な事。別に面白くない」

 こんな事では駄目なんだ。百舌鳥、ボクらはずれている。お前のせいでボクがずれたのか、ボクはボクでお前はお前でずれていたのかは分からないが、ボクらがずれているのには違いがない。それは決して陶酔だとか美徳ではなく、恥だ。

 間違いを犯していると錯覚しているからこそ、ボクには自信が無い。だから負い目や不信に支配され、お前や色んな人間を疑う。侮蔑し、嘲笑する。結論、ボクもお前を見下して生きている。お前もボクを、いやお前は自分以外を見下して生きている。だから互いにプラスマイナスゼロで関われるのだ。

「これまっず。でさ、喜先の彼女のあれ、ほら。なんていう娘だっけ。まぁいいや。まっず。その娘がさ、美味しくない弁当だったでしょ? そういうの曖昧にするのはどうなのよ」

「いいんだよ。人の恋愛に口出すな。いずれ良くなる」

「わけないじゃん。まっず。いや、今のはこのアイスがよ? でも間違いを指摘するのは悪い事じゃないのに、悪い事を指摘するのが悪い事っていう風潮はどうしたもんかね」

「そりゃあ自尊心とか、プライドとか。人の気持ちを考える事が出来るなら慮る行動だからだろ。根本じゃない。伝達に問題がある。特に百舌鳥の場合には」

 うっとうしい。それが百舌鳥の結論だった。

 羅列に意味など無い。列挙に暇が無い。発生に原因は無い。ボクには何も無い。

 期待をしているのか。もしくは希望しているのか。ボクが百舌鳥に対して持っている感情に、まだ名付け親はいない。いっそ『百舌鳥る』とかいう新たなる単語を生み出すか。

「わたしは生きていけないかもしんないね」

「どうした、急に。自殺でもするのか?」

「いんや。普通に埋没できないって事。それはもうやるやらないじゃなくて出来る出来ないでしょ。だってこれから社会に出て、働いて、結婚して、子供産んで、パートとかしたりして、おばあちゃんになって。想像できないでしょ」

「誰もがそうだろ。明日にならなきゃ何も分からない」

「明日が来ないって言ってんの。知らない内に過ぎていっちゃってるのよ。そのままどうしてだかなるようになっちゃって、やっと思い返す余裕が出来る」

「だからみんなそうな筈だ。後悔か納得かはその時にしか分からないよ。百舌鳥、何が言いたいんだよ。お前の愚痴はいつも面倒だ」

「だから、わたしと結婚してみない?」

「もうおとなしく病院にでも入ってろよ」

 そうすればお前を嫌う奴もいない。馬鹿にする奴も愛してくれる奴もいない。そんな平和がお好みなんだろう? 何も考えなくなるのがお好きなんだろう?

 変化を厭う。メリットを渇望する。デメリットを排除する。

 それはボクだから。

「甲斐性無し。据え膳だからね」

「腐ってる上に嫌いな物を押し付けられてるけどね」

 ボクらはそんな下らない話をしながら夜を明かした。その間に誰も来店しなかったのは、店舗からすれば不利益な話だが、ボクらには都合が良い。

 五時を周り、ようやく店内放送がニュースに切り替わる。まだ朝焼けは来ないが、遠くでカブのエンジンが鳴り響いている。

 そろそろ潮時だ。休みでも部活の朝練に出かける妹が起きる前に、帰宅をしたい。

 ぬるま湯と化したシャーベットを強引に飲み込み(恐ろしい事にそれは味噌の味だった)、外へ出る。清々しくも無い朝。真っ暗な空。

 朝靄がかかった遠くの山を見て、冷気に晒された肌が膠着する。

「お、なんだなんだ」

「どうした、百舌鳥」

 見れば、慌てた風に走る警察官がいる。こんな時間から出張らされるとは、公務員も大変なものだ。平和の象徴、権力の具現。ボクらには軽く思える彼らの、別な一面を見た気がした。

