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第1話 偽りの安全地帯

パチパチと、焚き火の爆ぜる音が心地よく響いている。

香ばしい肉の焼ける匂いと、野菜を煮込んだスープの湯気。

ここは大陸の北端に位置する『奈落の魔森』の最深部――人類が足を踏み入れてはならないとされる、Sランク指定の危険地帯だ。


本来であれば、一瞬の油断が死を招く魔境である。

四方八方から魔獣の咆哮が響き、瘴気が肌を焼き、地面からは毒虫が這い出してくるはずの場所だ。


しかし、俺たちSランク勇者パーティ『白銀の翼』の野営地は、王都の公園でピクニックをしているかのように平和だった。

風はなく、不快な湿気も感じない。虫一匹たりとも寄ってこない静寂な空間。

あまりにも快適なこの空間で、俺、結界師のアレンは、鍋の火加減を調整しながら安堵のため息をついていた。


「よし、今日も結界の出力は安定しているな」


俺が展開しているのは、物理防御、魔法防御、環境遮断、認識阻害、そして音響遮断を複合した多重結界『聖域サンクチュアリ』だ。

この森の瘴気濃度は、通常の人間なら呼吸をするだけで肺が腐り落ちるレベルにある。

だが、俺が半径五メートルの空間を完全に世界から隔離しているおかげで、パーティメンバーはこうして無防備に夕食を待つことができているのだ。


魔力消費は激しいが、仲間の命には代えられない。

額に滲む汗を拭いながら、俺は少し誇らしい気持ちで仲間たちの方を振り返った。


「みんな、飯ができたぞ」


そう声をかけた、その時だった。


「……ねえ、アレン。貴方って、本当に邪魔なんだけど」


冷や水を浴びせられたような、冷徹な声。

声の主は、焚き火の向こう側で長い金髪を弄っていた聖女、リリアだった。

白磁のような肌に、整った顔立ち。国一番の美貌と謳われる彼女だが、その青い瞳は今、ゴミを見るような蔑みの色を浮かべて俺を見下ろしている。


「邪魔って……どういうことだ、リリア?」

「言葉通りの意味よ。貴方、自分がこのパーティのお荷物だって自覚はないの?」


リリアは不快そうに鼻を鳴らすと、手に持っていたワイングラスを乱暴に地面に置いた。

その音を合図にしたかのように、周囲に座っていた他の仲間たち――勇者レオン、戦士ガッツ、魔法使いミナの視線も、一斉に俺へと突き刺さる。

そこには、仲間に対する信頼など欠片もなく、あるのは嘲笑と苛立ちだけだった。


勇者レオンが、呆れたように肩をすくめる。

整えられた金髪と、煌びやかな聖剣。絵に描いたような英雄の姿をした彼は、薄ら笑いを浮かべて口を開いた。


「アレン、悪いがリリアの言う通りだ。俺たちはもう限界なんだよ。お前のその『結界ごっこ』に付き合うのはさ」

「結界ごっこ……? レオン、お前は何を言っているんだ? 俺が結界を張らなければ、この森の瘴気で全員数分も持たないんだぞ」

「はっ! まーた始まったよ、その恩着せがましい嘘」


戦士ガッツが焚き火に薪を放り込みながら、大声で笑った。

巨躯を揺らし、侮蔑の視線を向けてくる。


「いいかアレン? 俺たちはSランクパーティだ。俺たちの実力に恐れをなして、魔物どもが寄ってこないだけだろうが。それを『僕の結界のおかげです』なんて、聞いてて反吐が出るんだよ」

「そうよぉ。アレンくんってば、いつも必死な顔して何もない空中に手をかざしてるけど、あれってただのポーズでしょ? 魔力なんて全然感じないし」


魔法使いのミナまでが、クスクスと意地悪な笑みを浮かべて同調する。

俺は愕然とした。

彼らは本気で言っているのか?


俺の結界術『虚空絶界』は、魔力の波長を極限まで自然界に同化させることで、その存在自体を隠蔽する技術だ。

高レベルの魔法使いであるミナでさえ感知できないのは、俺の技術が彼女の遥か上を行っている証左でしかない。

だが、彼らにとって「見えないもの」は「存在しないもの」と同義らしい。


「待ってくれ。ミナ、お前なら分かるはずだ。外の気温と、この結界内の気温が明らかに違うことに気づかないか? 外は氷点下に近いんだぞ」

「はあ? 何言ってんの? リリアの『聖なる加護』がこの場所を温めてくれてるに決まってるじゃない」


ミナは心酔した様子で聖女リリアを見つめる。

リリアはふふんと鼻を高くし、豊かな胸を張った。


「そうよ。私が絶えず祈りを捧げているからこそ、神の御加護によって邪悪な気配が退けられているの。ここは私が作った『安全地帯セーフティエリア』なのよ。貴方のその、陰気臭い結界なんて最初から不要だったの」

