第2話 静寂の終わり、絶叫の始まり
アレンの背中が闇の向こうへと消えてから、およそ三十分が経過した。
勇者パーティ『白銀の翼』の野営地は、かつてないほどの開放感に包まれていた。
これまで口うるさく「火を小さくしろ」「声のトーンを落とせ」「酒の匂いをさせるな」と注意していた結界師がいなくなったのだ。
彼らにとって、それはまさに自由の獲得だった。
「いやあ、せいせいするな! 見ろよ、あの陰気な顔が視界にないだけで、こんなに空気が美味い!」
戦士ガッツが、ジョッキに波々と注がれたエールを一気に煽り、豪快にゲップをした。
焚き火の上では、猪の丸焼きが脂を滴らせながらパチパチと音を立てて焼けている。
その香ばしい匂いは、周囲の空気に濃厚に漂っていた。
「本当ね。あいつ、いつも『匂いが魔物を呼ぶ』とか神経質なことばかり言って、美味しい食事の邪魔ばかりしてたじゃない? 結局、いなくなっても何も変わらないじゃないの」
魔法使いのミナもまた、焚き火のそばで足を投げ出し、リラックスした様子で焼き串を頬張っている。
彼女の顔はアルコールで少し赤らんでおり、警戒心のかけらもない。
そして、パーティの中心である聖女リリアと勇者レオンは、高級な赤ワインのボトルを空けていた。
「君の言う通りだったよ、リリア。アレンの結界なんて、やっぱりただのハッタリだったんだ。見ろ、こうして焚き火を大きくしても、魔物一匹寄ってこない」
レオンが陶酔した目で周囲の闇を見渡す。
そこにあるのは、どこまでも深い森の静寂だけだ。
時折、風が木々を揺らす音が聞こえる程度で、恐ろしい魔物の気配など微塵も感じられない。
「ええ、当然よレオン。私の『聖なる加護』は、半径一キロメートル以内の邪気を完全に浄化しているわ。汚らわしい魔物たちは、私の聖なる波動を恐れて近づくことすらできないの」
リリアはワイングラスを揺らしながら、誇らしげに胸を張った。
彼女は本気でそう信じていた。
これまで野営中に魔物に襲われなかったのは、自分の祈りが天に通じているからだと。
アレンが汗水を垂らして維持していた結界が、音も光も匂いも、そして彼らの存在すらも世界から隔離していたことなど、想像すらしていなかった。
「アレンの奴、今頃泣きべそかきながら戻ってきてるんじゃないか? 『ごめんなさい、やっぱり僕が間違ってました』って土下座でもしてきたら、荷物持ちくらいには戻してやってもいいぜ?」
ガッツの下品な笑い声が、夜の森に大きく響き渡る。
レオンもミナも、それに同調して声を上げて笑った。
彼らの笑い声は、静かな森の中で異様なほど大きく反響した。
――だが、その「異様さ」に気づく者は、誰一人としていなかった。
本来、木々が生い茂る森の中では、音は吸音され、そこまで響かないはずなのだ。
それがまるでドームの中にいるかのように反響していたのは、アレンが残していった結界の残滓が、まだ辛うじて彼らを覆っていたからに過ぎない。
しかし、その猶予も終わりを迎える。
パキン。
唐突に、薄氷が割れるような乾いた音が、頭上の遥か高みで鳴り響いた。
笑い声を上げていた四人が、ふと動きを止める。
「ん? 今、何か音がしなかったか?」
「木の枝でも折れたんじゃない? それよりレオン、お肉焼けたよー」
ミナが気のない様子で答える。
だが、その直後だった。
世界が、変貌した。
「……っ!? な、なんだ、この風!?」
ガッツが叫んだ。
今まで無風で快適だった野営地に、突如として生温かい突風が吹き荒れたのだ。
それだけではない。
風と共に流れ込んできたのは、鼻が曲がりそうなほどの強烈な腐臭と、肌を突き刺すような湿気だった。
まるで、腐った沼地の中に頭まで沈められたかのような不快感。
「きゃっ! 何これ、臭い!」
「うっぷ……! ま、まるで死体が腐ったような……」