 だから職務質問されても文句は言わないし、事情の説明もされぬまま高校生の夜更かしを咎められても平身低頭だ。補導されなかっただけマシだろう。どうやら急いでいるらしく、聞きたいだけ聞いて彼らは去っていった。

「くっそくそむかつく! 何、なに、あの態度!」

「落ち着け、百舌鳥。仕事ってそういうもんだろう。あの人達にも都合があるよ」

「だったら文句言うのはわたしの都合でしょ!」

 まぁ、お前は名前出した後の質問がまったく無かったんだし、それで納めておけばいいのに。この地域において、百舌鳥の名前はそれ相応の力を持っているらしい。

 家へ向かう道すがら、百舌鳥の送迎を少しは考えたが、そもそも今よりも恐らく危ない時間に一人で来たであろう人間を今更、女の子扱いにするのも気が引けた。それにもうさすがに疲れた。

「じゃあまた来週、学校で。気を付けずに帰れよ。真っ直ぐ、無心に帰れよ」

「うるさい。わたしは植物じゃない。植物になりたい」

 その自負はどうかとも思うが、お前が満足ならそれでいいよ。

 まだ妹の部屋に明かりはついていない。タイミングとしては悪くはなかった。だから油断していた。玄関の扉を開けると、ちょうど家から出る妹と目があった。

 ローファーの爪先を叩いて押し込んでいる姿は、まさに今時の中学生さながらで、やはり妹も何処かで生きているのだな、と実感する。

「どいてよ。練習行くんだから」

「あ、あぁ」

 そして隣を通り過ぎる。だけなら良かったのだが、流し目でこちらを舐めつけ、

「あの人、あんまり良い噂聞かないよ。あんな人が彼女なんだ」

 言い捨てた。反論しようにも材料が無く、また口をついて出そうなのがあまりに薄っぺらかった。躊躇ってしまったのだ。

 この事を妹は母に言うだろうか。この地域ではそれこそご令嬢、触れてはならない禁忌のような扱いを受けている百舌鳥と、自分の息子に関係があると知ったらどう思うだろうか。悪名高いのは百舌鳥本人であり、家柄ではない。逆玉だと喜ぶだろうか。

 そんな事はどうでもいい。汚名でしかない百舌鳥の恋人と近所にでも吹聴されればたまったものではない。噂には尾ひれがつき物。来週には百舌鳥が妊娠した報道に変わってるはずだ。

 もう誰も居ない玄関で、嘆息する。一人、佇む。

 これから寝る為に、ここにいる。不思議を抱えて立ち尽くしている。

 百舌鳥には悪いが、ボクはまともだ。お前を捨ててもボクは生きる。




4


 月曜日とは諦念の隠喩であると言って過言だ。

 そこまでではない。学校自体は嫌いではないし、必要不可欠なレベルなら勉強も許容範囲内だ。人と会うのも苦ではない。しなければならない事が多いのがたまに傷ではあるが、概ねボクは学校というものが好きだ。

 クラス内ではほぼ喋らないというキャラクターが決定されているせいで、会話も非常に楽なものだ。向こうが話す事に頷き、曖昧に濁せばそれで済む。

 今日も野球部の彼がクラスの女の子と談話し、笑い合い、雰囲気を作り出している。百舌鳥は非常に彼を嫌っているが(正確には彼も)、ああいう類の生物は今の所     成功者だ。

 閉鎖環境において人気者とはいつ滑落するか分からないロープウェイのようなものである。ある日突然、事故のように急降下する。それはボクには無い危機感だ。登れば落ちる。彼にはミスをしない、という暗黙の了解が架せられている。

 その点、彼女はと言うと     、

「グァーゴォ」

 鼾をかいて寝ていても誰も気にしない。ゼロはどこまでいってもゼロ。無い袖は振れない。

「よぉ、喜先。お前さ、二年で誰が好みなんだよ」

 坊主頭を揺らして彼は遠くからボクに聞いた。

「別に」

「だと思ったよ!」

 わはは。快活に笑う。釣られて周りからも非常に好意的ではあるが、求められた答えを返したボクへ笑顔が送られる。

 ボクが後輩と交際しているのは周知の事実ではある。どうやらあちらが言いふらしているようで、それが運動部からクラスへと広まるのだろう。それを咎められた事も話題にされた事も無い。高校生活において他人の恋愛は口出しご法度である。同性であるならいざ知らず、混合されたこの雑談で話題に上がる事はない。

