金色の目の少年
イリヤの短編
歩く、歩く、安住の地へ
逃げる、逃げる、地の果てまでも
たとえ足が潰れても、世界が暗闇に覆われようと
我らには聞こえる、創造神の声が
自らを驕るなかれ 、世を恨むなかれ
真実を見通す目で友を救え
歩く、歩く、最果てまで
逃げる、逃げる、ふるさとへと
僕がセリスに出会ったのは、まだ彼女が僕より背の大きい時だった。吐き出す白い息に視界が狭くなる、そんな時期だった。父と母に連れられて身を隠す為にミュラー家にやって来たのだ。
「セリス、お友達が来たから下にいらっしゃい」
螺旋階段を見上げながらミュラー夫人が小鳥のような声を響かせた。正確にいえばまだお友達ではないのだが、同じ年頃の子供同士を会わせるのに夫人が言った台詞はごく自然なものだった。
のだが、
「こんな奴、友達じゃないわ」
燃えるような赤い髪と、美しい湖面のような瞳、真っ白な肌の少女は僕の顔を見るなり鼻で笑った。色彩の素晴らしさを体現したかのような少女は意地悪な顔をしても大変美しいと感じた。
「セリス!」
母親の叱責にもどこ吹く風。あかんベーをして屋敷を出て行く彼女と、固まったままの僕の力関係が決定した瞬間だった。
ミュラー家の屋敷はウェリスペルトでも有数の規模で、外装も美しかった。古いが定期的に行われる補修で、どこも隙がなくミュラー氏を体現するような立派なもの。内装はそれ以上で、きらめく別世界に入り込んだ僕は夢を見ているようだった。のだが、この日から父と母が僕を迎えにくるまでの五日間、彼女のいじめに耐えた記憶しかない。
顔を拭くタオルにはヤモリがのっていた。
いただいたミルクには青インクが入っていた。
噴水の縁に座れば押され、真冬の水の中に浸かった。
出してもらった着替えは彼女のドレスとすり替えられ、愉快な姿になった僕を見てげらげらと笑った。
夕飯時にイスを引かれるのは当たり前。
『剥製よ』と言われて触ったカラスは生きていた。
どれもこれも他愛無い、怪我の危険もないようなさ細なものだったが、小さい僕が、
「死にたい」
と思うには十分なものだった。
「トイレに行くから起きなさい」
夜中、彼女に起こされるのもほぼ毎日のことだった。裾のフリルが揺れる様はお姫様のようなネグリジェだが、僕には毎夜近づいてくる恐怖の制服でしかない。
尻を叩かれながら、みしみしと言う不気味な階段を降りて廊下を歩くと、明かりが漏れる一室がある。一度戻ってきていた僕の父母が、セリスの両親と話しているところだった。
「……では、追っ手は皆、同じヤヌフ族の者だと?」
憤慨した赤い台詞を出すのはセリスの父。
「ひどいわ」
悲しみの青い言葉を呟くのはセリスの母。
「イリヤの力は強すぎる。それを知られたら一族が迫害を受けるのでは、と思っているようです」
混乱の黄色は僕の父。
「利用するだけ利用したのに」
真っ黒なのは僕の母。
覗き込んだ先にあったのは、楽しそうな大人の宴ではなく深刻な僕の過去、そして未来の話。
次の日、セリスはちょっとだけ優しかった。
雨の日は感覚が鈍る。いつもは鮮明に見える色とりどりの感情が、霧で霞んだようになる。僕だけが見える特別な世界。色が優しく語りかけ、時には殴りかかってくる。
それが薄まる雨の日は、苛立たしくもあり、普通が味わえるかのようでもある。
大人達が言うには、ヤヌフ一族はアヴァロンという暗黒の島から来たそうだ。神から見放された混沌の島で唯一、神の声を聞いた一族。それゆえ、迫害されその地を去った。
真実かどうかは知らない。言っていた一族の大人が『嘘をついていたわけじゃない』。でもそれが事実とは限らない。
アヴァロンは遠い遠い呪われた島。暗雲が立ち込め、住民の顔は青白い。僕らの一族によく似合っている。けど、本当かどうかはわからない。
それがなぜ大陸に渡ってきたのかは、僕が今、逃げているのと同じ理由なのだと思う。
「イリヤはビーストマスターとして才能があるね。一族の誰よりも、かもしれない」
放牧した羊を後ろに、テントの前でしわくちゃの手が僕の手を握る。ババ様がそう言って喜んでくれた。乾燥した大地にさらされて、みんな年齢以上によれた姿だったが、大人達も笑顔だった。
なのに、
「レンジがキョウの側に行くと、レンジの回りの空気がピンク色になるよ」
一族の歳上の少年少女の話をすると、途端に空気が変わった。一族の皆には見えていると思っていた感情の色は、僕にしか見えていなかったらしい。
異端の一族。その中でも僕は異端だった。
「こんな力を持つ者がいると周りに分かったら、我々を待つのは破滅だ」
「大袈裟な」
「心が読まれるんだぞ?きっと今より厳しい差別に晒される」
「ではどうすると?」
「ババ様、決断を」
燃え盛る篝火の下でされた、大人達の会合。その日の夜、父と母は僕を連れて逃げ出した。今でも夢に見る。真っ暗な景色に、さらに漆黒の靄が取り巻くのを。絡むのを。しがみつく感触を。
「ねえ今、私が何考えてるかも分かるの?」
おやつのバタークリーム乗せカップケーキを頬張りながら、美しい瞳を輝かせ、意地悪に細めながら、セリスが満面の笑みで聞いてきたので僕は答える。
「君には僕の力を使うまでもない」
使わなくても分かるから、と言う前に、彼女の遠慮ない握り拳の一撃が、僕の鼻を折った。
痛みから泣いている雨の夜、ガラスの割れる音がした。とうとう来た、と廊下から聞こえる騒がしい声に身をすくめる。
真っ赤で鋭利な殺意が僕を切り刻む。ドアの向こうから侵入してくる殺気。
父と母の悲鳴、ミュラー氏の怒号が聞こえる。唸り声のようなものは、昔は遊んでくれたレンジの声だった。
一際大きな声に、震える手でドアを開ける。すぐに血溜まりと右腕を押さえるミュラー氏の姿が目に入る。
「良い子だから部屋に入っていなさい」
ミュラー氏は額に脂汗を浮かべながらも、にっこりと僕に微笑む。
気が狂いそうだった。
後日、動かなくなった右腕を元に戻す為、ミュラー氏はウェリスペルトの一番大きな教会の、一番偉い神官様に沢山のお金を払ったそうだ。
無事に動くようになった腕で本を読む彼を見て、妙なことだけど初めて自分の生にしがみつきたくなった。
本当に不自然なことだけど、そうだったんだ。
生きたい。そのためには強くならなくては。
姫君を守るのは僕には似合わない。でも、自分の身を守れるだけの力を身に付けなければ。
「イリヤ、あんた学園に行きたいんだってね。冒険者を目指す学校。何しに行くの?」
セリスの意地悪な声が聞こえる。
「私も行こうかなー。ヒーラーとかモテそうじゃない?冒険グループとかでヒロインポジションだし」
そう言った後、彼女はこう付け加えた。
「でもアンタとは組んであげなーい」
fin




