残されし人の物語【無常堂夜話6】
大学主導の『犬神信仰』に関する調査に派遣されることになった一条戻子と貴家鏡子。
しかし、その集落は妙な条件を付けてきただけでなく、奇妙な事件が多発している場所だった。
戻子と鏡子は、その集落から無事に帰って来られるのか?
起・調査命令
「はぁ。四国、ですか……」
1月5日。松も明けぬ新年早々、私と鏡子は指導教官である梅ちゃんこと平島梅子准教授に呼び出された。梅ちゃんはお屠蘇の酔いもそのままに、赤い顔でゴキゲンにうなずく。
「そ♪ 学部長から依頼があったの。できるだけ若くて生きのいい子を二人見繕ってほしいって。私も学部長から直々にお願いされちゃ、無碍に断るなんてできなくてね?」
いや、『若くて生きのいい子』って……なんかこれからベーリング海の漁船に放り込まれるか、泡のお風呂に沈められそうな気がするんですが……。
私がそんな益体もないことを考えていると、親友の鏡子が不満たらたらに訊いた。
「なんでうちらなん? 油川先輩や来島先輩の方が適任やと思うんやけど?」
それはそうだ、と私は心の中でうなずく。油川先輩は秀才で、フィールドワークをやらせたら完璧にこなすし、視点も独特で斬新な考察もできる。
来島先輩はすでに発掘調査でいくつかの貢献をし、人文学部人文学科のエース的存在だ。どう考えても、私たちじゃお二人の足元にも及ばない。
しかし、梅ちゃんの回答は、私たちの疑念を深めるに十分だった。
「それがねぇ、調査に協力してくれる集落の長から、特別な条件が出ているそうなの。
一つは出来るだけ若くて健康な女性であること。そして調査項目についてある程度知識があること。さらに言うと彼氏なしの処女であること……だそうよ。
ほら、油川さんって山本くんとべったりじゃない? 来島君は男だし。で、私が思い浮かべたのがあなたたち二人だったってこと。
ちなみに百合は彼氏彼女に入らないわ。これはあちらさんに確認済みよ♪」
うーん、とってもセクハラ発言があったような、そしてナチュラルにディスられたような気がする……それは鏡子も同じ思いだったらしい。頬を膨らませて梅ちゃんに抗議する。
「ちょい待ちぃ! うちはともかく、戻子は処女ちゃうかもしれへんやん?」
え!? 鏡子が気にするとこってそこ!? 私は慌てて口を開く。
「鏡子、気にするとこそこじゃなくて、条件に処女性云々ってつけるなんて、変だと思いませんかってところだよ?
何か、その里長って、調査しに来る学生を供物か生贄にしようってしてません?」
私が言うと、梅ちゃんはキラリと目を光らせて、小さくうなずきながら言う。
「あら、さすがは一条さんね。実は学部長もそこを気にしているの。もし、この令和の時代に人身御供なんて風習が残っているのなら驚くべきことだって。
あちらさんからの要望人数は二人。だから、うすらぼーっとしているようで頭が切れる一条さんと、ボディーガードに最適な貴家さんを選んだの。
危険はあるけど、古来の風習の起源や成り立ちが解明できるかも知れないって期待しているのよ。それにまぁ『危険』って言っても、一条さんの貞操の危機ぐらいだと思うし……」
……またディスられた気がする。それに、
「あのぅ、貞操の危機って、私的には結構な危機なんですが?」
……だったら梅ちゃんが鏡子を連れて行けばいい……という意見は飲み込んだ。いっぺんに二つも梅ちゃんの地雷を踏みたくはない。
「あら、一条さんって誰か好きな人いるの? ひょっとして彼氏持ち?」
「それは絶対にありえへんけど、うちは戻子を危ない目には遭わせとうないねん」
……鏡子にまでディスられた……私ってかわいそう、ぐれてやる。
そして鏡子は、梅ちゃんの次のセリフで私を裏切った。
「あら、じゃあ貴家さんが一条さんを守ってあげればいいじゃない♡ それに旅費全額研究室持ちで、調査費も危険手当込みで一日2万円出るわよ?」
「……しゃあないなぁ。梅ちゃんの立場もあるやろうから、うちらで受けたるで。感謝しぃや?」
……それから三日ほどは、私が鏡子と口を利かなかったのは言うまでもない。
1月8日、松が明けて人の動きも少し落ち着いてきた頃、私と鏡子は京都行特急に乗っていた。
京都でサン〇イズせとに乗り換えて、まず目指すはK県だ。そこで再び特急に乗り換え、もう一つのK県の県庁所在地、K市に移動する。
目的地はそこからバスに揺られて3時間、さらに徒歩で1時間って書いてあった。
「戻子、ええ加減機嫌直してぇな。うちちゃんと反省しとるし、戻子のことは法神流剣術道場の名にかけて守るさかい」
私は、哀願する鏡子を無視してK市行きの特急に乗り込む。鏡子はしおらしく私の荷物まで持ってくれている。いつまでも怒っていたってしょうがないし、調査対象地域にはどんなヒトコワが待っているか判らない。ケンカしていては相手に乗じられるし、そしたら私の貞操の危機だ。もうそろそろ許してあげようかな。
そう考えた私は、
「ところで鏡子、今回の行き先について資料は読んだ?」
実に72時間ぶりに鏡子に話しかける。鏡子は私の声を聞き、誇張ではなくまるで女神さまの声を聞いたみたいに感動に打ち震えて、一瞬言葉を詰まらせた。
「……あぁ、やっと機嫌直してくれたんやな? もちろんちゃんと読み込んできたで。
目的地は『犬塚集落』。人口は最新の国勢調査で3百人をチョイ超えるらしいな。
集落の起こりは江戸時代に遡り、なんや特別な風習を受け継いどったんやて。この風習言うんが、『犬神信仰』なんやろか?」
相変わらず鏡子は興味津々だ。私だって、調査で赴くのが変な条件を付けた集落でなければ、もっとワクワクできるに違いない。
「犬神信仰に、人身御供の要素ってあった?」
私が訊くと、不意に後ろから声をかけられた。
「憑いた家の管理が滞ったり、待遇が悪かったりしたら、家全体をとり殺すらしいわ。そう言った意味では、一族全体を人身御供に捧げているって考えられるわね」
……う~ん、このパターンはソラさんの時と同じだ。そしてこの後きっと、何かとんでもない事件に巻き込まれるに違いない。
私はため息と共にそんな覚悟を決めると、声の主を探す。隣のボックス席から栗色の髪の女性がこちらを見ていた。
サラサラとした長い髪は羨ましくなるほど整っていて、2か所をそれぞれ赤と白の紐で括っている。
ぱっちりした目と官能的な唇。身体の線を強調するような革のライダースーツの上から革のジャケットを羽織っていて、それが決まっている……うん、文句なしの美人さんだ。
美人さんは、うっとりするような笑顔を向けて、
「あなた方も狗神に興味があるの? ご一緒していいかしら?」
そう訊いて来る。特急だけど自由席だったので、私たちが了解すると気軽に席を移って来た……同行の男性と一緒に。
「……なんや、リア充かいな」
鏡子がぼそりとつぶやくのも聞こえないように、その女性は黒のジーンズ地の上下を着てバンダナを巻いた男性と私たちの向かいに座った。
「アタシは林樟葉、こっちの彼は……」
「伏周だ」
黒髪天パのお兄さんがムスッとした顔で言う。結構イケメンでイケボなのに、態度で損しているなぁって思った。
樟葉さんは、周さんの態度にまったく頓着せず、
「で、あなたたちはなぜ、狗神に興味を持っているのかしら?」
身を乗り出すようにして訊いてくる。
私は大学の民俗調査のために来たこと、その集落には犬神伝説が伝わっていること、そしてついでに里から出された常識の斜め上にぶっ飛んだ条件のことを話した……まあ、条件については梅ちゃんに対する愚痴もあったけど。
すると、興味なさそうに目を閉じていた周さんが、条件の話を聞いた途端目を開け、鋭い視線を私に向けて訊いた。
「……君たちが調査する集落、何て言う?」
「えっ!? 犬塚集落ですが?」
私が答えると周さんは目を細め、眉の間にしわを寄せ、畳みかけるように訊いて来る。
「S市〇〇町字犬走、小字犬塚の集落のことか?」
私は目を白黒させる。同じく何のこっちゃって感じの鏡子が、機転を利かせて研究室から貰った里長の住所を確認する。小字は判らなかったが、字は犬走で間違いない。
「字犬走に犬塚という地名は1か所しかない。君たちはそこに行かない方がいいな」
周さんがそんなことを言う。
ぶっちゃけて言えば、私はその言葉を聞いた時、
『あ、じゃ、別の集落で調査します』
と言いたかった。でも、『犬神伝説』がある地域なんて他に知らなかったし、私たちが梅ちゃんから与えられた裏ミッションは、『人身御供の風習の有無の確認。できればその起源や伝承の在り方の調査』だったから、私たちの考えで対象地域を変えることができない。
私が内情を詳細に話すと、周さんは呆れて、
「学生に危険を冒させるのか? 君たちの指導教官は思いのほかMADだな」
そう言ったが、それでも
「だが、俺は君たちみたいな素人を、危険があるって判っている所にみすみす飛び込ませるわけにはいかない。考え直さないか?