 だから彼の言った事は少なからず禁忌に触れる。それも彼なら許される。がさつだけど優しく、スポーツが出来て勉強が出来ない。バランスが取れている。

 人の交友関係とは損得勘定だ。

「     んァ」

 そしてそんな摂理に悖らない怪物のご起床だ。

「何、何よ。何か面白い事でも起きたのか?」

 問うが答えは無い。いつもの事だ。このクラスに百舌鳥の居場所は無い。百舌鳥だけがそれを知らない。いや、気付いているけど知ってて面白がっているのだ。

 高校生にもなって直接的ないわゆるイジメは少ない。しかもこの近辺で指折りの名家だ。手を出そうとする奴も珍しい。

「んー? 笑い声で起きちゃったんだからその責任くらいは取れよな。おい、一番うるさかったそこの坊主頭。お前だよ、お前。残念な人生の中、残念な時間を今正に過ごしてるお前」

「あ? 別に何でもねぇよ」

「何も無いのに大笑いすんのか、最近の馬鹿は。そりゃあいい、街中でやってこいよ。黄色い救急車の乗り心地を教えてくれ」

 百舌鳥の心の中では引き出しが開いたり閉まったりしているんだろう。決して喧嘩を売ってるわけではない。そういうコミュニケーションしか取れないのだ。

「いいよ、もう。寝てろよ。お前に話なんか無い」

「本当に脳味噌入ってんのか? 起こしたのはお前だろうが。お前、そういや隣のクラスの娘と付き合ってんでしょ? その前は部活のマネージャーだっけ。お盛んだねえ。玉遊びが目にあまるねえ。余念が無いねえ」

「     っ! お前!?」

「何何? 自分は同じクラスの     あぁ、そうその娘。その娘と付き合ってる事になってんだっけ。ははぁ、ならばおかしいね。噂が間違ってるのかお前の行動が間違ってるのか」

 ほほう。そんな難しい状況に陥ってたのか。彼はいわゆる二股をかけていたらしい。

 目に見えて言葉に困る坊主頭。それは肯定を意味してはいないのだろうが、受け取る側というのは受け取りたいように享受するものだ。

 女の子が一人、走って教室から消えた。涙も浮かべていた事だろう。それに続いて数人の女の子が野球部の彼を一瞥し、連れ立って外へ。

 転落は早かったようだ。彼は今日、この時間からこのクラスが居場所ではなくなった。足元にあった常識や当たり前が瓦解し、信用の再構築は壁となって彼に立ち塞がるだろう。

「ひーぃっひっひっひ」

 過呼吸になるほど笑う百舌鳥。こうして賑やかだった数十人の団結は、一人の怪物に壊されたのだ。今や笑っているのは百舌鳥一人。楽しめる事が他より多い、百舌鳥一人。

 と、事件はそこで終わらない。

 ボクはすわ彼が殴りかかるだろうか、それとも女の子集団の口撃にあうだろうかと戦々恐々としていたが、幕を下ろしたのは     章を変えたのも、また百舌鳥だった。

「ォゲ」

 笑っていた。彼女は笑っていただけだ。それが変な筋肉を刺激したのか、今が昼休憩の後、五時間目と六時間目の境だったのがいけなかったか。

 飛び散る吐瀉物。蔓延る嘔吐音。

 百舌鳥はどうしてだか一気に昼に食べたであろう未消化のうどんを吐き散らかし、床面を胃液でコーティングした。戸惑う一同を前に、本人ですら何が起こったのかを把握していない。

