セレンディピティ
目が覚めると、鏡に向かって自分を見つめる。
すっかり髪が伸びている。
ハサミを手に取り、髪の毛を切る。
美容院なんてもう、どれぐらい行っていないだろうか?
特に何のこだわりもないんだから、自分で切ればいい。
むしろ美容院で丁重にカットしてもらうと、すごく申し訳ない気持ちになる。髪型にこだわりなんてないんだから。短くなりさえすればいいんだ。
髪を切り終わってから、着替えをして出かける準備をする。
キチンとしたスーツ姿で歩くのはいつ以来だろう?
自分も立派な丸の内の社会人の一員になれるだろうか。
自分が面接を受ける会社のビルの前に立つ。
この会社の面接を受けることになったのは偶然だ。
本当は別の会社の求人を探していたのだ。
だが俺はセレンディピティという言葉を信じている。
セレンディピティ(Serendipity)とは、何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを偶然発見する「予想外の幸運」や「偶然を価値ある発見に変える能力」のことだ。
この会社の近くには丸善がある。会社の近くに本屋があると言うのは良いものだ。
面接の後に、丸善に寄って帰ろう。
ビルに入り、受付の女性に声をかける。
「あ、面接の予約の方ですか?」
うなずく。遠くの部屋に案内される。
履歴書の空白の3年間について尋ねられた。
真剣に絵を描き、画家になりたいと思っていたと話す。
そんな風に言うしかない。実際には、絵なんか描いたこともない。
「君には何か光るものを感じる。一緒に仕事をしたいね」と面接官は言った。
相手はそう言ってくれたが、社交辞令にしか思えなかった。手応えは全くなかった。
しょうがない、やるだけはやった。
面接が終わり本屋に行く。
いい本屋だ。
安っぽいビジネス本や自己啓発本、陰謀論なんかの本ばかりがずらりと並んでいるような本屋もある。
そんな本屋では刺激を受けない。
俺にとって読書とは単なる娯楽ではない。
うまく言えないが、何というか人間を、いや人類を更新するためのものと言える。
店内をぶらぶらと歩きながら、ふと思う。
梶井基次郎の檸檬に出てくる丸善は、ひょっとしてここなのだろうか?
携帯を手に取り調べてみる。
違うようだ。
梶井の小説に出てくる丸善は、京都だ。
残念だ。京都の丸善に行ったら、実際に檸檬を置いてきてやろう。
ふらふらと映画雑誌の置いてあるコーナーに向かう。
バックトゥザフューチャーが公開から40周年。
そんな文字が目に入ってきた。
雑誌を手に取り、パラパラとめくる。それから脇に抱えた。
それにしても広い店内だ。文庫本など置いてあるコーナーに向かう。
ドラマ化が決定した新刊の推理小説を手に取ってみる。面白そうだ。
結局その2つを購入することにした。
今はどこもセルフレジなんだな、と思った。
自分の家は、丸の内にあるにしては信じられないくらい家賃が安い。
あまりにも安すぎるので、事故物件なんじゃないかと思っている。
それでも安すぎるので、7、8人不審な死を遂げているのかもしれない。
部屋で本を広げる。
「大どんでん返し!」と帯に書いてある。
これで大どんでん返しがあることが分かってしまう。ただ、そういう風に書いてなければ、そもそも購入していない。難しいところだ。
自分は小説の後書きを先に読んでしまう癖がある。
失敗した。犯人の名前が思いっきり書かれている。
昔の小説ならともかく今現在出版された本でこんなことが起こるとは…。
今どきネタバレになるようなことは書かないし、内容に踏み込んで語る場合は「作品の結末に触れています」などと太字で注意を喚起する。
それが普通だと思っていたのに…。
解説を書いている人間の名前をチェックする。
こいつは要注意だ。名前を記憶しておこう。
絶対に失敗だろうと思っていたのに、なぜか面接に受かっていた。一体何が評価されたのか?
