対面、そして奇々怪々
時折聞こえる車のエンジン音と、自分がコンクリートの階段を上る靴音だけが踊り場に響く。
厚い壁のせいで生活音が全く聞こえないアパートは無機質で冷たい。
さして長くもない筈の階段が永遠にも感じられるのは、自分が必要以上に警戒しているせいだろう。
周りの全てが不気味に感じてしまい、手の平に嫌な汗がじわりとにじむ。
このアパートは4階建てで、1階につき6部屋で構成されている。
1階はおしゃれなカフェで居住部は2階から。エレベーターは付いていない。
2階は通常の部屋以外に、何と探偵事務所がある。
アパートのはずなのに、分厚い磨りガラスとアルミっぽい素材で出来た扉には、金色の文字で『二見探偵事務所』と刻まれていた。
引っ越しのトラックが到着するまでの暇つぶしにスマートフォンで検索してみたが、何もひっかからなかった。
どうやら個人の事務所らしい。
そして私が居を構えている3階は、1番人口が密集しているらしく、空き部屋は1部屋だけとのことだった。
そして今向かっている上階は、部屋割りが特殊と言う理由もあるのだが4階は大家さんを含め3人しか住んでいない。
最後の段を足早に上りきる。
最上階のフロアには誰もいなかった。
3人しか住んでいない訳だし、当然と言えば当然なのだが、いないことを不自然に感じてしまうのは、あんなことがあったからだ。
化け物に出会うのも嫌だが、誰もいないのも何となく嫌なものだ。
とにかく今は早く、誰かまともな人の顔が見たい。
階段を上ってすぐ右手の3部屋が大家さんの部屋だ。
急いでその真っ黒なドアに近付き、横に併設されたチャイムを押す。
どことなく重々しいドアの周りは金色の縁取りがなされ、中央より少し上部に同じく金色のプレートが貼り付いていた。
プレートの表面には『NARUMI』と印字されている。
3階とは色もデザインも違うドアを眺めていると、インターホン越しに女の人の声が聞こえてきた。
『今晩は。何か御用かしら、墨木瞬ちゃん?』
インターホンから聞こえてくる声に安堵しつつも、私は僅かな違和感を感じた。
しかしその違和感を確かめる間もなく、大家である鳴美さんが私の思考を遮るかのように喋り始める。
『私に用があるのよね?わざわざ聞きに来るなんて一体どんな用事なのかしら、ワクワクしちゃう。家賃の支払いについてかしら?それとも駐輪場の使用について?あ、ひょっとしてゴミ捨てのスケジュールの事?』
一寸たりとも口を挟む間も無く、流れる水のように投げ掛けられる質問に、否定の言葉にが口の中で渦を巻く。
「い、いえ!別に、そういうのじゃないんです。そうじゃなくて、」
つっかえながら返事をする私を遮り、鳴美さんが更に一言付け加える。
『それとも、』
そこで言葉を切った彼女の声色に僅かにからかいが含まれている、ような気がした。
余韻を楽しむようにたっぷり2秒は間を置いて、彼女は囁くように言葉を紡いだ。
『それとも隣に住んでる彼の事かしら?』
私は息を飲んだ。
何で用件を知っているんだ、この人は。
……考えを、読まれた?