 数秒、だっただろうか。数分だろうか。どちらにしろ非常に長く感じられる時間が流れ、自分がどうやら戻したらしいと現状を鑑みた百舌鳥は、逃げた。

 一目散に走り去る。それこそ先程逃げた女の子など比べ物にならない。

 残されたのは怒りの行き場を失い、それに覆い被さるように起きた事件を受け止めきれない野球部の彼、二つの事件が結び付けられない級友。そして冷静を装いつつも心中で腹がよじれる程に笑っているボク。

 すっくと立ち、教室の背面に置いてある古新聞(古いのに新聞とはいかに)を手に取る。細かく破いていき、百舌鳥の残したプレゼントに撒いていく。

 ある程度、見えなくなった所で箒と塵取りを取り出し、ゴミ箱へと廃棄する。まだ床を光らせる水分を雑巾で拭い取り、それもポリ袋に入れて袋の口もきちんと縛る。

 最後に窓を開けて換気。ここまで二分。誰も動けやしなかった。我ながら仕事の速い事だ。

 手を洗いに廊下へ出て、階奥のトイレに入る。ネットに入った黄色いレモン石鹸で丹念に洗う。鏡で自分を見て汚れが無いかを確認する。

「……」

 少し、笑う。

 六時間目には百舌鳥ともう一人、女の子の姿が無かった。それもそうだろう。もしかするとゼロがマイナスへと変貌するかもしれないのに、のこのここんな所に現れるなんて狂気の沙汰でしかない。

 まだ少し臭いの残る(気がする)教室での授業が終わり、各々が帰宅の準備をする。心なしかいつもよりみんなの会話が少なくて、残念だ。

 どうやって百舌鳥に告げよう。君の遺した物はボクが処理したよ、かな。それともあのうどんは喉越しが良すぎたのかな、でいこうか。頭に浮かぶのは百舌鳥が悔し涙を流しながらスカートの裾を掴む光景だけだ。

 だがその後、校内を捜しても見つける事が出来なかった。下駄箱を覗くのもやり過ぎかと思うし、自転車通学ではない百舌鳥が帰宅したかどうかの確認をボクだけでは取れない。

 いっそ電話してみようか。それとも百舌鳥の家にでも突撃してやろうか。日頃、再三にわたって虐げられているボクだ。ちょっとくらいの復讐は許されてしかるべしだろう。

 ……まぁ、いい。それはまた明日にでも置いておこう。楽しい事は後に残すタイプなのだ。もしかすると明日も来ない可能性があるが、それもそれでいい。クラスが平和に保たれるのは何も悪い事ばかりじゃない。学校全体だって事件が起きない方が良いに決まってる。

 そうしよう、そうしよう。いやあ楽しみだ。

「あ、先輩。帰るんですか?」

「……部活は?」

「だったら一緒に帰りましょうよ! 今日、部活が無くて、何だかキャプテンが体調を崩したとかなんとかで。キャプテン、やめてください! みたいな感じで」

 それもいいかもしれない。限りないように見える時間だ。自分の恋人として声をかけてくる人物に割り振るのも、悪い事じゃない。

 頷いて、しばらく待機を命じられる。最近、嫌がらせが過ぎたせいか、再三にわたって確認と注意を受け、しっかりと今日は一緒に帰宅する事を命じられた。

「お待たせしました」

「自転車が、あるから」

 テニスコート横の駐輪場へ向かう。今日は男子テニス部がコートを使用していた。それは女子テニス部が本日筋トレなどの屋内活動だった事を連想させ、突然の休みになるのも頷ける。

