起床、そして懊悩煩悶
次に目を覚ましたのは夜だった。
ぼんやりとした頭が、とてつもなく重い瞼が目覚めることを拒否している。
先程までDNAのような螺旋階段から延々と転がり落ち続ける夢を見ていたせいか、長袖がうっすらと汗ばんでいて気持ち悪い。
頭を軽く振るって気持ちを切り替え、ゆっくり周囲を確認する。
部屋の中は夜が占領しており、私を押し潰すかのようにのしかかってくる。
積まれた段ボールと荷を解いた物たちが、まるで奇妙なオブジェ群のようにそびえ立っていた。
黒々とした本棚。白いカバーの掛かったベッド。沈黙しているパソコンに、部屋の隅に佇むコート掛け。積み重なったカステラの箱。
そうして最後に真っ黒な口を開けた窓を見てようやく、ここが私の家、私の部屋である事を思い出した。
部屋の中にはカチコチという規則的な音だけが響いている。
変な体勢で気を失っていたせいか、体のあちこちが痛い。
恐る恐るといった感じで体を伸ばすと、パキとかバキとか関節の軋む音がした。
今は何時だろう。
ダンボールの天辺に置かれた蓄光性の時計に目をやると、短い針が8を指していた。
確か帰ってきたのが大体5時くらい…だったから、およそ3時間も気を失っていたことになる。
わあ、と小さく呟いて取り消す。
何がわあ、だ。わあとかきゃあじゃ済まない状況なのに。
ひとまず立ち上がり、電気を付ける。
急に白くなった世界に目が眩みそうになりながらも、よろよろしつつ窓に近づく。
両脇に控えている、薄いレースのカーテンをさっとしめた。
遮光カーテンは明日買いに行く。
今日の所はカーテンレールにはコートでも掛けておこう。
そこまで結論を出して、ぴたりと動きを止めた。
待て、待て待て私。
ここに、このアパートで生活し続けるつもりなのか。正気か。
今のは完全に『引っ越さない』流れだったぞふざけるな。
それに対して冷静な私が言う。
だってどう考えたって、50万は払えない。
今のところ解決策はないし、オマケに引っ越す当てもない。
つまりは、ここで暮らすしかない。
そういう事なのだ。
脳内で私と私が相反する意見と言う剣を手にぶつかりあっている。
頭を抱えたくなってベッドに倒れこんだ。
ぐりぐりと枕に頭を押し付け、足をジタバタさせる。
それこそ、陸の上の魚のように。
そこまで考えて非常に嫌な気持ちになった。
ー夕方に出会った、あの化け物は、陸の上だというのに一体どうやって呼吸しているのだろう。
まさかえら呼吸な訳ないだろうし…。
いやいや、考えない考えない!
思考を振り払うように少し上半身を起こし、一気に脱力した。
スプリングの上で体が跳ねる。
跳ねた体が転がるままに、体制を横にする。
頭の枕を掴んで引き寄せお腹に抱え込む。
元はと言えばあんな化け物が住んでいる事を教えてくれなかった大家さんが悪いんだ。
大家さんめ、大家さんめ。
ぐきぎ、とお腹に抱えた枕を握りしめる。
枕からそば殻の抗議が上がるが気にしない。
大体何であんな唐突な契約金を設定しているんだ!
おのれ大家さん悪代官。
そこまで呟いてハッと気付いた。
そうだ。大家さんだ。
大家さんに直接訴えればいいんだ。
何でそんな簡単な事に気付かなかったんだろう。
契約書云々ではなく、大家さん自身に相談すれば済む話だ。
バネ人形のように素早く立ち上がる。
まだ8時をちょっと回った位だ。大家さんも寝てないはず。
私は玄関のドアノブに手にかけた所でぴたりと固まった。
もし。
まだあの化け物がいたらどうしよう。
ぶるっと身震いした。ドアノブを掴む手が微かに震える。
心臓が奇妙に高鳴るのを感じながら、恐々とドアスコープに顔を寄せた。
…魚眼レンズの向こうには婉曲した廊下が広がっていた。あの化け物は、いない。
張り詰めていた緊張が一気に解きほぐれる。
肩に入っていた力がぬける。
良かった。また居たらと思うと気が気じゃなかったから。
ゆっくりと鍵を開けると、顔だけ出して辺りを窺う。
…やはり、誰もいない。
私はその事に安堵しつつ、やや早足で4階へ向かう。
階段を登る足音だけが、誰もいない静かな廊下にやけに響いた。