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主任司書の解説

早希(さき)顛末(てんまつ)

観念(かんねん)して渋々(しぶしぶ)解説(かいせつ)を始めた主任によると、洪水による土砂崩(どしゃくず)れに巻き込まれそうになった子供を助けようとした清右衛門(せいえもん)がその幼児とともに流されたことで代官(だいかん)不在(ふざい)になったこと。その時の洪水で田んぼの(いね)が根こそぎ流されてしまったために、その年は全く米が収穫(しゅうかく)ができなくなってしまったこと。代官の妻の早紀が被害報告(ひがいほうこく)で代官の不在になったことと、稲田(いなだ)が全滅したために年貢(ねんぐ)(おさ)めることができない(むね)(ふみ)を出したにもかかわらず幕府(ばくふ)から年貢の取り立て役人が来たので、年貢の免除(めんじょ)懇願(こんがん)したところ斬首(ざんしゅ)されてしまったとのことだった。


間引(まび)き1回目】

清右衛門には幼い息子がいたが、その子が(おさな)()ぎて元服(げんぷく)してないことと、この村には彼とその妻以外には政務(せいむ)(たずさ)わる資格(しかく)があるものがいないことから、年貢の取り立てに来た役人は村の取りまとめは百姓頭(ひゃくしょうがしら)春吉(はるきち)が行い、幕府から後見人(こうけんにん)となる代官代理(だいかんだいり)が送られるのを待つようにと(もう)しつけて備蓄米(びちくまい)の半分以上を持っていった。残りの米は種籾(たねもみ)として残さなければならないため、村民は食べられそうな草を食べたり万一(まんいち)のためにと清右衛門(せいえもん)が携えてきていた(あわ)蕎麦(そば)を庭や(あぜ)(など)作付(さくつ)けして()えていたが、蕎麦はそこそこ取れたものの腹が(ふく)れず、粟もあまりたくさん()れたわけでもなかったので、翌年の夏、子どもたちの間引きをすることになった。


山に捨てられた7人の子どもたちはその年の台風で起きた山崩(やまくず)れか鉄砲水(てっぽうみず)で流されたらしく、その死体は多嘉良(たから)島山(しまやま)頂上(ちょうじょう)に打ち上げられたらしい、顔が原型をとどめていなかったために、どの死体が誰のものなのかは判明(はんめい)できなかったが、体格と性別から間引きされた7人の子供であると推定(すいてい)できたとのこと。それで村民(そんみん)は、山の神がこの小山(こやま)に“供え物の人間を(まつ)っていると”解釈(かいしゃく)”し、この島山を多嘉良山(たからやま)と名付け、その頂上に”島神社(しまじんじゃ)”と(しょう)する小さな(ほこら)を建てて多嘉良川の上流に(おわす)山の神々と死者の(たましい)を祀ったという。


新右衛門(しんえもん)赴任(ふにん)

その翌年の春、洪水に耐えた稲を収穫して(わずか)かな(みの)りに不安を(ぬぐ)えない村民の元に、大八車(だいはちぐるま)2台分の米俵を(たずさ)えた田島新右衛門とその家族、それに、側仕(そばづか)えの武士の一団がやってきた。彼らは幼い清右衛門の息子である吉祥天(きっしょうてん)後見人(こうけんにん)として、その子が成人して代官に就任(しゅうにん)するまでの代官代理(だいかんだいり)として赴任してきたのだった。それに伴い、春吉のもとに引き取られていた吉祥天(は後見人の田島新右衛門のもとに引き取られることになったという。


しかし、これが良くなかった。新右衛門は所詮(しょせん)後見人でしかないため、吉祥天が元服して家督(かとく)を継いだら、彼はその部下として働かなければならなくなる。つまり、彼は叔父の息子の部下にならなければならないのだ。本来、新右衛門の方が家柄的には上なのでとても面白くない話である。『江戸で旗本(はたもと)三男坊(さんなんぼう)として傘貼(かさは)りの内職(ないしょく)をしているよりも地方の代官になった方が威張(いば)れるから良い』と言うことで彼は清右衛門の家を乗っ取る気満々(まんまん)でやってきていたのだ。新右衛門は清右衛門と歳が近かったので子供が4人いた。息子2人と娘2人だ。