 後輩も自転車通学だったらしい。オシャレで可愛いピンクの自転車、かと思いきや紺色のママチャリだった。まぁトンボではなくカマキリだっただけマシか。

「帰りにカフェ行きません? ほら、新しく出来たとこ」

「甘いのが飲みたい」

 今日は百舌鳥の贄にならずとも済むだろうし、この跳ねる女の子に付き合う事にしよう。

 校門を出て幾ばくか。併走をさせずに自転車を操り、人の多い通りを西へ進む。やがて賑わっているのか静かなだけなのか分からない喫茶店へと辿り付き、自転車を止めた。

「そこ、道路だよ」

「いいじゃないですか。人は通れるし」

「駄目だ。きちんと店の前に駐輪場があるんだし」

 混んではいる。自転車の数もそれなりに多い。しかし整理すればまだ二台分ほどのスペースは残されている。きちんと並べ直し、ボクは鍵をかけた。

「先輩って、変なとこ真面目ですよね」

 文句とも敬愛とも取れる言葉を吐いて、彼女は店内へと先に入った。続いてボクも慣れない足つきで自動ドアをくぐる。

 席は空いている。ノートパソコンを広げる人や、集団で勉強道具を囲む学生。携帯電話とにらめっこしている会社員に老人が数人。年齢層の幅広さに感心する。

「じゃあ買ってくるんで、席とっておいてください」

 空いているテーブルに向かう。ソファが柔らかくボクを迎えた。やがて盆に二つのカップとケーキを二切れ乗せて彼女は帰ってきた。

「このパイナップル味のパウンドケーキ、美味しいんですよ」

 彼女はきちんと平らげて、その間色んな話をボクに聞かせてくれた。

「でね、みぃちゃんとコンビニに行ったら、なんだかおかしいなあって思って。そこ、コンビニじゃなくてスーパーだったんですよ」

「部活で焼けると変な焼け方だからプールとか恥ずかしくて夏があまり面白くなかったです」

「もう少しダイエットした方がいいですか? ほら、食欲の秋だし」

 その全てにボクは返答に困っていた。イエスでもなくノーでもない。彼女に必要なのは取り入る隙ではなく曖昧な相槌なのだから。

 だから居心地の悪い時間である。ボクでなくても彼女は同じ事を話すだろう。そして笑い合い、そんな時間に幸せを感じるようになるのだろう。

「先輩って映画好きですか? 面白い映画やってるんですよ。ほら、今度の日曜とか」

「あまり恋愛映画は好きじゃない」

「そっかー。でもでもー、御飯食べて、お店行って、服買ったりもしたいです」

「あまり人の買い物に付き合うのも」

 そもそも人と買い物に行って何になるというのか。自分の物を買うのだから、自分で行けばいい。あぁ、でもこの娘が身にまとうファッションは、それこそボクに見せる為なのか。

「スカジャン売ってる店、あったかな?」

「スカジャン? なんでスカジャンなんです? あんまり……着た事無いですけど、ちょっとそういうチョイ悪ガーリー系が好きなんですか?」

 どちらかと言えばロリータやゴシックなんかが好きだ。でも基本的に日本人に似合うように作られてはいない。味が強すぎる調味料に素材が負けてしまう。劣等感ではなく、ものにはものの居場所というものがある。生きるべき場所がある。和懐石にサウザンアイランドソースが合わないように、全てが納得で形成されている。

「ボーダーのニーソならあるんですけど……。でも足、太いですし。どうしても筋肉ついちゃうし、横縞は太く見えちゃうから」

「別に、細いと思うけど」

「ほんとですか!? 嬉しい!」

 ボクは少し太い方が好きだとは言わない。必要の無い真実だ。

 何処でどう間違えたのだろうか。彼女の言葉には何も感じない。それこそ頬を撫でる風と同じだ。もちろん、理解に努めはする。仮にも恋人同士だ。

 だが、その言葉の奥に見え隠れする     自分は自分であり、ボクはボク。個々を個々として捉える。自分の言い分、相手の配慮。そういうものが見てとれる。

 百舌鳥には無い。あいつには自分が全てにおいて正しいと信ずる覚悟がある。だから押し付けがましい理念や、間違ってる正解を主張できる。

 この娘にはそれがない。いや、ある。あるが、気付いていないのだ。ダイエットしたい、と言われてじゃあ無人島に連れてってやろう、と言い出せば断る。足が太い、と自分で言っておいてそうだねと認めれば怒る。挙げればきりは無い。だがそれは、裏表があるとか性格が悪いとかではない。単純に、言葉にあまり真実を込めないだけなのだ。