「なっ……」


言葉を失った。

リリアの聖魔法に、環境調整や認識阻害の効果などない。彼女ができるのは、せいぜい怪我の治療と、微弱な照明魔法ライト程度だ。

これまで野営地が安全だったのは、100パーセント俺の結界のおかげだ。

俺が24時間体制で、寝る間も惜しんで結界のメンテナンスを続けてきたからこそ、彼らはこの『奈落の魔森』で、虫刺され一つなく熟睡できていたというのに。


「アレン。お前は勘違いをしているようだ」


勇者レオンが立ち上がり、ゆっくりと俺の前に歩み寄ってくる。

彼は憐れむような目で俺を見下ろした。


「お前は以前、こう言ったよな。『野営中は絶対に音を立てるな』『光を漏らすな』と。だがどうだ? 今、俺たちは焚き火を囲み、談笑している。それでも魔物は一匹たりとも来ない。これが答えだ」


レオンが両手を広げ、周囲の闇を指し示す。


「お前の心配性は、ただの臆病だ。俺たちの強さを信じられず、無意味な壁を作って閉じこもろうとする。そんなネガティブな姿勢は、勇者パーティにはふさわしくない」

「違う! 魔物が来ないのは、俺の結界が音も光も匂いも、完全に遮断しているからだ! 結界を解いたら、焚き火の光なんて一瞬で魔物を引き寄せる松明になるんだぞ!」

「しつこいわね!」


ヒステリックな声と共に、リリアが手元のワインを俺に浴びせかけた。

赤い液体が俺の顔にかかり、服を汚していく。

甘ったるい匂いが鼻をつく。これもまた、魔物を引き寄せる強力な誘引剤になるというのに、彼女は全く気にしていない。


「口答えしないでちょうだい、無能のくせに! 貴方、自分がどれだけ高給取りか分かってるの? 戦闘では後ろで震えてるだけのくせに、報酬だけは一人前に要求して。その金があれば、もっと優秀な攻撃魔法使いを雇えるのよ!」


リリアの本音はそこか。

俺への報酬が惜しいのだ。

Sランクパーティの報酬は莫大だ。だが、俺は結界維持のために高価な魔石を大量に消費するため、経費を含めた取り分を要求していた。

それが彼らにとっては「何もしていない奴が金をふんだくっている」ようにしか見えていなかったらしい。


「……そうか。俺はずっと、みんなの安全を守るために……」

「守る? 笑わせないでよ」


戦士ガッツが焚き火のそばにある岩を蹴り飛ばした。

その岩は、俺が設置していた結界の『くさび』の一つだった。

ガッツリと音を立てて、楔が位置をずらす。

俺の視界の端で、結界の安定度が数パーセント低下するのが見えた。


「俺たちが守ってやってたんだよ。お前みたいな地味で暗い男をな。だが、それも今日で終わりだ」


勇者レオンが、冷酷に宣告する。


「アレン。お前を『白銀の翼』から追放する。今すぐにだ」


その言葉が、森の静寂に響き渡った。

不思議と、ショックはなかった。

むしろ、胸の奥で何かが冷えて固まっていくのを感じた。


これまで、どれだけ理不尽な要求をされても、どれだけ軽んじられても、幼馴染であるレオンの夢を叶えるために耐えてきた。

だが、俺の技術を否定され、俺の献身を「無駄」と断じられた今、彼らに対する情は完全に消え失せた。


「……本気なんだな?」

「ああ、本気だ。装備は置いていけよ。それはパーティの共有財産だからな」


レオンは俺の腰にあるマジックバッグを顎でしゃくった。

中には予備の魔石や食料が入っている。

この魔境で、丸腰で放り出されることが何を意味するか、彼らが分からないはずがない。

これは追放ではない。実質的な死刑宣告だ。


「分かった」


俺は静かに頷き、マジックバッグを地面に置いた。

身に着けているのは、自身の魔力で織り上げたローブと、最低限の護身用ナイフ一本だけ。

それ以外の全てを、彼らにくれてやることにした。


「今まで世話になったな。……一つだけ、忠告しておく」

「はん、負け惜しみか?」

「俺がいなくなったら、すぐに焚き火を消せ。そして全員で身を寄せ合い、気配を殺して朝を待つんだ。リリア、お前の『聖なる加護』とやらが本物ならいいが、万が一にも偽物だったら、この光と匂いは自殺行為だぞ」


