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遭遇、そして意識喪失

夢と希望を両手に期待に胸を膨らませ、地方から上京してきたピカピカの大学一年生。


それが私。

墨木瞬スミキマドカだ。


私が初めての一人暮らしに選んだのは、丸い緑の路線から少し外れた駅。

近くに商店街もあり、治安も悪くなく、駅の周辺にはスーパーやコンビニ、ちょっとした雑貨屋さんもある。

病院だって内科外科歯医者と揃っているし、全ての物が百円で買えると言う価格破壊甚だしい店だってある。


非常に住みやすい場所だ。

今でもそう思うし、これからだってきっとそうに違いない。


そんな素敵な場所で、素敵な生活に胸を躍らせていた数ヶ月前の私に滔々と説教したい。

何故住む場所をちゃんと調べなかったのか。と。

もっと言うなら、隣の住民についてだ。


思い出すだけでも最近流行りの何とかって値が減る。

何なんだろう。アレは。

と言うか、アレは生き物で、陸で生活していて良い生き物なのだろうか。


今私は、自室のワンルームに正座して前に倒れている。

フローリングの冷たく固い感触が、額にじわりと滲む汗が、全ての五感が先程までの出来事を真実として伝えている。


嗚呼、夢じゃない。

本当なんだ、と理解して泣きたくなった。


実家から全ての荷物を運び終わり、引越しのトラックを見送ったのが昨日の事だ。

今日は午前中は部屋の整理をして、午後から細々した物を買いがてら近所を散策して、

つい先程、スーパーの袋を手に食い込ませながら帰ってきた。

そう、そこまでは順調だった。


部屋の鍵を開けようとして、スキニージーンズのポケットを探っていた私の耳に、階段を登るカツカツ、と言う革靴の音が聞こえてきた。


私の部屋は3階にある。

このアパートは4階建てで、エレベーターは無い。

1つの階につき、6部屋並んでいるが、防音がしっかりしている為、隣の音も気にならない。

と言うのが大家さんの謳い文句で、実際内覧に来た時も静かそのもので、挟まれた部屋だと言うのに物音は全くしなかった。

ベランダの窓を開けると急に表の音が飛び込んできて、そこが通りに面している事を思い出した位だった。

更にはそこそこ広いワンルームで、バス・トイレ別、独立洗面台付きで月5万5千円というのは実に魅力的だった。

そこがこのアパートを選んだ理由でもあったのだ。


カツカツと言う靴音は徐々に大きくなって来ていた。

私は鍵を探すのに夢中で、正直誰かが登って来ようが気にも留めていなかった。

それにお隣さんなら挨拶すれば良いし、例え他の階の住民でも、目が合うようなら会釈して挨拶するくらいの礼儀作法は心得ている。

一人暮らしをするに当たっての隣近所との付き合いについては耳にタコが出来るほど言われているし、私はそれ程無作法者ではない。


目当ての物はポケットには無く、少し焦っていた。

手に食い込むビニールに僅かに顔をしかめながら、肩から掛けたショルダーバックの中を漁る。

手袋、財布、スマホ、ハンカチ…その下にマスコットのついた鍵が隠れていた。

ホッとしながら鍵を掴んで再度バックを抱え直す。


鍵穴に鍵を差し込み回したその時だった。


カツン、と。

左隣で先程まで聞こえていた靴音が静止した。


ああ、お隣さんだったのか。


丁度いい、後で挨拶に行こうと思っていたし。そう考えながら左を見ると、ポーラーハットを深く被った黒スーツの人がいた。

その人も私同様、鍵を手にドアの前に立っている。


夕方の薄紫色が入り込んだホールは、電気が切れている為に薄暗く、その人の姿はまるで影が自立しているようだった。

一瞬どきりとしたが、


こんにちは。

昨日、隣に引っ越してきた墨木瞬と言います。これからよろしくお願いします!