【吉祥天暗殺】

そんな中で新右衛門は吉祥天を引き取ったのだが、当然ながら、彼は吉祥天のことを主の子としては扱わなかった。むしろ奴隷(どれい)のように扱い、過酷(かこく)な労働と少ない食事で飼い殺しにしたので、幼い吉祥天が衰弱(すいじゃく)して瀕死状態(ひんしじょうたい)になるのにそれほど時間はかからなかった。そうして、吉祥天はぼろ雑巾のような姿で座敷牢(ざしきろう)放置(ほうち)され弱って動かなくなってしまった。それから2年と少し経った頃、()の幼児の死期(しき)が近いことを()っした新右衛門は、ここで死なれては(かな)わぬと自宅外で殺害しようと(はか)った。彼は、虫の息になっている吉祥天に(いとま)を与えることにした。そして、自分の子供たちと取り巻きの子供たちに「吉祥天を川遊びに連れて言ってやれ」と命じたのだった。


新右衛門の長男は父親の意を(くみ)み、溺れたら二度と死体が上がらないと言われる(ふち)に吉祥天を放り込んできた。村人たちには、子供たちと遊んでいるときに吉祥天だけが誤って落ちてしまったと説明した。百姓頭の春吉と、娘のために命を落とした清右衛門に義理がある末吉は納得しなかったし、弥助もお家乗っ取りだと不満を()らした。亡骸(なきがら)もないままこの3家だけで仮の葬儀(そうぎ)を行った。実は、この3家だけで山奥の(きゅう)末吉邸(すえよしてい)跡地(あとち)に田島清右衛門の慰霊碑(いれいひ)を建てていたのだが、その向かって左手には早希の墓碑(ぼひ)も作っていた。この3家は清右衛門の慰霊碑を(はさ)んだ反対側に吉祥天の墓碑を建てることにした。吉祥天は数え年で享年(きょうねん)8歳だった。こうして田島清右衛門の家は断絶(だんぜつ)したのだ。


【宝田村の(おこ)り】

新右衛門の統治(とうち)から3年が経ち、吉祥天が川で行方不目になった年の秋に入る頃、もうそろそろ米の収穫の時期だというのに台風が来た。この時の洪水により、田島村の米の収穫高は5割減の凶作(きょうさく)となってしまい、種籾を残せるかどうかと言うところになった。だが、新右衛門は百姓が種籾を持つことを許さず、米は全て田島家で預かることとした。これに反発した春吉、弥吉、末吉の3家は採れた米をこっそりと持てるだけ持ってこの村から逃げ出し、川の向こう側に移住した。こうして、宝田村が誕生した。


宝田村は田島村よりも標高が高いために用水路の整備が難しかったが、3人とも清右衛門の元で読み書きと度量衡法(どりょうこうほう)土木建築学(どぼくけんちくがく)を良く学んでいたため、何とか冬の間に田を3枚ほど用意できた。彼らは蕎麦や粟で飢えを凌ぐ貧しい暮らしをしばらくし続けることになったものの、その当時では珍しく餓死者(がししゃ)を出さなかったようだ。


【新右衛門の沙汰】

それに対して新右衛門は何もしなかった。なぜなら、『いずれ彼らは泣きながら戻ってくるだろう』と高をくくっていたからだ。だが、本音を言うと、軍事力(ぐんじりょく)がほとんどないので彼らから種籾を取り上げることができないという実情があった。新右衛門のそば仕えの武士として帯同(たいどう)してきていたのは父親の家に(つか)えていた50過ぎの古参(こさん)の武士の1家族だけだったからだ。


彼には息子が1人しかおらず、新右衛門自身の父親に()われて同伴してくれていただけなので、あまり”部下”と言う感じではなかった。むしろ、彼自身に対するお目付(めつ)(やく)(てき)な立ち位置であった。なので、帯刀(たいとう)している武士は実質3人しかおらず、長男には竹光(たけみつ)しか与えていないので本格的に武装しているのは老人1人と30代前半2人の3人だけであり、それで村人を制圧するのはなかなか厳しいものがあるのだ。しかも新右衛門は権力に取り入るのは得意だったが剣術はさっぱりであった。