謎だ。
仕事の初日。
緊張しながら会社に行くと、窓一つない真っ白な部屋の中に案内された。
「何もしなくていいから、時間までここにいること」そう言われ、携帯も取り上げられた。
「時間が来たら勝手に帰っていい。誰にも声をかけなくていい」と言われた。
8時間ぐらいずっとそこにいた。
携帯もなければ、テレビも本もない。何もない。
ひとりだ。きつかった。
しかしなんとかやり遂げた。
時間が来て帰ろうと思ったが、誰にも声をかけなくていいと言われたものの、携帯を取られたままだということに気づいた。
会社の中を永遠歩き、ようやく人を見つけた。
俺の面接を担当した社員だ。
「携帯を返してほしい」と言うと、「ほら」と言って携帯を渡された。しかし、それは明らかに自分のものとは違うものだった。
「違う」と言おうとしたのだが、もう一度「ほら」と言われたので、しょうがなく受け取った。
他人の携帯なんて、どうすればいいのか。そもそも、使いようがない。
顔認証は当然受け付けない。
自分の携帯のパスワードを入力する。
携帯のロックが解除された。
同じ生年月日なのだろうか?
パスワードに生年月日を使用しないでくださいと注意喚起されているが、いまだに使用する人間が後をたたない。
帰りにファミレスで食事をしていると、携帯が鳴った。迷った末に電話に出ると、「もしもし」と女の声がした。
「はい」と答えると
「私の携帯です」と言われた。
「どうして私の携帯を…?」女は たずねる。
どうしてと言われても困る。どう話したものか?
細かく事情を話すのは面倒なので、ファミレスの場所を教えた。
「そこなら近いんで行きます。携帯を渡してもらえますか?」
「来たら渡します」と答えた。
電話の女の子がやってきたので、約束通り携帯を渡す。
しかし、俺の携帯は行方不明のままだ。
ふと思いついて、ここに電話した時は誰の携帯を使ったのかと尋ねた。
「これです。誰のだかわからないんですけど、私のと入れ替わっちゃったみたい」
それは紛れもなく、俺の携帯だった。
「どこでその携帯を手に入れたのか」と聞いたが、わからないという。
会社の名前を言って、そこに行ったことがあるかと聞いたが、ないという。
お互いに携帯を交換して別れた。
次の日会社に出勤すると、講演があるというので、会議室に集まるように言われた。
外部から人を招いており、その人による講演があるのだという。
真っ白なメモ帳とペンを渡される。講演の内容をメモするフリをしてくれと言われた。
「あくまでフリで実際には書かなくていいから」
講演の内容は「AIの時代を生き抜く術」というものだった。
AI時代を生き残るには、大切なのは『AIに代替されない個性』であると彼は断固とした口調で語った。
講演者の名前を見て気がついた。
この名前は、あの推理小説の後書きで犯人の名前を明かしていた評論家ではないか?
無性に腹が立ってきた。あまりにも腹が立ったので、メモするフリをやめた。
隣にいる会社の男が俺を肘でつき、きちんとメモするふりをするように訴えてきた。しかし、腹が立っていた俺はそれを無視した。
最後まで無視し続けた俺を問題視し、講演の終わった後、呼び出されて注意された。
「組織に属している以上、ある程度、約束ごとに従ってもらわないと…」
しかし俺は自分が間違っているとは思わなかったため、決して謝らなかった。
その結果、俺は会社を退職することになった。
結局、俺はまた無職になった。
ある時、身に覚えのないお金が通帳に振り込まれていた。
何かと思ったら、窓ひとつない真っ白な部屋にいた時と、ネタバレ評論家の講演を聴いていた時の分の給料が振り込まれていた。
さすがに給料はもらえないだろうと諦めていたが、律儀な会社だ。つまらない意地を張って退職までしてしまった自分が、子供っぽくて恥ずかしく思えた。
携帯が鳴った。彼女からだった。
携帯の入れ替わりに心当たりがあったと言う。
彼女が言うには、合コンに来ていた男の持っていた携帯と入れ替わってしまったのではないかという。
その男からもらった名刺を見たら会社名が、俺の言った会社の名前だったと気づいたという。
俺は仕事として、あの窓一つない真っ白な部屋に8時間閉じ込められいた。その間にあいつは合コンをしていたのだ。