必要なら俺や樟葉がその梅ちゃんとかいう先生に説明してもいい」
とまで言ってくれた。今思うと、梅ちゃんの機嫌を多少損ねても、周さんの言うことを聞いていればよかったのだが、なぜかその時はその後の展開を楽観視していた。
「……まぁ、周。一条さんたちにも事情があるのよ。部外者がこれ以上口を出せないわ。
でも、アタシも心配しているわ。そこで、アタシたちも一緒に犬塚集落へ連れて行ってくれないかしら? さっきも言ったとおり、アタシたちも狗神については興味があるの」
私は鏡子の顔を見る。彼女はさっきからずっと樟葉さんや周さんを見ていた。彼女が断るなら断ろう……私は鏡子の人を見る目に絶対の信頼を寄せていた。
「……ええんとちゃう? 現地指導に付き添ってきたOB言うたらええやん」
樟葉さんはにっこりとしてうなずいた。
特急がK駅に着いた。私たちは長旅に疲れていたため、その日はホテルに宿泊し心地良い睡眠をむさぼった。
翌朝、チェックアウトのためにフロントに降りたら、すでに樟葉さんが待っていた。
「おはようございます。二人とも、よく眠れた?」
にこやかに樟葉さんが声をかけてくる。私たちはぐっすり寝たので、疲れも吹っ飛んでいた。
「あ、樟葉さんおはようございます。おかげさまでぐっすり眠れました。今日も長旅なんですよね?」
「3時間のバスはええけど、1時間も歩かなならんのがなぁ。ところでバンダナの兄ちゃんはどないしてん? 樟葉さんの彼氏ちゃうんか?」
鏡子が訊くと樟葉さんは目を丸くし、そして笑い出す。
「あはは♪ 周が聞いたら怖気を揮うわね。アタシたちは仕事仲間よ。まぁ、仕事をする上では最高のバディだけど、恋人はないなぁ。
周はフェリー桟橋に行ってるの。アタシのバイクを、集落の近くまで持って行ってもらうのよ」
それを聞いて、私は樟葉さんがバイカースーツを着用しているのは実用のためで、ファッションのためじゃないってうなずいた。
でも、それじゃあ肝心のバイクってどうしてるんだろう?……そんな単純な疑問が浮かんだ私は、樟葉さんに訊いてみる。
「やっぱり樟葉さんってバイカーだったんですね? でもなんで電車で移動を?」
私が訊くと、樟葉さんはにこりと笑って、
「簡単よ。ずっと乗りっぱなしじゃ疲れるじゃない。神戸で周と合流して、バイクはフェリーに乗せて、後はあなた方と同一経路よ」
そう言いながら、S市行きの路線バスに乗り込んだ。
犬塚集落までの道のりは遠かったが、樟葉さんのおかげで退屈はしなかった。バスの3時間はあっという間だったし、1時間の歩きも(道の悪さは別として)、さほど苦にはならなかった。
やがて、遠くに周囲を川に囲まれた集落が見えてくる。川が大きく湾曲した凸部に、数十件の家が並んでいるのが見える。
「川がこんなに蛇行しているのは、村の背後の山が山脈に連なっているからみたいね。陸路で集落を出ようとすれば、自然林で覆われた山を越えることになるわ」
集落を一瞥して樟葉さんが言う。確かに、集落の背後の山は、中腹に見える神社らしき所までは道が見えるが、それより上には人間の手が一切加わっていないようだ。
ではどうやって集落に行くのかというと、私たちがいる側にはつり橋があり、どうやらこれが集落と外界をつなぐたった1本の道らしい。
つり橋の横には駐車場がある。十数台の自動車が停まっていたが、これは集落の人たちの物のようだ。樟葉さんは一番奥まで進み、公衆トイレの横にある小さな砂利道に入って行った。その道を少し進むと、周さんがバイクに寄りかかって私たちを待っていた。
「周、お疲れ」
樟葉さんが言うと、周さんはバイクのカギを放って寄越し、
「いや、相変わらずバッチリ整備してるな。快適だった」
そう言って笑う。樟葉さんもカギを受け取ると、微笑んで訊く。
「そう? で、周はどこに拠点を置く?」
「……俺はこっちに居ようか。必要ならスケキヨを出す。そっちが連絡したいときはお狐様を寄越してくれ。スケタケとスケトモにも言い聞かせておくよ」
それを聞いて、樟葉さんはにこりと笑ってうなずき、
「そう、お願いね? じゃ一条さんと貴家さん、一緒に行きましょうか?」
そう言って、私たちと共につり橋へと向かった。
つり橋は結構揺れたが、しっかりしたワイヤーで吊られているし、踏板も張り替えられたばかりなのか足元に不安はなかった。
「結構な山奥やのに、手ぇ抜いてへんな」
鏡子が感心して言うと、樟葉さんは唇を歪めて言う。ちょっと嘲るような響きがこもっていた。
「そうね。近頃は『犬神の里』として売り出しているから、結構観光客も来るみたいよ。
誰が言い出したのかは知らないけれど、里にとって良いことなのか悪いことなのか。それは住んでいる人にしか分からないわね」
私たちは集落に入ると、すぐに里長の所に顔を出した。変態的な条件を付けて来たとはいえ、調査に協力してもらえるのだ。一応は誠意を示さないといけない。
「……大きい家ね」
「……ホンマやな。さすがは集落の長っちゅう感じがするな」
私と鏡子は屋敷の大きさに圧倒されたが、樟葉さんはそんなこと大したことじゃないとでもいうように、私たちを連れて玄関へとずんずん進む。そして訪いを入れると、70歳ほどのお爺ちゃんと中年の男性が出て来た。
「ああ、S大学人文学部の方ですな? わしは犬塚敏麿。この集落の長をしておる。こちらは倅の克麿。あなた方の調査には倅が同行する」
爺ちゃんがそう言うと、中年男性が柔らかい声で、
「初めまして、犬塚克麿です。私どもの集落を調査対象にしていただき感謝いたします。
ご質問は私がお受けしますが、集落の秘事に関することについてはお答えいたしかねる場合もありますので、先にお断り申しておきます」
そう説明すると、樟葉さんを見て不審そうに訊く。
「ところでこちらのお嬢さんは? いただいた調査員名簿には載っていないようですが?」
「すみませんね。アタシはこの子たちの先輩で、今はこういう仕事に就いています」
そう言いながら名刺を差し出す。それには『合名会社無常堂 学芸員 林樟葉』と印字してあった。
「はぁ、学芸員さんですか」
胡乱気に見る克麿さんに、樟葉さんは
「ええ。今回の調査に関して、平島学部長から現地指導を依頼されまして、急遽合流することになりました。お部屋の件はご心配なく、この子たちと同室で結構です。その方が指導にも都合がいいので」
そう言って、なし崩しに参加を認めさせてしまった。
私たちが部屋に案内されると、樟葉さんはすぐに調度品を細かく調べ、座卓の下、コンセント、壁に掛けてある絵やハンガー、座布団の中、畳の隙間、果ては押し入れの中までくまなく何かを調べていた。その間、私と鏡子には調査に関することしか話さないよう、きつく言い渡されていた。
やがて、樟葉さんは何かに納得すると、私たちに目配せして、散歩に行こうと提案した。
私たちが玄関まで来ると、克麿さんが音もなく現れて、如才なく訊いて来る。
「おや、皆さんどちらへ?」
「明日からの調査の下調べで、集落を一巡りしてみようということになりまして。
それで、この集落には禁足地みたいな所はありますか? 事前に知っておかないと集落の皆さんにご迷惑をおかけしますので」
樟葉さんが訊くと、克麿さんはなぜか機嫌よくうなずき教えてくれた。
「おお、さすがは指導教官ですね。そこまでご配慮いただき感謝いたします。
実はこの集落の神社が山の中腹にございますが、そこは本家以外の者は祭りの前後1週間以外は立ち入り禁止です。それ以外の場所は、ご自由に見学していただいて結構です。
夕飯の都合がございますので、19時までにはお戻りください。では、お気をつけて」
私たちが門を出ると、樟葉さんは小さな声で驚くべきことを教えてくれた。
「アタシたちの部屋には、盗聴器が仕掛けられているわ。だから部屋の中で滅多なことは口にしないことね。それと、離れには狩猟用の罠が仕掛けられているから、間違っても近付かないこと、いいわね?」
それを聞いて、さすがに私たちもびっくりする。
「それ、本当ですか?」
「盗聴なんて趣味悪いな。何でそないなことせなあかんのやろ?」
その答えは、私たちをさらに驚愕させた。
「それはね、この集落で連続殺人事件が起こっているからなのよ」
「え!?」「ホンマか!?」
私と鏡子が同時に叫ぶ。樟葉さんは周囲を素早く見回し、口に人差し指を当てて言う。
「静かに。こういった集落では、集落全員が団結している場合が多いわ。だからどんなことがあっても平常心を忘れないでね?」
私たちは、口に手を当ててうなずく。樟葉さんは優しい笑みを浮かべ、
「さっき、『殺人事件』って言ったけど、警察は『野生動物による獣害事件』として処理しているの。でも、殺人にせよ獣害事件にせよ、ここ2か月で十数人が命を絶たれているのには変わりないわ。
アタシと周は、依頼を受けてその事件の真相を調べに来たの。あなた方のおかげで疑いを持たれずに集落に潜入できたわ」
なんと、樟葉さんと周さんの正体は私立探偵だった(と私と鏡子はその時勝手にそう思った)。道理でこの集落のことをよく知っている口ぶりだったし、私たちにここには来ない方がいいと口を酸っぱくして言っていたわけだ。
「……とにかく、あまり長く出歩くと疑いを持たれるわ。いったん帰って美味しい夕飯に期待しましょう」
樟葉さんはそう言って、屈託のない笑顔を見せた。
★ ★ ★ ★ ★
承・監獄集落
翌朝、私たちが起きた時、何だか外が騒がしい気がした。対岸からは驚いたことに、パトカーのサイレンも聞こえる。
「……んあ? なんや?」
ぐっすり寝ていた鏡子も、あまりの騒がしさに目を覚ます。
「警察が来ているみたい」
私が言うと、鏡子はパッと目を覚まし、
「何やて? 戻子、見に行こ見に行こ!」
野次馬根性まる出しで、急いでパジャマを脱ぎ捨てる。
「ちょっと鏡子、知らない土地で野次馬根性出したら、ろくなことにならないよ?