それから月日は過ぎ、正月前の川岸が()てつき始めたころの太田町の川岸に幼児の死体が上がった。太田町奉行(まちぶぎょう)は田島村の子供ではないか?と事情聴取(じじょうちょうしゅ)に来たが、新右衛門は今年の夏の初めに川に落ちた吉祥天だと答えた。また、新右衛門は死体の引き取りを”葬儀をしようにも金が無い”と拒否(きょひ)したため、太田町奉行所で無縁仏(むえんぶつ)として埋葬することになった。


これに対して奉行は暗殺を疑ったが確証を得ることなど出来ようはずもなく、”疑念”として幕府に書類を送ったが、幕府は全く反応しなかったという。このことについては、現在では太田町の郷土資料館に保管されている太田町奉行所の書簡の中に記録が残っていた。


【間引き2回目】

その翌年の初夏、梅雨時に雨がほとんど降らないため、村人たちは『今年も凶作か』と恐れたが、新右衛門は祈禱師(きとうし)(やと)って雨乞(あまご)いの儀式(ぎしき)を行うことで村人たちを安心させた。だが、雨は降るには降ったが通り雨程度しか降らず、当然ながら、その年も米はほとんど実らなかった。作付けに対して2割程度しか実がつかない壊滅的(かいめつてき)な干ばつ被害だった。これに対して村人から不満の声が上がったが、新右衛門は屋敷の門を固く閉ざしてそれらに対応しなかった。だがその実、『種籾を幕府に取り上げられたらお終いだ』と屋敷の中では必死に種籾を隠す作業をしていたらしい。年貢の取り立てを(こば)むと手打ちにされるという前例があるので彼も必至だったのだ。


田島村では秋の収穫を終えると、村人たちは粟に(わず)かな米を混ぜた握り飯をいくつか幼い子供たちそれぞれに持たせて、彼らを山へと送り出した。いわゆる間引きである。冬を前に子供たちを山に追いやるなど『死ね』と言っているようなものだが、親元にいたところで飢え死には確実なのだ。せめて、自分たちの目につかないところで亡くなって欲しいという残酷(ざんこく)な処置だった。一方、宝田村でも米は全滅だったが、蕎麦と粟に加えて大麦や小麦も導入したので何とか()えを(しの)ぐことができたのだった。


秋の終わりごろ、この地域に今更のように大雨が降ってきた。田島村の田だけでなく、宝田村の田ですら川に飲み込まれるような洪水になり、多嘉良島山は文字通りの島になった。洪水の水が収まると川の流れが変わっており、洪水前は島山で二手(ふたて)に分かれていた多嘉良川は島山のおよそ2町分(にちょうぶん)ほど西に本流を移していた。そのため、田島村の人々は多嘉良島の近くまで様子見に来たのだが、それは宝田村の人たちも同じだったようで、彼らは川の両岸で久しぶりに顔を合わせることになった。そんなとき、宝田村の子供たちの何人かが「多嘉良島の頂上に子供の死体がある」と言ってきた。


【吉祥天の祟り】

洪水が収まったとはいえ川の流れは激しく川を渡る(すべ)がないため、田島村の村民は遺体(いたい)身元確認(みもとかくにん)には行けなかったが、宝田村民から遺体は8つあると聞いて田島村民は首をかしげた。彼らが山に送り出した子供は7人なのだ。どちらの村民も、”吉祥天の死体が太田町で無縁仏として埋葬されている”ことを知らなかったため、8人目の幼児の死体を”吉祥天様が復讐(ふくしゅう)に来たのだ”と結論した。実際、土砂崩れに巻き込まれたり、洪水に飲まれた死体と言うのはほとんど原形(げんけい)をとどめていないため、見た目で誰なのかを判別(はんべつ)できない(ため)にこのような結論になったのであろう。


