主任司書の解説
【早希の顛末】
観念して渋々解説を始めた主任によると、洪水による土砂崩れに巻き込まれそうになった子供を助けようとした清右衛門がその幼児とともに流されたことで代官が不在になったこと。その時の洪水で田んぼの稲が根こそぎ流されてしまったために、その年は全く米が収穫ができなくなってしまったこと。代官の妻の早紀が被害報告で代官の不在になったことと、稲田が全滅したために年貢を納めることができない旨の文を出したにもかかわらず幕府から年貢の取り立て役人が来たので、年貢の免除を懇願したところ斬首されてしまったとのことだった。
【間引き1回目】
清右衛門には幼い息子がいたが、その子が幼過ぎて元服してないことと、この村には彼とその妻以外には政務に携わる資格があるものがいないことから、年貢の取り立てに来た役人は村の取りまとめは百姓頭の春吉が行い、幕府から後見人となる代官代理が送られるのを待つようにと申しつけて備蓄米の半分以上を持っていった。残りの米は種籾として残さなければならないため、村民は食べられそうな草を食べたり万一のためにと清右衛門が携えてきていた粟や蕎麦を庭や畔等に作付けして耐えていたが、蕎麦はそこそこ取れたものの腹が膨れず、粟もあまりたくさん採れたわけでもなかったので、翌年の夏、子どもたちの間引きをすることになった。
山に捨てられた7人の子どもたちはその年の台風で起きた山崩れか鉄砲水で流されたらしく、その死体は多嘉良島山の頂上に打ち上げられたらしい、顔が原型をとどめていなかったために、どの死体が誰のものなのかは判明できなかったが、体格と性別から間引きされた7人の子供であると推定できたとのこと。それで村民は、山の神がこの小山に“供え物の人間を祀っていると”解釈”し、この島山を多嘉良山と名付け、その頂上に”島神社”と称する小さな祠を建てて多嘉良川の上流に坐山の神々と死者の魂を祀ったという。
【新右衛門の赴任】
その翌年の春、洪水に耐えた稲を収穫して僅かな実りに不安を拭えない村民の元に、大八車2台分の米俵を携えた田島新右衛門とその家族、それに、側仕えの武士の一団がやってきた。彼らは幼い清右衛門の息子である吉祥天の後見人として、その子が成人して代官に就任するまでの代官代理として赴任してきたのだった。それに伴い、春吉のもとに引き取られていた吉祥天(は後見人の田島新右衛門のもとに引き取られることになったという。
しかし、これが良くなかった。新右衛門は所詮後見人でしかないため、吉祥天が元服して家督を継いだら、彼はその部下として働かなければならなくなる。つまり、彼は叔父の息子の部下にならなければならないのだ。本来、新右衛門の方が家柄的には上なのでとても面白くない話である。『江戸で旗本の三男坊として傘貼りの内職をしているよりも地方の代官になった方が威張れるから良い』と言うことで彼は清右衛門の家を乗っ取る気満々でやってきていたのだ。新右衛門は清右衛門と歳が近かったので子供が4人いた。息子2人と娘2人だ。
【吉祥天暗殺】
そんな中で新右衛門は吉祥天を引き取ったのだが、当然ながら、彼は吉祥天のことを主の子としては扱わなかった。むしろ奴隷のように扱い、過酷な労働と少ない食事で飼い殺しにしたので、幼い吉祥天が衰弱して瀕死状態になるのにそれほど時間はかからなかった。そうして、吉祥天はぼろ雑巾のような姿で座敷牢に放置され弱って動かなくなってしまった。それから2年と少し経った頃、彼の幼児の死期が近いことを察っした新右衛門は、ここで死なれては適わぬと自宅外で殺害しようと謀った。彼は、虫の息になっている吉祥天に暇を与えることにした。そして、自分の子供たちと取り巻きの子供たちに「吉祥天を川遊びに連れて言ってやれ」と命じたのだった。