俺の最後の情けによる忠告。

しかし、彼らの反応は爆笑だった。


「あはははは! まだ言ってるよこいつ!」

「みっともないわねぇ、アレン。自分の価値を認めさせたくて必死なの?」

「安心しろよアレン。俺たちが食われて死ぬところを想像して慰めにするつもりだろうが、明日の朝には魔王城の前まで進んでるさ」


誰も、聞く耳を持たない。

これ以上は何を言っても無駄だ。

俺は小さく息を吐くと、彼らに背を向けた。


「そうか。なら、好きにすればいい」


俺は歩き出した。

焚き火の暖かな光から、漆黒の闇の中へ。

一歩、また一歩と進むごとに、背後の笑い声が遠ざかっていく。


彼らは気づいていない。

俺が遠ざかるにつれて、彼らの周囲を包んでいた『静寂』が薄れ始めていることに。

俺は、自分自身の身を守るための結界を展開しながら、意識的にパーティにかけていた結界とのリンクを切断した。


(――解除)


ブツン、と頭の中で何かが切れる音がした。

その瞬間、俺の手元には、俺一人を守るための強固でコンパクトな結界が完成する。

対して、後方に残されたキャンプ地からは、俺の魔力供給が途絶え、結界が急速に崩壊を始めていた。


だが、まだ完全に消えたわけではない。

残存魔力が尽きるまで、あと数分から数十分の猶予はあるだろう。

その間に彼らが異変に気づき、撤退を選択できれば生き残れるかもしれない。

まあ、あの様子では無理だろうが。


「……せいぜい、自分たちの信じる『聖域』とやらの中で、楽しい夜を過ごしてくれ」


俺は一度も振り返ることなく、闇の奥へと足を進めた。

パーティから離れるにつれて、不思議と心は軽くなっていった。


もう、誰かの顔色を窺う必要はない。

夜通し魔力残量を気にして、神経をすり減らす必要もない。

俺の強大な結界能力は、今この瞬間から、俺一人の快適な生活のためだけに使われるのだ。


「さて、今夜の寝床を確保しないとな」


俺は一人になった開放感を噛み締めながら、魔森の奥深くへと進んでいく。

皮肉なことに、俺を追い出した彼らが陣取っている場所よりも、さらに深く危険なエリアへ。


だが、俺にとっては庭のようなものだ。

俺の結界の中では、瘴気は清浄な空気に変わり、地面の凸凹はフラットに整地され、温度は適温に保たれる。

むしろ、足手まといがいなくなった分、結界の密度を上げることができ、以前よりも快適なくらいだった。


しばらく歩くと、巨大な古代樹の根元に、手頃なスペースを見つけた。

周囲は禍々しい毒花が咲き乱れ、遠くではドラゴンのような影が空を横切っているが、俺には関係ない。


「展開――『絶対聖域・個室版マイ・ルーム』」


指先で空中に複雑な紋章を描く。

音もなく、透明なドームが俺を中心に広がった。

直径三メートルほどの小さな空間だが、その防御力は先ほどまでの広域結界の比ではない。

核シェルターすら裸足で逃げ出すほどの強度と、完全なる遮音・遮熱機能を備えた、俺だけの城だ。


俺は地面に腰を下ろし、リュックの隠しポケットから、非常用に持っていた干し肉を取り出した。

硬くて味気ない干し肉だが、今の俺にはどんな高級料理よりも美味く感じられた。


「……あいつら、ワインを開けてたな」


ふと、元仲間のことを思い出す。

結界のリンクが切れてから、そろそろ十分が経過する頃だ。

俺が丹精込めて作り上げていた『安全地帯』の残滓が、完全に消滅する時間。


本当の『奈落の魔森』の夜が、彼らに牙を剥く瞬間だ。


俺は干し肉を齧りながら、夜空を見上げた。

俺の結界を通して見る星空は、とても綺麗だった。

遠くの方から、何かが割れるような音と、風に乗って微かな悲鳴が聞こえたような気がしたが、俺は結界の遮音レベルを最大まで引き上げた。


静寂が戻る。

俺の世界には、俺の許した音しか存在しない。


「おやすみ、元勇者パーティ。そして、さようなら」


俺はローブを枕にして横になった。

追放された直後だというのに、ここ数年で一番、深く安らかな眠りにつけそうな予感がしていた。


こうして、俺の新しい人生――後に『魔界の守護神』や『歩く要塞』と呼ばれることになる、気ままな結界師ライフが幕を開けたのだった。

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