俺は彼女に、あいつは異性としてどう思うかと尋ねた。彼女は「いまいち」と言って笑った。
俺はなんだか嬉しかった。
現在は無職なのでやることもない。
散歩で街を歩いていると、あのネタバレ評論家と合コン社員が立ち話をしていた。
社員は媚びるように笑顔を浮かべて、自分の面接をした時とは別人のようだ。
下品な笑い声を発している。随分と親しそうだ。明らかに仕事の関係を超えている気がする。
映画化される小説の後書きを任せられるくらいだから、意外と有名なのだろう。
それぐらいのクラスだとギャラがいくらぐらいなのか詳しくはないが、仮に100万円の講演料だとする。
合コン社員は、ネタバレ評論家を講演に招くことを提案する。
もちろんギャラは会社のお金から払われる。
そして後日、ネタバレ評論家は合コン社員に20万円ほど渡す。そんな風にして、自分の懐を潤すシステムが出来上がっているのではないか。
そんな妄想が膨らむ。
あんな中身がスカスカな講演でも、ギャラが発生しているのだ。
正直、真面目に働くのが馬鹿らしくなる。やめてよかったのかもしれない。
その時、携帯が鳴った。彼女からだった。
「すいません。あの会社ってどうですかね?やめた方がいいですか?」
彼女は今年就職で、あの合コン社員から会社に誘われているのだという。
俺は「絶対やめたほうがいい」と、力を込めて言った。
お金にきちんとしていることを思えば、悪くないのかもしれない。だが、窓一つない真っ白な部屋に8時間近くも幽閉される。
合コン社員は彼女に「会社に入ったらやりたい仕事を僕に言えば、何でもやらせてあげるよ」と言ったらしい。
調子のいい奴だ。そんな権限があいつにあるのだろうか?
「とにかくやめた方がいい」俺は力を込めて言った。
「そうですか、わかりました」彼女はまだ迷っているようだ。
「ありがとうございました」
そう言って、彼女は電話を切った。
彼女とは、なんだかまた会うような予感がある。
何らかの導きによって、俺と彼女は出会ったのだと思う。
夜、晩飯を食うためにファミレスに向かった。
ずっと部屋にいても気が滅入るだけだ。
なるべく外食は控えようと思っていたのだが、今日は家にいたくない気分だった。
自分の部屋が会社で入れられた、あの窓ひとつない真っ白な部屋とダブって見えてしまったのだ。
ちょうど夕食の時間帯なので客が多い。家族連れも多く、子供の声が響いている。
配膳ロボットが一生懸命働いている。
食事をしていると声をかけられた。彼女だった。
彼女はごく自然に、俺の目の前の席に座った。
「色々考えたんですけど、やっぱりあの会社を受けるのはやめました。別の会社を検討してます」
そう彼女は言った。
「それがいいと思う」俺もうなずいた。
ごく自然に会話が弾む。
普段は、俺はどちらかというと人と喋るのが苦手な方だ。
意外と彼女と相性がいいのかもしれない。
携帯の件といい、彼女とは何かしら妙な縁がある。
なにか運命的なものを感じてしまう。
近くのテーブルには、親子連れの客が座っていた。子供が大きな声で騒いでいた。
元気な子だな。俺は微笑んだ。
彼女は騒ぐ子供を見て「ああいうの親は注意しないんですかね?」と言った。
「まあ、でも子供ってああいうものだからね」
と俺は言った。
「それにしたって、限度ってものがあるでしょ…」
彼女は顔を歪めた。心底、嫌そうな顔をしている。
少し彼女に対して、気持ちが冷めてしまった。
彼女は、俺が持ってきた本を指さした。
バック・トゥ・ザ・フューチャー40周年記念本だ。
「好きなんですか?」彼女が小声で囁く。
「ああ」俺もなぜか小声で返した。
「どの作品が一番好き?」と、彼女が小声で聞く。
俺は指を2本立てた。
彼女は首を振ると、指を3本立てた。
お互いに苦笑した。
どっちが正しいか決めてもしょうがない。
「もう行かなくちゃ」彼女は席を立つ。
「送っていくよ」俺は立ち上がった。
とても自然にセリフが出た。
仕事が終わり、帰りにファミレスに寄る。
明日はやっと休みだ。自分に対するねぎらいの意味で、一杯やってもいいだろう。
たった2日で辞めた若造に対して、未だに腹が立っている。
あの野郎、雇ってもらったのに恩義を感じないのか?
