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ぶん殴るのに丁度いい人(後篇)

作者: 南希

4章 結論




 初めて人を殴った。柔らかいような固いような、そんな感覚。殴った手の甲が燃えている、火が立ち上っていなければおかしい感覚だった。昔ながらの親友に一発喰らわせてやった。何一つ解決させてないまま一方的に手を出し、家まで休息もなく走った。あんなに走ったのは学生の頃のマラソン大会以来だ。逃げるように帰り、ずぶ濡れになった体から垂れる雨水により玄関が大変なことになっている。ただ、そんなことはどうでもよかった。


 城戸は玄関に座り込み小さく蹲った。手がズキズキしている、今まで味わったことがない痛みがそこにある。感触が残っている。肉と骨。払っても払っても人を殴った感触が手に残り続けて、指ごと切り落としたい衝動に駆られた。バラエティ番組のようなコミカルな効果音が鳴っていればどれだけよかっただろう。目の前の男を殴った時、硬いものと硬いものがぶつかり合った鈍い音。決して親友から出ていい音ではなかった。音を出させた当人がそんなことを思っている、愚か者にも程がある。


 城戸は水没しそうなほど濡れた携帯を取りだし、メッセージアプリを起動させた。だが、画面が表示される前に怖くなって携帯の電源を落とし、再び体を埋めた。今はとにかく何もしたくなかった。


 気づいたら城戸は寝ていた。気絶するように玄関で眠りにつき、アラームもなしでいつもの時間に目が覚めていた。ロボットのようだ、不良品だろうけど。起きてすぐ体の不良に気づいた。寒気も止まらず、喉も痛く、頭がぼんやりしている。風邪だった。


 電話で体調不良と会社に伝え、布団に潜り込んでまた丸まっていた。きっとダンゴムシですらこんなに丸まらないだろう、そんな不毛なことを考えている。少しずつ頭が正常に、そして冷静になっていく。思考回路の回復、即ち後悔の念に駆られる数秒前だった。


「あー、終わったな俺」


 ここでやっと今の最悪な現状を再認識した。昨日は色々あった、それはもう濃厚な出来事が。上手くいっていた彼女である加奈に暴言を吐き、こんな自分にずっと寄り添ってくれた戌亥を殴ってしまった。連絡先が二件も無くなるであろうその事件に、現実逃避と言わんばかりに夢の世界へ転がり込んだ。そして風邪を拗らせた、なんてザマだ。


 加奈には戌亥を蔑ろにされたから怒鳴った。戌亥には今までの鬱憤と加奈を無下にされたから手が出た。拗らせすぎだ、絶対に。


 ……苦しい、自分の中のものが擦り切れていくのが分かる……体も心も……いよいよこれで、俺はひとりぼっちか……へぇ……。


「だからなんだ!」


 城戸は布団から飛び出し部屋中を駆けずり回った。噴火した体に鞭を打って、家にある自分の好きな物を寄せ集めていく。


 漫画を読んだ。何回読み直しても心が踊り、魅力的なストーリーやキャラクターに酔っていく。

 アニメを見た。少し前まで興味があった新作を一気に消化していき、新しい感動や興奮に酔っていく。

 ゲームをした。ちっぽけなこの世界とは比べ物にならない広大な冒険をし、熱気と情熱に酔っていく。

 音楽を聴いた。軽やかなメロディラインが右から左に突き抜けていき、懐かしさや切なさに酔っていく。


「いい、これでいい。俺にはこいつらがあれば生きていける! 彼女なんて居なくても、友達なんて居なくても!」


 ……別にあの二人が居なくても俺は生きていける。俺にはこれだけの生きる糧がある。こんなにも幸せを感じていられる!

 ふと、正気の沙汰ではない城戸はボヤける視界の中でなんとか時計を見た。


 十五分。


 城戸は目を擦り再び時計を見た。

 十五分。何度見ても十五分。たったそれだけしか経過していなかった。これだけ自分の好きをかき集め楽しんだと思ったのに、たったそれだけの時間しか過ぎていかない。酔えていなかった。全くといっていいほど浸っていかない。集中しきれてない。他のことが気になってそれどころじゃない。


 だが何も手立てがない。終わってしまった、自分の手で終わらせてしまったから。自業自得だ。積んでいるこの状況に、城戸は心底絶望した。もうどうすることもできないから。

 目頭が熱くなる。表情はずっと変わらず真顔だ。目から溢れてくるそれは、自分の意思とは関係なく零れ落ちた。目から顎にかけて涙は一筋に流れ、城戸はそれをただただ眺めていた。手で拭うこともせず、息だけをひたすらに整えようとしていた。


 暗雲が立ち込める。悔しい、なんてもんじゃない。消えてしまいたい、そんな感情が渦巻いていた。


『これ見るんは、その友達となんかあってどうしようもなくなった時や。それまで大切に持っておくこと、約束やで。』


「……!」


 ふと、こんなことを思い出した。あんなに凄いインパクトだったのに今の今まで忘れていた。いつの日だったか、自宅であるこのマンションに設備されているエレベーター内に閉じ込められ、同じく閉じ込められた名も知らぬ個性的な男から成り行きでそれを貰った。こんな親指と人差し指で持てるような小さい物。


「メモ用紙!」


 あの時は訳も分からず無視をしていたが、まるで未来でも見通していたのか今はあの男に言われた通りどうしようもない状況に陥っている。あそこに何が書かれているのか、起死回生の何かがあると信じてしまったのは、あの異様な格好に現実的でない発想になっていたのだろう。


