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第3話 優雅なる結界生活

夜の帳が下りた『奈落の魔森』は、混沌と狂気が支配する死の世界だ。

肉を裂く音、断末魔の叫び、そして闇に潜む捕食者たちの息遣い。

一秒たりとも気が抜けない、まさに地獄そのものと言える環境がそこには広がっている。


だが、そんな地獄のど真ん中に、ぽっかりと浮かぶ異質な空間が存在した。


俺、結界師アレンが展開する『絶対聖域・個室版マイ・ルーム』の中である。


「……ふう。いい香りだ」


俺は魔導コンロで沸かした湯をカップに注ぎ、立ち上る湯気を吸い込んだ。

安物のハーブティーだが、今の俺にとっては王都の高級カフェで飲む紅茶よりも数倍美味く感じる。

なぜなら、ここには「自由」という最高のスパイスがあるからだ。


周囲を見渡せば、透明なドーム状の結界壁の向こうに、おぞましい魔物の姿が見える。

巨大なムカデが這いずり回り、翼竜が空を裂いて飛んでいる。

だが、それらはまるで劇場のスクリーンに映し出された映像のように、音もなく、気配もなく、ただ通り過ぎていくだけだ。


俺の結界は、物理的な干渉だけでなく、音や光、匂い、そして魔力波長に至るまで、内部の情報を完全に遮断している。

外から見れば、ここはただの空間の歪みにしか見えないだろうし、そもそも認識すらされていないはずだ。


「これまでは、あいつらのイビキや文句に悩まされながら、徹夜で結界のメンテナンスをしていたんだよな……」


俺はフカフカの携帯用エアクッションに背を預け、しみじみと呟いた。

勇者パーティにいた頃は、常に神経を張り詰めていた。

聖女リリアが「寒い」と言えば温度を調整し、勇者レオンが「うるさい」と言えば遮音レベルを上げ、戦士ガッツが「腹減った」と言えば魔力を使って簡易コンロの火力を維持した。

自分の魔力を削り、寿命を削るような献身を、彼らは当然のように享受し、あまつさえ「結界など不要」と切り捨てたのだ。


「馬鹿な奴らだ」


一口紅茶を啜る。

今頃、彼らはどうしているだろうか。

俺の予想では、結界の残滓が消えた瞬間にパニックに陥り、散り散りになって逃げ回っている頃だろう。

まあ、Sランクの冒険者だ。死にはしないかもしれないが、少なくとも今夜一晩で一生分のトラウマを植え付けられることは間違いない。


「さて、読書でもするか」


俺はリュックから、王都で買い込んでいた魔道書の続きを取り出した。

誰にも邪魔されない、自分だけの時間。

ページをめくる音だけが、静かな室内に響く。

この上なく贅沢な夜だった。


――その時までは。


コン、コン。


不意に、結界の壁を叩くような音がした。

俺はビクリと肩を震わせ、本を取り落としそうになった。

あり得ない。

この結界は認識阻害が掛かっている。魔物が意図的に「叩く」なんてことは不可能なはずだ。

偶然何かがぶつかった音か?


俺は慎重に視線を上げた。

そして、息を呑んだ。


結界のすぐ外側、透明な壁の向こうに、誰かが立っていた。

人型のシルエット。

闇夜に浮かぶ、白磁のような肌。

月光を浴びて輝く、流れるような銀色の髪。

そして、闇の中で妖しく光る、深紅の瞳。


それは、息を呑むほど美しい少女だった。

年齢は俺と同じくらいだろうか。

漆黒のゴシックドレスを身に纏い、華奢な身体つきをしているが、その全身から放たれるオーラは、この森のどの魔物よりも濃密で、圧倒的だった。


(吸血鬼……? いや、ただの吸血鬼じゃない。このプレッシャーは……)