それよりおとなしく、今日のフィールドワークの予習しようよ」
私がそう言った時、樟葉さんが部屋に入って来て、
「そうね、その方がいいわ」
そう言う。綺麗な顔を歪めて、苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。
「せやかて樟葉さん、現場を見て来たんちゃうん? ズルいで自分だけ」
鏡子が言うと、樟葉さんは真面目な顔になり、
「鏡子さんにも、何処が顔やら胸やら判らないほどぐちゃぐちゃになった肉塊を見て楽しむ趣味があるのね? だったら止めないわ。ちなみに、朝ご飯は馬刺しだそうよ」
そう言うと、鏡子は急に青白い顔になり、
「……グロの後、馬刺しは地獄やで。高校生の時、電車事故のマグロ見た後、晩ご飯は刺身やってん。ぜんぜん食欲わかんかったし、食うたもんぜーんぶ戻してもうたわ」
そう言って、現場に行くことを諦めたみたいだった。
朝食は、微妙な雰囲気に包まれていた。克麿さんは
「せっかくの調査初日なのに、妙な事件が起きたものです。警察は獣害事件と言っていましたが、この辺りにはクマを見かけることもないのですよ」
そう言って首を傾げている。
「……犬神が人を取り殺すってことはないんですか?」
私が訊くと、克麿さんは穏やかな顔で首を振り、
「そんな言い伝えもありますが、私は信じていません。犬神は憑いた人や家を富ませる神様です。そう考えないと、やりきれない部分もございます」
沈んだ声で言う。その姿に、私はどことなく違和感を覚えた。
「そう言えば、不躾な質問ですが克麿さんの奥様は? お礼とご挨拶をしたいのですが」
樟葉さんが訊くと、克麿さんは一瞬唇を歪め、
「ああ、妻の乙女は体調を崩して実家で静養中です」
そう、取り繕うように言った後、急に立ち上がり、
「妙な獣が徘徊しているかもしれませんから、調査は明るいうちに行った方が良いでしょう。早速、村をご案内いたします」
そう言って、私たちに微笑んだ。
克麿さんは人格者らしく、村の人間から大層親しまれていた。
それが分かったのは、長老たちに話を聞いた時だった。普通、フィールドワークの時はこちらが一人一人のお宅にお邪魔して話を聞くことが多いのだが、今回は大学の肝いりということもあり、克麿さんが事前に長老たちを公民館に集めてくださっていた。
おかげで、大した苦労もなく犬神についての説明や歴史、伝承などをかなりの量集めることができた。
だがそれだけではない。こういった調査の場合、正規の面談時より、その後の雑談の時に面白い裏話や集落の隠された事情などがポロリと出てきたりするものだ。この時もそうだった。
「そう言えば、乙女さんの姿を近頃見ないが、病気かね?」
お爺さんが訊くと、克麿さんは悲しそうにうなずいて答える。
「はあ、2か月ほど臥せっています」
それを聞いて、お爺さんは当惑した顔をして克麿さんに言う。
「そりゃあいかん。早く治してもらわんと、巫覡がおらんと月人さんの祭りができんようになる」
「すみません、『月人さん』って何ですか?」
私がお爺さんにお酌をしながら訊くと、すっかり酔いが回ったお爺さんはニコニコ顔で教えてくれた。
「ああ、この村では、代々犬神さんを祀っとってな。犬神さんをその身に降ろした人間を『月人』と言って、巫覡と言われる世話役が世話をすることになっているんじゃ。
月人は人の言葉はよう喋らんが、新月の日だけは人間に戻る。その日を中心に1週間、祭りをするんじゃ」
「じゃあ、その月人さんは、いつもどこにいるんですか?」
私がそう訊くと、お爺さんは
「神社の本殿に閉じ込めて……」
そう言いかけたところを、克麿さんが横から話に入って来た。
「湯島の爺ちゃん、それは他言無用の禁令に書いてある事項ですよ?」
するとお爺さんはハッと酔いも醒めたような顔になり、慌てて立ち上がると、
「そうじゃったな、わしとしたことが。犬神さんに叱られるわい」
少し青ざめた顔で公民館から出て行った。
私は克麿さんに、
「すみません、訊いちゃいけないことだったんですね?」
そう言って謝ると、克麿さんはじっと私を見て訊く。
「湯島さんの答え、聞きましたか?」
「いえ、はっきりとは……拝殿がどうとか?」
そう答えると、克麿さんはあからさまにホッとした顔をする。
「よかった。これで湯島さんが犬神様のお仕置きを受けずに済むかもしれない」
私はその時の克麿さんの顔が、不気味でしょうがなかった。
その調査の帰り、私たちは橋を渡って周さんと合流する。周さんはバイクを停めた場所にテントを張って拠点にしていた。
「光学迷彩のテントなんて、洒落た物持ってるじゃない?」
樟葉さんが声をかけると、後ろから周さんがニヤニヤしながら声をかけてくる。
「そうだろう? おかげで誰にも邪魔されずに村の様子を探れたよ」
そこまで言って、周さんは真顔になる。
「ただ、中腹の神社だけは別だ。あそこにはとてつもなく強力な狗神がいる……正確には狗神に憑かれた人間だがな。探索が得意なスケトモでも、危うく気付かれるところだった」
周さんが言う『スケキヨ』とか『スケトモ』とかは、信じられないけれど式神?みたいなものらしい。道理で彼だけがこっちに残ったわけだ。
(式神みたいなものが扱えたら、お買いものとか家事とかやってもらえそう……)
私は不謹慎にも、そんなことを考えてしまった。
「一条さん。あなたがさっき村の長老から聞いたこと、周にも話してあげて」
樟葉さんの言葉で我に返った私は、『月人』のことを聞いたまま話した。
周さんと樟葉さんは、黙って聞いていたが、
「……本殿と屋敷の離れが怪しいな。樟葉の方で調べられないか?」
周さんが訊くと、樟葉さんは首を振って、
「お狐様は狗神と相性が悪いわ。気付かれたら、それこそ集落が蜂の巣をつついたような騒ぎになっちゃう可能性もある。アタシのコンちゃんたちは最後の手段ね」
そう答えた。
周さんは目を細め、私を見つめて言う。
「その爺さんは、『犬神さんに叱られる』と言ったそうだね? もし、狗神のお仕置きってもんが、俺が考えているとおりなら、君たちは克麿って人物から命を狙われる可能性もあるし、狗神の贄に捧げられるかもしれない。誕生日とかは相手に知られていないだろうな?」
そう聞いて、私と鏡子は青くなった。名前と誕生日は、『調査員名簿』として里長の手に渡っているからだ。
私がそのことを言うと、樟葉さんも周さんも頭を抱えてしまった。彼らによれば、私たちは霊的に言えば人質に取られたも同然らしい。
やがて、樟葉さんがため息とともに言った。
「……仕方ないわね。周、これは空さんに来てもらうしかないんじゃない?」
すると、周さんもうなずき、私たちに切羽詰まった顔で言った。
「俺もそれしかないと思っていた。すぐにスケキヨを送る。それまで、樟葉は一条さんたちをしっかり守っていてくれ。君たち二人は、絶対に一人じゃ行動するな。常に二人でいて、樟葉が守りやすくしていてくれ」
帰り道、鏡子が樟葉さんに訊く。
「なあ、梅ちゃんに叱られるのを覚悟で、あの胸糞悪い集落から逃げ出せへん? わざわざ檻の中に戻ることもあらへんと思うんやけど?」
樟葉さんは、眉を寄せ、残念そうに答える。
「それは無駄なことよ。相手はあなたたちの名前も生年月日も知っている。それに、恐らく部屋を掃除する時に、あなたたちの髪の毛なんかも採取しているでしょうね。
だから、相手はあなたたちを理論上は好きにできるの。それだけの力を持っていればね」
そして、唇をかんで言う。
「克麿氏が、『調査員名簿』って言った時に気が付くべきだったわ。最初からあなたたちは、狗神か『月人』のどちらかの供物とするために招かれたのよ」
私は、とんでもないことになったと思った。『貞操の危機』どころじゃない、ガチで生命の危機だ……そう思うが、反面、樟葉さんたちが言った『空さん』が気になった。
旅先で会った私立探偵がソラさんの知り合いだなんて、そうそう都合よく話が転がるはずはないとは思ったが、一応聞いてみる。
「……あのぅ、さっき樟葉さんたちが話していた『空さん』って、もしかして化野空さんのことですか?」
すると樟葉さんは驚いた顔をして訊いてくる。
「え!? 一条さんって、もしかして空さんの知り合い!?」
……そうよね。小説じゃあるまいし、ここでソラさんの知り合いに会うはずは……えっ? やっぱあのソラさんなの?
