滴る水滴
道路にはポツポツと雨の痕が残っている。
学校までの道のりは雨の独特の匂いに包まれていて、見上げた空は灰色に染まった分厚い雲で覆われていた。生暖かい風が傍をすり抜け、その湿った空気に僕の眉の間には無意識の内に深い皺が刻み込まれているはずだ。
僕は雨が嫌いだ。夏の暑さも苦手だが、雨の日の蒸し暑さと湿った空気が大嫌いだった。そしてそんな日に行く学校が、一番嫌いだった。
もうすぐ高校生になる。
受験を真近に控えた同級生たちは目の色を変えて受験勉強に取り組んでいる。夏が勝負だと毎日毎日クチを揃えてのたまう先生方にも、他の生徒に対する受験生の冷めた視線にも、もううんざりしていた。
さした傘から滴る水滴がたまに僕の肩を濡らす。視線を落とすと、制服の裾が濡れて微かに汚れていた。制服の上からでも分かる細い身体。
ふとカーブミラーを見上げると、そこには黒い傘から覗く小さな男の子がいた。そのまま視線を落とし、道脇に立ち並ぶ飲食店の窓ガラスに映ったその男の子をまじまじと見詰める。
中学生にしては低い身長と細い肢体、女の子に見間違われる顔、そしてボサボサに伸びた金に近い栗色の髪。開かれた瞳は碧味がかっている。
一目で、日本人ではないと分かってしまうこの容姿。
「………」
窓ガラスに映った彼の後ろを、沢山の車や人が通り過ぎてゆく。奇異なものでも見るかのような視線をガラス越しに巡らせる人もいた。
立ち止まり、ぼうっとそれを眺める。
だがすぐに肩を叩かれた感覚で現実に引き戻された。振り向くより早く窓ガラスに赤い傘が映り込んでいるのが視界に入る。
「おっはよ、羽田くん」
僕より少し背の高い彼女の、大きなくりくりとした目が僕を見つめている。僕はゆっくりと振り返り、一拍置いてから小さな会釈を返した。
松前菜々は同じクラスの生徒であり、例の受験生の一団の一人だ。運動神経もよく頭も良い彼女の進学先はもう既に推薦で決まっていると、そうクラスの皆が話しているのを聞いたことがある。
面倒見がよく、いつもクラスの中心にいる女の子。学級委員をやっている責任感からなのか、いつも一人でいる僕に何かと声を掛けてくる。
その優しさが、不意に煩わしくもあるのだが。
「どうしたの、ぼんやりして」
彼女が話す度、赤い傘の下で肩まで伸びた彼女の髪が微かに揺れる。少し茶色がかった柔らかそうな髪。
僕は視線を逸らすようにして、ぼそりと返した。
「……な…何も……してな、い」
こんな時まで詰まりそうになる言葉。自分自身が苛立たしくて、情けなくて、なんとも言えない気持ちが込み上げる。だが松前菜々はそんなこと気にも留めない様子で笑った。今日の天気とは裏腹の、とても晴れやかな笑顔だった。
「そっか。じゃあ遅刻しちゃわないように、早く学校行こう」
そう言って彼女は僕の腕を掴んだ。急に動いた衝撃でバタバタと傘から落ちてきた水滴が妙に冷たかったけど、僕の手を掴む彼女の手は酷く熱かった。
*
「ほーら、出席取るから席に着け」
教室に入った途端そんな言葉が飛んできた。仕切られた箱のように狭い部屋には雨の匂いと、どこか冷え冷えとした空気が満ちている。