その年の冬、川が()てつき始めると、田島村の人たちは流木(りゅうぼく)などを使って簡易の橋を作り、多嘉良川を渡って多嘉良島山にやってきた。遺体は宝田村の人たちがこの島山の上に、それぞれの死体があった場所に埋葬(まいそう)し、その上に大きな石を()せて墓碑(ぼひ)としていた。田島村民たちはその墓碑に(とむら)いをするために来たのだ。とはいっても、彼らには供え物にするための菓子(かし)が無かったために、自分たちが食べていたどんぐりで作った(もち)を供えてから帰って行った。


【島神社の祭儀(さいぎ)の由来】

翌年は前年と打って変わって(おだ)やかな天候になり米が良く実った。それにもかかわらず、新右衛門は心を病んでしまい、政務(せいむ)を行わなくなった。去年の冬に長男が感冒(かんぼう)感染症(かんせんしょう)風邪(かぜ))をこじらせて4日間高熱にうなされた挙句(あげく)()くなったことが余程(よほど)(こた)えたらしい。他の子供達も次々に感染し、娘たちも肺病(はいびょう)(わずら)った末に長男が逝去(せいきょ)した後に次々と亡くなったという。また、一番年下の次男は、後遺症(こういしょう)なのか肺を患うようになって晩年(ばんねん)まで健康状態(けんこうじょうたい)が良くなかった。田島家と田島村民は、これを吉祥天の祟りとして恐れたという。そこで、彼らは秋の収穫が終わったころに多嘉良島山に小さな(ほこら)を建てて吉祥天と8人の子供を(まつ)り、各家(かくいえ)から1体ずつ藁人形を持ち寄って奉納したという。


また、「吉祥天の幽霊が出る」と言って部屋に引きこもるようになった新右衛門に代わって、彼の妻と肺病を患うようになった次男が代官の仕事を代行するようになったという。また、田島村民が祠を建ててから3年後、本格的に吉祥天の祟りを恐れた田島本家は無い金を捻出して多嘉良島山に少し大きめで立派な(やしろ)を建てて、元々あった祠を社殿(しゃでん)の奥に()えて(まつ)ったという。それ以降は田島本家も祭りに参加して藁人形を供えるようになったという。毎年の祭りの際に村民たちが捧げる供えの人形は4つになった。


【田島家の家督(かとく)

洪水の後の感冒で長男が死去したので、急遽、次男の捨丸すてまるが元服して跡取りになった。捨丸元服時の年齢は数え年で12歳、実年齢は11歳で、元服名は守親もりちか。捨丸が元服した後、新右衛門の気鬱(きうつ)はさらに悪化し、うわ言を言ったり、夜中に悲鳴を上げたり、日中に奇声(きせい)を上げて走り回るようになってしまった。彼がまともに政務を行えなくなったため、彼の妻は急遽(きゅうきょ)捨丸を元服させて、生き残った息子が政務を行うようにさせたのだった。捨丸こと守親は母親の指導や支援を得て政務を()り始めた。


【守親の治世】

田島守親が行うべき政務は多々(たた)あったが、新しくできた宝田村も統治(とうち)する義務があった。しかし、彼らは新右衛門のやり方に反発して出て行ったという経緯があるので、守親は彼らを統治することに細心の注意を払う必要があった。そこで彼は、先ず春吉たちから清右衛門の統治方法について聞き取り調査をすることにした。これによって田島家の統治方法が新右衛門方式から清右衛門方式にシフトするのだった。


この頃に、守親は屋敷の書斎に所蔵されていた書類の整理を行いはじめ、それによって清右衛門が書き残した文書を数多く発見していった。事実、彼の父親が残した書類はいくらもなかったのに対して、清右衛門が残した書類は非常に多かったのだ。そんな中で守親は、清右衛門が書いた治水対策工事(ちすいたいさくこうじ)計画白書(けいかくはくしょ)を発見し、それを実行する計画を立てたのだった。