新右衛門の長男は父親の意を汲み、溺れたら二度と死体が上がらないと言われる淵に吉祥天を放り込んできた。村人たちには、子供たちと遊んでいるときに吉祥天だけが誤って落ちてしまったと説明した。百姓頭の春吉と、娘のために命を落とした清右衛門に義理がある末吉は納得しなかったし、弥助もお家乗っ取りだと不満を漏らした。亡骸もないままこの3家だけで仮の葬儀を行った。実は、この3家だけで山奥の旧末吉邸跡地に田島清右衛門の慰霊碑を建てていたのだが、その向かって左手には早希の墓碑も作っていた。この3家は清右衛門の慰霊碑を挟んだ反対側に吉祥天の墓碑を建てることにした。吉祥天は数え年で享年8歳だった。こうして田島清右衛門の家は断絶したのだ。
【宝田村の興り】
新右衛門の統治から3年が経ち、吉祥天が川で行方不目になった年の秋に入る頃、もうそろそろ米の収穫の時期だというのに台風が来た。この時の洪水により、田島村の米の収穫高は5割減の凶作となってしまい、種籾を残せるかどうかと言うところになった。だが、新右衛門は百姓が種籾を持つことを許さず、米は全て田島家で預かることとした。これに反発した春吉、弥吉、末吉の3家は採れた米をこっそりと持てるだけ持ってこの村から逃げ出し、川の向こう側に移住した。こうして、宝田村が誕生した。
宝田村は田島村よりも標高が高いために用水路の整備が難しかったが、3人とも清右衛門の元で読み書きと度量衡法と土木建築学を良く学んでいたため、何とか冬の間に田を3枚ほど用意できた。彼らは蕎麦や粟で飢えを凌ぐ貧しい暮らしをしばらくし続けることになったものの、その当時では珍しく餓死者を出さなかったようだ。
【新右衛門の沙汰】
それに対して新右衛門は何もしなかった。なぜなら、『いずれ彼らは泣きながら戻ってくるだろう』と高をくくっていたからだ。だが、本音を言うと、軍事力がほとんどないので彼らから種籾を取り上げることができないという実情があった。新右衛門のそば仕えの武士として帯同してきていたのは父親の家に仕えていた50過ぎの古参の武士の1家族だけだったからだ。
彼には息子が1人しかおらず、新右衛門自身の父親に請われて同伴してくれていただけなので、あまり”部下”と言う感じではなかった。むしろ、彼自身に対するお目付け役的な立ち位置であった。なので、帯刀している武士は実質3人しかおらず、長男には竹光しか与えていないので本格的に武装しているのは老人1人と30代前半2人の3人だけであり、それで村人を制圧するのはなかなか厳しいものがあるのだ。しかも新右衛門は権力に取り入るのは得意だったが剣術はさっぱりであった。
それから月日は過ぎ、正月前の川岸が凍てつき始めたころの太田町の川岸に幼児の死体が上がった。太田町奉行は田島村の子供ではないか?と事情聴取に来たが、新右衛門は今年の夏の初めに川に落ちた吉祥天だと答えた。また、新右衛門は死体の引き取りを”葬儀をしようにも金が無い”と拒否したため、太田町奉行所で無縁仏として埋葬することになった。
これに対して奉行は暗殺を疑ったが確証を得ることなど出来ようはずもなく、”疑念”として幕府に書類を送ったが、幕府は全く反応しなかったという。このことについては、現在では太田町の郷土資料館に保管されている太田町奉行所の書簡の中に記録が残っていた。
【間引き2回目】
その翌年の初夏、梅雨時に雨がほとんど降らないため、村人たちは『今年も凶作か』と恐れたが、新右衛門は祈禱師を雇って雨乞いの儀式を行うことで村人たちを安心させた。だが、雨は降るには降ったが通り雨程度しか降らず、当然ながら、その年も米はほとんど実らなかった。作付けに対して2割程度しか実がつかない壊滅的な干ばつ被害だった。これに対して村人から不満の声が上がったが、新右衛門は屋敷の門を固く閉ざしてそれらに対応しなかった。だがその実、『種籾を幕府に取り上げられたらお終いだ』と屋敷の中では必死に種籾を隠す作業をしていたらしい。年貢の取り立てを拒むと手打ちにされるという前例があるので彼も必至だったのだ。