リリアとミナが鼻を押さえて顔をしかめる。
先ほどまでの、森のフィトンチッドの香りなど跡形もない。
そして、異変は嗅覚だけにとどまらなかった。
ザワザワザワザワザワ……。
音だ。
これまで「シーン」としていた森が、突如として騒がしくなった。
無数の葉が擦れる音。
何かが湿った地面を這いずる音。
遠くで響く、鼓膜を震わせるほどの重低音の咆哮。
そして、耳元を飛び交う無数の羽音。
アレンの結界による『遮音・防音』機能が完全に消失した瞬間、Sランク魔境『奈落の魔森』の、本来の環境音が雪崩れ込んできたのだ。
「な、何よこれ……うるさい、うるさいわ!」
「リリア、落ち着け! おい、誰か明かりを増やせ! 暗くて周りがよく見えん!」
レオンが立ち上がり、剣の柄に手をかける。
だが、その指示が致命的だった。
アレンは去り際に言っていたはずだ。「光を漏らすな」と。
ミナが慌てて魔法の杖を掲げ、光魔法『フラッシュ・ライト』を発動させた。
カッと強烈な閃光が周囲を照らし出す。
その瞬間、彼らは見てしまった。
「――ひっ」
誰かの喉から、短い悲鳴が漏れた。
光に照らされた森の木々の隙間。
そこには、無数の「目」があった。
赤、黄、紫。様々な色に発光する瞳が、数百、いや数千。
それら全てが、焚き火と魔法の光に吸い寄せられるように、野営地をじっと見つめていたのだ。
「う、嘘だろ……? いつの間に、こんな囲まれて……」
ガッツが後ずさりし、背後の木にぶつかる。
今まで気配すらなかった。
いや、違う。気配は最初からあったのだ。
アレンの結界が「内側の気配を外に漏らさない」だけでなく、「外側の殺気を内側に伝えない」という精神防壁の役割も果たしていたために、彼らが気づかなかっただけだ。
『ギシャアアアアアッ!!』
耳をつんざくような金切り声と共に、最初の襲撃者が飛び出してきた。
それは一見すると、巨大なカマキリのような魔物だった。
だが、サイズがおかしい。馬車ほどもある巨体に、鋼鉄をも切り裂く鎌。
Sランク指定モンスター『デスサイズ・マンティス』だ。
「くっ、迎撃だ! ガッツ、前へ出ろ! ミナは援護!」
レオンが叫び、聖剣を引き抜く。
さすがにSランクパーティだけあり、とっさの戦闘態勢への移行は早かった。
ガッツが大斧を構えて前に飛び出し、マンティスの鎌を受け止める――はずだった。
ガキンッ!!
「ぐおおおおっ!?」
鈍い金属音と共に、ガッツの巨体がボールのように吹き飛ばされた。
彼は地面を転がり、焚き火の中に突っ込んで悲鳴を上げる。
「あ、あつっ! くそっ、なんだこいつの馬鹿力は!?」
「ガッツ!? そんな、あいつの攻撃なんていつもなら軽く弾き返せてたはずじゃ……」
レオンが驚愕に目を見開く。
ここでも彼らは致命的な勘違いをしていた。
これまで彼らが戦ってきたSランク魔物は、すべてアレンが結界術による『重力加重』『筋力減衰』『反応速度低下』といったデバフ(弱体化)を何重にも掛けた状態だったのだ。
アレンはそれを「僕の補助なんて微々たるものですから」と謙遜していたが、実際には魔物のステータスを半減させるほどの強力な呪いと同義だった。
今、彼らが相対しているのは、何の枷も嵌められていない、万全の状態の『奈落の魔森』の捕食者だ。
「や、やだ、来ないで!」
ミナが杖を振り、炎の弾丸『ファイアボール』を放つ。
だが、マンティスはその巨体に見合わぬ超高速で回避し、残像を残してミナの背後へと回り込んだ。
「うそ……速すぎ……」
「ミナ、伏せろ!」
レオンが聖剣を閃かせ、間一髪でミナを庇う。
聖剣と鎌が激突し、火花が散る。
レオンの手首に、かつてないほどの衝撃が走った。骨がきしむ音が聞こえる。
(重い……! なんだこの一撃は! ドラゴンと打ち合っているみたいだ!)