 馬鹿正直にそれを信じてしまうから、ボクだけが生き難い。ボクはテレパシーじゃないから、言葉を鵜呑みにする。だけど鵜飼いがいないから、選別できない。

 ボクも彼女と同じだ。

 真意を隠してここにいる。

「最近、あんまり面白い事ないー。つまんないですよー」

「試合、あったじゃないか」

「負けましたもん。しかも先輩、先に帰っちゃってるし。あ、でも今日は楽しいです」

 気が合わないのか? そうではない。合わせようとしないからだ。それはボクではなく、彼女が。責任を持たないからだ。

 ボクに非があるとするならば、ボク自身が何を望んでいるのかまったく分かっていない事だろう。一人は寂しいのに人と会いたくない。ここにはいたくないのに何処にも行きたくない。話題なんか無いのに黙っててもつまらない。

 結局のところ、ボクも彼女もわがままなのだ。その度合いによって区別されているだけで、ゼロではない。なので曖昧なまま漂っている。

 この世界をクラゲのように、どっちつかずで。

「先輩って、あの人といる時はどういう話をしてるんですか?」

「ん、何?」

「だから! ……あの人と、一緒にいる時にどういう話をしてるんですか?」

「ああ、あいつ。色んな事をしゃべるよ。この前さ、一緒に映画を見に行ったんだけどすごい面白い映画でさ、でもあいつつまんないってへそ曲げてたんだけど、あれはその直前にアイドルのコンサートが無くなったからだね。間違いない。機嫌悪かっただけで映画そのものは面白かったんだよ。しかも黒壁スクエア行って馬鹿みたいにハンバーグ食べてんだけど、ハンバーグの上に乗ったパイナップルがさ、ベンツのマークに見えて。あれってベンツが昔、戦車作ってた時の照準の名残だよって教えたら、ジェット機にしか見えないってさ。おかしいよな。地を這うものが空飛ぶものに見えるんだし、やっぱずれてんだよ。あ! あと深夜のコンビニでくそまずいアイス食べたんだけど、アイスって愛す、愛するって同じなのに、冷めてるって話で盛り上がってさ。下らないけど笑える笑点とかそういうベテランの域に達してたね。それに今日だって教室であいつ、あーやめとこう。店の中でする話じゃない。で、そんな感じだけど」

 まだまだ語り足りない。あいつが事故に会うのは歩行者の方が悪くて間抜けなのに、トラックが可哀想だって言った次の瞬間に自転車で突っ込まれてたし、寿司食べさせてやるっておじいさんに言われて楽しみにしてたら鮒寿司で辟易したり、小学校の時にドッジボールやっててボールと自分の間に偶然迷い込んだ蜂がそのままこっちに向かってきてお腹刺された話もなかなかの出来だったなぁ。

「……先輩って、あたしと居て楽しいですか?」

 楽しいかどうかで一緒に居るような人間じゃない。判断基準を間違っている。

「あたし、悔しいです。あたし、先輩が好きだし、もっと話したいし、一緒にいたいのに、先輩は一緒にいても楽しそうじゃないし」

 つまらなそう、って言わない辺りにプライドを感じるね。

「分かってます。あの人の事を先輩は好きじゃないし、浮気とか、そういうのじゃないって。でも、やっぱりおかしいです。うえー」

 泣いてしまった。顔を割りとぐしゃぐしゃにして泣いている。その時点でやっと、涙を塗り込んだ事で剥がれてしまったお陰で、化粧に気付いた。ノーメイクではなく、ノーメイク風。

 それはそうだ。この娘はアイドルじゃない。ニキビだってあるし、シミもクマもある。何時見たって綺麗じゃない。

 それともボクに会う為だろうか。ボクの為の準備だったのだろうか。あ、さっき自転車に乗る前はそういえば唇がそんなにキラキラしていなかった     はずだ。

「さみしいですよう」

「そう」

 ボクを知らなければ他の誰かに言った言葉だ。

 それが深く、重く胸に突き刺さる。

「疲れちゃいます。こんなに先輩の事考えてるのに、無駄だし。今日だって楽しそうじゃない」

 好きな事を考えているのに無駄。しかも疲れるときたもんだ。こっちとしてはたまったものではない。ボクは料理のメニューを考えていても無駄だと感じた事はないし、それが不評だったからといって落胆するものの努力の糧にする。