樟葉さんは唇の端をちょっと持ち上げて、ドヤ顔で言う。なんか、私に対してマウント取っている気がした。
「ええ、化野空はアタシの彼氏よ。あなたたちが空さんの知り合いだったなんて奇遇だわね?」
「え? あんたソラさんの彼女なん? 戻子やったで! うちら助かったかもしれん」
鏡子もびっくりして大きな声を出す。そして無神経にも樟葉さんに根掘り葉掘り質問しだした。
「ソラさんも、こないな美人さん捕まえるなんて隅に置けへん男やなぁ。
でさでさ、樟葉さん、どこでどないやってソラさんと知り合ったん? もうええことした? 結婚するつもりあるん?」
するとなぜか樟葉さんは顔を真っ赤にして慌てだし、
「い、今はそんなこと言ってる場合じゃないわ。
まずは、あなたたちをどうやって狗神の影響下から救い出すかを考える段階よ?
空さんが来るまで、アタシの側を離れちゃダメ! 分かった!?」
そう、強い口調で言う。あれ? 樟葉さんって、見た目はイケイケなのに、案外初心で純粋なのかも?って思った。そんなこと考えている場合じゃなかったのに。
そして次の日、衝撃的なことが起こった。私に『月人』のことを話してくれたお爺さんが亡くなったのだ。また警察が来て調べていたが、やはりそれまでの犠牲者同様、遺体は誰だか分らないほど酷く損傷していたらしい。
さらに、警察が帰って行った後、突然轟音と共に吊り橋が落ちた。ワイヤーが見るも無残に引き千切られていたそうだ。
「……何者かは分からないけれど、そいつはアタシたち、というより一条さん、あなたをここから帰すつもりはないようね」
その知らせを聞いた時、樟葉さんが私を見て言った。
私もそう思った。克麿さんから訊かれた時とっさに嘘を吐いたが、犬神様にはお見通しだったのだ。当然、克麿さんや里長が何らかの行動を起こしてくるに違いない……私と鏡子はそう覚悟した。
だが案に相違して、克麿さんは至極丁寧な態度で、
「湯島のお爺さんには気の毒なことをしました。
私は『月人』の居場所をあなたが認識していないのなら、犬神様もお目こぼしくださると思っていたのですが、『月人』の存在を話すこと自体が禁忌だったようです。
それでご相談なのですが、報告書に『月人』のことを書かないでいていただけますか?」
そう申し入れて来たのだった。
私は不思議に思って訊いた。
「それは、これだけの事件が起きたのですから、私たちも皆さんのご要望は最大限考慮させていただきますが、それだけでいいのでしょうか?」
「と、言われますと?」
克麿さんは、不思議そうな顔をして訊き返す。私は意を決して、ずばりと聞いた。
「私たち、犬神様の件を知っているよそ者は邪魔にならないのですか?」
すると克麿さんは、複雑な笑みを浮かべて答える。
「仰る意味は分かります。そして伝承では私ども犬塚家が犬神様を迎えるに当たり、『里をそのままに残すこと、犬神の秘密を守ること』の二つを誓約したと伝わっています。
しかし昨日お話ししたとおり、父はともかくとして、私は犬神様の祟りは信じておりません。
犬神様をお祀りするには村の繁栄が必要で、『犬神の里』として売り出しているからこそ、お嬢さんたちのような研究者の目にも止まり、観光客にも来てもらえます。
その経済効果あってこそ、村は存続し、犬神様をお祀りすることもできるのです」
克麿さんはそう静かに言うと、
「……ですから、あなた方をどうこうしようなんて思いも致しませんし、そんなことをすれば大問題になり、村も立ち行かなくなります。
犬神様は道理を弁えられている神様です。たとえ祟る力をお持ちだとしても、あなた方に危害を加えたら、自らの祭祀が絶えることは重々ご承知のことと思います」
そう言って、私たちを安心させるように微笑んだ。
「……克麿氏は、心根が綺麗なお人みたいね」
克麿さんが部屋を辞した後、樟葉さんはそう言った。私と鏡子もうなずく。
実は犬神様の話が終わった後、樟葉さんが部屋に仕掛けられた盗聴器のことを話すと、克麿さんは愕然とした顔をし、
『それは本当ですか!?』
と大きな声で訊いてきた。
樟葉さんがうなずいて、盗聴器が仕掛けてある場所を指摘すると、克麿さんはすぐにその場所を確認し、すべての盗聴器を前に頭を抱えていた。
『いったい誰が、何のために妙齢のお嬢さん方の部屋を盗聴していたのか……』
そうつぶやいた彼は、すぐに子どもさんたちを呼び出し、盗聴器を示して詰問した。
『お客様をお迎えすることは、事前にお前たちも知っていたことだ。誰がやったのか心当たりがあれば話しなさい』
そう言うと、長女のさくらさんは、心配そうな眼を弟の右京くんに向ける。右京くんはフレームのない眼鏡の奥で切れ長の目を光らせると、
『さくらお姉さまに懸想している、犬吠柄麿の仕業では? 彼はここ数日姿を晦ましていますが、4・5日前に屋敷に来ていましたし』
そう姉を見て言った。
さくらさんは、それを聞いてあからさまに不快な顔をする。彼女が柄麿という人物を嫌っていることは明白だった。
克麿さんにも思い当たることがあったのだろう、私たちに頭を下げて詫びると、
『お恥ずかしい限りです。すぐに犬吠の家を詰問して柄麿を呼び出します。真相が分かりましたら、ご報告を兼ねて改めて謝罪させていただきます』
そう言うと、子どもたちを引き連れて部屋を後にした。
「これで一件落着やな。証言や資料も揃ったし、後は橋が直ったら帰るだけやで。
結局、人身御供なんて剣呑な風習はあらへんかったな。梅ちゃんや学部長はがっかりするかもしれへんけど」
鏡子がお気楽のんきなことを言う。盗聴器がなくなったことで、気兼ねなく会話ができる……そのことで私もほっとして気が緩んでいたことは間違いない。
「……そうね」
樟葉さんも、それまでの緊張を緩めたように、今までにない優しい顔をしてそう言った。
しかし、その晩にことは起きたのだった。
深夜、私は何とも言いようのない寝苦しさを覚えて、ハッと目が覚める。そして、起き上がろうとして気付いた。身体が動かせない。力が入らないのだ。
(え、え? これって金縛り?)
私は初めての経験に軽くパニックになる。ただ、目は動かせたので、キョロキョロと見れる範囲で周囲を見渡す。
こんな時ネットの怖い話では、視界の隅に何かが映って、それから眼を離せなくなるとか、怖いから一生懸命目をつぶってやり過ごした(あるいは気絶した)とかって書いてあるのを思い出し、私も目をつぶろうとした時、黒い影が私を覗き込んできた。
(ひっ!)
私が声にならない声を上げた時、その黒い影が私に話しかける。
「一条さん、起きてる?」
……影の主は樟葉さんだった。そう思った瞬間、金縛りは解ける。
私が起き上がり、肩で息をしているのを見て、樟葉さんは優しい声で、
「……金縛りね? まあ現状、それ位しかできないでしょうけど。『お祭り』が始まる前に、着替えていた方が良いわよ?」
私にそう言うと、鋭い目で周囲を見回す。
私はパジャマを脱ぎ捨てながら訊く。
「鏡子も起こした方が良いですか?」
「……起こしてみたら? 起きないでしょうけど。
まあとりあえず、空さんが来ればこの事態も好転するはずだから、それまではこの部屋で籠城ね」
樟葉さんにそう言われたので、私は服を着た後、鏡子をゆすぶったが、彼女は
「う~ん、もうこれ以上食べれへん……」
のんきに寝言を言って起きる様子はなかった。
「……来たわね。コンちゃん、ケンちゃん、頼むわよ」
樟葉さんは障子の向こうを見通すような鋭い目でそう言うと、髪を結んでいる赤と白の飾り紐を解く。
すると、白狐と黒狐が姿を現した。どちらも大型犬ほどの体格で、赤い瞳を光らせ、白い狐は金の鈴がついた赤い首輪を、黒い狐は銀の鈴がついた白い首輪をしていた。
その瞬間、部屋の空気が、髪が逆立つほどピリピリと張りつめた。
★ ★ ★ ★ ★
転・狗神と伝説
樟葉さんが2匹の狐を呼び出した瞬間、部屋の空気が張りつめた。まるで電気が充満しているようにピリピリと肌が痛み、髪が逆立つ。
樟葉さんの髪も、まるで下から風で吹き上げられているように波打ち、広がって揺れている。その時、私は彼女の左目が赤い光を放っているのを見た。
(……樟葉さんって、何者なんだろう?)
