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丘に立って

ssデイビス編。

僕は抱きしめて欲しいと言った。女は殺してくれと叫んだ。


母は宜しくねとはにかんだ。俺はぼんやりと部屋の隅のくずかごを見ていた。



俺の母親は酷い偏頭痛持ちだった。月の半分はふさぎ込み、いつも憂鬱そうだった。

今考えるとあれはただの偏頭痛なんかじゃない。何しろ尋常じゃない様子で痛みのために暴れる。失神することも度々あった。医者にも原因が分からない、と匙を投げられ、親父は家に戻らないことが増えていった。

何も出来ない程子供ではなく、家を投げ出す程大人ではない年齢になっていた俺は、気が狂ったかのように暴れる母を見て、ひたすら震える弟達を抱きしめるだけだった。



十二になった年、母親が死んだ。近所のおばさんが家に飛び込んで来て言ったのは、

『リズが……ルナンの丘で足を滑らせて。……うちのじいさんが見つけた時にはもう息をしてなかったの』

彼女の顔は気の毒な程に青かったが、言葉は冷静に淡々と発していた。ルナンの丘には急な崖があった。ルナンの丘は見晴らしが良かった。ルナンの丘には用があって行くようなものは何も無かった。そういうことだ。

葬式の日、泣きじゃくる弟達を慰めながら、俺は一筋の涙も流さなかった。誰もそれを咎める人もいなかった。親父は母が埋められる時に鳴らす鐘を、自分が鳴らす番の時に一度泣いた。泣かなかったのは俺だけになった。



その二ヵ月後のことだった。

「デイビス」

親父の声で台所から振り返ると、玄関の扉の前に親父と女が立っていた。

「彼女と、結婚しようと思うんだ」

そう言う親父の隣りにいるのは、どう見ても親父とは二十は違いそうな若い女。聞けばその時二十歳になったばかりだったそうだ。親父はその時四十五。俺は親父に呆れると共にその女のことを「馬鹿に違いない」と気の毒に思った。

「宜しくね」

恥ずかしそうに笑みを浮かべながら手を差し出す女――キミーの手を握りながら、俺は居間のくずかごが一杯になっていることばかりを気にしてしまっていた。



年の離れた弟達がキミーに懐くのは早かった。料理がお世辞にも上手いとは言えない彼女だったが、弟達が彼女の作ったパンケーキが美味しいと一度でも言えば、毎日作ってやっていた。眠れないとぐずれば一緒に添い寝してやり、親父に叩かれて慌てて起き上がる所を何度も見た。籠作りを見たことがないと言えば、村のばあさんのところまで連れて行ってやり、自分も練習して帰ってきた。

この頃の俺はといえば、正直何をしていたのか一切覚えていない。ぼんやりとキミーと弟達を眺めるだけの生活だったのかもしれない。急にすることが無くなってしまった事での虚無感もあったのかもしれない。

それ程までにキミーは『母』であり、親父の『妻』としての顔は初日に出会った時だけだったような気がする。



親父が家に帰らなくなった。キミーが家に来て一年。親父の女癖の悪さは健康な妻に恵まれなかった不幸からではなく、生まれつきのものだったのだ。

ある日、村の入り口で親父が女と一緒の所を見た。金髪の顔がうるさい女だった。キミーは赤茶髪、俺の母親は金髪だった。

俺は何故か声が掛けられなかった。声を掛けて、殴り返されようが一発痛めつけることは出来たはずなのに。

その日の夜、親父とキミーが喧嘩をする声が寝室まで聞こえてきた。喧嘩、といったが正確には親父の怒鳴り声とキミーの淡々とした声が聞こえるだけだった。キミーは馬鹿な女なんかじゃなかった。俺は隣りで眠る弟達が起きやしないか、そればかり考えていた。



次の日の朝、起きて居間に向かうと二人はまだ話し合いを続けていた。部屋に戻ろうとした俺に親父が戻らなくていい、と言い放った。振り返って見た親父の顔は、ふてくされたような酷い顔だった。

「俺達、別れようと思う」

俺はそれに対して黙って頷いた。

「子供達は連れて行きます。もう、私の子供です」

キミーのこの言葉で俺の視界が初めてモノクロからカラーに変わった気がした。それ程、動揺していた。弟達と離れることになるのか、と思った俺は急激に自分の立場や人生を考え始めていた。

