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第4話 断絶の結界

深夜。『奈落の魔森』の狂乱は、そのピークを迎えていた。

空には赤い月がかかり、血に飢えた魔物たちの咆哮が不協和音となって木々を揺らしている。

地獄の釜の蓋が開いたような惨状の中、俺、アレンと吸血姫エルザがいる『絶対聖域・個室版マイ・ルーム』の中だけは、別世界のように穏やかな時間が流れていた。


「んんっ……美味しい! アレン、この赤いの、何?」

「それはトマトだ。酸味があって、チーズとの相性がいいだろう」

「最高よ! 千年生きてきて、こんなに美味しい野菜初めて食べたわ!」


エルザは瞳をキラキラと輝かせ、とろりと溶けたチーズを絡めたトマトを頬張っている。

その口元には少しソースがついており、伝説の魔物とは思えないほど愛らしい。

俺はハンカチを取り出し、彼女の口元を拭ってやった。


「子供みたいに食べるな」

「だって美味しいんだもの! ああ、幸せ……。ふかふかのクッション、温かい空気、美味しいご飯、そして何より『静か』!」


エルザは両手を広げ、結界内の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「ねえアレン。私、もう貴方なしじゃ生きられない身体になっちゃったかも」

「おいおい、誤解を招くような言い方はよせ」

「ふふっ。でも本当よ。こんな極上の空間を知ってしまったら、もうあの湿気臭い古城には戻れないわ」


彼女は上機嫌でワイングラスを傾ける。

そのグラスの中身は、彼女が亜空間倉庫から取り出した、三百年物のヴィンテージ・ワインだ。

俺も一口いただいたが、芳醇な香りと深いコクが体に染み渡る絶品だった。


外では殺戮の宴が繰り広げられているというのに、俺たちはまるで貴族のサロンにいるかのように優雅に過ごしている。

この落差。この背徳感。

正直、悪くない気分だった。


「……おや?」


ふと、エルザがグラスを置く手を止めた。

彼女の深紅の瞳が、スッと細められ、結界の外の闇を見据える。


「どうした、エルザ」

「……客人が来たみたいよ。招かれざる、薄汚い客人がね」


彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、俺の感知結界にも反応があった。

魔物の気配ではない。

微弱で、乱れていて、今にも消え入りそうな四つの生命反応。

そして、泥を這いずるような足音。


俺はため息をつき、読みかけの本を閉じた。

予想はしていた。

俺の魔力光を目印に、彼らがここまで辿り着く可能性はゼロではなかったからだ。


「アレン……! アレンッ!」


亡者のような掠れ声が、結界の外から聞こえてきた。

闇の中から姿を現したのは、見るも無惨な姿に変わり果てた、かつての仲間たちだった。


先頭にいるのは、勇者レオン。

自慢の聖剣は折れ、黄金の鎧はひしゃげ、右腕は不自然な方向に曲がっている。

その顔は恐怖と疲労で土色になり、かつての英雄の面影など微塵もない。


「はぁ、はぁ……! た、助かった……!」


続いて、戦士ガッツ。

巨体は傷だらけで、愛用の大斧は失われている。片足を引きずり、脂汗を流しながらよろよろと歩いている。


そして、魔法使いミナと、聖女リリア。

二人はお互いに支え合いながら、ボロボロの衣服で震えていた。

特にリリアは酷かった。

聖女の純白のドレスは泥と汚物で茶色く染まり、髪は振り乱され、顔中が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。


「あ、明かり……暖かい……」


四人は、俺の結界の輝きを見て、吸い寄せられるように駆け寄ってきた。

彼らの目には、この透明なドームの中の光景が、天国のように映ったことだろう。

温かな暖炉の光(魔法照明だが)、湯気を立てる料理、そしてワイングラスを傾ける俺たちの姿。


バンッ! バンバンバンッ!


