蜃気楼
通された部屋は暖かく、首元に巻かれたタオル生地の心地よさにほおっと息を吐いた。
濡れた髪から雫がぽたりと落ちる度にシャンプーのいい匂いが鼻元を擽る。
見渡した部屋は異様に広い造りになっていた。中心には押せば深く沈みそうなソファが並び、そのまた真ん中に背の低い硝子テーブルが置かれている。部屋の隅に並べられている置物もそれなりに価値があるものなのだろうか。それぞれの下に白く上品なランチョンマットが敷かれていた。
入口で立ち惚けていた僕に気付き、一歩先を歩いていた彼女が振り返る。
「何か珍しいものでも見つけた?」
そう問われて、全部、と答えそうになったが言葉が喉の奥に張り付いて口まで辿りつかなかった。
宮城眞弓の家を訪れたことは、僕にとっては初めてと言ってもいいほど珍しいことだった。
僕が他人の家に行く。しかも全く見知らぬ人間の家に。
否、全く知らないわけじゃない。彼女には過去に会っている。おそらく、二回。
「さ、ちゃんと乾かして。何か飲物持ってくるから」
そう言って彼女は壁側に寄せられた木製の引き戸からヘアドライヤーを出して僕に手渡した。真っ赤な色が独特な大きなドライヤーだった。
これほど立派な箪笥から見慣れたモノが出てくるのは変な感じだ。非日常の中にポツンと現れた日常。そんな感じ。
「……」
ふと彼女に初めて会った時のことを思い出した。
目も眩むような陽射しの中、明るい世界から突如として現れた非日常。宮城眞弓はあの日と変わらず眉目秀麗と云う言葉にぴったりな美しさを称えていた。
ドライヤーの低重音が部屋中に響く中、戻ってきた宮城眞弓の手には白い液体の入ったコップと小さく上品なティーカップが乗った四角い盆が持たれていた。
七分丈の袖から覗く細くて蒼白い腕に透ける血管。視線を落とすと、彼女の着ているワンピースがゆらゆらと揺れている。
「カルピス好き?」
小さく頷くと、彼女はにこりと笑ってテーブルに盆を置いた。
その笑顔がまたあの日を思い出させる。
初めて彼女に会ったのは今から一ヶ月程前。
九月に入っても変わらぬ陽射しの暑さとコンクリートによる照り返しが身体にジリジリと焼け付いて、流れる汗が服をぐっしょりと濡らしていた。
あの日の僕は週末の休みを利用して近くの裏山に登っていた。
所々に湧き出ている山水は冷たく、樹々が生い茂る裏山は僕のちょっとした避暑地だ。
その日も朝から出掛けていたが、正午を過ぎたころに訪れた空腹感に家に戻ることを余儀無くされる。その帰り道、あまりの暑さに参っていた僕は住宅街の大きな塀の傍で休んでいた。
そこへ声を掛けてきたのが宮城眞弓だ。
ーーこんにちは。今日も暑いですね
たった一言だった。
たまたまその高くそびえる塀が彼女の家の塀だった。ただそれだけだ。ただの偶然。
それを出会いと呼ぶのはおこがましいのかもしれない。でもあの日が無ければ、今日の出来事は無かったかもしれない。きっとすれ違っても、声なんか掛けられなかった。
そしてあの日も……。
「…っ、…あの……」
確かめるべきだ。あの日の出来事が確かな事実であるかどうかを。
「先週末に、あ、あの……」
あの日僕を家まで運んでくれたのは、本当に彼女だったのかどうかを。
「……あ、…僕を」
喉の渇きを抑えられない。ペタペタと喉の奥に何かが貼り付けられたかのような気持ち悪さが込み上げてくる。
「ぼ、僕の…僕のこと……」
頭の中に心臓があるみたいだ。がんがんと煩いくらいに鳴り響く音に、僕の視界は白く染まっていく。
「あ…僕の、……あの…」
遠退きそうになる意識の端を必死に掴んでいた。とっさに掴んだグラスは冷たく、一気に傾けると甘い香りが喉の奥を流れていく。
飲み下したカルピスの冷たさを感じながら、自分の首筋が汗で濡れていることに気付いた。
その刹那、ふっと目の前が翳った。視線を上げると同時に頭に乗せられる手。
「美味しい?」
「………え?」
「カルピス、美味しい?」
「…………うん」
そう、よかった。そう言いながら僕の頭を撫でる手はとても暖かだった。
他愛もない話をした。話をしたと云うよりは、彼女の話すことを聞いていた。
彼女は色んなことを知っていて、僕はそれを黙って聞いて、そしてたまに微かな相槌を返す。それだけだったけど、それは酷く心地の良い時間だった。
「あの裏山の川の水は凄く綺麗なの。蛍も沢山いるのよ」
「ほた…る?」
「蛍を見たことはある?」
僕が頭を振ると、彼女は興奮したように目を輝かせた。少し早くなった口調で、身振り手振りで、その素晴らしさを述べ連ねていく。
くるくる変わるその表情が、なんだか子供みたいだなと思った。
子供の僕にそんなふうに見られてるって知ったらどう思うだろう、そんなことを考えながら少しだけ笑う。
「すっごく綺麗なの。何匹も飛んでて、とても幻想的なのよ」
「蛍……僕も、見てみたい」
不意に呟いた言葉。彼女はもっと興奮して、まくし立てるように説明してくれるだろう。そう思った。
「……ええ、そうね」
だが予想に反して彼女の声は暗く、その顔は翳っているような気がした。
僕の視線に気付いてかすぐに笑ってみせたが、僕にはその笑顔が泣いているように見えていた。
「来年、一緒に行きましょう」
笑ってる。彼女は笑ってる。
自分にそう言い聞かせながらも、僕は込み上げてくる不思議な感覚に胸をざわつかせていた。
*
「あ、ユキさん」
結子さんは玄関に入ってすぐに声を掛けてきた。というよりも、扉を開けたら目の前にしゃがみ込んでいた。
靴箱の上に置かれた時計の針は夜の九時を過ぎている。
六時前には帰るように促され宮城眞弓の家を出たが、なんとなく気分のよかった僕は裏山に登っていた。
冷たい水に触れ、来年その場所で蛍を見ている自分を想像した。隣では宮城眞弓が子供の様にはしゃいでいる。僕はそれを見てぎこちなく笑うのだ。
「あの、夕飯は……」
目の前の結子さんの口振りは、想像の中の僕よりもたどたどしくぎこちない。こんな時間に掃除でもしていたのか、その手には箒が握られていた。
「……いらない」
僕はそれだけ言って彼女の横をすり抜けた。僕は振り返らなかったけど、結子さんも僕を振り返った気配はない。
そのまま二階に向かい、一番奥の部屋のドアを開け、後ろ手にドアを閉めた。荷物も置かずベッドに座り、暗い部屋で目を凝らした。
部屋の壁が迫ってくる。重苦しい鉄でできた牢獄のように僕を取り囲んでいる。
目を閉じて、今日の出来事を思い出した。赤い傘。雨の匂い。冷たいカルピス。蛍の光。ぼんやりと浮かぶ彼女の顔。
立ち上がりカーテンを開けると、先程まで止んでいた雨がまた降り始めている。
蜃気楼のようにゆらゆらと不確かな記憶。今日の出来事は本当にあったことなのだろうか。宮城眞弓は確かに実在する人物なのだろうか。
不意に部屋の中に視線を戻すと、そんな馬鹿げた考えに耽る僕をすぐ傍まで迫る暗闇が不気味に嘲笑っていた。