私はこの状況で、そんなことを考えていた。まあ、人間離れしているソラさんの彼女さんなら、普通の人間じゃ付き合いきれないだろうなぁ……そんなことすら考えていたのだから、私って本当にどこかズレているのだろう。
「崑崙比丘尼、捲簾比丘尼、遠慮はいらないわ。やっちゃいなさい!」
クウォーンッ!
樟葉さんの声とともに、2匹は凄まじい鳴き声を上げて障子に突進する。そして障子を破ることなくすり抜けて、屋外へと出て行った。
グルルルル……ウワンっ!
すると、聞くも身の毛のよだつような犬の鳴き声が響き、続いて名状しがたいうなり声と共に、何者かが取っ組み合っている激しい物音がする。
樟葉さんは、赤い目を光らせて障子を睨みつけている。きっと彼女には、障子の向こうの様子が見えているに違いない。
「ケンちゃん、後ろに回り込みなさい!」
ケーンッ!
樟葉さんの指示に応えるように、甲高い鳴き声が響く。その後すぐに、
キャウンッ!
犬の悲鳴が聞こえた。間髪入れず樟葉さんは
「コンちゃん、喉を食い破りなさい!」
仮借ない指示を下す。
コーンッ!
ギャウンッ!
狐の鋭い鳴き声と、犬の断末魔の悲鳴が、夜の闇を斬り裂く。そして外は静かになった。
「……樟葉さん、あの狐さんたちは大丈夫でしょうか?」
あまりの静けさに、私は心配になってそう声をかけるが、樟葉さんは何も言わずじっと外の気配を探っている。
すると、離れがある方から、獰猛な犬のうなり声と男性のけたたましい声が聞こえて来た。続いて、母屋の奥の方からも……。
樟葉さんはハッとした顔で、狐さんたちに指令を下す。
「ケンちゃん、コンちゃん。すぐに離れの方に行って、男の人を助けなさい!」
ケーンッ! コーンッ!
狐さんたちは鋭く一声鳴くと、ザザザザッと庭の玉石が鳴る。そして離れの方で先ほどと同じように、物凄いうなり声が響き始めた。
「……狗神がこの家の人間を狙っている? どういうことかしら?」
樟葉さんは訝しそうにそうつぶやく。だが、はっきり言って私には、何がどうなっているのかまったく分からない。
ただ、何となく解ったのは、何者かが犬神を使って私に危害を加えようとしたのを、樟葉さんがペット(?)の狐さんたちを使って守ってくれたということだけだ。
しかし、『何者か』は、私はもちろん、樟葉さんすら想像もしていないほどずる賢かった。
「うっ!? しまった!」
部屋の温度が急速に下がり、あの髪を逆立てるほどのピリつきが再び起こる。それは取りも直さず私を狙った攻撃が再開されることを意味していた。
しかも、樟葉さんがさっきまでとは打って変わって焦っている。
「コンちゃん、ケンちゃん、戦闘を切り上げて戻って来て! あなたたち2匹じゃ対応できないほどの狗神の数よ!」
樟葉さんが顔色を変えてそう叫ぶけれど、狐さんたちの返事はない。まだ離れの前でうなり声が響いているので、相手の犬神がしつこいのかもしれない。
そのうち、部屋の温度は吐く息が白くなるほどまで下がった。狐さんたちはまだ戦っているみたいだ。ここで樟葉さんは狐さんたちを呼び返すことを諦め、革のジャケットから真ん中に持ち手があり、左右に両刃の剣が突き出た見慣れない道具(後で、『独鈷杵』という名前だと教えてもらった)を取り出した。
そして部屋の真ん中に独鈷杵を突き立て、私たちを囲むように、見知らぬ文字を一文字一文字発音しながら、円形に書き始める。
「オン、ア、ボ、キャ、ベイ、ロ、シャ、ノウ、マ、カ、ボ、ダラ、マ、ニ、ハン、ドマ、ヂンバ、ラ、ハラ、バ、リタ、ヤ、ウン……」
そして、最後の一文字を書き終えた瞬間、障子を突き破って、牛ほどの大きさがある黒い犬が部屋に踊り込んできた。
ガウウウウッ!
黒い犬は、まるで狂犬病に罹ってでもいるように、口から泡を吹きながら私目がけて飛び掛かって来た。
「きゃああっ!」
ヤバい、噛み付かれる!……私はそう思って身を竦ませるが、
バチイイッ!
ギャウンッ!
黒い犬は、見えない壁にぶち当たったかのように、鳴き声を上げて跳ね飛ばされる。
樟葉さんは中央に差し込んだ独鈷杵に手を当て、黒犬を睨みつけながら何かを詠唱している。黒犬は見えない障壁の回りを歩き回りながら、飛び掛かる隙を狙っているように見えた。
(狐さんたち、早く戻って来て!)
私は胸の前で手を組んで、必死にそう祈る。
見えない障壁を維持するのはかなり大変なんだろう、部屋の温度は凍えるほど低いのに、樟葉さんの額にはじっとりと汗がにじみ出て、息が荒くなってきている。
完全に手詰まりで、樟葉さんの精神力と体力がどのくらい持つかという勝負になりつつあったが、その均衡を破ったのが伏周さんだった。
「行けっ、スケタケっ!」
ガウウン!
周さんの声とともに、突如として現れた仔牛ほどの狗が、疾風のように黒犬に突っ掛っていく。全身が灰色で、足先だけが白い狗だった。
ガウウウッ、ギャウンッ!
身体の大きさは黒犬の方が勝っていたが、スケタケという狗の方がケンカ慣れしているようで、飛びついては噛み付き、反撃を受ける前に肉を引き千切って退避する。そしてまた電光のように飛び掛かる……こういった攻撃を繰り返しているうちに、黒犬はだんだんと元気を無くし、最後には完全に戦意喪失したのか尻尾を巻いて逃げだした。
「追うな、スケタケ! 周囲を警戒しろ!」
周さんは灰色の犬を呼び止め、自分の右にいた茶色の狗に、
「スケトモ、アイツの居場所を突き止めろ」
そう命じる。茶色の狗は1・2度尻尾を振って目にも止まらぬ速さで駆け出した。
その時、白銀に輝く狗が、樟葉さんの狐さんたちと共に、血だらけの男を背に乗せて周さんのところにやって来た。
「スケキヨ、ご苦労。崑崙比丘尼も捲簾比丘尼も大活躍だったな」
周さんがそう言って労うと、白い狗は嬉しそうに尻尾を振って灰色の狗と共に周囲を警戒し始める。
「……助かったわ、周。狐は狗と相性が悪いんで、コンちゃんやケンちゃんがやられないかひやひやしていたの」
流れる汗を拭いもせず樟葉さんが言うと、周さんはむっつりしたまま
「神使たる霊狐が、巫術で生まれた動物霊にやられるわけないだろう? それよりこの男は何者だ?」
そう言って、畳に寝かされた男を顎でしゃくって指し示す。
樟葉さんは、2匹の狐を両の肩に乗せたまま、男の顔を覗き込むと、
「里長の息子の犬塚克麿さんね。なぜ、離れの前にいたのかしら?」
そう言うと、周さんは肩をすくめて答える。
「離れには中年の女性が閉じ込められていた。今のどさくさでどこかに行っちまったようだが、きっと訳ありだろう。ところで空さんは来ていないのか?」
「えっ? 来ていないわよ。空さんも周と一緒にこの集落に来ているの?」
樟葉さんの問いに周さんが答えようとした時、
「お父様!」
そう言って、さくらさんが部屋に飛び込んできた。そして、血塗れで横たわっている克麿さんを見つけると、
「お父様、しっかりしてください! 誰がお父様に犬神様を差し向けたんですか!?」
克麿さんの身体を揺すりながら大声で訊く。
その時、弟の右京くんが、部屋の前でこの様子を見て顔色を変え、唇を引き結んでどこかに行くのが見えた。
「……橋が落ちているから、集落の外に行けない。だが見たところ、大きな血管は傷ついていない。とりあえず傷口を消毒して止血しよう」
周さんはそう言って、背中のパックから救急セットを取り出すと、克麿さんの傷を検めだした。
その頃、明け始めた空の下、集落の西側に向かって走る男の影があった。彼は四つ角まで来ると周囲を見回し、誰も見ていないことを確認して辻の真ん中をシャベルで掘り返し始める。
50センチほど掘り進めると、シャベルの先が何かに当たってゴツッという音を立てる。そこに埋まっていたのは一辺が50センチほどの木の箱だった。
彼はシャベルで箱の蓋を壊すと、シャベルを放り出してしゃがみ込む。そして箱から何かを取り出すと、地面に広げた風呂敷の中央に置き、その何かを包み込む。
男は穴を埋め戻すと、そのまま集落の西外れにある一軒の屋敷を目指して歩き出した。
しかし、何歩も歩かないうちに、人影を見て立ち止まる。そこには、白髪だらけで丸顔の男性が、ジーンズのポケットに手を突っ込んで立っていた。
「おはようございます。まだ朝日も昇らないうちからお散歩ですか?」
その男性は、ニコニコしながらそう話しかけてくる。風呂敷を持った男は、胡散臭いものを見る目をして、その男性を無視し通り過ぎようとした。
「……狗の首を持って誰を呪うつもりですか? あなたが狙う相手には、その程度の巫術じゃ対抗できませんよ?」
その言葉に、男は吃驚して立ち止まる。男性の顔を見る男の目には、明らかに恐怖と狼狽の色が浮かんでいた。
「……さっき、ぼくの連れを黒い狗神が襲ったんですが、その主人は明らかに狗神が元々憑いていた人物とは違っていました。誰かに狗神を奪われたんでしょうね」