先生は松前菜々の後について教室に入ってきた僕を一瞥して彼女に声を掛けた。
「お前がギリギリに来るなんて珍しいな、松前。何かあったか?」
そう、遅刻が珍しいのは彼女。そしてその "何か" は僕の事を指しているのだろう。その意図が分かっているのか、教室中の視線が僕へと向けられる、気がした。
僕はその視線をかわすように自分の席に着く。窓際の一番後ろ。其処はきっとクラス中の誰もが座りたくない、ある目標。
「あはは、ちょっと忘れ物しちゃって……羽田君も巻き込んじゃいました。すみません」
松前菜々はそう言って窓際の一番前の席に着く。そして其処はきっと僕以外のクラス中の誰もが憧れる席。
先生はもう僕に目を向けることもなく、彼女が席に着いたのを確認して出席を取り始める。先生も他の生徒たちも、誰も僕には興味がないのだ。
このクラスは難関受験志望者が前の方に座っている。そして窓際の一番前にはクラスで一番成績の良い人間が座る。つまり松前菜々はこのクラスで一番頭がいい。だが前列と違って、後方の三列は特に成績順というわけでもなく専門学校だったり、高校進学を決めていない生徒がまばらに座っている。
ただ、僕の座る『窓際の一番後ろの席』はあるレッテルが貼られていた。
「……問題児席」
スッと耳に入ってきた単語に、ビクリとしながら隣に視線を遣る。隣に座っていた外川大地は頬杖をつきながら眠そうに黒板を眺めていた。
「とか考えてんだろ、お前」
「……」
頭の中を見透かされた気がして何も答えられずにいると、彼は僕に突き刺さるような冷たい視線を向けてくる。僕はその目をただ見返すことしか出来ない。
「馬鹿じゃねーの?」
そう言って彼は視線を前に戻したが、一拍置いてすぐに何かを思い出したようにもう一度口を開いた。
「お前、後で松前に礼言っとけよ」
「礼…?」
言葉の意味が分からず思わず聞き返すと、彼は怪訝そうに顔をしかめた。そしてまた面倒そうに黒板に視線を戻して口を開く。
「さっき庇ってもらってたろ」
ぶっきらぼうにそう言って、彼は松前菜々を顎で指す。
「あいつが忘れ物なんかするわけねーだろ」
「……う、ん」
僕は何だか釈然としない気持ちで頷く。なんでそんなこと分かるんだ、そう言ってやりたかったが言葉が出なかった。
窓の外では変わらず雨が降り続く。ざあざあと、聞こえるはずのない雨音が聞こえてくる気がした。
昼休みを過ぎた頃、勢いの増した雨粒が教室の窓を強く叩いていた。
湿気と昼過ぎの眠気で気分は最悪だ。
「……はやく」
帰りたい……
そう呟こうとして、素早く頭の中で否定する。頭を振りながら机の上をじっと見つめた。
どこに帰るって言うんだ
自分にそう問い掛けながら居た堪れない気持ちになる。無意識の内に握りしめていた指の爪が手のひらに深く食い込んでいる。
もっと、もっと……
もっと深く食い込んで。でも流れ出した僕の血は赤いのだろうか。 外見だけじゃなくて、身体の中すらみんなと違うモノだったらどうしよう
いや、そんなの今更だ。僕は皆とは違う
――おまえ気持ち悪い頭だなぁ
――やっだ、あの子何人?