挨拶は元気よく。私は笑顔で彼を見てそう言った。

その声に反応して、スーツの彼はこちらを向いた。目深に被った帽子と縞模様のマフラーのせいで顔は見えない。

真っ黒な影の手が頭部に回り、白いリボンの巻かれた品の良い帽子を掴む。

帽子が持ち上がり、その顔が見えた。


青白く硬質な皮膚は白く輝く鱗に覆われており、パクリと開いた口の中は黒く。

左右に付いた目は魚顔なんて言うもんじゃなく、紛れもなく魚そのものだった。

パチリと瞬きするタイミングがその魚顔と重なる。

手に持った帽子を胸に当て、魚は微笑んだようだった。


そしてその魚の開いた口から、

「こんにちは。私は…」

と言う所まで聞いて私は叫んだ。


今まで出したこともない様な信じられない悲鳴を上げながら、鍵穴から鍵を引き抜きドアを開いて急いで閉めて鍵を掛けチェーンを下ろす。


何アレ。

何アレ!?

見間違いじゃなく、魚だった。

魚の顔そのものだった!!!


確かに周りは少々薄暗かったが、アレは絶対見間違えたりしない。

間違いなく、魚だった。


今だにバクバク言っている心臓に手を当てる。高鳴り過ぎて胸が痛い。

夢だろうか。夢じゃないだろうか。


そんな一縷の期待を込めて、震える手でそっとドアに寄り添って小さなスコープを覗き込んだ。

そして覗いた硝子の先には魚眼レンズに歪む魚が立っていて。


そっと体をドアから離し、ジリジリと後ずさる。

途中、スニーカーのまま部屋に入った事に気付いて足を振って玄関に投げ飛ばす。

スニーカーはドアにぶつかり鈍い音を響かせた。

その音にすら心臓が跳ねる。


どうしよう。どうしよう。


ひとまず、落ち着こう。落ち着かなくては冷静な判断が出来ない。

しゃくりあげそうになる呼吸を必死に整えながら、ショルダーバックからスマホを取りだす。

電話の画面を呼び出し、『11…』とダイヤルを叩いてはたと手を止めた。


もし、今。

もしも今警察に電話したとして、警察は信じてくれるだろうか?


……いや、信じてくれないだろう。

悪戯電話で片付けられてはい終わり、だ。

何なら私が変人扱いだ。

冗談じゃない、私は確かに見たというのに。


それに警察じゃなくても、友達だって家族だって信用してくれるはずがない。

私だってもし友達から化物を見た!と言われたら間違いなく病院に連れて行く。


…違う、そうじゃない。

現実的に考えるんだ。ここから逃れる方法を。


両手で頭をがりがりと掻く。

下唇を軽く噛み、2、3回ゆっくり瞬きをして深呼吸をした。


…そうだ。まずは契約書だ。

本棚に駆け寄り、一番上の棚からクリアファイルに挟まれた契約書を取り出し震える手で捲る。


何らかの理由で半年以内にアパートを退去する場合は…大家さんが何か言っていたはずだ。


4枚目に太字で書かれたその項目を見つけ目を輝かせた。

しかしそれは一瞬のことで、内容を読み込んで行く内に絶望に突き落とされた。


すなわち、何らかの理由で半年以内に退去する場合は、違約金が発生すること。

その額、50万。


何故ここを最初にちゃんと見てなかったのだろうか。

どう考えてもこの金額はおかしい。おかしいのだが、どうすれば良いのだろうこれは。


私の家は貧乏と言うほど貧窮している訳でもないが、裕福という訳でもない。

しかし、だ。

引っ越しや大学の費用やら何やらで散々お金を掛けている今、一般的な中流家庭である家はそんな大金はぽんと出せないだろうし、理由も話さず引っ越したいと言う私の主張は万に一つも通らないだろう。


力無く床に倒れて、頭を強かにフローリングにぶつける。


痛い。

嗚呼、夢じゃない。

どうしよう。どうしよう。


苦悩する私を静寂が責め苛む。

更に言えば、机の上に積まれたお隣さんと上下の住民への挨拶用のカステラが私の胃に穴を空けそうだ。


嗚呼胃が痛い。頭も痛い。

何も考えたくない。


冗談抜きでギリギリと痛み始めた胃を抑えて目を瞑ると、張り詰めていたはずの緊張感が僅かに緩み、その瞬間、ふっと意識が暗闇の底へと吸い込まれるように落ちて行った。


成る程。これが俗に言う、意識を失うと言うことなのだろう。

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