俺の背筋に冷たい汗が伝う。

鑑定スキルを持っていなくても分かる。こいつは「ヤバい」。

Sランク指定の魔物たちが裸足で逃げ出すレベルの、伝説級の存在だ。

おそらく、『鮮血の女帝』や『夜の支配者』などと呼ばれる類の上位種だろう。


彼女は、俺の結界をじっと見つめていた。

そして、不快そうに眉をひそめると、再び細い指先で結界の壁を叩いた。


コン、コン。


「……ねえ。中にいるんでしょう?」


鈴を転がすような、しかし絶対的な命令権を含んだ声が、遮音結界を透過して脳内に直接響いてきた。

念話だ。

俺は喉を鳴らし、警戒を最大レベルに引き上げた。

認識阻害が効いていない? いや、彼女の感知能力が俺の術式を上回っているのか。


「……聞こえてるわよね? 開けてちょうだい」


彼女の瞳が、俺の目を真っ直ぐに射抜く。

逃げ場はない。

このレベルの化け物を相手に、結界に籠城するのは悪手だ。彼女なら、その気になればこの空間ごと握りつぶせるかもしれない。


俺は覚悟を決め、結界の一部を解除して、彼女と対話するための小さな窓を開けた。


「……何の用だ? 俺はただの旅の冒険者だが」


俺はできるだけ冷静を装って尋ねた。

彼女は俺の顔を見ると、ふっと力を抜いたように溜息をついた。

よく見ると、彼女の目の下には濃いクマがあり、肌も病的なまでに白い。

そして何より、ひどく機嫌が悪そうだった。


「貴方ね、この結界を張っているのは」

「……ああ、そうだが」

「ここ、凄く『静か』ね」


彼女の言葉は、予想外のものだった。

襲うでもなく、脅すでもなく、ただ感想を述べた。


「静か……?」

「ええ。外の騒音が全く聞こえない。虫の羽音も、獣の遠吠えも、風の音さえも。……驚いたわ。私の城の寝室でさえ、ここまで完璧な静寂は作れないのに」


彼女はうっとりとした表情で、結界の表面を撫でた。

その仕草は、まるで恋人に触れるかのように愛おしげだった。


「私、もう一週間も寝てないの」

「は?」

「一週間よ? 信じられる? この森、最近うるさいのよ。オークどもは夜通し宴会するし、ドラゴンはいびきをかくし、虫は耳元でブンブン飛ぶし……! 聴覚強化スキルを持っている私にとっては、この森はただの拷問部屋よ!」