いやいや、そんな馬鹿な。あるはずない。
変な事続きで、変な事を考えてしまう思考になってるだけだ。
それに大家さんなら隣に住んでいる人の事は十分知っているはずだ。
だから遅かれ早かれ私が来るのを予見していたに違いない。
そう、それだけ。それだけなんだ。
首を振り、馬鹿な考えを追いやる。
「そっ…うなんです」
それに分かっているなら話は早い。
説明する手間を省けるし、交渉もスムーズに行くかもしれない。
『まぁ!当たりね。何か賭けておくべきだったかしら?…ふふ。困った顔しないで。さぁ、中へどうぞ』
「失礼します…」
楽しそうな大家さんに促され、金のノブを捻って部屋に入る。
明るい玄関にホッとしたと同時に、先程の違和感に気が付いた。
このアパートのインターホンには、カメラ機能は付いてない。私の部屋もそうだ。
ドア越しに様子を見るためのドアスコープは付いているが、返答をする為の受話器は部屋の中でドアとは少し離れている。
つまりスコープを覗きながら、受話器で返答する、と言うことは出来ない。
勿論、ドアスコープを覗いた後に受話器まで戻って返答する、と言うのは可能だ。
しかし、大家さんの部屋のドアには、何故かドアスコープがない。
…どうして、私が墨木瞬だと分かったのだろう。
心臓が跳ねる。
…ひょっとして私が気付かなかっただけで大家さんの部屋にだけ小型のカメラが仕掛けられているのかもしれない。
そうに違いない。
むしろそうじゃなきゃ嫌だ。
「どうかしたの、瞬ちゃん?」
そう言って小首を傾げる鳴美さんは、街中を歩いていたら、10人中10人が振り向くであろう物凄い美女だ。
黒々とした真っ直ぐな髪。
エキゾチックな浅黒い肌。
長いまつげに縁取られた金色の目。
出る所は出て引っ込む所は引っ込んだ豊満な体型は、体のラインに沿った黒いワンピースに包まれて彼女のスタイルを強調していた。
更にどことなく浮世離れした雰囲気が彼女の不思議な魅力に拍車を掛けている。
私がやっぱり美人だよなぁ、と見惚れていると、彼女は不思議そうに頬に手を当て、
「何かおかしいかしら、私」
と尋ねてきた。
私は慌ててぶんぶんと首を振り、否定を述べる。
「いや、今日も美人だなーって思っただけです!」
「うふふ…そう?ありがとう。ほら、そんな所で立ちっぱなしなんて駄目よ。さ、上がって。」
鳴美さんは微笑み、手招いた。
私は鳴美さんに続いて部屋の中へと入った。
やはり室内は3部屋ぶんだけあって、かなり広い。
広い室内に、品良く置かれてある家具はどれも高級そうに見える。
「そこのソファに掛けて頂戴。今お茶を淹れるから。紅茶で良いかしら?」
「あ、はい。」
お構いなく。と言った言葉は恐らく聞こえていない。
台所へと消えた鳴美さんを目で追い、勧められた真っ黒なソファに腰掛ける。
革張りのソファはしっとりとしていて、まるで肌に吸い付いてくるような座り心地だ。
何の革かは分からないけど、どことなく高級な気がする。
鳴美さんを待つ間、手持ち無沙汰になった私は室内に視線を巡らせた。
ソファの横に立っている棚はガラス張りで、見たこともないような本がずらりと並んでいる。
棚の中段には紫の石で出来た、カエルに似た置物が置かれており、本を途中でせき止めていた。
本の背表紙には見たこともないような文字が並んでいる。英語ではなさそうだが、何語だろうか。
その棚から視線を横にずらすと、サイドテーブルが置かれている。
上に置かれたミニチュアハウスもいかにも高級と言った感じで、小市民の私としては何となく落ち着かない気分だ。
そわそわしている私のそばに、大きな真っ黒い犬が寄ってきた。
「あ……えーと…こんにちは」
犬は勿論答えない。
私の足元に体を擦り寄せると、顎を膝頭に乗せて鼻を鳴らした。
そうっと手を伸ばして背を撫でる。
嫌がる素振りも見せなかったので、そのまま耳の裏を掻いてやると、気持ち良さそうに緑の目が細くなる。
頭を撫でると、もっとと言わんばかりに膝の上に置いた顎を擦り寄せてくる。
うわぁ、抱きしめたくなるくらい可愛い。
そうやって犬とじゃれていると、紅茶セットをお盆に載せた鳴美さんが帰ってきた。
「あらあら、仲良しね。うふふ…」
「可愛い子ですね!」
「そう。良かったわね、エッジ。…はい、どうぞ。ミルクとお砂糖はいる?」
「お願いします」
ティーカップを鳴美さんから受け取る為に、エッジを撫でている手を止める。
エッジは私の足元に伏せて目を閉じた。
紅茶にミルクと砂糖を混ぜ、一口含む。
その温かさでようやく人心地つくと、さっきまでの出来事が夢のように感じる。
…本当に夢だったら嬉しかったのだけど。
優雅に紅茶を飲む鳴美さんは、まるで絵画の中の女優のようだ。
私はもう一口紅茶をすすると、意を決して話し出した。