 人のせいにするな。

 とは、百舌鳥がボクに言った言葉だ。

「あたし、帰ります」

 見てとれる。別れたい、と言い出せばボクがすぐに了承すると勘違いしている。

 ボクはこの娘といて苦痛じゃないし、好ましいと思っている。一緒にいてつまらないと思った事は無いし、嫌いだと感じた事も無い。

 それなら百舌鳥といる時の方が多い。つまらないと感じ、疲れたと感じる。無駄だとも思うし、嫌いだ。マイナスの多いだけ、百舌鳥の方が損をしているはずなのに、どうしてだか現状はボクに逆の意味を求めるのだ。

「そう、じゃあまた」

 明日、ではない。だからこの娘はいつもボクの目を見て真意を測ろうと画策する。見つめあい、その本意を探り出そうとやっきになる。

 ボクはサディストでも自惚れ屋でもない。ただ彼女の言葉に逐一頷いて、当たり前に過ぎようとする時間に少しの変化を求めているだけだ。それを許容してもらおうとするのが既に間違いであり、人道に悖る事もはっきり理解している。

 それを彼女は知らない。分かっては居ない。自分の価値観で、自分の欲求の為にボクと一緒にいようとしている。それは見栄かもしれないし、世間体かもしれない。一過性のファッションかもしれないし、恋に恋しているだけかもしれない。

 でもそれはボクだってそうだ。

「先輩って、昔から女の子に対してそういう風に、なんていうか」

「ん?」

「接するっていうか、付き合うっていうか。そういう事しているんですか?」

 はて。その質問に何があるのか。

「ボクにとって彼女は君が初めてだし、そんなに他の人とコミュニケーションした事が無い」

 答えに詰まっている。だから必要以上に饒舌になる。

「あたしの前の彼氏はもっと優しかったです」

「そう」

「でも先輩はあたしじゃなくてもいいって感じです」

「へぇ」

 だから何なのか。自分の望んでいる事すら分かっていないのに、君の事まで考えている余裕はボクに無い。そこまで犠牲にする程の良心も無い。

「あたし、帰っちゃいますよ」

「どうぞ。じゃあまた」

 鞄を肩に下げる。じゃら、とジッパーに付けているステゴザウルスのストラップが揺れ(これは知っている。最近流行っている捨て子ザウルスというマスコットだ)、あたかも彼女の心境を表しているかのようで。そんな深読みにも疲弊したボクがいる。

「明日、じゃないんですね」

「明日でも明後日でも変わらない」

 そしてまた明日の昼、ボクと彼女はお昼御飯を一緒に食べるんだろう。何も変わらず、何も得ずに、ボクと彼女の時間を過ごすんだろう。

「もっと一緒にいたい、とか。思いません?」

 思う。

「もっと話したい、とか。思いません?」

 思う。

「もっとあたしが知りたい、とか。思いません?」

 思わない。

 だから彼女はここを去っていく。興味が無いわけじゃない。嫌いなわけじゃない。

 でも彼女が求めるものがここにはないから他の場所へ行く。誰か同性の友達とでも話すのかもしれないし、家に帰って惰眠を貪りつつ将来について一抹の不安を抱えるのかもしれない。

 それとボクとは関係ない。

「結婚、しようか」

「やですよ。そういう冗談、あんまり好きじゃないです」

 真実は真実として伝わらない。言葉が足りないわけじゃない。真意が汲み取れないわけじゃない。もちろん、嘘やおためごかしだからではない。

 信じたくないからだ。信じたいはずなのに、実際にありえないと信じているからだ。

 なんという二律背反。なんという矛盾。その齟齬が人間をこれだけややこしくしている。

 一人残されたテーブルで非常に甘い、非常に甘い飲料を流し込む。

 あぁ、百舌鳥に会いたい。













くすんだ緑色の何か。

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