彼女は突然ヒステリックに叫ぶと、頭を抱えてしゃがみ込んだ。

どうやら、彼女は極度の不眠症らしい。

聴覚が鋭敏すぎるがゆえに、些細な音でも目が覚めてしまい、安眠できないのだという。


「もう限界……。神経がズタズタよ。誰でもいいから八つ裂きにしてやろうと思って散歩していたら、突然『無音』の空間を見つけたの。……ねえ」


彼女は涙目のまま、俺を見上げた。

その表情は、魔物の王としての威厳など微塵もなく、ただ睡眠を渇望する一人の少女のものだった。


「入れて」

「……はい?」

「中に入れてよ。寝かせて。お願い、なんでもするから! このままじゃ私、ストレスで森ごと焼き払っちゃいそう!」


俺は呆気にとられた。

伝説級の魔物が、俺の結界の中で寝かせてくれと懇願している。

普通なら罠を疑うところだが、彼女の切迫した表情と、目の下のクマは本物だ。

それに、もし断ったら本当に森ごと焼き払われそうな気配がある。


「……分かった。危害を加えないと約束できるなら」

「約束する! 誓うわ! 魔王の名にかけて!」


魔王の名にかけてしまった。

俺は苦笑しながら、結界の出入り口を広げた。


「どうぞ。狭いけど」

「ありがとう……!」


彼女は滑るように結界内に入ってきた。

その瞬間、彼女の表情が劇的に変化した。

強張っていた肩の力が抜け、恍惚とした表情で深呼吸をする。


「はぁ……。なんて静かなの……。空気が止まっているみたい……」

「音響遮断と環境制御を最大にしてあるからな。外の音は一切入らない」

「天才ね。貴方、天才よ」


彼女は俺の手をガシッと掴み、ブンブンと振った。

その手は冷たかったが、柔らかかった。


「私、エルザ。吸血姫エルザ・ヴァン・ドラクル。貴方の名前は?」

「アレンだ。ただの結界師だよ」

「アレン……いい名前ね。アレン、そこ借りるわよ」


エルザはそう言うと、俺が座っていたエアクッションにドサリと倒れ込んだ。

そして、俺の脱ぎ捨てたローブを毛布代わりに被ると、瞬きする間もなく目を閉じた。


「……あぁ、極楽……」


寝息を立てるまで、三秒もかからなかった。

「即落ち」とはこのことか。


俺は目の前で無防備に眠る、伝説の吸血姫を見下ろして、ポリポリと頬を掻いた。

とんでもないことになった。

Sランクパーティを追放されたその日に、Sランクを遥かに超える魔物を拾ってしまった。

しかも、俺の結界をベッド代わりにして爆睡している。


「……まあ、いいか」


不思議と恐怖はなかった。

彼女の寝顔は、年相応の少女のように無邪気で、どこか安心しきっているように見えたからだ。

それに、彼女がここにいるだけで、周囲の魔物たちが恐れをなして遠ざかっていく気配を感じる。

最強の魔除けを手に入れたと思えば、悪くない取引かもしれない。


俺は予備の毛布を取り出し、自分は床に座って、再び本を開いた。

静寂な空間に、彼女の規則正しい寝息だけが加わった。

それは決して不快な音ではなく、むしろ心地よいリズムとなって俺の心を落ち着かせた。


◇ ◇ ◇


数時間後。

エルザが目を覚ましたのは、夜明け前だった。

彼女はむくりと起き上がると、呆けた顔で周囲を見回し、そして俺を見た。


「……おはよう」

「おはよう、エルザ。よく眠れたか?」

「……信じられない」


彼女は自分の両手を見つめ、震える声で言った。


「一度も起きなかった。夢も見なかった。……千年ぶりよ、こんなに深く眠れたのは」

「千年って、お前何歳なんだ……」

「レディに年齢を聞くのはマナー違反よ、アレン」


エルザは悪戯っぽく笑うと、優雅な動作で髪をかき上げた。

その顔色は、先ほどまでの土気色が嘘のように血色が良く、瞳には精力が漲っていた。

睡眠不足が解消された吸血姫。

その美しさは、直視できないほどに眩しかった。


「お礼を言わなくちゃね。貴方のおかげで、命拾いしたわ。あのまま寝不足が続いていたら、本当に理性が崩壊して暴走するところだったもの」

「それは俺も助かったよ。森を焼かれたら巻き込まれるところだった」

「ふふっ。それでね、アレン。一つ相談があるのだけど」


エルザはスッと立ち上がり、俺の目の前まで歩み寄ってきた。

甘い花の香りが鼻をくすぐる。

彼女は俺の胸に手を当て、上目遣いで俺を見つめた。


「貴方、私と契約しない?」

「……契約?」

「ええ。貴方は最高の『枕』……じゃなくて、最高の安眠を提供できる結界師。私はこの森最強の力を持つ吸血姫。利害は一致してると思わない?」


彼女は妖艶に微笑んだ。


「貴方が私に安眠を提供してくれるなら、私は貴方をあらゆる外敵から守ってあげる。勇者だろうが魔王だろうが、私の睡眠を妨害する奴は全員すり潰してあげるわ」

「……」


魅力的な提案だった。

いや、魅力的すぎる。

