Prologue...
この物語を書くにあたりましての御注意を。
この物語はフィクションであり、吃音症と云う言語障害を題材に取り扱っております。その点で、何か不快な思いをされる方がいらっしゃいましたら大変申し訳ございません。
ご指摘、ご指導は快く受け入れていく所存でございます。
また、過度な誹謗中傷は御容赦下さいますよう宜しくお願い申し上げます。
その昔、死んだ人間があの世までの道を見失うことのないよう人々は盂蘭盆の最終日に火を灯して道標をつくった。美しくも怪しいその火を、人々は『送り火』と呼んだ。
―送り火―
とても暑い夏の日だった。いや、夏と言うには遅いかもしれない9月の中頃、残暑厳しいその日に彼女は現れた。その出逢いと呼ぶには唐突で、きっかけと言うにはあまりにも小さいその日の出来事を、僕は今でもはっきりと覚えている。
凛とした立ち姿、艶やかに靡く長い髪、日本人離れした透き通るほどに白い肌、そして見とれるほどに整った顔立ち。一枚の風景画のなかに彼女だけが貼り付けられた写真のような、そんな異質の存在に思えた。
でも僕を驚かせたのはそんな彼女の異様なほどの美しさでも、その美しい顔に涼やかな笑みを称えていたことでもない。彼女は何の迷いもなく、暑さに参り住宅街の一角で高い塀の影に立ち止って休んでいた僕の方へ歩み寄ってくる。
思わずびくりと身体を震わせる僕に口元を緩める彼女。
「こんにちは、今日も暑いですね」
そして微笑みながらそう言った彼女に、僕は何の言葉も返すことができなかった。
*
頬を掠める風は段々と冷たくなり、青々としていた木々が少しずつ色味を帯び始めている。
下校途中の小学生がちらほらと視界の中を動き回っていた。
ふと足下に目を遣ると長く前方へと伸びた影が静かに揺れている。汗で湿った身体を焼き尽くす日差し。不思議とひんやりとしている体内。そして夕日で赤く染められた地面がゆっくりと眼前に迫ってくる。
「あ……」
力の入らない身体は成す術なく傾き、僕は次に待ち受けるだろう衝撃に身構えた。だが全身に渡るはずの痛みは腹部に集中し、同時になにかに包み込まれるような感覚に陥る。
ガクンと折られた身体に、一気に汗が吹き出るのが分かる。力なくだらりと垂れた腕が地面に触れる。同時に、ぼやけた視界が暗くなっていった。
次に目を開けた時、視界に広がったのは見慣れた景色だった。いつもと変わらない様子の自室に視線を巡らせ、何度か瞬きを繰り返してゆっくりと起き上がる。窓の外はもう薄暗くなっていて、まばらに輝く星が見えていた。
働かない頭で記憶を辿り、ここに眠っていた経緯を思い出そうとするが憶えていたのは夕暮れに染まる歩道と腹部の痛みだけ。
「ユメ……?」
そう呟いてみたものの、腹部に感じた痛みは確かに本物だった。そして揺れる視界と身体を伝う汗を確かに憶えている。
そっと自身の身体を見下ろすと、いつも着ている寝巻きではなく黒いジャージのパーカーを羽織っているだけだった。だるい身体を反転させ、冷たい床に足をつく。足に力を込めようと腰を浮かせた瞬間、部屋の入口からドアノブを回す音が聞こえた。
反射的に視線を上げ、代わりに腰を下ろす。
少し遠慮がちに開かれたドアから覗いたのは、心配そうな顔をした結子さんだった。
「あら、もう起きて大丈夫なの……?」
僕は軽く頷いて、彼女から目を逸らした。その反応に、結子さんは伏し目がちに口を開く。
「ユキさん、貧血だったみたい。今日はこのまゆっくり休んでね」
「……うん」
「それから、あの女性の方にもお礼を…」
「女性?」
咄嗟に顔を上げた僕に、結子さんは困惑した表情を浮かべる。頬に手を当てながら記憶を辿るように視線を上げた。
「ええ、確か……宮城さん…だったかしら。ユキさんをここまで抱えてきて下さったの」
「ミヤシロ……?」
「ユキさんのこととても心配してらしたわ」
結子さんはゆったりとした口調でそう述べたあと、思い出したようにポケットからハンカチを取り出した。それを僕が受け取るのを確認して、彼女はたどたどしく話しだす。
「彼女が、ユキさんに返してほしいって」
それだけ言って、彼女はそそくさと部屋から出て行った。廊下へと続くドアを閉めながら、お休みなさい、と一言だけ残して。僕は手に残された丁寧に折られたハンカチを広げながら、『宮城』という名前について考えていた。
聞き慣れない苗字。助けられた記憶もない。でもその人は僕を知ってる?なぜ?
「あ……」
だが、そんな疑問は一瞬にして払拭された。シーツの上に広げたハンカチには見覚えのある刺繍。
――yuki.h
結子さんが縫ったものだ。刺繍が趣味らしく、一度だけ僕の持ち物にも縫ってくれたことがある。たった一度だけ、このハンカチに。そしてこのハンカチは一ヶ月ほど前にある女の人に借した。いや、返してもらうつもりも無かったから、あげたつもりだったものだ。
「じゃあ、あの人が……」
僕はあの時の出来事を頭の中で再生する。僕の身体は一瞬の内に、照り返す太陽の熱気に包まれていった。
熱くなったアスファルトと照り返す日差し。その中で光る白い肌。黒く艶のある長い髪。
――こんにちは、今日も暑いですね
泣きそうに笑ったその顔が印象的で、言葉を失ったまま僕はその場に立ち尽くしていた。彼女は何も言わない僕に微笑むようにして立ち去ろうとした。その時ふと彼女の手元が、いや服の袖が濡れているのに気付いた僕は口を開く。
――あ、あの……
声に出して彼女を呼び止めたことを数秒後には後悔した。振り返り、首を傾げる彼女に何を言えばいいのか分からず黙りこむ。そのまま動かず静かに僕の言葉を待つ彼女に、震える声を必死で振り絞る。
――手、が……濡れて…こ、これ……
そして反射的に差し出したのは持っていたハンカチ。手渡したあと、恥ずかしさと自分の行動の愚かしさから顔に熱が集まるのが分かる。
ろくに話すことも出来ないのに、自分から話しかけるなんて……
その思いが顔に出ていたのか、彼女はそっと僕の頭に手を置いた。驚きと微かな恐怖から身体が硬直する。視線を落として固まる僕に、彼女は柔らかい声で言葉を紡いだ。
――どうしてそんなに苦しそうにしてるの? とても助かったわ、ありがとう
頭が真っ白になった。誰かに感謝されるのは初めてだった。どうすればいいのか分らなかった。気付けば僕は彼女の手を振り切り、地面を強く蹴っていた。
いつの間にか閉じていた目を開けると、既に部屋の外は真っ暗だった。部屋の橙に灯る小さな光だけが、僕の視界を照らしている。
「寝て、た……のか…」
か細く紡がれた言葉は部屋の隅の暗闇に消え去る。小さな身じろぎに微かに軋むベッド。昼間はあんなに暑かったのにと、肌寒い感覚に身を縮ませた。
身体を捻り寝返りを打ち、汗で濡れるシーツや服に気付く。寝ている間に熱が上がったのかもしれない。
でも僕は湿った服もそのままに、もう一度静かに目を閉じる。
誰もいない部屋で僕だけの呼吸音と、時計の針の音が響いている。
心細いような、泣きそうな、そんな気持ちで僕はまたそっと寝返りを打った。