宝石
頑張って生きるか、頑張って死ぬかだ。
映画「ショーシャンクの空に」より
ヒトはなぜ生きるのだろうか。
なぜ生きる意味を考えてしまうのだろうか。
生きる意味が見つからなかったら、なににすがって生きていけばいいのだろうか。
生きる理由は明確である。
自分の意志とは無関係に生まれてきた、そして死ねないから生きるのだ。
社会的に自立できるまで生きれば子孫を残したいという欲求も湧いてきて、子供の自立を待つまでは死ねないという使命感をもつ。
純粋に子供のために生きることもあるし、大抵はいい学校に入れたい、いい結婚相手が見つかって欲しいという欲求も湧いてくる。
それによって親自らも社会的に優位に立ちたいと思うようになる。
「子供のため」とは本質が見えにくい言葉である。
まあ生存欲求、性的欲求、社会的な承認欲求。そんなところが生きている理由だろうか。
衣食住の足りている者には盲点だが、衣食住を満たそうと努めることも生きる目的になるだろう。
高い水準を目指し始めると、これはもう社会的欲求か、快不快に貪欲な者。
社会的欲求は満たされにくい。
本人の常日頃の努力によって周囲の信頼や羨望や嫉妬はできあがるからである。
ただあまりに周囲より自分が抜きん出ている者、または比較対象がないくらいに社会と隔絶している者、さらには相対的なものの考え方や功利的な思考に疲れた者はより高次な欲求を得ることができる。
なぜ生きるのか、時の流れにも時代の変化にも自分自身の一時的な欲求にも影響されない普遍的な生きる意味を。
しかしそんなことを考えている間に、社会的欲求を満たすために、あるいは社会との隔絶した生活を守るために、次々と起こる不幸(不幸が何かもわからないが)に見舞われ、お腹も空いてトイレにも行きたくなり、明日のために眠るのである。
生きる目的が分からずこの世に存在する必要性も感じないのに明日のために眠るのは、漠然とした将来への希望である。
明日には生きる目的が少しでもわかるかもしれない、なにかこの心を締め付けるものを消し去ってしまうものが現れるかもしれないとの淡い期待である。
それにしても今日の山は美しい。空が美しい。こうしてしばらく眺めていると、胸の奥から希望、希望としか呼び名をしらない、それがじんわりと染み出してくる。
私は芸術家ではないから音楽や絵画によって希望を忠実に表現することはできない。
資本主義国である我が国が滅びてしまわないように社会から与えられた仕事をこなすことしかできない。
偉大な音楽や絵画に出会うと源泉のわからないこの希望を胸に呼び戻すことができる。
幸せである。
希望はいいものだよ、いいものは決して滅びない。
映画「ショーシャンクの空に」より