お酒を飲みつつ、だらだらと過ごす。
ふと見ると、知ってる顔が目に入った。
あの、たった2日で辞めた若造だ。
そして、一緒にいるのは合コンで会った女の子だ。
男が指を2本立てる。女は3本。
二人は連れたってファミレスを出て、夜の街に消えていった。
無性に腹が立ってきた。
自分も会計を済ませ、店を出た。
前方を歩く二人の姿が見える。
戯れに後をつける。
酒が入っていたせいもあるだろう。
二人は気さくに、楽しげに喋っている。
また腹が立ってきた。
さて、どうしようか?
すぐには声をかけず、泳がしておこう。
話しかけるのは、もっと後だ。
ホテルに入る直前。
そのとき奴がたった2日で会社をクビになったことを語ってやろう。
女もすっかり興ざめしてホテルに入る気もなくなってしまうだろう。
結構な距離を歩いたがどこに行くのか?
不安になってきた。
彼女と連れ立って歩く。
やはりごく自然に喋れる。
俺の顔には自然に笑顔が浮かんできた。
その時、何気なくふと後ろを見ると、合コン社員がいた。
こちらが彼に気づいたことに、向こうは気づいていないようだ。
隣の彼女にも存在を告げる。
彼女と話し合った結果、いたずらしてやることになった。
延々と歩き続けるが、どこにもたどり着かない。
後ろで後をつける彼は、今どんな気持ちなのだろう?
同じ場所をぐるぐる回ったりした。
さすがに馬鹿らしくなってきた。
いい加減いたずらはやめにしよう。
広い公園の中、突然立ち止まると振り向き彼のほうに歩みよった。
彼と、目と目があった。とても気まずそうだ。
彼は一瞬、振り返り逃げようとしたが立ち止まった。
俺は彼の目をまっすぐに見据えた。
彼も睨み返してくる。
しばらくお互いに睨みあった後、
二人とも、なんだか馬鹿らしくなってしまった。
彼はふっと笑顔を浮かべた。
「こんなところで何やってるんだ?」
それから、俺たちはとりとめもない会話を交わした。
彼は俺と彼女のファミレスでのやり取りに言及した。
「彼女と値段の交渉をしていただろう?」
「値段の交渉?」
「お前は指を2本立てて、彼女は3本…」
今晩どう、2万で?ダメ、3万
彼はそんな会話を想像したのだろう。
俺と彼女は爆笑してしまった。
「勘違いしてますよ」俺は大爆笑して言った。
彼女は笑いすぎて、涙を流していた。
「それ、全然違う意味です」目の涙を拭いながら、彼女は言った。
徐々に彼の表情が変わっていった。
そのときの彼は、なんというか…
なんだろうな…?…激昂?
俺は殴り倒された。
目を覚ましたら、誰もいなかった。
合コン社員も彼女もいない。
そもそも最初から、実在していなかったんじゃないかと思えてくる。
殴られた痛みに耐えながら、なんとか家に帰った。
朝、目が覚めて鏡を見ると、殴られた部分が腫れ上がっていた。
夢ではなかったのだ。携帯で彼女に電話をかけてみる。
繋がらなかった。多分、もう一生繋がらないんだろうな、という気がした。
鏡を見ながら思う。
何が彼をあんなに怒らせたのか?
なぜ自分が殴られなければいけなかったのか?
バック・トゥ・ザ・フューチャーについて
「どの作品が一番好き?」と、彼女は聞いた。
俺は指を2本立てた。彼女は3本。
どう考えても1だろうと、それで彼は怒ったのかもしれない。