治水計画(ちすいけいかく)そのものは清右衛門が策定していたが、結局、彼は実行できなかった。というのも、当時の田島村は田畑(でんぱた)(みのり)がまだ不安定で、村そのものに治水工事をする余裕(よゆう)が無かったからだ。ただし、村人たちが田畑で汗を流している間にも清右衛門は集落(しゅうらく)周辺地域(しゅうへんちいき)測量(そくりょう)と治水対策を研究・策定(さくてい)しており、それを文書に(しる)して残していたのだった。


そういうことで、守親は百姓たちが畑仕事をしている最中(さなか)、自分たちだけで清右衛門が策定した治水工事に着手した。農閑期(のうかんき)になると百姓たちも手伝ったので、工事は少しずつ進んだのだった。というのも、特に宝田村民の春吉たちは清右衛門の悲願(ひがん)(かな)えること意欲的だったからだ。両村民たちが一丸(いちがん)となって行う治水工事は天保(てんぽう)大飢饉(だいききん)が終わった頃から始まり、30年ほどかけて完成した。


その後は特筆(とくひつ)するようなことはあまりなく、農村として非常に安定していたようだ。治水工事完了後の農地の安定性は絶大(ぜつだい)で、それ以降は台風や大雨による洪水被害はごく軽微(けいび)なものしかなかったようだ。ジャガイモやサツマイモの作付けも効果絶大(こうかぜつだい)で、村は(ゆた)かになり、安定期(あんていき)に入って行った。


田島村が農業で成功したのは、清右衛門が残した文書や宝田村民から学んだ事柄を応用して新しい作物の作付を行ったことにある。守親の(だい)になってから宝田村と田島村には薩摩芋(さつまいも)馬鈴薯(ばれいしょ)(じゃがいも)が導入された。これにより、米が不作になっても食料が尽きることはなくなり、両村(りょうそん)において餓死者(がししゃ)が出ることはなくなった。


だが、この時代は天保の大飢饉による食糧不足がまだ深刻(しんこく)な時期であったため、幕府(ばくふ)は田島家に対しても年貢(ねんぐ)の量を増やすよう要求してきたが、守親は(ねば)り強く説得して年貢の量を規定(きてい)の量だけに(おさ)えた。また彼は、春吉を宝田村の名主(なぬし)任命(にんめい)し、宝田村の政務を彼に(ゆだ)ねた。だが、幕府に対して田島守親がこの地域の代官として田島村と宝田村を統治する形ではあった。


伊勢湾台風(いせわんたいふう)

田島村と宝田村に大きな転機(てんき)(おとず)れたのは太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)終結後(しゅうけつご)だった。1959年に来襲(らいしゅう)した伊勢湾台風の被害(ひがい)甚大(じんだい)で、約120年ほどこの村を守ってきた土手などの治水設備(ちすいせつび)(まった)機能(きのう)せず、村の田は根こそぎ洪水に持って行かれ、田島村の全家屋が床上浸水した。宝田村は標高が高かったために浸水被害はまぬかれたものの、自宅の庭先の畑以外の田畑はほぼ全て流されてしまったために、食糧生産は完全になくなってしまったのだった。


また、多嘉良川の流れも田島村(現在の宝田団地側)に大幅(おおはば)に寄ってしまい、現在の形になった。それからほどなくして台風からの復興事業(ふっこう)として行われた多嘉良川の治水工事は1963年頃に完了した。当然のこととして、川の流れが大幅に変わったことで田島村の作付面積(さくつけめんせき)が大幅に減ってしまい、元々(もともと)川床(かわどこ)だったところが耕作(こうさく)可能(かのう)()になったために宝田村の作付面積の方が大きくなったのだが、人口比(じんこうひ)は田島村の方が微妙(びみょう)に多かったこともあって、田島村村民たちは川の向こう側に田を持ちたがった。多少の争議(そうぎ)があったものの、両村は宝田村として合併(がっぺい)することで作付面積は農家の件数(けんすう)で割って平等(びょうどう)に分けることになったようだ。これにより、上宝田村(かみたからだむら)(旧:宝田村)と下宝田村(しもたからだむら)(旧:田島村)ができ、両方で合わせて新宝田村となった。