男性の言葉に、男は一・二度ごくりとつばを飲み込み、
「……継麿おじさん……まさか!」
そう言うと、風呂敷包みを投げ出して、山の方へと駆け出した。
「……間に合ってよかった。樟葉と周がいる犬塚の本家はこっちの方角だったな」
白髪の男性は男を見送ると、顔を出した朝日に一礼し、朝風に群青色のブルゾンの端を揺らしながらゆっくりと歩き出した。その頃から、激しい雨が降り出した。
犬塚家では上を下への大騒動が起こっていた。
克麿さんが犬神に襲われて重傷を負った他に、母屋の最奥に位置する家長の部屋で、私たちを最初に出迎えてくれた犬塚敏麿さんが殺されているのが見つかったのだ。
第一発見者は早番で出仕してきた使用人だった。
彼は扉が壊された離れや、弾かれた獣用の罠を見て異変を感じ、主人の安否を確認するため敏麿さんの部屋に行くと、血の海の中に肉塊と化した敏麿さんを発見して気を失ったそうだ。
急を聞いた周さんは、重症ではあるが命に別条がなかった克麿さんを連れて奥座敷に向かう。そして警察に電話したところ、橋が落ちていて、雨も激しいためすぐに現場に来られないから、事件現場と被害者はそのままにしておくように指示されたそうだ。
克麿さんは、包帯だらけの身体で私たちの部屋に来て、
「皆さまには大変ご迷惑をおかけしていますし、ご不快な思いをさせてしまって申し訳ございません。騒動が一段落したら改めて謝罪させていただきます。
その上で、勝手な申し出ですが、調査への協力を打ち切らせていただきたいのです。皆さんを対岸に送る手立ては、私が責任持って講じますので、準備ができ次第、村からご出発されてはいかがでしょう?」
恐縮した態で残念そうにそう申し出てきた。
私と鏡子だけなら、一も二もなく申し出を受けるんだけれど、樟葉さんと周さんは首を横に振った。
「克麿さんは狗神の祟りを信じていらっしゃらないようだけど、こちらは現に昨夜、一条さんが何者かに差し向けられた狗神に襲われているわ。
おまけに彼女たちの名前も、生年月日も知られているし、このまま彼女たちを帰したら、どんな災難が降りかかるか分からないのよ?
だから、アタシたちは不本意にも巻き込まれてしまった関係者なの。この事件の真相を知る権利があるし、一条さんたちの安全を確保する必要もあるわ」
……これが、樟葉さんたちの主張だった。
克麿さんは悲しそうな、困ったような顔をして聞いていたが、樟葉さんたちの主張に対し、
「……左様ですね。ですが名簿をお返しすれば済むことなのでは?」
そう言って持っていた『調査員名簿』を周さんに差し出す。
周さんは名簿を受け取りながら、
「残念だが、これを俺が受け取るだけじゃ、お嬢さんたちの身を守ることはできないんだ。
もし狗神を扱える人間の手にお嬢さん方の髪の毛一筋でも渡っていたら、そいつはお嬢さん方にどんな術だってかけることが出来ちまう。
狗神を差し向けることも、自分の意のままに動かすこともな。だから俺たちが望む解決方法は狗神使いの排除だ。悪いがことここに至っちゃ、それ以外に根本的な解決策は思い浮かばない」
黒曜石のような瞳を克麿さんに当てて静かに言う。静かだが固い決意を込めた態度は、克麿さんを威圧し、言うことを聞かせるには十分だった。
「……犬神の件につきましては、父の有様を見れば肯定せざるを得ません。しかし、この村で犬神様を扱えるのは『月人』ただ一人。
実を言えばその『月人』は私の弟です。弟が父に犬神様を差し向けたとは思えません」
克麿さんが苦しそうな表情でそう言う。そこに、私もよく知っている、白髪だらけで丸顔の、人の好い笑顔を絶やさない青年が現れて言った。
「狗神に憑かれた方は人格が隠れます。それに、『月人』以外に狗神を扱える人間は、この集落に少なくともあと二人いるようですね。
神社の境内に足を踏み入れられるのはこの家の方だけだと聞いていますが、『月人』を確かめてみられたらいかがですか?」
「あ、あなた一体どこから? それに何者ですか?」
克麿さんが驚いて詰問するのを、ソラさんは軽く無視して、
「この家の息子さんでしょうか? 狗神になりかけの狗の首を持って、集落西端の邸宅に行こうとされていましたよ?
それと、離れに軟禁されていたのはあなたの奥さんですよね? 今頃は『月人』の許で、息子さんと鉢合わせしていることでしょう。行って差し上げなくてもよろしいのですか?」
それを聞いた克麿さんは青くなって、すぐに使用人と子どもたちを集めた。確かに息子さんである右京くんがいない。
「さくら、右京はどこにいる?」
克麿さんが焦って訊くと、さくらさんは憂い顔で首を振り、か細い声で答えた。
「……私を守る、と言って、朝早くに家を出て行きました」
「なぜそれを早く知らせなかった? とにかく神社に行くぞ」
私たちは克麿さんの許しを得て、彼に同行することになった。
★ ★ ★ ★ ★
結・残されし人の末路
その頃、雨は小降りになっていた。私と鏡子は、ソラさん、樟葉さん、周さんに守られ、克麿さんやさくらさん、そして数人の犬塚家使用人と共に、集落の北にある山中に分け入っていた。
数十段の石段を上ると、一の鳥居がある。克麿さんは使用人たちに、
「お前たちはここで待て」
そう命令し、その場に待機させた。これで本殿のある広場に行くのは七人となる。
「……本来は、祭り期間以外に本家筋以外の人間が一の鳥居を超えるのはタブーとされていますが、今はそれどころじゃありません。
何より、乙女や右京は何のために本殿に行ったのか? 早まらなければいいが……」
ぶつぶつとつぶやく克麿さんを、さくらさんは冷たい目で見ている。
「……さくらさんって、いくつくらいかしら?」
「さぁ? うちらとあんまり変わらんのとちゃうん? にしては落ち着いとるけどな」
私と鏡子がそんなことを小声で話していると、
「お父様、今回のことは右京がわたしのためを思ってやったことです。それにわたしも右京も、本当のことは知っています。
だから、お母様や叔父様、柄麿も含めて、みんなで今後のことを話し合ってください」
さくらさんが不意に克麿さんにそう言う。切羽詰まった声だった。
「……はは、さくら。まだ継麿の様子も判らないのに、何を言っているんだ? とにかくまずは『月人』がどんな様子かを確かめねば。話はその後だ」
そんな話をしながら、数百段の石段を上る。その間、ソラさんたちは終始無言だった。
やがて、二の鳥居の上部が見えた時、私ははっきりと女性の泣き声を聞いた。
「……これは乙女の声……さくら、急ぐぞ!」
克麿さんは険しい顔をしてそう言うと、さくらさんの肩を借りながら石段を上る。ソラさんは周さんに、
「……君は少し左から本殿を目指してくれ」
そう言うと、周さんはうなずく。そして、
「……こいつは奪った狗神で蠱術に似た法を施しているみたいだ。空さん、俺はどうすればいい?」
確認するように訊く。ソラさんは視線を前から動かさずに、
「……散らせ。その方が都合がいい」
そう言った。
周さんが一行から離れた時、克麿さんは喘ぎながら二の鳥居をくぐって広場に足を踏み入れる。そして彼は眼前の光景に、何も言わずに膝から崩れ落ちた。
「お父様!」
さくらさんは、克麿さんが倒れないように背を支え、ゆっくりと撫でながら拝殿から目を背ける。今までの会話を見るに、さくらさんはこの社で何が起こっているのかを薄々感じ取っていたようだが、彼女の予想を裏切る、あるいは上回るものだったのだろう。
「樟葉、戻子たちを頼む。まだ二の鳥居をくぐるな。君たちがくぐれば戦いになる。狗神はまだ新たな主人の言うことを理解しきれていないからな」
そう言って、私たちを二の鳥居のこちら側に残して、一人で鳥居をくぐった。
しかし、私や鏡子は見てしまっていた。拝殿では中年の女性が、誰かの首を胸に抱いて狂ったように泣き叫び、右京くんは身体中から血を流して拝殿前の地面に転がっている。
ソラさんは、つかつかと右京くんのところまで歩いていくと、膝をついて首筋に手を当てる。その間も、女性の泣き声が響いていたはずだが、なぜか私にはその記憶がない。これは鏡子もそうみたいだ。
ソラさんは顔を上げて、茫然としている克麿さんではなく、彼の背を支えているさくらさんに、静かに言う。
「……まだ息があります。急いで屋敷に連れ帰り、手当してあげてください」
それを聞くと、克麿さんは我に返ったように立ち上がり、転げるように二の鳥居まで駆けて来ると、下に向けて使用人たちを呼ばわった。
「みんな、右京が大変だ! 早く来てくれ!」
下でざわめきが起こり、数人が駆け上がって来る音が聞こえる。克麿さんはそれを聞いて、今度は拝殿へと歩いて行き、泣き喚いている女性にビンタを喰らわせた!