レオンは歯を食いしばり、必死に剣を押し返す。
一匹相手にこれだ。
だが、周囲を見渡せば、闇の中から次々と異形の影が這い出してきている。
「リリア! 何をしてる、早く結界を! お前の『聖域』で奴らを追い払ってくれ!」
レオンが悲痛な叫びを上げる。
その声に、腰を抜かして震えていたリリアがハッと我に返った。
「そ、そうよ……ここは私の聖域……汚らわしい魔物なんて……」
リリアは震える手で聖杖を握りしめ、ありったけの魔力を込めて叫んだ。
「神よ、邪悪なるものを退けたまえ! 『ホーリー・フィールド』!」
彼女の身体から淡い光の波が広がる。
それは確かに、下級のアンデッド程度なら消滅させる力を持つ神聖魔法だった。
だが、ここは魔界に最も近い場所。
ここに棲む魔物たちは、生半可な聖なる力など「少し眩しい」程度にしか感じない。
光の波がマンティスに当たる。
マンティスは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに不快そうに鳴き声を上げると、より一層凶暴な殺気を放ってリリアを睨みつけた。
「ひっ……効かない……? なんで? 今までは、私が祈るだけで魔物は逃げていったのに!」
「違う! 逃げていたんじゃない、アレンが遠ざけていたんだ!」
土まみれになって起き上がったガッツが絶叫した。
その言葉は、彼ら全員が薄々気づき始めていた、しかし認めたくない真実だった。
「そんな……じゃあ、あの陰気な男が言っていたことは……」
リリアの顔から血の気が引いていく。
『結界を解いたら、虫の羽音一つで発狂する』。
『焚き火の光なんて一瞬で魔物を引き寄せる松明になる』。
アレンの忠告が、呪詛のように脳裏に蘇る。
ブウウウウウウウウ……。
低い羽音が、頭上を覆い尽くした。
見上げれば、蚊の大群が黒い雲のように押し寄せてきていた。
だが、それはただの蚊ではない。一匹一匹が小鳥ほどのサイズがあり、その口吻は鋭利な針のようだ。
『吸血ニードル・モスキート』の大群。
一匹に刺されれば貧血、十匹に集られればミイラになるまで血を吸い尽くされる、森の掃除屋だ。
「いやあああああ! こっちに来ないでぇぇぇ!」
ミナが半狂乱になって杖を振り回すが、数が多すぎる。
一匹がミナの腕にとまり、その針を突き立てた。
「いたっ!?」
鮮血が噴き出す。
その血の匂いが、さらなる興奮剤となって魔物たちを刺激する。
先ほどリリアがばら撒いたワインの甘い匂い、焼いた肉の匂い、そして新鮮な血の匂い。
この野営地は今、森中の魔物にとっての『極上のレストラン』と化していた。
「くそっ、キリがない! 全員、荷物を捨てろ! 武器だけ持って走るんだ!」
レオンが決断を下す。
戦って勝てる相手ではない。一匹ならまだしも、この数は異常だ。
だが、逃げると言ってもどこへ?