田島村では秋の収穫を終えると、村人たちは粟に僅かな米を混ぜた握り飯をいくつか幼い子供たちそれぞれに持たせて、彼らを山へと送り出した。いわゆる間引きである。冬を前に子供たちを山に追いやるなど『死ね』と言っているようなものだが、親元にいたところで飢え死には確実なのだ。せめて、自分たちの目につかないところで亡くなって欲しいという残酷な処置だった。一方、宝田村でも米は全滅だったが、蕎麦と粟に加えて大麦や小麦も導入したので何とか飢えを凌ぐことができたのだった。
秋の終わりごろ、この地域に今更のように大雨が降ってきた。田島村の田だけでなく、宝田村の田ですら川に飲み込まれるような洪水になり、多嘉良島山は文字通りの島になった。洪水の水が収まると川の流れが変わっており、洪水前は島山で二手に分かれていた多嘉良川は島山のおよそ2町分ほど西に本流を移していた。そのため、田島村の人々は多嘉良島の近くまで様子見に来たのだが、それは宝田村の人たちも同じだったようで、彼らは川の両岸で久しぶりに顔を合わせることになった。そんなとき、宝田村の子供たちの何人かが「多嘉良島の頂上に子供の死体がある」と言ってきた。
【吉祥天の祟り】
洪水が収まったとはいえ川の流れは激しく川を渡る術がないため、田島村の村民は遺体の身元確認には行けなかったが、宝田村民から遺体は8つあると聞いて田島村民は首をかしげた。彼らが山に送り出した子供は7人なのだ。どちらの村民も、”吉祥天の死体が太田町で無縁仏として埋葬されている”ことを知らなかったため、8人目の幼児の死体を”吉祥天様が復讐に来たのだ”と結論した。実際、土砂崩れに巻き込まれたり、洪水に飲まれた死体と言うのはほとんど原形をとどめていないため、見た目で誰なのかを判別できない為にこのような結論になったのであろう。
その年の冬、川が凍てつき始めると、田島村の人たちは流木などを使って簡易の橋を作り、多嘉良川を渡って多嘉良島山にやってきた。遺体は宝田村の人たちがこの島山の上に、それぞれの死体があった場所に埋葬し、その上に大きな石を載せて墓碑としていた。田島村民たちはその墓碑に弔いをするために来たのだ。とはいっても、彼らには供え物にするための菓子が無かったために、自分たちが食べていたどんぐりで作った餅を供えてから帰って行った。
【島神社の祭儀の由来】
翌年は前年と打って変わって穏やかな天候になり米が良く実った。それにもかかわらず、新右衛門は心を病んでしまい、政務を行わなくなった。去年の冬に長男が感冒(感染症の風邪)をこじらせて4日間高熱にうなされた挙句亡くなったことが余程堪えたらしい。他の子供達も次々に感染し、娘たちも肺病を患った末に長男が逝去した後に次々と亡くなったという。また、一番年下の次男は、後遺症なのか肺を患うようになって晩年まで健康状態が良くなかった。田島家と田島村民は、これを吉祥天の祟りとして恐れたという。そこで、彼らは秋の収穫が終わったころに多嘉良島山に小さな祠を建てて吉祥天と8人の子供を祀り、各家から1体ずつ藁人形を持ち寄って奉納したという。
また、「吉祥天の幽霊が出る」と言って部屋に引きこもるようになった新右衛門に代わって、彼の妻と肺病を患うようになった次男が代官の仕事を代行するようになったという。また、田島村民が祠を建ててから3年後、本格的に吉祥天の祟りを恐れた田島本家は無い金を捻出して多嘉良島山に少し大きめで立派な社を建てて、元々あった祠を社殿の奥に据えて祭ったという。それ以降は田島本家も祭りに参加して藁人形を供えるようになったという。毎年の祭りの際に村民たちが捧げる供えの人形は4つになった。
【田島家の家督】