パアアンッ!
その音は、今まで音のない世界にいるのかと思っていた私の錯覚を打ち破る。いつの間にか雨は雪に変わっていた。
女性は右頬に手を当て、驚いたように克麿さんを見上げる。克麿さんはその女性に、冷ややかな声を浴びせた。
「……さくらの時は黙認した。が、右京がこうなっても、なお継麿のことが大事か?」
……やはりあの女性は、克麿さんの奥さん、乙女さんのようだ。
「……戻子、どういうことやろな? まさかうちら、奥さんの不倫現場に凸しとんか?」
鏡子がデリカシーの欠片もないことを耳元でささやく。
しかし、はた目から見ていると鏡子が言っているようにしか思えない。
「……よく分かんないけれど、私たちが口出しする問題じゃないみたい」
私は、そう答えるのが精いっぱいだった。
その時、使用人たちが広場に到着した。彼らはみんな、『本家筋以外立ち入り禁止』という禁令と、目の前の理解しがたい光景に固まっている。
克麿さんは、拝殿の上から、
「緊急事態だ、構わない。早く右京を屋敷に運び手当し、警察を呼べ!」
そう大声で言う。使用人たちは呪縛が解けたように動き出した。
ソラさんは油断なく辺りを見回している。いつの間にか、ソラさんはさくらさんの横に立っていた。
右京くんが運び出された後、克麿さんは乙女さんに訊く。
「誰が『月人』たる継麿を手にかけた? まさか右京ではあるまい?」
乙女さんはそれに答えずに、
「さくらの時、私はお暇を頂戴したいと申し上げましたのに……」
そう、克麿さんを見て恨みがましく言う。
「……『月人』には子はいないのが鉄則だ。柄麿や葵さんの轍を踏みたいのか?」
克麿さんは静かに言う。乙女さんは黙り込んだ。
「……葵さんは継麿から乱暴されて柄麿を孕んだ。だが、『月人』の掟に邪魔されて認知もされずに柄麿を生まざるを得なかった。
その葵さんも、お前が継麿との間にさくらを生んだために自殺してしまった。そのことを忘れたのか!?」
克麿さんの言葉は、最後は悲痛な響きを以て乙女さんの記憶を呼び覚ましたようだ。乙女さんは血の海に突っ伏して嗚咽し始める。
「……それで、継麿を手にかけたのは誰だ? 右京ではない。あいつには犬神様が憑いておらんかった。早う話せ!」
泣いてばかりで埒が明かないと思ったのか、克麿さんがカッとなって手を振り上げた時、ソラさんが静かに言った。この場に似合わない、優しく穏やかな声だった。
「ぼくは一条さんの関係者です、この件に関して意見を述べる権利はあるかと思います。
で、問題の継麿さんの狗神を奪い、けしかけた人物ですが、その名前を言う前に、彼がそれをした理由、そして方法を、解っていることだけお話しします」
ソラさんがそう言った時、樟葉さんはクスリと笑って、髪を括っている赤と白の飾り紐に手を伸ばす。そしてゆっくりとそれを解き、手に持った。
克麿さんは改めてソラさんを見る。そして何か言おうとしたが、黙ってうなずいた。
「まずは理由です。二つあります。さくらさんを手に入れること、そして狗神憑きの血を絶やすこと……です。克麿さん、犬塚家が狗神と交わした誓約を覚えていますか?」
ソラさんが訊くと、克麿さんは小さくうなずいて答えた。
「……里をそのままに残すこと、犬神の秘密を守ること」
「……ぼくは、あなたのやり方が間違っているとは言いません。
でも、狗神の方から見れば、『犬神伝説の里』として活性化を図るやり方を、誓約違反だと考えても不思議じゃありません。
たとえそれで、集落が栄えていたとしても、神の考えはぼくたちには測りがたいところがありますので……」
そう言うと、克麿さんは黙り込んだ。
「それで、どうやったか、ですが……」
ソラさんは樟葉さんを見た。樟葉さんはうなずき、狐さんたちを呼び出す。私たちには見えないけれど、樟葉さんの両肩にかかる髪が風もないのに揺れた。
「その人物は、克麿さんのやり方に反対していた。だから狗神は『月人』たる継麿さんを離れてその人物に乗り換えた。その人物が右京くんのように『月人』の才能を持っていたことも関係しますが。
その人物は、右京くんを唆して自分の狗神と共に彼の狗神で一条さんを襲わせた。と言っても、右京くんの狗神は目晦ましだったみたいで、彼自身もそんなに期待はしていなかったようですけれどね?」
「じゃ、最初に襲ってきて、樟葉さんの狐さんたちに退治されたのが右京くんの犬神?」
私がつぶやくと、樟葉さんも
「……道理で、狗神にしては練れていないと思ったわ。まあ、素人に毛が生えた程度の右京くんが、犬の霊魂を実体化できただけでも十分凄いと思うけど」
そう、うなずいていた。
「乙女さんを解放したのは、継麿さんを結界である本殿から誘き出すため。ただ、その企みを見破った右京くんが飛び入り参加したことまでは、想定外だったでしょうけれどね?
そうでしょう、犬吠柄麿さん?」
ソラさんが、拝殿の反対側の暗闇に向かって声をかける。その瞬間、樟葉さんの髪の毛が再び風もないのに揺れた。
「ハハハハハハ!」
突然、暗闇の中から男のヒステリックな笑い声がした。樟葉さんや私たち、そして克麿さんやさくらさんは、それぞれ身体を強張らせたり、戦闘態勢を取ったりしたが、ソラさんだけは自然体のまま、闇を見つめていた。
「……すごいな君は、まるで最初っから俺の側で一部始終を見ていたみたいじゃないか」
そう言いながら、草むらの中から男性が姿を現す。革のジャケットに革のズボン、登山靴を履いた若い男だ。首にはすっかりくたびれた臙脂色のマフラーを巻いていた。
柄麿さんは長い前髪をかき上げると、鋭い眼光を放つ険のある目つきでソラさんを見て吐き捨てる。
「……せっかく右京にぜんぶ擦り付けられると思ったんだが、君のおかげで台無しだ。
俺は君の言うとおり犬吠柄麿。君の名を聞いておこうか」
「……化野空。君の狗神使いとしての能力、消去させてもらうよ」
ソラさんは両手をジーンズのポケットに突っこんだまま言う。柄麿さんはその態度に激昂し、目をむいて吼えた。
「ふざけるな! 君は何様のつもりだ!?」
……私には、柄麿さんの身体から赤黒い何かが噴出したように見えた。
「ふぇっ!」
鏡子にも見えたのか、それとも感じ取ったのか判らないが、私の横で首を絞められたニワトリのような声を出す。鏡子が立つ地面やズボンから湯気が立つのが見えた。
「シュテン! 敵は化野空だ! こいつをズタズタにしろ!」
柄麿さんがそう叫んで右手を伸ばした時、その手首から先が突然ちぎれて宙を舞った。
グアアアッ!
「うわああっ!?」
柄麿さんは思わず叫び声をあげ、右手首を押さえてうずくまる。その後ろから、仔牛のような大きさの茶色の犬と白銀に輝く犬を連れた周さんが現れた。
「悪ぃな。俺のスケタケは、空さんに手を出す奴には問答無用で飛び掛かるんだ」
周さんはそう言いながら、灰色の犬が咥えて来た柄麿さんの右手を受け取ると、何か呪文を唱えながら九字を切る。そして、丁寧に和紙に包み、うずくまっている柄麿さんの足元に放り投げた。
「もうお前は狗神を使えない。早く病院に行きな、急げばつながる可能性は残っているぜ」
「ふっ……ふっ、ふざけるなあっ! 俺は『月人』だぞ!」
柄麿さんはそう叫んで、ちぎれた右腕を虚空に伸ばす。赤黒い靄がその先に広がり、渦を巻き始める。
周さんは、
「止めろ! 死にたいのか!?」
そう言って柄麿さんを制止しようとするが、
「周、離れるんだ!」
「ちっ、しまった!」
ソラさんの言葉を受けて、5メートルほど跳び下がる。
ソラさんは、気を失ってしまったさくらさんを抱えて拝殿に上り、克麿さんに引き渡しながら言う。
「本殿の中へ。あそこなら狗神も手出しはできません」
「柄麿はどうなりますか?」
さくらさんを抱き上げながら訊く克麿さんに、ソラさんは悲しそうに答えた。
「狗神がどう裁くかです。ぼくたちではどうにもなりません」
その時、
グルルルル!……ゴアッ!
