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レイヴァンズ・ベイリークロフトの憂鬱

作者: 白雨

灰色の空の下、流れゆく人々に交じり足を進める。

アンティーク調の時計を手に確認すると、時刻は既に3時を回っていた。

急いで鉄道に乗り込み、ロンドンの中心側へ向かう。

ベルグレイヴィア。知る人ぞ知る、高級住宅街。

その一角にある、微かに苦みが香る建物。そこに用があった。

扉を開け中に入ると、ほろ苦い酸味の香りが肺いっぱいに広がる。

人気のないコーヒーハウスはとても静かな空間で、物寂し気に私を出迎えたのだ。

しかしこの物寂しさは、人込みの中とは違った別の賑やかさを私に教えてくれる。

しかし、それはそれとしていただけない部分がある。


「はぁ…」


この人一人いないコーヒーハウスでこれだけ珈琲の香りが広がっているのには理由がある。

私はカウンターに近づく。フラスコの下にあるガストーチのつまみを優しくひねり、火を眠らせる。

傍に置いてあるサイフォンをハンカチで慎重に手に取り、二階へ上がった。

階段を上った先にあるのは、白い外観に似つかわしくないビターカラーの古美術めいた扉。

静かにノブに手をかけ、扉を開く。


「こんにちは。」


沢山の骨董品が騒がしく置かれ、壁に密集している本棚が見える。

古ぼけたインクの匂いを放つ書籍を手に、窓際のデスクに座る一人の男が私を出迎えた。

深い青の髪を揺らし少しばかり後ろに伸びたそれを束ねた、端正な顔立ちをした若い男だ。


「蒸留したまま放置するの、やめてくれます?先生。」不機嫌に私は言う。

「私としては、勝手にお家に上がるのをやめていただきたいものですが。」男は私に答える。

一杯お願いしてもいいですか?と、彼はデスクのカップをなぞらせた。


私は、カップに黒い滴を注ぐ。

彼は私の先生だ。正確には教諭ではないのだが、私が勝手にそう言っている。

デスクの前にある長椅子に腰かけ、もう一つの茶器に同じように注いでみせた。


「ありがとうございます。」彼は白い(うね)に綺麗な唇をつけ、口に含む。

その様子に思わず喉を鳴らしてしまい、とっさに目を背けながら私は文句を告げた。「私をメイドのように扱わないでくれないかな。レイヴァンズ先生。」

「クリスさん、貴女が私の家に侵入するのがいけません。そんなことをするから、私は怠けてしまうんですよ。」凪のように微笑みながら陶器を置き、洋菓子を手前に引き彼は続ける。「今日はどのような御用でしょう。」


「用がないと来ちゃダメなの?」

「用がないのに侵入される身にもなっていただきたいのですが。」

「いいでしょう?どうせ私以外のお客さんなんて来ないんだから。」

「私は貴女になんだと思われているんでしょうね。」

「さあ?今日は愚痴を聞いてもらいに来たの。」

「いつも半分愚痴のようなものじゃないですか。」

「何か言った?」

「貴女の話には砂糖がないなと。」

「砂糖?」

「私は苦いのが苦手です。」

「知ってるよ。それが?」

「苦いというのは、痛いと書いて苦いなんです。愚痴なんて苦しいもの。口に含んでいる苦みは吐き出してしまえば楽ですが、その吐き出したものは誰が処理するのでしょうか。ああ、私かわいそう。」

「…じゃあ砂糖は?」

「聴いてて楽しくなるような話です。甘いものは口にすると私は嬉しいですから。」

「私の話は聞いてて楽しくないの?」

「楽しいか楽しくないでしたら、どちらかと言えば滑稽ですね。」

「なにそれ。」

「言葉にするのは少々難しいものがあります。どうかお気になさらず。さ。吐いて吐いて。」

「…かわいそうとか言いながら、なんだかんだ楽しみにしてるんじゃん。」

「いえ、満足すればとっとと帰ってもらえるかなぁと。」

「あっそ。…今朝の新聞見た?」

「見ましたよ。ロンドンの空は今日も雲に陰る」

「適当な記事出さないで。わかってるでしょ。レディ・ホームズのことだよ。」

「その話は以前にもしたじゃないですか。」

「…また揶揄われたんだって」

「懲りないですねぇ。貴女も貴女の学友も。」

「レディ・ホームズの名前が出るたびに、私は揶揄われる。やれ”2代目レディ・ホームズ”だの、やれ”偽物”だの。勝手にいろいろ話が広がるのは嫌なんだけど。」

「名前ってある意味逃れられない運命みたいなものですからね。クリスティン・ホームズさん」

「…先生まで私を揶揄うの?」

「いっそ慣れてもらう方向にシフトしようかと。」

「冗談じゃない。あんな危険なことに首を突っ込む狂人たちと一緒にされるのは御免だよ。」

「でしょうね。でも貴女がその愚痴をするとき、必ず一つ決まりがあるんですよ」

「…何。」

「”問題を解決してほしい”」

「…。」

「今度は何を馬鹿正直に引き受けてしまったんです。」

「…友達の親が、味を感じなくなっちゃったんだって。」

「ほう」

「かかりつけの医者に聴いても原因がまったくわかんなくて、感じる味もどんどん消えてる…貴族だから、なにか毒でも盛られたんじゃないかって話してる。よく会食には出てるらしいし…それで、私に解決してほしい。って。」