洪水の後の感冒で長男が死去したので、急遽、次男の捨丸が元服して跡取りになった。捨丸元服時の年齢は数え年で12歳、実年齢は11歳で、元服名は守親。捨丸が元服した後、新右衛門の気鬱はさらに悪化し、うわ言を言ったり、夜中に悲鳴を上げたり、日中に奇声を上げて走り回るようになってしまった。彼がまともに政務を行えなくなったため、彼の妻は急遽捨丸を元服させて、生き残った息子が政務を行うようにさせたのだった。捨丸こと守親は母親の指導や支援を得て政務を執り始めた。
【守親の治世】
田島守親が行うべき政務は多々あったが、新しくできた宝田村も統治する義務があった。しかし、彼らは新右衛門のやり方に反発して出て行ったという経緯があるので、守親は彼らを統治することに細心の注意を払う必要があった。そこで彼は、先ず春吉たちから清右衛門の統治方法について聞き取り調査をすることにした。これによって田島家の統治方法が新右衛門方式から清右衛門方式にシフトするのだった。
この頃に、守親は屋敷の書斎に所蔵されていた書類の整理を行いはじめ、それによって清右衛門が書き残した文書を数多く発見していった。事実、彼の父親が残した書類はいくらもなかったのに対して、清右衛門が残した書類は非常に多かったのだ。そんな中で守親は、清右衛門が書いた治水対策工事計画白書を発見し、それを実行する計画を立てたのだった。
治水計画そのものは清右衛門が策定していたが、結局、彼は実行できなかった。というのも、当時の田島村は田畑の実がまだ不安定で、村そのものに治水工事をする余裕が無かったからだ。ただし、村人たちが田畑で汗を流している間にも清右衛門は集落周辺地域の測量と治水対策を研究・策定しており、それを文書に記して残していたのだった。
そういうことで、守親は百姓たちが畑仕事をしている最中、自分たちだけで清右衛門が策定した治水工事に着手した。農閑期になると百姓たちも手伝ったので、工事は少しずつ進んだのだった。というのも、特に宝田村民の春吉たちは清右衛門の悲願を叶えること意欲的だったからだ。両村民たちが一丸となって行う治水工事は天保の大飢饉が終わった頃から始まり、30年ほどかけて完成した。
その後は特筆するようなことはあまりなく、農村として非常に安定していたようだ。治水工事完了後の農地の安定性は絶大で、それ以降は台風や大雨による洪水被害はごく軽微なものしかなかったようだ。ジャガイモやサツマイモの作付けも効果絶大で、村は豊かになり、安定期に入って行った。
田島村が農業で成功したのは、清右衛門が残した文書や宝田村民から学んだ事柄を応用して新しい作物の作付を行ったことにある。守親の代になってから宝田村と田島村には薩摩芋と馬鈴薯(じゃがいも)が導入された。これにより、米が不作になっても食料が尽きることはなくなり、両村において餓死者が出ることはなくなった。
だが、この時代は天保の大飢饉による食糧不足がまだ深刻な時期であったため、幕府は田島家に対しても年貢の量を増やすよう要求してきたが、守親は粘り強く説得して年貢の量を規定の量だけに抑えた。また彼は、春吉を宝田村の名主に任命し、宝田村の政務を彼に委ねた。だが、幕府に対して田島守親がこの地域の代官として田島村と宝田村を統治する形ではあった。
【伊勢湾台風】
田島村と宝田村に大きな転機が訪れたのは太平洋戦争終結後だった。1959年に来襲した伊勢湾台風の被害は甚大で、約120年ほどこの村を守ってきた土手などの治水設備が全く機能せず、村の田は根こそぎ洪水に持って行かれ、田島村の全家屋が床上浸水した。宝田村は標高が高かったために浸水被害はまぬかれたものの、自宅の庭先の畑以外の田畑はほぼ全て流されてしまったために、食糧生産は完全になくなってしまったのだった。
