色即是空
掌篇の第九輯。シリーズ#9
「そばくう(Soba Kuu)」
ちょうど蕎麦屋の前だったので、
「え? 蕎麦食うの?」
「蕎麦を食べる(I Eat Soba Noodles.)じゃない」
「蕎麦食うって言わなかった?」
「Soba kuuは『蕎麦食う(I Devour Soba Noodles.)』 じゃない。蕎麦は空だ、と言ったのさ」
「紛らわし過ぎる、蕎麦屋の前で」
「まあ、これも、ゑにし(縁)だ。食べてくか」
「やっぱ、食べるのか」
縄暖簾をくぐった。
昭和の匂いぷんぷん。塗装のない無垢の木製椅子に坐る。卓の板面は凹みや瑕でデコボコだ。無味乾燥。
出された茶で一服し、
「ところで、蕎麦は空、って何」
「蕎麦も色だろ? 色即是空(ヤドゥ ルーパン サー シューニヤター)なんだから、蕎麦即是空」
「だから、蕎麦空か。やっとわかった。何の意味もないが」
「そりゃあ、空だから」
「そういう意味じゃないんだが。ま、いいや。
空って、何もない、何でもない、ってことだよね?」
「まあ」
「じゃ、定義も特性もない?」
「いや、違うね。だって、それも定義じゃん」
「って、批判するそれも定義だけど?
定義・特性・〝かたち〟がないんだから、違うとか、間違いとか、正しいとか、同じとか言えないんじゃない? って、これも定義・特性・〝かたち〟かあ」
「だから、空なんかない。存在しかないのさ(当たり前か)。
パルメニデスは『〝あらぬ(τὸ μὴ ὂν)』を想うことも考えることも言うことも許さなかったんだろな」
「ならさあ、色即是空空即是色も成り立たないんじゃない?」
「成り立たなくさせるのも、定義とロジックだぞ」
「って、批判するそれもね。……ちっ、八方塞がりでやんす」
「世俗は甚深でありんす」
花魁言葉を使うことに意味はない。でも、バカバカしくて何だかおかしい、と彼は感じた。だから、この二人は気が合うんだろう。
「妙味だね」
天平普蕭はそう言った。
そんな言葉を無視し、真兮くんは備前焼の蕎麦猪口の火襷を眺め、
「いい景色だねー」
普蕭は普蕭で、それを無視し、
「そう言えば、空海は玄奘の譯した般若波羅蜜多心経を鳩摩羅什の譯だと想っていた節があるらしいね」
真兮くんは未だ蕎麦猪口を眺めて、
「羅什が最初に漢民族の言葉に譯した人だからね」
「世の中は摩訶不思議だね」
「そうね。ちなみに、世間一般に流布しているのは玄奘の譯した、
『舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是』
であるけど、貝多羅葉(椰子の葉)に遺ったサンスクリット語版の般若波羅蜜多心経を漢譯すると、
『舎利子 色空 空色 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是』
で、それを和譯すると、
『シャーリプトラよ、「感受の因子として想定される実在という特性」は「空という特性」である。「空という特性」がまさに「感受の因子として想定される実在という特性」である。(すなわち、感受因子の実在という特性と空という特性との二つがあるということではないため)感受因子の特性は空という特性と異ならず、空という特性は感受因子の特性と異ならない。感受因子実在の特性がすなわち空の特性そのものであり、空の特性がすなわち感受因子実在の特性そのものである。これは同じく〝實在〟の構成要素である感受・表象作用・構成力・識別に就いても同じである』
ってことになる」
「お、来たね、蕎麦来ル」
「何、それ」
「え? 森鴎外『寒山拾得』で閭丘胤が小女に水をもって来いと命じて水が来たとき、〝水が來た〟と表現しただろう。三島由紀夫が文章読本で取り上げた一節だ。曰く、漢文の〝水來 〟のような感じ、だと」
「ふーん。じゃ、食べますか」
ずずずっと啜る。
「最近、いい古書あったかい?」
「神田神保もずっと行ってない」
「おや、書肆を営む人間が何と不謹慎な。
ちなみに、江戸時代、書肆街と言えば、日本橋界隈だったらしいね」
「知ってる。明治になって、神田の大名屋敷跡に法律の学校ができて、本の需要が高まったって話でしょ」
「飯時には、こういう条理ある話がいいね」
「『饗宴(Συμπόσιον)』か」
「プラトンのね。古代ギリシャ人は食事後に飲み始めたんだ」
「體にいいね」
「そういう宴のときの話題は、異国の風物や事歴、歴史や哲学など条理ある話だったらしい」
「いいね」
ずずずーっ。
「旨いなー」
「旨いよ。色即是空であっても旨いね」
「未定義だから仕方ない」
「それも一つの定義」
「楽劇『トリスタンとイゾルデ』だなあ」
「もしかしたら、無限旋律って言いたい?」
ずー、ずずずーっ。The Answer Is Lyn' In The Sound of Sipping Soba♫
「旨いな、わかっちゃいるけど、やめらんねえ♫」
ちなみに、スーダラ節のフレーズを故植木等氏の父(浄土真宗の僧侶)が「これこそ親鸞聖人の教えだ」と褒めたというエピソードがある。故青島幸男氏の作詞。
渡る世間は備前の緋(火)襷。白志野焼の鐡絵附。
9は最高の陽数。瀧澤馬琴が本来、南総里見八犬伝に於いて、五巻で一輯を構成するはずが第九輯だけが巻数が異様に大膨増しているのは、そのせいだと言われる。