全方位、闇と咆哮に囲まれている。
「どっちに逃げるのよ!?」
「アレンの方だ! あいつが行った方向なら、まだ結界の跡が残っているかもしれない!」
なんて身勝手な理屈だろうか。
自分たちで追い出し、嘲笑い、死刑宣告をした相手の後を追おうというのだ。
だが、今の彼らにプライドなどというものは存在しなかった。
あるのは、原始的な生存本能と、後悔と、そして恐怖だけ。
「アレン! アレンどこよ!」
「おい、アレン! 冗談だろ、出てきてくれよ!」
四人は蜘蛛の子を散らすように駆け出した。
背後から迫るデスサイズ・マンティスの鎌が、つい数分前まで彼らが宴を開いていたテントを一撃で粉砕する。
大切な食料も、高価なワインも、寝袋も、全てが魔物の蹂躙に飲み込まれていく。
彼らは闇雲に走った。
茨が肌を裂き、毒虫が服の中に入り込む。
リリアの美しい金髪は泥と枯れ葉にまみれ、ドレスはあちこちが破けて見る影もない。
「はぁ、はぁ……痛い、足が……」
リリアが木の根につまずいて派手に転倒した。
すぐに起き上がろうとするが、足首に激痛が走り、動けない。
「レオン! 助けて! 足を挫いたの!」
彼女は前を走る勇者に助けを求めた。
レオンは一瞬だけ振り返った。
その表情は、恐怖に歪んでいた。そして、彼は――
「くそっ、すまんリリア! 止まったら死ぬ!」
「え……?」
レオンは立ち止まらなかった。
愛を囁き合った恋人を、置き去りにして闇の中へと消えていったのだ。
「うそ……レオン? 待って、置いていかないで!」
絶望的な叫び声。
だが、その声に応えたのはレオンではなく、暗闇からヌラリと現れた狼型の魔物『シャドウ・ウルフ』の群れだった。
涎を垂らし、飢えた獣の目でリリアを取り囲む。
「い、いや……私は聖女よ? 選ばれた存在なのよ? こんなところで……」
リリアは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、後ずさりする。
背中が冷たい大樹の幹に当たる。
逃げ場はない。
(どうして……どうしてこんなことに……)
数時間前までの光景が走馬灯のように蘇る。
快適な温度、静かな空間、美味しい食事。
アレンが微笑みながらスープをよそってくれた、あの当たり前の光景。
「ここは安全だから」と彼が言った言葉は、嘘でも誇張でもなく、彼が文字通り命を削って作り上げた『奇跡』だったのだ。
それを自分から壊した。
「不要だ」と言って捨てた。
その代償が、この地獄だ。
「アレン……助けて……」
虫のいい願いだと分かっていても、その名前を呼ばずにはいられなかった。
シャドウ・ウルフが喉を鳴らし、一斉に飛びかかってくる。
リリアは悲鳴を上げて頭を抱え、うずくまった。
――だが、牙が肉を裂く激痛は、いつまで経っても訪れなかった。
「……え?」
恐る恐る顔を上げると、ウルフたちは鼻先をひくつかせ、何かを警戒するように周囲を見回していた。
そして、不満げな唸り声を上げると、リリアへの興味を失ったかのように闇の中へと去っていった。
助かった? なぜ?
呆然とするリリアの視線の先に、微かな光が見えた。
遥か遠く、森の奥深く。
そこから、針の穴を通すような細い、しかし温かな魔力の光が漏れているのが見えた。
それは、アレンの魔力の色だった。
彼が展開する結界の光。
そこに行けば助かるかもしれない。
リリアの中に、消えかけた希望の灯火が再び燃え上がった。
「アレン……そこにいるのね……」
リリアは泥だらけの手で地面を掴み、這うようにしてその光を目指し始めた。
プライドも聖女の威厳もかなぐり捨て、ただ「生きたい」という一心で。
その光が、自分たちを拒絶するための『断絶の壁』であることなど知る由もなく、彼女は亡者のように森の奥へと進んでいくのだった。
一方その頃、地獄の様相を呈する森の中で、唯一「天国」と呼べる場所があった。
アレンが設営した『絶対聖域・個室版』の中である。
「……ん? 何か騒がしいな」
フカフカのクッションに身を沈めていたアレンは、読みかけの本から目を上げた。
外では魔物たちの狂乱の宴が始まっているはずだが、彼の結界内には、薪が爆ぜる静かな音しか聞こえない。
だが、微かに地面を伝わる振動が、近くで何かが暴れていることを伝えていた。
「まあ、この森じゃよくあることか」
アレンは興味なさげに呟くと、再び本に視線を落とした。
彼の隣には、まだ誰もいない。
だが、運命の出会いはすぐそこまで迫っていた。
この森の支配者、吸血姫エルザが、アレンの張った「あまりにも静かで快適な結界」に興味を持ち、音もなく近づいてきていることに、彼はまだ気づいていなかった。