「三人共に、私の故郷に連れて行きます」

三人、と言った。弟達は二人。俺も含まれていた事に、ほっとするよりも「やっぱりこの女は馬鹿だった」と思った。

「勝手にしろ」

親父はそう言ってせせら笑っていた。息子への執着が無いというより、すぐに諦めて戻ってくる、という嘲笑が窺えた。



ウェリスペルトに越して一年が経った。俺はこの町の冒険者育成学校に通っていた。傭兵になろうと思ったからだ。俺は同年代の奴らと比べても体も大きかったし、力も強かった。傭兵になれば金を稼ぐのも手っ取り早い。冒険家を目指して旅から旅の生活になるのもいい。

元いた村では考えられなかったことだった。親父は何故か俺に、しつこい程「弟の世話以外、何もしなくていい」と言っていたからだ。今思うと、俺の親父は俺の体が大きくなることを、異常なまでに恐れていた。

傭兵になりたい旨、学校へ通うことをキミーに伝えると、

「そう、頑張ってね。でも、私に遠慮しちゃ駄目よ?君達を育て上げるくらいの稼ぎはあるんだから」

と笑った。嘘じゃなかった。キミーの実家は資産家で、ウェリスペルトのような都会に大きな家があり、キミーは実家の事業を手伝うようになっていた。

親父から毎月、かなりの額の送金もあった。罪悪感からなのかもしれない。キミーがその全てを俺に渡してくるので、俺は学費と弟達の貯金にすることにした。すぐ下の弟が学問に興味を持ち始めたから、きっとこれから金が掛かる。そう思ったからだ。

キミーはといえば、

「どんどん手が掛からなくなっていくのね。寂しいわ」

とよく呟くようになっていた。



一番下の弟を抱っこするキミーと買い物に行き、その帰り道だった。

「こうして並んでると、本当の親子に見えるといいねえ」

俺は苦笑するしかなかった。

俺とキミーは八つしか年が変わらなかった。実際、ウェリスペルトに越してすぐは好奇心剥き出しの視線に晒された。子供を追いかけ回す生活のせいかキミーは少し老けていたが、俺も年の割りに体がでかかったので、どう見ても姉弟か何かにしか見えなかっただろう。

「学校、楽しそうね」

キミーが言うのなら、俺は楽しそうだったんだろう。キミーはやりたい事が無かったのだろうか。学生時代は何を学んでいたのだろう。俺や弟のように、これをやって生きていこう、というものがあったんじゃないだろうか。

そう考えている内に分かってしまったんだ。彼女は、本当に親父の事が好きだったんだ。今こうして俺達と一緒にいる。それこそがキミーの親父への愛の証だったのだ。



俺は学園の五期生になっていた。今年からは町を出る機会が増える。家を空ける晩も増えるだろう。それを伝えるとキミーは「寂しくなるわ」と眉を下げた。

「今までもそうだったんだから今更だけど、弟達を任せきりにしてごめん」

俺はそう呟きながら、訓練で固くなった自分の手のひらを眺めていた。

「卒業して、本当に旅の生活になってしまっても、なるべく帰ってきてね?ハリー達には君が必要なんだし、私も寂しいわ」

「……それは約束出来ない」

俺の答えに目を見開くキミーの「どうして?」という問いに、俺はひたすら「出来ないんだ」と答えた。母が死んでから初めて涙が頬を伝った。俯く俺の頭をキミーが撫でた。

「デイビス、君の気持ちは知ってたよ」

俺も、知られていることを知っていた。だからこそ、俺を連れて行くと言ったキミーに驚いたんだ。

「でもね、それでも君をこの町に連れて来たかったの。ううん、一番君を連れ出さなきゃいけないと思ってた。君が……一番壊れていたから」

涙で喉の奥が痛んでしょうがなかった。それでも俺はキミーに「ありがとう」と何度も伝えた。



俺の家はウェリスペルトの北東にある。三日ぶりに家に帰った時に、キミーがよく言う「寂しい」という言葉の意味が理解出来た気がした。

元気盛りの男の子二人がいる家は通りからも分かるほどに騒がしい。でも、そこは母の愛で詰まっているんだ。



fin

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