「なんで貴女が頼まれるんでしょうねぇ」

「わかんないよ…」

「そうですか。まあ要するに、毒を盛った犯人を見つけだせってことですね。」

「…馬鹿じゃないの。私は探偵じゃない…」

「ええ。そうですね。一学生にどうしろというのか。」

「…」

「…、ふう。」


彼は息をつき、本を閉じて茶菓子に銀器をさくりといれる。


「その貴族の特徴はわかりますか?」

「…うん。わかるよ。きいてきた。」

「それは結構なことで。今からいくつか質問をするので回答をお願いしますね。」

「わかった。レイヴァンズ先生。」

「ところで私、名前呼びされることに少し慣れていないのですが…」

「ベイリークロフト先生の方がいい?」

「ええ。心が落ち着きます。」

「やーだ。先生はレイヴァンズ先生でいいんだ。」

「心が乱れますねぇ。」


では。と、先生の質問が始まった。


「その方のご年齢は?」

「よく覚えてないって。でも40代なのは確かって言ってたよ。」

「会食は月に何回ほどでしょう?」

「5回。結構通ってる。…誰がなに入れたかなんて多すぎてわかんないよ。」

「なにか習慣はありますか?」

「他の貴族とお酒をよく飲んでるって。」

「ふむ。煙草はかなりの頻度で吸われますか?」

「…確かよく友達が、臭いが酷くて困ってるって言ってた。なんでわかったの?」

「それは後程。最後ですが、その人は足の痛みをよく訴えますか?あるいは、足によく疲労が溜まるとか。」

「痛み…それはちょっと…わかんない。でも多忙みたいだし、いつも車で移動なんじゃないかな。」

「でしょうね。」

「…これで終わり?」

「ええ。犯人分かりましたよ」

「え!?」


私は目を見開いて、思わず声を上げてしまった。

聴かれたのは、年齢、会食の回数、習慣、それから、煙草を吸うか…最期のに至っては憶測だ。

こんなものでわかるものなのか。…いや。わかるわけがない。なぜなら。


「…どうして?会食に出た人とか、覚えてる限り聞いてきたのに、人どころか、どの会食かも、その人の名前すら聞いていないじゃん。」

「聞く必要ありませんもん。」

「聴く必要がない?」

「だって犯人なんていませんから。」

「…自作自演ってこと?」

「いえ。毒自体盛られてすらいないです。」

「…味覚がなくなるぐらいなのに…?」

「味覚がなくなるのは毒を盛られたからとお考えのようですが…それは少々違います。」

「違う?」

「ええ。確かによほどのことがなければ味覚は消えません。それこそ毒を盛られなければ。」

「…じゃあなんで」

「盛られたんじゃなくて、自分で服用したんですよ。」


「…は?」言ってることがさっぱりな私は、そう息を漏らすことしかできなかった。


「…じゃあ…やっぱり自作自演じゃん」

「それが意図されたものならばそうでしょうね。ですが、気づかぬうちにそうなってしまったんです。」

「…言ってることがわかんないよ、先生。結局どういうことなの?」

「まあ、聞いたら信じられないと思いますが…それはですね。」


次の瞬間、私は耳を疑った。


「ただの高血圧です。」


「…ただの、高血圧?」


思わず聞き返したほどだった。


「はい。まあ厳密には…その高血圧の治療法ですね。流行ってるじゃないですか。高血圧を治すためのいろんな治療法。」

「うん。熱による電気治療とか、レモネードとか…」

「はい。そのうちの一つ、降圧利尿剤に原因があります。」

「利尿剤?」

「降圧利尿剤は血圧を下げるのに服用される薬なんですが、これ実は長い期間服用するとですね。どういうわけか、なんとびっくり味覚が消えます。」

「えっ!?」

「お医者さまにかかりつけられているとのことだったので、多分何かしらの御病気をお抱えなのではないかなと思いました。この時点ではまだ何も予想できてないので、とりあえず毒を盛った腺は外してません。ですが…会食の数でちょっと話が変わります。」

「会食に出た回数で毒を盛ってた人を絞ってたんじゃ?」

「それもありますが、もう一つの理由として食事量にあります。会食ってけっこー脂物でるんですよね。脂肪分多い食材が、そりゃあもう豪勢にどーんと。高血圧は度重なる大きな食事によっても引き起こされます。年齢も30代から50代にかけて高血圧になりやすいので、その年齢でその回数の会食だと食べすぎかなぁと。飲酒と喫煙も高血圧の素です。」

「…それで高血圧なのはわかったけど…どうして薬?」

「自分が投与してる薬を良い物として疑わない医者って結構いるんですよ。貴族のかかりつけ医がわからない症状ってよっぽどのことなので、そうでもなければ多分与えてるお薬が原因かなぁと。それと、味覚が消える症状は基本的に二つです。」

「二つ?」

「”わからない”と、”毒の投与”です。」

「”わからない”…。」

「ええ。人間全知全能の神じゃないので。イレギュラーは常に存在します。だから、常に実験と実践、そして後退と前進を繰り返してるんですよ。」


ぱくり、と、最後のクリームを一口頬張り、先生は告げた。


「そういうわけなので、食事の減量と禁酒禁煙、それから適度な運動をさせてみてください。足のむくみがあった場合はべつの可能性がありますので、医師を変えて診察をお勧めします。以上。」

「先生って本当に先生だったんだ。」

「いえ、医者じゃないですけど。」

「じゃあ、なんでそんなに詳しいの。」

それを聞くと先生は立ち上がり「それはですね」と言い、隣りの紙袋からもう一つ、黒い洋菓子を取り出すと、つまんで私の口へ押し付けてきた。

「んむっ…」

人差し指を私の唇に押し付け、艶めかしく微笑んだ。


「秘密です。」


ほろ苦くて甘いはずのそれはどうしてか、その時だけは少し酸っぱかった。

「そういえば砂糖が嬉しい話ならミルクは何なの?先生」

「内容の上品さですかね。」

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