身の毛のよだつ唸り声を上げながら、牛ほどの大きさがある黒犬が現れた。柄麿さんは目を輝かせ、
「行け、シュテン! さくら以外、ここにいる奴らを皆殺しにしろ!」
そう叫ぶが、黒犬は鋭い目を柄麿に当てて唸り続ける。
「どうした、俺はお前のご主人だぞ!? シュテン、なぜ言うことを聞かない!?」
その時、私も含めてその場にいる全員が、黒犬の言葉を聞いた。
『わしの名は『マモリ』。『シュテン』などという名ではないわ!』
柄麿さんの顔に一瞬驚きの表情が浮かび、そして絶望に歪んでいくのが分かった。
「……どうし……て……?」
がっくり肩を落とす柄麿さんの後ろから、いつの間にか近くまで歩いて行った樟葉さんが、答え合わせするように言う。
「アタシの管狐で、あんたが掛けた二重の名前を剥いでやったのよ。狗神の乗り換えに乗じて名付けの呪を使い、元の記憶を封印するなんて、あんたやるじゃない」
「だが、それが破れた時、どうなるかは覚悟していたんだろうな?」
周が言うと、柄麿さんはびくりと身体を震わせ、狗神『マモリ』に向かって、恥も外聞もなく命乞いを始めた。
「た、助けてくれ。俺はこの里を変えてしまう『月人』のやり方が我慢ならなかっただけだ。だから犬神様も俺に力を貸してくれたんだろう!?
こいつらを排除して、俺が『月人』になれば、犬神様の誓約を守れるんだ! だからもう一度……ぐばっ!」
ガブッ、ブシャアアアッ!
『マモリ』は命乞いする柄麿さんを冷たい目で見ていたが、いきなりその喉笛を食い破った。柄麿さんの身体は血を噴き出しながらゆらゆら揺れていたが、やがて軽い音を立ててうつぶせに倒れた。
『マモリ』さんは、ソラさんを見て目を細め、
『……神の加護ある人間よ、この家の者たちに話したいことがある。拝殿に皆を集めてくれんか。管狐と他の狗神は拝殿の外にいさせてほしい』
そう頼む。ソラさんは樟葉さんと周さんに薄く笑いかけてうなずく。二人とも笑ってうなずくのを見て、ソラさんは本殿に向かった。
本殿から克麿さんが拝殿に降りて来た。彼は『マモリ』を見て深くお辞儀し、
「……話があるそうですね。父が身罷って今は私が本家の最年長です。犬神様のお言葉、謹んで聞かせていただきます」
そう言う。
『マモリ』さんは慈愛に満ちた目で克麿さんを眺めるとうなずき、
『そなたの献身と信仰、そして村を思う気持ちは分かっているつもりだ……』
そう優しい声で言い、恐縮する克麿さんに続けて言った。
『……この神域は穢れた。わしはもうそなたらを助けることはしない。誓約もなかったことにする』
動かなくなった柄麿さんを見つめながら、『マモリ』さんは少し間をおいて、
『時代は変わる。我ら狗神も、神力を持つものも少なくなっている。
人間が鬼神を身近に感じ、神仏を貴んでいた時代も終わっていくのだろう。
これからお前たち人間は、誓約に捉われることなく、好きに生きてみよ。わしの名を生計の助けに利用することは、これまでの関係から認めてやる。
だが、山を汚し、川を汚す者がおれば、わしは許しはしない。それだけは忘れるな』
「……では、もうこの里は犬神様のご加護は受けられないのですか?」
茫然としていた克麿さんが訊くと、『マモリ』さんはニヤリと笑い。
『もとより、わしがそなたたちのために加護を与えた覚えはない。ただそなたたちの献身に応じて神力を使っただけだ。今さら加護など烏滸がましいわ』
そう言うと、
『この2百年、楽しかったぞ。誓約はなくとも献身があれば、それに応じた報いは与えよう。善悪問わずな』
『マモリ』さんは一声凄絶な遠吠えを上げ、疾風のように山へと去って行った。
その後は、かなりの忙しさだった。
と言っても、犬塚家での殺人事件については、私たちは関係がないと克麿さんやさくらさん、右京くんが証言してくれた。
そのため警察は私たちを、大学の調査に来ていてたまたま事件に巻き込まれたものと認識し、調査中や宿泊中の犬塚家の人たちについて、軽く話を聞かれただけだった。
ソラさんと周さんは、いつの間にか集落から消えていたけれど、克麿さんは約束どおり私たちを対岸に送るよう警察に掛け合ってくれた。そして樟葉さんは、私たちがK市で電車に乗るまで一緒に行動してくれた。
「樟葉さんはソラさんの所に帰らないんですか?」
駅で別れる間際、私が訊くと、樟葉さんはメットのバイザーを押し上げ、
「そうねぇ……空さんから頼まれている品物を仕入れなきゃいけないから、しばらくは四国にいるわ。
周はもう、別の品物を探しに九州に行っちゃってるから、アタシもうかうかしていられないのよ」
そう言った後、恥ずかしそうに白状する。
「あのさ、アタシ、戻子さんに『アタシは空さんの彼女』って言ったじゃない? あれ、嘘なのよね」
「え?」
私は頭に『?』マークを浮かべる。なぜそんな嘘をついたのか、という疑問より、お似合いの二人なのに、なぜ付き合っていないのか?……そんな疑問の方が大きかったように思う。
「なんでそんな嘘をついたかって?
空さんがあなたを気に入っているみたいだから、ちょっとからかってやろうと思ったの。
でもあなたって、ぜんぜん動じていなかったから、詰まんなくなっちゃった」
「いえ、単にソラさんと樟葉さんってお似合いだなあって思って、納得しただけですが」
私が正直にそう言うと、樟葉さんは呆れた顔をしたが、すぐに笑って、
「……あなたには敵わないわね。でも楽しかったわ。相方さんにもよろしくね?」
そう言った後、バイザーを下げかけたが、またバイザーを上げて、
「あ、そうそう。あなたたちの大学に送られた条件、あれって柄麿がすり替えたものみたいよ?
彼のパソコンを調べていたら、克麿さんの文書を勝手に改ざんした履歴が出てきたの。
よかったわね、貞操の危機が生じなくて?」
そう言って今度こそバイザーを下ろすと、あっという間に駅前の大通りに消えて行った。
私はしばらく彼女の後姿を見送った。そして悪夢のような集落の思い出より、彼女と過ごした楽しい時間の方を大事にしようと思った。
「戻子、早うせんと乗り遅れるで!」
鏡子が改札の向こうから呼んでいる。私は、日常の世界に戻るため、彼女に微笑みかけながら改札を潜った。
今回の旅で、私の心に一番刺さったのは、『マモリ』さんが言った言葉だ。
確かに時代は移り行く。時代に合わないものは淘汰されていくだろう。
でも、私たち人間が鬼神を身近に感じ、神仏を貴んでいた時代も終わっていくのだろうか? 人は誰だって弱い存在で、心の中では何かにすがりたいって思っているのに。
すがる対象、それは同じ人間だったり、なにか不思議な(形而上学的な)ものだったりする。それは人によって違うけれど、精神的な部分ですがるもの……それは宗教とか科学とかだろう。
そして科学的な法則や哲学的な考え、因習や迷信は、ちゃんとした論文のほか、教義書や口伝、あるいは伝承や伝説とかとして世に伝わるわけだ。それらが人間の社会の中で何らかの影響を与えたり、軋轢を生んだりした時、人はそれを排斥したり、攻撃したりする。
でも、自分が自分であるために、何か信念を持つことは大事だ。人から強制されず、そして強制することもない信念……そんなものを私は持っているだろうか?
あの集落は、それまでの心のよりどころである犬神を失った。でも、残された人たちは、伝承や伝説を自分たち集落のために生かすことを知っている。
あの人たちが、過去の因縁や今に続く恩讐を乗り越えられるだろうか?……乗り越えられると信じたいな……そう思いながら、私は白く雪を置く四国の山々を電車の窓から眺めていた。
(無常堂夜話その6~残されし人の物語 終わり)
皆さん、明けましておめでとうございます。
2026年を迎えて初めての投稿は『無常堂夜話』のシリーズになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、主に四国に伝わるある神道流派(と言っていいかどうかは疑問ですが)の方に聞いた話がベースです。ただ、その流派そのものは、諸般の事情で出していません。その代わりの『犬神伝説』です。
犬憑き、狐憑き、蛇憑き、蠱術……動物霊を使うのは心が痛いです。そして、そんな方法を編み出す人間の暗い面を感じてしまいます。
でも、光あれば闇あり、人間は浅ましい生き物だとしても、崇高な面も必ず持ち合わせているはずです。作中の克麿の言葉ですが、そう信じないと、やりきれない部分もありますね。
では、今年もよろしくお願いいたします。いずれまた!