また、多嘉良川の流れも田島村(現在の宝田団地側)に大幅に寄ってしまい、現在の形になった。それからほどなくして台風からの復興事業として行われた多嘉良川の治水工事は1963年頃に完了した。当然のこととして、川の流れが大幅に変わったことで田島村の作付面積が大幅に減ってしまい、元々川床だったところが耕作可能部になったために宝田村の作付面積の方が大きくなったのだが、人口比は田島村の方が微妙に多かったこともあって、田島村村民たちは川の向こう側に田を持ちたがった。多少の争議があったものの、両村は宝田村として合併することで作付面積は農家の件数で割って平等に分けることになったようだ。これにより、上宝田村(旧:宝田村)と下宝田村(旧:田島村)ができ、両方で合わせて新宝田村となった。
【宝田団地と用水路】
さらに、戦後、急速に住宅需要が増したことから、主要都市近郊では公団住宅や民間建売分譲住宅などの住宅建設ラッシュが起こった。その煽りを受けて、その地域の主要都市である太田市と交通の便が良い下宝田村に公団住宅のオファーが来た。伊勢湾台風による被害の影響が色濃く残っていた下宝田村にとっては渡りに船の話であり、かなりの額の補償金によって契約が成立した。こうして、宝田団地が建設されることになったのだ。また、江戸時代からあった用水路も再現されることになった。それが、団地内の親水用水路だ。ただし、当然のことながら、江戸時代とは川の流れが違うので完全な再現ではない。
多嘉良川下流にある商業地区や工業地区への洪水被害を最小限にするために、宝田団地内の用水路は重要な役目を果たす。この用水路は宝田地区と太田市の間にある低地湿地帯に作られた貯水池に注いでいて、多嘉良川が増水した際には用水路の水量を増やすことで貯水池経由で太田市よりも下流域に増水分をバイパスするようになっている。そうやって多嘉良川の流量を制御して太田市の洪水被害を最小限にしているのだ。
多嘉良川は川幅が狭いにもかかわらず水量が非常に多い河川であるため、少しでも雨量が多いとすぐに氾濫する。また、天保時代から河原にすべきところに田が作られていたために河川敷を作ることもできなかったため、増水時の水量制御が非常に難しい川となっていた。その水量制御の要となっているのが、この”宝田用水路”だ。かつて、120年以上前に田島清右衛門が計画し、田島守親がその人生を捧げて完成させた田島用水路が120年近くこの村の田畑と財産と人命を守ってきたのだが、それは前例のない大型台風である伊勢湾台風によって壊滅してしまった。それでも、同じような経路と同じような構成を現代土木技術によって昇華させて作られた宝田用水路は、今も宝田町と太田市の人命と財産を守り続けている。
【多嘉良川の淵】
とはいえ、この川の歴史は良いことばかりだったわけではない。この多嘉良川は元々水深が深く流れが早いこともあって、江戸時代の用水路工事は困難を極めた。分岐付近の地盤が柔らかいために用水路と多嘉良川の分岐点に当たる部分が何度も崩壊してしまい、その下流側にある田が水で埋まってしまうのだ。この問題を、田島守親たちは分岐部に大きな岩を運んできて設置することで、何とか分岐点が壊れないようにすることに成功したが、この工事の出費の為に田島家は金銭的にかなり苦しんだという。そこまで苦労して設置した用水路だったが、伊勢湾台風の前では成す術がなかったようだった。
水深が深く流れが速い川に水深が浅い用水路を接続したらどうなるのか。川と用水路の分岐点の水流が不安定になる、つまり、用水路と川の分岐点には危険な“淵”ができるのだ。多嘉良川には、元々様々な淵があった。古来より暴れ川として知られるほど不安定な川であるため、毎年、川の流れの位置が少しずつ変っていたし、位置が変わるということは水深も変わるということであるため、川底の高低差によって淵がいくつもできていたのだ、そのため、この地域では田島村ができたころからずっと子供たちに川遊びをさせない不文律があった。川に入ればほぼ確実に淵にはまって溺死するからだ。