俺は結界という「守り」に特化しているが、攻撃手段には乏しい。

ソロでこの先生きていくには、強力な相棒が必要だとは思っていた。

それがまさか、こんな最強クラスの魔物になるとは思わなかったが。


「それに、私と一緒にいれば、こんな質素な食事じゃなくて、もっといいものが食べられるわよ? 私の城には、人間界の王族でも口にできないような美食の備蓄があるもの」

「……それは惹かれるな」

「でしょう? さあ、どうする? アレン」


エルザは俺の答えを待っている。

その瞳には、期待と、ほんの少しの不安が揺れていた。

もし断られたらどうしよう、と思っているのだろうか。

そんな可愛らしい一面を見て、俺の心は決まった。


「分かった。契約成立だ、エルザ」

「! 本当!?」

「ああ。俺もお前のことは嫌いじゃない。それに、せっかくの第二の人生だ。伝説の吸血姫と組むのも面白そうだ」


俺が手を差し出すと、エルザは満面の笑みを浮かべてその手を握り返してきた。


「やった! これで毎日ぐっすり眠れるわ!」

「俺は枕じゃないぞ」

「ふふ、似たようなものよ。……あ、そうだ。契約の証に、これをあげる」


エルザは懐から、真紅の宝石がついた指輪を取り出し、俺の指にはめた。


「これは『竜の血晶』。私の魔力の一部を封じ込めた魔道具よ。これを持っていれば、下級の魔物は近寄れないし、私の居場所も分かるわ」

「ずいぶん高価そうなものを……」

「私の睡眠に比べれば安いものよ。さあ、そうと決まれば祝杯をあげましょう! アレン、何か美味しいもの作って!」

「人使いが荒いな……。まあいい、ちょうど小腹が空いていたところだ」


俺は苦笑しながら、再び魔導コンロの準備を始めた。

マジックバッグから取り出したのは、燻製肉とチーズ、そして保存用のパンだ。

それを手際よくカットし、即席のチーズフォンデュを作る。

結界内に、チーズの濃厚な香りが広がる。


「わあ……! いい匂い! 人間の料理って久しぶり!」

「口に合うか分からないが」

「アレンが作ったものなら、泥団子でも美味しくいただくわ」

「それは遠慮してくれ」


出来上がった熱々のチーズをパンに絡めて差し出すと、エルザはそれをパクリと頬張った。

そして、目を輝かせた。


「んん~っ! 美味しい! 何これ、血より美味しいかも!」

「そりゃよかった。……血より美味いというのは複雑だが」


こうして、俺と吸血姫の奇妙な共同生活が始まった。

外では依然として、魔物たちの狂宴が続いている。

だが、この結界の中だけは、笑い声と美味しい匂いに満ちた、温かな楽園だった。


「ねえアレン、もっとちょうだい! あとでお礼に、私のとっておきのワインを開けてあげるから!」

「はいはい、焦るなよ。まだ沢山ある」


俺は幸せそうに食べるエルザを見ながら、ふと思った。

勇者パーティにいた頃、こんな風に食事を楽しんだことがあっただろうか。

いつも「早く食え」「時間が惜しい」と急かされ、味など感じる暇もなかった。

誰かに「美味しい」と言ってもらえることが、こんなに嬉しいことだとは忘れていた。


「……ざまぁみろ、だな」


俺は小さく呟いた。

俺を追放した彼らは今、この幸福な時間を絶対に味わえない。

俺という結界師を失った代償を、骨の髄まで味わっていることだろう。


◇ ◇ ◇


その頃。

アレンの結界から数キロ離れた地点。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


泥と血にまみれた聖女リリアは、這いつくばって地面を進んでいた。

美しいドレスは見る影もなくボロボロに引き裂かれ、自慢の金髪は枯れ葉と汚泥で固まっている。

片足の靴はなく、素足は傷だらけだ。


「助けて……誰か……」


彼女の周囲には、すでに仲間の姿はない。

勇者レオンも、戦士ガッツも、魔法使いミナも、皆それぞれが自分の命を守るために逃げ去り、散り散りになってしまった。

聖女である彼女を守る騎士など、どこにもいなかった。


「アレン……アレン……」


彼女はうわ言のように、かつて蔑んだ男の名前を呼んだ。

遠くに見えた微かな光。

アレンの魔力光だけが、今の彼女にとっての唯一の希望だった。


だが、その光は残酷なほど遠い。

そして、彼女の背後には、新たな絶望が迫っていた。


『グルルルル……』


湿った息遣い。

巨大な牙を持つ『ポイズン・スパイダー』が、粘着質の糸を吐き出しながら、リリアの頭上から降りてきていた。


「ひっ……いや、いやぁぁぁぁぁ!!」


リリアの絶叫が、夜の森に虚しく響き渡る。

しかし、その声は誰にも届かない。

アレンとエルザがいる『聖域』の中には、決して届くことはないのだ。

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