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それはまさしく終わった恋のように―――

作者: 針山

 季節は二月、雪の降る街並みに慣れてきた頃。

 陽は厚い雲に隠れ、道路の端に寄せられた灰色の雪が溶けることなく積み重なっていく。校庭は染みだした水に浸され、幾度も荒らされた花壇のように無残に無様に耕されていた。聞こえるはずのざわめきは、まだ昼前だというのに聞こえることはなく、ただ時折響く足音を反射している。


 誰がいる?

        誰もいない。

 誰もいない?

         誰かいる。


 耳の近くの囀りを微笑んで応えてしまうように、その時間はゆるく穏やかで和やかに過ぎていく。

 誰もいないはずの教室。彼女は二人、音を立てることが罪と言わんばかりに緊張を孕んだまま、無言の圧力に呑まれていた――――はず、だったのだ。

 浮かんだのは笑み。笑みに似た、嘲り。

 視線を上げれば、彼女の前にはあの子がいる。

 古めかしい書物を広げ、不規則な目の動きが左端を捉える度に手が動く。パラリ、パラリと、同じ動作を断続的な感覚で繰り返す。

 酷く余所余所しい、他人行儀な空間。声だけでなく、身動きの際に発する音さえ罰せられると感じさせる沈黙は、けれど彼女の心を居心地良くさせる。

 動く事のない時間と動かす事のない時間。

 永久に永遠に。

 無限に無縁に。

 速度を否定した鳥が落ちてしまうような、危うさを持ちながら。

 けれども現実は、確実な終わりが見えてきてしまう。


 ―――剣に似た相貌。

      ―――刃に似た口元。

           ―――矛に似た姿勢。

 

 あの子は誰もが羨む、全てを持っていた。

 一人気高く、独り神々しい。たったひとりで、何もかも手に入れた英雄のように、彼女は異彩を放ち偉才を持っていた。だから、誰も近づけない。近づかない。

 英雄から奪えるのは、愛しい者でも空想上の神秘でも溢れんばかりの名声でもなく。

 英雄を奪えるのは、たった一つしかない命を刈り取る罰だけ。


 だから彼女はあの子を許さず、

     だから彼女はあの子と話さず、

         だから彼女はあの子に接しない。


 それがあの子をあの子足らしめる、唯一無二の現実。事実。

 そんな、儚く脆いなんて常套句を言いまわす必要なんてなく、ただただ純粋に彼女はあの子に近寄らない。

 至ってシンプル。限りない簡潔性。

 飾る言葉など必要とせず、ただの一言で済んでしまう。


 彼女はあの子が嫌いで、あの子も彼女が嫌いだから。


 独りになる理由に、それ以外はいらない。


 それが彼女の考え方。

 それがあの子の迷い方。

 揺り籠を忘れた母親が、胸の内で赤子をあやす姿と同一。

 彼女はそっと、ノートに描いたあの子の姿に目を落とす。

 それは確かに、彼女とあの子の繋がりだった。


―――――――――――――――――――――――――――――


 シンッとした空気の中、彼女はあの子の視線を感じながら本を読み進める。

 速度は一定、情報量は無限大。

 時計の針の音さえ煩わしい、なんて、気取った言い方を好む彼女にしては我慢強い類の不躾さ。

 嫌い、嫌い、嫌い。

 嫌いの反対はどこにも存在しない。

 反対側に回ってみれば、きっと木陰でサボる同級生のような悪戯な笑みが見えるだけ。

 だから彼女は何も肯定せずに、そっとページを捲る。

 誰もいないのに自分がいる、そんな矛盾を求めて入った日常に、異質ではないただの日常の背景がいたのは偶然。

 必然にさえ届かない、ありえる可能性の一つ。

 それでもきっと、こうして二人きりになるのは運命なんて言葉で彩れば素敵なのだろう。吐き気がするくらい、甘ったるい。

 僅かに聞こえる音は窓の軋み。その音のお蔭で、抜け出せない思考の闇から救出される。

 救難信号はとっくに途絶え、乗り込んだボートには何もない。

 吐息ひとつさえ気を使う、背筋が凝る状態でも、彼女は彼女のスタンスを崩さない。

 それは見栄であり、それは虚勢であり、それは意地だった。

 彼女を彼女足らしめる、涙ぐましい努力の痕跡。

 わずかに揺らぐ右足が、軸を支える左足にぶつかる。

 足首が規則正しくリズムを刻んで、酸素の供給を教えてくれる。

 痺れることもない左腕。

 頬に添えられた手のひらだけが不快を訴え、黙殺する彼女はただ読む耽る。

 

 伝えたい言葉なんかなくて、

      伝えたい想いなんかなくて、

           伝えたい時間はない。


 それはきっと永遠に続くと思ったから、と詩的な表現で言いまわそうにも知識はなく、ただ事実を語るだけの唇が小さく開いて閉じる。

 ささやかな感謝の祝詞さえ出てこない心に、彼女は安堵の溜息を吐く。

 吐いてしまった。

 意図もなく、意味もない―――音を。


―――――――――――――――――――――――――――――


 それが合図。

 どちらも気づいて、どちらも気づいた。

 引かれた椅子。

 閉じられた本。

 立ち上がり揺れる机。

 仄かな午後に差し掛かった時刻は、世界は何も変わっていないことを教えてくれる。

 引いた椅子を戻した、閉じた本を仕舞った。

 立ち上がった視線は高さを得て視野が広がる。


 そして、だから、しかし―――結ばれた目線。

 

 椅子から手を離し歩き出す。


 鞄を手に取り歩き出す。


 ひんやり冷えたドアを開けると、留まり溜まった冷気がつま先を踏んづける。


 膝を割って、腰を叩いて、背を撫でて、鼻を摘まみ、頭を引っ掻く。


 コートのポケットに手を差し込んで、マフラーに顔を埋めて、肩を持ち上げ暖を求め、歩き出す。


 そっと伸ばされた真逆の二つの手が、わずかな体温を掴んで離さない。


 影絵は重なり伸びず縮まず一定に、足音を鳴らし歩み出す。


 交互に鳴り響く音色は、同じ方向から聞こえて。



 それはまさしく終わった恋のように、

                  終わった先を求める、愛おしい姿を写しながら―――

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