【宝田団地と用水路】

さらに、戦後、急速に住宅需要(じゅうたくじゅよう)が増したことから、主要(しゅよう)都市(とし)近郊(きんこう)では公団住宅(こうだんじゅうたく)民間(みんかん)建売(たてうり)分譲(ぶんじょう)住宅などの住宅建設ラッシュが起こった。その(あお)りを受けて、その地域の主要都市である太田市と交通の便が良い下宝田村に公団住宅のオファーが来た。伊勢湾台風による被害の影響が色濃く残っていた下宝田村にとっては(わた)りに(ふね)の話であり、かなりの額の補償金(ほしょうきん)によって契約(契約)成立(せいりつ)した。こうして、宝田団地が建設されることになったのだ。また、江戸時代からあった用水路も再現されることになった。それが、団地内の親水(しんすい)用水路だ。ただし、当然のことながら、江戸時代とは川の流れが違うので完全な再現ではない。


多嘉良川下流にある商業地区や工業地区への洪水被害を最小限にするために、宝田団地内の用水路は重要な役目を果たす。この用水路は宝田地区と太田市の間にある低地(ていち)湿地帯(しっちたい)に作られた貯水池(ちょすいち)に注いでいて、多嘉良川が増水した際には用水路の水量を増やすことで貯水池経由で太田市よりも下流域(かりゅういき)増水分(ぞうすいぶん)をバイパスするようになっている。そうやって多嘉良川の流量(りゅうりょう)制御(せいぎょ)して太田市の洪水被害を最小限にしているのだ。


多嘉良川は川幅が(せま)いにもかかわらず水量が非常に多い河川(かせん)であるため、少しでも雨量が多いとすぐに氾濫(はんらん)する。また、天保時代から河原(かわら)にすべきところに田が作られていたために河川敷(かせんじき)を作ることもできなかったため、増水時(ぞうすいじ)水量制御(すいりょうせいぎょ)が非常に難しい川となっていた。その水量制御の(かなめ)となっているのが、この”宝田用水路”だ。かつて、120年以上前に田島清右衛門が計画し、田島守親がその人生を捧げて完成させた田島用水路が120年近くこの村の田畑と財産と人命を守ってきたのだが、それは前例のない大型台風である伊勢湾台風によって壊滅(かいめつ)してしまった。それでも、同じような経路と同じような構成を現代土木技術によって昇華(しょうか)させて作られた宝田用水路は、今も宝田町と太田市の人命と財産(ざいさん)を守り続けている。


【多嘉良川の(ふち)

とはいえ、この川の歴史は良いことばかりだったわけではない。この多嘉良川は元々水深が深く流れが早いこともあって、江戸時代の用水路工事は困難を(きわ)めた。分岐付近の地盤が柔らかいために用水路と多嘉良川の分岐点(ぶんきてん)に当たる部分が何度も崩壊(ほうかい)してしまい、その下流側(かりゅうがわ)にある田が水で埋まってしまうのだ。この問題を、田島守親たちは分岐部に大きな岩を運んできて設置(せっち)することで、何とか分岐点が(こわ)れないようにすることに成功したが、この工事の出費(しゅっぴ)(ため)に田島家は金銭的(きんせんてき)にかなり苦しんだという。そこまで苦労して設置した用水路だったが、伊勢湾台風の前では()(すべ)がなかったようだった。


水深が深く流れが速い川に水深が浅い用水路を接続(せつぞく)したらどうなるのか。川と用水路の分岐点の水流が不安定になる、つまり、用水路と川の分岐点には危険な“淵”ができるのだ。多嘉良川には、元々様々な淵があった。古来より暴れ川として知られるほど不安定な川であるため、毎年、川の流れの位置が少しずつ変っていたし、位置が変わるということは水深も変わるということであるため、川底の高低差によって淵がいくつもできていたのだ、そのため、この地域では田島村ができたころからずっと子供たちに川遊びをさせない不文律(ふぶんりつ)があった。川に入ればほぼ確実に淵にはまって溺死(できし)するからだ。


「それで、この宝田地区では、昔から子供たちを川に近づかせないようにしていたんだ、川には淵があって危険だからね。ただし、用水路は比較的安全だから、おじさんも子供のころは用水路で遊んだことがあったんだよ。」と主任司書は話をしめくくった。


