交渉、そして戦々恐々
「今日の用事は、隣に住んでいる人と言うか化け物のことなんです」
緊張気味に切り出した私に、鳴美さんが笑顔で応える。
「チャーリーさんね。彼は化け物じゃなくて、魚人よ。」
ぎょじん。
鳴美さんの言った言葉を理解するまで、数秒を要した。
魚人。つまり、魚人間という事だ。
「アメリカからいらっしゃった方なのだけど、日本は長いし、ここに住んでしばらく経つから、何かあったら彼に相談してみると良いわ。スーパーの特売日とかも教えてくれるわよ。」
馬鹿野郎そうじゃない。
そう叫びそうになるのをぐっと堪えた。
ひょっとしなくとも鳴美さんは私をからかっているのだろうか。
「違います。あれと仲良くしたいなんて思ってません!魚人だか何だか知りませんが、どう見ても化け物じゃないですか!!」
「人は見た目で…」
「見た目が問題なんです!第一、人じゃないんでしょ!!」
後半、我慢出来ず叫び出した私を、まあまあといなすように笑う鳴美さん。
紅茶に砂糖とミルクを入れ、伏し目がちに混ぜるその姿も、妙に色気が漂っていて美しいのが尚腹が立つ。
…この人は、本当に私の言っている事を理解しているのだろうか。
いやまて落ち着け、鳴美さんは私をからかっているだけだ。
なんてタチの悪い大家さんだ。
「私が言いたいのは!あの魚人だか魚人間を何とかしていただくか、私が出て行くかの二択って事を言いたいんですよっ!!」
どうだ言ってやったとばかりに鳴美さんを見る。
鳴美さんは、普通だった。
いつもと変わらぬ調子で、いつもと変わらぬように優雅な仕草でカップを机に置くと、穏やかに尋ね返してきた。
「……それはつまり、契約を破棄するって事かしら」
子供に確認するようなゆっくりとした口調に意表を突かれ、つっかえながら返事する。
「そ、そうで、すけど…」
「そう…そうなの……」
…おかしい。鳴美さんは笑っている。
笑っているはずなのだ。
良くある目が笑ってないとかではなく、確かに彼女は先程までと同じように笑っている。
変わってる事など何もない、はずなのに、先程とは明らかに雰囲気が違う。
空気がざわめく。
皮膚はぴりぴりと痛み、指の先から順番に、薄い皮が一枚一枚剥がされていくような感覚だ。
何なのだろう、この、不穏な気配は。
「困ったわ。困っちゃう、困るわね…うん、困るわ」
頬に片手をあてて、本当に困った、と呟く彼女に、おかしなことなのだが、何か、狂気めいたものを感じた。
温い汗が背筋を伝い、中頃で冷たい雫に変わる。
「契約書には…サインしたわよね?中身も読んで、ちゃんと。半年以内に退去した場合、違約金が発生するのだけれど、払える?」
「い、いくら何でもあの金額は暴利が過ぎますよ。一ヶ月分ならまだしも…」
「そう…約束を違えるのね?」
同じ口調、同じ表情。
何も変わらない鳴美さん。
脅されているわけでもなく、怒られているわけでも無い。それなのに、何故。
何故、私は彼女に殺されると思っているのだろう。
黒雲のような不安感に、肯定の言葉が喉奥に張り付き口内の水分を急速に奪う。
彼女の目を見ることが出来ない。
顔を上げれば、きっと、恐ろしいものを見てしまう。
鳴美さんの顔を見てしまえば、後悔する。
これは、予感では無く確信だ。
思わず下に向けた視線が、鳴美さんの足を捉える。
なだらかな曲線を描いたふくらはぎが机越しにちらりと見えた。
更にその下、足元に目をやれば。
鳴美さんの足の裏に張り付く影が、不気味に蠢いていた。
「ひっ…」
「契約を、違えるのよね?」
まるで鳴美さんを、床に広がる黒の中に引きずり込もうとしているようなそれに目が釘付けになる。
鳴美さんはそれに一切構わず、ささやくような声音で語り掛けてくる。
優しく、丁寧に。
生温かい汚泥に似た言葉が、耳の中にぞろりと侵入してくる。
「あ、あの…」
影はもう、足元だけでは無く、腰から下を覆う様に暴れ狂っている。
影たちはまるで、怒り狂った蛇のように、鎌首をもたげて私を威嚇する。
このまま見続けていたらおかしくなる。
分かっているのに、目が離せない。
『契約を、違えるんだろう?』
老人のような、子供のような、青年のような声が聞こえる。
そして混ざり合い、不協和音を濃縮したような奇妙な声に、何故か私は顔を上げてしまった。
いや違う、上げたのではなく、上げさせられた。
一体誰の声。
あなたは誰。あなたは誰。
あなたは。あなたは。あなたは。
言うはずだった言葉は行き場を無くし、頭の中で無意味な反響を繰り返す。
私の目の前の、黒い影の、貌の無いバケモノは、汚泥を練り上げ腐臭を纏った言葉で私に問い掛ける。
『応えろ、墨木瞬』
鳴美さんだったはずの者の声に、私の身体が錆び付いたエンジンのように不自然に震え続ける。
答えなければ、応えなければ、早く。
早く。死にたくない!
「た、た、たた退去しないです、引っ越さないですごめなさいごめんなさい!だからその怖いの引っ込めてお願いしますごめんなさい!!」
『…よろしい』
満足げな声と共に、黒くのたうつ千匹の蛇は収縮し、鳴美さんの足元に戻った。
そっと顔を上げれば、いつものように美しく微笑む鳴美さんがそこにはいた。
「分かって頂けて嬉しいわ。墨木瞬ちゃん」
私は一言だけ呟いた。
「……鳴美さん、あなたは一体…」
「うふふ。内緒」
秘密は沢山、あればあるほど面白いでしょ?
鳴る美さんはそう言いながらパチンとウインクした。
疲れ切って肩を落とした私の手を、エッジが労うようにひと舐めした。
ほっとするのと同時に、何だか更に疲れたような気がしたのは、なんでなんだろう。