「それで、この宝田地区では、昔から子供たちを川に近づかせないようにしていたんだ、川には淵があって危険だからね。ただし、用水路は比較的安全だから、おじさんも子供のころは用水路で遊んだことがあったんだよ。」と主任司書は話をしめくくった。
「でも、昨日誰か溺れて死んだんだよね」と玲也が不躾に聞く。「あ~、あれは・・・まだよく判っていないみたいだな 」と主任司書の返答は歯切れが悪い。実際、警察も事故か他殺かは断定できていないのだ。“7年前の事故”以来川に近づかなくなっていたはずの地元の若者が、用水路との分岐付近には危険な淵があると分っているにも拘らず、自殺をほのめかすような言動も遺書もなく、川の淵に近づく用事があるはずもなく、それなのに、なぜ、そこに落ちたのか、あるいは…突き落とされたのか?。そんな不確実なことを子供相手に言えるはずもなく、田島主任司書は黙りこくってしまった。
そこで葉山が助け船をする「警察で調査中の話だから、まだ、色々と言うことはできないんだよ」それに対し「・・・ふぅ~ん」と物凄く不満気に返事をする玲也だった。そこで唐突に「やっぱり、物凄く重要なところを端折ってたんですね」と残酷な追い打ちをかけるシマオがその場の空気をぶち壊す。「俺は、、、聞かなかった方がよかったな・・・」と物凄く空気を読んだフジショーの気遣いを意にも介さずにシマオが続けて言う「いや、この町の歴史としてかなり重要な部分だよ。地元の人の苗字が何故“田島”なのか、っていうのとか、“上宝田村”と“下宝田村”がどうやってできたのか?とか、島神社のお祭りの由来とか、祟りとか、色々判った。」シマオの感想には誰も反論できなかったのだった。
【島神社の佇まい】
「ちょっとまって、イセワン台風ってので大変なことになったってことは、島神社も大変なことになったんじゃないの?」という玲也の疑問に「良いところに気が付いたね、実は、江戸時代に建てられた神社は伊勢湾台風の時に流されてしまっていて、今建っているのは台風の後に建て直したものだね。」と主任司書が応えた。
「ものすごく古そうな建物だったけど・・・」と言う玲也の感想に、「見に行ったのかい!?」と驚きながらも「いや・・・20年程前に建ったものだから、そんなに古いわけはないと思うけども・・・」と主任司書は訝しんだ。「まあ、私ももう10年近くあそこには行ってないんだけどねぇ、あそこには独特の雰囲気があってね、あまり気持ちのいいもんじゃなかったような記憶があるよ」と懐かしむように付け加えた。
【主任司書の田島さん】
「なるほど、主任さんは地元の方なんですね」とシマオが問うと、主任は「そうだよ、つまり、私の苗字は田島だ」と少し照れた感じで言った。葉山さんは太田市出身の人で実家からの通い、受付の女性も太田市在住の人だそうだ。田島主任司書は、子供のころから地元の史跡を調べたり実家の納屋に放置されていた古文書などを読み漁っていたらしく、子供のころは歴史学者になろうとしていたもののうまく行かず、古文書を読むのが好きなことが高じて司書になったらしい。そのため、通常の書物よりも歴史に関する書物のほうが詳しいと自分で言うのだった。
ちょうどその時、正午を知らせるチャイムがなったので急遽開かれた勉強会はお開きとなった。本は主任司書が片付けてくれることになったので、3人は自宅で待っている親を心配させないよう取り急ぎ帰宅することにし、昼食後はまた図書館で集まってノートにまとめようと帰りの道中で決めた。なにせ、図書館には、当時はどの家庭にもまだあまり普及していなかったエアコンが設置されていているので、涼しく快適に勉強ができるからだ。