「でも、昨日誰か溺れて死んだんだよね」と玲也が不躾(ぶしつけ)に聞く。「あ~、あれは・・・まだよく(わか)っていないみたいだな 」と主任司書の返答は歯切(はぎ)れが悪い。実際、警察も事故か他殺かは断定できていないのだ。“7年前の事故”以来川に近づかなくなっていたはずの地元の若者が、用水路との分岐付近には危険な淵があると分っているにも拘らず、自殺をほのめかすような言動も遺書(いしょ)もなく、川の淵に近づく用事があるはずもなく、それなのに、なぜ、そこに落ちたのか、あるいは…()き落とされたのか?。そんな不確実なことを子供相手に言えるはずもなく、田島主任司書は(だま)りこくってしまった。


そこで葉山が助け船をする「警察で調査中(ちょうさちゅう)の話だから、まだ、色々と言うことはできないんだよ」それに対し「・・・ふぅ~ん」と物凄(ものすご)不満気(ふまんげ)に返事をする玲也だった。そこで唐突(とうとつ)に「やっぱり、物凄く重要なところを端折(はしょ)ってたんですね」と残酷(ざんこく)な追い打ちをかけるシマオがその場の空気をぶち(こわ)す。「俺は、、、聞かなかった方がよかったな・・・」と物凄く空気を読んだフジショーの気遣(きづか)いを意にも(かい)さずにシマオが続けて言う「いや、この町の歴史としてかなり重要な部分だよ。地元の人の苗字が何故(なぜ)“田島”なのか、っていうのとか、“上宝田村”と“下宝田村”がどうやってできたのか?とか、島神社のお祭りの由来とか、(たた)りとか、色々判(いろいろわか)った。」シマオの感想には誰も反論(はんろん)できなかったのだった。


【島神社の(たたず)まい】

「ちょっとまって、イセワン台風ってので大変なことになったってことは、島神社も大変なことになったんじゃないの?」という玲也の疑問(ぎもん)に「良いところに気が付いたね、実は、江戸時代に建てられた神社は伊勢湾台風の時に流されてしまっていて、今建っているのは台風の後に建て直したものだね。」と主任司書が(こた)えた。


「ものすごく古そうな建物だったけど・・・」と言う玲也の感想に、「見に行ったのかい!?」と(おどろ)きながらも「いや・・・20年程前に建ったものだから、そんなに古いわけはないと思うけども・・・」と主任司書は(いぶか)しんだ。「まあ、私ももう10年近くあそこには行ってないんだけどねぇ、あそこには独特(どくとく)雰囲気(ふんいき)があってね、あまり気持ちのいいもんじゃなかったような記憶があるよ」と(なつ)かしむように付け加えた。


【主任司書の田島さん】

「なるほど、主任さんは地元の方なんですね」とシマオが問うと、主任は「そうだよ、つまり、私の苗字は田島だ」と少し()れた感じで言った。葉山さんは太田市出身の人で実家からの(かよ)い、受付の女性も太田市在住の人だそうだ。田島主任司書は、子供のころから地元の史跡(しせき)を調べたり実家の納屋(なや)に放置されていた古文書(こぶんしょ)などを読み(あさ)っていたらしく、子供のころは歴史学者になろうとしていたもののうまく行かず、古文書を読むのが好きなことが高じて司書になったらしい。そのため、通常の書物よりも歴史に関する書物のほうが(くわ)しいと自分で言うのだった。


ちょうどその時、正午(しょうご)を知らせるチャイムがなったので急遽(きゅうきょ)開かれた勉強会はお開きとなった。本は主任司書が片付(かたづ)けてくれることになったので、3人は自宅で待っている親を心配させないよう取り急ぎ帰宅することにし、昼食後はまた図書館で集まってノートにまとめようと帰りの道中で決めた。なにせ、図書館には、当時はどの家庭にもまだあまり普及していなかったエアコンが設置されていているので、(すず)しく快適(かいてき)に勉強ができるからだ。

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