閑話:フィッシュメンかく語りき
ガチャリ。
自室に戻ってきたチャーリー・ボルドウィンはぼそっと呟いた。
「やってしまった…」
隣に誰か引っ越してきたのは知っていた。
そしてそれが年若い女の子だと言うのをつい先程知った。
そして今は自分の迂闊さに後悔している。
普段は話しかけられないように帽子を深く被り、マスクを付けて、更に蛍光色のヘッドフォンを付けて外出しているのだが、今日に限って近場だからと手を抜いてしまっていた。
何故、マスクもヘッドフォンもしていなかったんだ。
過去の自分をなじるが、過去は過去。
起きてしまったことをねじ曲げることはできない。
深くため息を吐きながら靴を脱ぐ。
ひどく身体が重い。
いつもならこの重さも、シャワーを浴びるか風呂に浸かれば解消されるのだが、今日ばかりは水を浴びてもこの重さは拭い去れないだろう。
そもそも、突然話しかけられて反射的に返事をしてしまったのが間違いだった。
ここの住民たちの対応に、自分に対する世間一般の反応を完全に忘れていた。
私…チャーリー・ボルドウィンは、魚人だ。
21歳の時にアメリカのマサチューセッツ州から日本に越してきてもう6年になる。
この奇妙な住民ばかりの暮らす(自分が言うのもおかしな話だが)不思議なアパートに住み始めたのは22歳の時だった。
そんなことを思い出しながら、ハンガーにコートを掛ける。
ーあの子もそのくらい…いや、あの感じから察するに、今年から大学生なのだろう。
新生活に胸を躍らせていただろうに、悪い事をしてしまった。
スーツの上着も脱いで、別のハンガーを手に取る。
投げやりにネクタイを引っ張り、上着と一緒にハンガーに掛けた。
「はぁ…。完全なミスだ……」
もう一度ため息を吐く。
部屋着に着替え、シャツの襟回りにくっ付いた青い鱗を取っていると、何だか頭痛がしてきた。
洗面所の蛇口をひねると、勢い付いた水が跳ね、洗面台と手を濡す。
顔を洗うと、頭痛が少し収まった気がする。
今度は安堵の息が漏れた。
手探りでタオルを掴み、顔を上げると、鏡に凹凸のない自分が写った。
顔の全面は細かな鱗で覆われ、充分過ぎる程の距離を取って二つ、深い青色の目玉がくっついている。
首に近付くに従い、鱗はやや大ぶりになっていき、光の当たり加減によって複雑な陰影が出来上がる。
見慣れている自分でも微妙なのだから、あの女の子はもっと怖かっただろう。
あの大家さんのことだ。
この事はもう知っているに違いない。
どうなるのだろう。何か言いには来ると思うのだが。
大家さんが来るのが先か、それとも、彼女が出て行くのが先か。
…はぁ。
またため息が漏れる。
私が追い出される、という事は無いとは思うが。あの、大家さんだし。
謝りたいのは山々だが、私が行ったら更に怖がらせるだけだ。
大家さんに伝言でも…
ピンポーン。
そんな暗澹たる気持ちとは真逆の、軽やかなチャイムの音が聞こえてきたのは謝罪の品は何が良いかと考えていた時だった。
こんな時間に…誰だ?
遅くない時間ではあるが、配達はとうに終わっている時刻だろう。
アパートの住民である可能性は非常に高いが、先程の件もある。
油断は禁物だ。
いつものようにマスクを手に取り、サングラスを掛ける。
首にはタオルを巻いて、頭部はニット帽で隠す。
最後に鏡で顔が見えないことを確認した。
音を立てずにゆっくりとドアスコープに近付くと…
「おいおい…」
そこには先程の少女が立っていた。