彼らは結界の壁に取り付くと、必死の形相で透明な壁を叩き始めた。


「アレン! アレン、開けてくれ! 俺だ、レオンだ!」

「死ぬ、死んじまうよぉ! お願いだから入れてぇ!」

「痛い、痛いの……早く治療して……!」

「アレン、ごめんなさい! 私が悪かったわ! 謝るから、ここを開けて!」


口々に叫ぶ彼らの声は、遮音結界を通して微かに聞こえてくる。

俺は無表情のまま、手元の操作パネル(空中に展開した魔法陣)を操作し、音声通話モードをオンにした。


『――入れてくれよぉ! 頼むよぉ!』


スピーカーを通したように、彼らの悲鳴がクリアに室内に響き渡る。

俺はゆっくりと立ち上がり、結界の壁際まで歩み寄った。

透明な壁一枚を隔てて、天国と地獄が向かい合う。


「……随分と楽しそうな夜を過ごしたようだな、元仲間たち」


俺は努めて冷淡な声で言った。

レオンが、縋るような目で俺を見上げる。


「ア、アレン……! 冗談は終わりだ! 俺たちが悪かった、謝る! だから結界に入れてくれ! 後ろから魔物が来てるんだ!」

「そうか。だが、おかしいな。リリアが言っていたはずだ。『ここは私の聖域だから結界など不要』と。お前たちの周囲には、聖女様のありがたい加護があるんじゃないのか?」


俺が視線をリリアに向けると、彼女はビクリと肩を震わせた。

その顔は羞恥と恐怖で真っ赤になり、唇をわななかせている。


「そ、それは……私が間違っていたの……! 貴方の結界が必要だったの! お願い、許して……!」

「アレン、頼むよ! お前の結界がないと、俺たちは全滅だ! 仲間だろ!? 幼馴染だろ!?」


ガッツが涙を流しながら叫ぶ。

仲間。幼馴染。

その言葉が、俺の心に冷たいさざ波を立てた。

数時間前、彼らはその「仲間」を嘲笑い、ゴミのように捨てたのだ。


「……仲間、か。俺には、お前たちが俺を追放した時の笑顔しか思い出せないがな」

「それは……魔が差したんだ! 本当の力を見抜けなかった俺たちが馬鹿だった! 報酬も弾む! 荷物持ちじゃなくて、サブリーダーにしてやるから!」


レオンの必死の説得に、俺は呆れて失笑した。

この期に及んで、まだ上から目線なのか。サブリーダーにしてやる、だと?

俺の価値を理解していないにも程がある。


「アレン。……そのゴミども、消していい?」


ふいに、背後から冷ややかな声が響いた。

エルザだ。

彼女は優雅に立ち上がると、俺の横に並び、ゴミを見るような目で勇者たちを見下ろした。

その瞳が妖しく深紅に輝き、圧倒的な魔圧が結界の外へ漏れ出す。


「ひっ……!?」


レオンたちが息を呑み、後ずさる。

彼らにも本能で分かったのだろう。

目の前にいる美しい少女が、自分たちが束になっても敵わない「死」そのものであることが。


「き、吸血鬼……? しかも、この威圧感……まさか、伝説の『吸血姫』か!?」

「アレン、逃げろ! そいつは化け物だ! 喰われるぞ!」


レオンが叫ぶ。

だが、エルザは妖艶に微笑むと、俺の腕に自身の腕を絡ませ、しなだれかかった。


「あら、失礼ね。私はアレンのパートナーよ。彼は私の大切な『安眠の守護者』なの。貴方たちのような騒々しい羽虫とは格が違うのよ」

「パ、パートナー……? 魔物と手を組んだのか!?」

「ああ、そうだ。彼女は俺の結界の価値を正しく理解し、対価を支払ってくれた。お前たちとは大違いだ」


俺はエルザの肩を抱き寄せ、彼らに見せつけるように言った。

ミナが、信じられないものを見る目で俺たちを見つめる。


「嘘……あのアレンが、あんな綺麗な人と……? しかも、すごいご馳走……」

「なんでよ……なんで貴方だけ、そんな幸せそうなのよ!」


リリアがヒステリックに叫び、結界を拳で叩いた。

爪が割れ、血が滲んでいるが、彼女は止まらない。


「ズルいわ! 私は聖女なのよ!? 国一番の美女なのよ!? なんで私が泥水を啜って、貴方がワインを飲んでいるの!? 場所を代わりなさいよ! そこは私が座るべき席よ!」