――わぁーん、あのお兄ちゃんの目こわいぃ
ふと机の上に広げた真っ白なノートに何かがポタリと灰色の小さなシミを作った。
あぁ、雨が入ってきたんだ。だから雨は嫌いなんだ。はやく、止んだらいいのになぁ……
ぼやけた視界の中で、きちんと閉められた窓に流れる雫を見ながらそんなことを考えていた。
*
もし人生で「最悪だ」と呟きたくなる場面がいくつもあるならば、それは正に今この瞬間をそう言うのだろう。「最も悪い」出来事ではないにしろ、僕の十五年という短い人生のなかでは間違いなく悪い部類に入ると思う。
身体から滴る水滴はもう滴るというよりも流れるように僕の身体を廻る。濡れていない部分を探す方がきっと難しい。
強くなる雨足は一向に止む気配がなく、僕は心の中で悪態をついていた。
最悪だ
放課後、ホームルームが終わってから僕は図書室に寄った。帰りたくないと云う自分の言葉を行動で示したかったからだ。自分の言葉を自分に示したかった、なんて馬鹿な話だろう。
だがその行動はすぐに後悔するに至る。教室に置きっ放しだった鞄が無かったのだ。
もう、探す気にもなれなかった。心当たりが無かったわけじゃない。多過ぎて、僕にとっては勘繰ることすら面倒だったのだ。
この手のイタズラはよくやられていたし、その度に怒ったり悲しんだりしていたらもたかなかった。きっと心も身体も。
当然のことのように昇降口には傘もなかった。真っ黒で、僕の心に色をつけたような傘。もう、どうでもいいや。
「何がどうでもいいの?」
涼やかに透き通った声だった。雨音を消し去り、僕の耳をくすぐる。
それは衝撃なんてものじゃなかった。一瞬で身体は動かなくなり、息をするのも苦しくなる。身体から滴り落ちる水滴が僕の心臓の音を速めていく。
白く霞む視界。眼前でふわりと微笑む女性。その唇が動いてる。僕に何かを言っているんだ。
「う……あ………」
顔が熱くなっていく。頭の中は真っ白だ。
身体は無意識に方向を変えていた。無我夢中で反転させた身体を動かし走り出そうとした。そう、走り出そうとしたんだ。
掴まれた腕が熱くて、今朝の松前菜々の手を思い出した。強く振り払えばそのまま走り出せたと思う。でもそれをしなかったのは、その手があまりにも温かく、そして力無かったから。
「こらこら、また逃げるつもり?」
「な、に……」
「なにって、君が逃げるからつい」
「そう、じゃ…なく…て……」
そうじゃなくて、一体僕に何の用があるんですか。たった三秒で終わる台詞なのに。言葉が出てこない。
差し出されたままの白いビニール傘に雨粒が叩きつけられて大きな音を立てている。
それからはっとした。彼女の傘は僕の上に覆いかぶさり、彼女の身体は雨に打たれている。彼女の着ていたデニム生地の青いジャケットが段々と暗く染まっていく。
それでも静かに笑っている彼女の頬を流れる雫が、その美しい顔を泣いているように見せて酷く胸がざわついた。
「あ、あの……傘を………」
僕の言おうとしていることが分からないのか、彼女は僕の口からたどたどしく発せられる言葉に首を傾げている。
でも不思議といつものような焦りはなかった。
早く話さなければ、早く続きを……。人と話すときはいつもそうだ。次に僕が何を言うのか、皆はいらいらしたように不快感を顔に表す。それに応えようとすればするほど僕は言葉に詰まってしまう。
それなのに彼女にはそれを感じない。僕の言葉を待っているのではない。僕と、会話してくれようとしているんだ。
違う、そんなことより彼女が雨に濡れてる。早く彼女に傘を。
色んな言葉が頭のなかに渦巻いていく。言葉も出なければ身体も動かない。どうして僕はこうなんだ、どうしていつも僕は……
その時彼女が頭の上でふっと、小さく息を吐く気配がした。一瞬溜息を吐かれた気がして身体が冷たくなる。
だが次に感じたのは頭に置かれた温かみだった。一度どこかで触れたことのある優しさ。
「また、そんな顔して……どうしていつもそんなに苦しそうにしてるの?」
見上げた彼女の顔は酷く優しく、儚げで、今にも泣き出しそうで。
そのまま頭に置かれた手が降りてきて僕の頬を撫でる。無意識のうちに僕の唇から零れる言葉。
「どうして、そんなに……泣きそうに……」
「………泣きそうだから」
「え……?」
「君が、泣きそうにしてたから」
その刹那に僕の頬を伝ったのは雨の雫だったのか。やけに熱い手と雫だった。
顎先から滴る水滴が、僕の身体を溶かしていった。