その醜悪な嫉妬と本音に、俺の中の最後の情けが消え失せた。

彼女は反省などしていない。ただ、自分が不幸なのが許せないだけだ。


「……リリア。お前は何も分かっていないな」


俺は冷ややかに告げた。


「この場所が快適なのは、俺が魔力を注いでいるからだ。この料理が美味いのは、俺が作ったからだ。お前が座るべき席なんて、ここには最初から用意されていない」

「なっ……」

「それに、よく見ろ。お前たちの後ろを」


俺が顎でしゃくると、四人は恐る恐る振り返った。

そこには、闇の中から無数に光る目があった。

デスサイズ・マンティス、ポイズン・スパイダー、シャドウ・ウルフ。

森中の魔物が、光と、彼らの騒ぎ声と、血の匂いに誘われて集結していた。


「ひっ、い、いやぁぁぁぁ!」

「囲まれてる……! いつの間に!?」


逃げ場はない。

彼らに残された道は、俺の結界に入れてもらうか、魔物の餌になるか。二つに一つだ。


「アレン様! お願いします! 靴でも何でも舐めます! 入れてください!」

「助けてぇぇぇ! 死にたくないぃぃ!」


プライドを完全に崩壊させ、彼らは地面に額をこすりつけて命乞いをした。

涙と鼻水で地面を濡らし、無様に泣き叫ぶSランク勇者パーティ。

その姿を見下ろしながら、俺は静かにワイングラスを掲げた。


「残念だが、ここは『会員制』なんだ」


俺の言葉に、彼らが絶望の顔を上げる。


「それに、俺は忙しいんだ。これから彼女と、ゆっくりデザートを楽しむ時間だからな」

「ま、待ってくれ! 見捨てるのか!? 人殺し!」

「人殺し? 違うな。これは『自然淘汰』だ。自分たちの実力を過信し、安全管理を怠った冒険者が辿る、ごく当たり前の末路だよ」


俺は操作パネルに手をかざした。

実行するのは、結界のモード変更。

『外部視覚遮断』および『完全防音』。

つまり、外からは中が見えず、音も聞こえなくなる設定だ。


「じゃあな。精々、お前たちの信じる『聖域』とやらで頑張ってくれ」

「やめろ! やめてくれアレンンンンッ!!」


レオンが手を伸ばす。

その手が結界に触れる寸前、俺は魔法陣を発動させた。


ブウンッ。


低い音が鳴り、結界の透明度がゼロになった。

外から見れば、光は完全に消失し、ただの漆黒の闇と同化したはずだ。

同時に、彼らの絶叫もフツリと途絶えた。

完全防音結界が、外部の音を100パーセント遮断したからだ。


シーン……。


静寂が戻った。

先ほどまでの耳障りな悲鳴も、魔物の咆哮も、壁を叩く音も、何も聞こえない。

ただ、薪が爆ぜるパチパチという音と、エルザの安らかな吐息だけが聞こえる。


「……消したわね」


エルザがクスクスと笑いながら、俺の顔を覗き込んだ。


「もっと甚振いたぶるかと思ったけど、意外とあっさりしてるのね」

「彼らの断末魔を聞きながら食事をする趣味はないからな」

「ふふ、そういう合理的で冷徹なところ、大好きよ」


エルザがつま先立ちになり、俺の頬に軽くキスをした。

不意打ちに、俺は少し赤面してしまっただろうか。


「さあ、アレン。邪魔者は消えたわ。夜はまだこれからよ」

「……そうだな」


俺は結界の外のことを意識から切り離した。

おそらく今頃、彼らは本当の地獄を味わっているだろう。

だが、それはもう俺の知ったことではない。

彼らが自分で選び、自分で招いた結果なのだから。


俺は改めて、目の前の美しい吸血姫に向き直った。

彼女との契約は、俺の人生を大きく変えることになるだろう。

だが、後悔はない。

かつての仲間たちに搾取され続けていた日々に比べれば、このスリルと安らぎに満ちた生活は、あまりにも輝いて見えた。


「乾杯しようか、エルザ。俺たちの新しい門出に」

「ええ、喜んで。乾杯、私の最高のパートナー」


カチン、とグラスが触れ合う澄んだ音が、静寂な結界内に響き渡る。

それは、俺の『不遇』な過去との決別と、これからの『無双』の始まりを告げる音だった。

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