 藁どころか紙切れ一枚にすがろうとしている。


 城戸はまだまだ湿っているスーツのポケットを何度もまさぐった、ない。会社に行く時に愛用しているビジネスバッグを真っ逆さまにひっくり返し隅々まで探していく、ない。玄関からリビングを行き来しクローゼットも全て開けていく、ない。しまいには押し入れの奥にある小学校で使用していたランドセルの中も確認していた、ない。どこにもない。


 散らかった部屋、これでは余計見つからない。ふと、城戸の視界にとある電化製品が入った。これだけ部屋中をひっくり返しても出てこなかった紙切れだが、もしもこの部屋のどこかにあるとしたら、きっとそこなんだろうと思う。


 掃除機の中。


「あるだろ、ここに!」


 城戸は力強く蓋を開けると、見るだけで目が痒くなり鼻水が出そうになるほどの何日もの間で寄せ集められたゴミの山があった。大量の埃にまみれる抜け毛や虫の死骸。数多もの汚れが一つに固まって収められている。なんの躊躇もなかった。城戸は掃除機の中にあるダストボックスを手でまさぐった。普通の人間であれば、この塵芥に手を突っ込むことに躊躇うだろう。それが普通、何もおかしいことはない。こんなものに手を突っ込めるなんて正気の沙汰ではなく、そんな極限状態に陥っている城戸だからこそ出来た奇行だった。


 だが、その無謀ともいえる行動が功を奏したのか、クシャクシャになったメモ用紙がゴミの山から顔を出した。まるで砂金でも見つけたかのような驚きと喜びの表情をし、メモ用紙にくっ付いた塵を丁寧に払っていく。それなりに汚れは落ちて開こうとしたが、手が待ったをかけた。気の迷いだ。


 ……こんなものに縋って何になるんだ。こんな掃除機までひっくり返して、埃が散乱して俺は何をしているんだ。そもそもあんな変なオヤジに貰った物だぞ、絶対に悪ふざけに決まっている。こんな小さな紙切れにこの状況がひっくり返るようなことが書かれているわけが無い。現実はそんなに甘くない!


 また城戸は逃げようとしていた。現状が変わることを書いてくれてないという落胆と絶望、期待するだけ余計に辛くなる。それならば最初から期待しなければいい、とそう念じていた。

 一瞬の迷いだった。


「それでも俺は!」


 ……ずっとあいつと一緒にいた! 小さい頃からずっとあいつが……あいつだけが俺の横にいた! これで終わりなんて絶対に嫌だ!


 城戸はくしゃくしゃになっているメモ用紙広げた。


「なん、だこれ」


 書かれていた文章に城戸は目を丸くした。


 日本語だ。漢字もきちんと読める。だが、意味が分からない。この文字の羅列の意味が全く分からない。まるでインターネットで英文を訳したような、ちぐはぐで何もかもが引っかかる文章。何を思ってこれを書いたのか、何を思ってこれを渡したのか、これが何かの打開になるのか疑問が残り続ける。


 しかし、不思議と城戸の中で溶け込んでいく納得がそこにあった。現在の状況とかなり当てはまっていて、あの人は未来人か宇宙人かと想像してしまう。


「そんなやつ、いねーよ」


 城戸はメモ用紙を机の上に置いた。


 そして、もう一度目を落とした。




『ぶん殴るのに丁度いい人』




 城戸は携帯を開き、メッセージアプリを開いて一人の男のプロフィール欄を開いた。プロフィールのアイコン、笑顔でピースサインをする男の写真。

 眺めた。

 ずっと眺めた。

 憎たらしいその──親友の写真を。


     *


「先輩、今日空いてます? 久しぶりにどこか食べに行きましょうよ。あ、この前行った焼肉でどうですか。焼いた肉にビールでグイッと! グイッと行きましょうよ。どうですか?」


「悪い、ちょっと今日は」


「オーケーっす。じゃあ二名で予約しときますね」


「おい、強制やめろ」


 城戸の有無を言わさず有田は携帯を耳に当てた。


「あ、すみません予約がしたいんですけど。今から二名で──あっ!?」


「三名でよろしく」


 その有田の携帯を上から掠め取り、二名という言葉をかき消し三名と言い放ち、夢野は不敵な笑みを浮かべる。してやったりといった表情だった。


 時刻は午後の八時。あの件から一ヶ月が経ち、戌亥とも連絡を取らないまま城戸は仕事をし帰るだけの色のない日々を送っていた。少しでも頭を動かせば簡単に谷底に落ちていく、落ちた先がどうなっているか分からない。自分の中にある残り少ない何かを、少しずつ切り崩し命を繋いでいる感覚があった。


 君たちはどう生きるか、城戸はこう生きる。今日も今日とて脳を空にし淡々と業務に従事し、安く提供しているスーパーの塩むすびを二つ胃に押し込み、退社し帰宅後直ぐに泥のように眠る、そんな日々を過ごす。目も当てられない日々だ。地球儀を回す余裕すらない。

 そして現在、いい具合の時間でチラホラと帰宅する人も現れ、城戸も帰ろうとしていたが、有田と夢野によって横槍を入れられた。有無を言わさない鋭い槍だった。


「何勝手に人数増やしてるんですか。ていうか、夢野さんも来るんですか? えー」


「えーってなんやえーって。つれんこと言うなや、俺も混ぜてくれてもええやん!」


「夢野さんが来たらどんちゃん騒ぎになるやないですか。それはそれで楽しいですけど、今日は先輩と二人っきりでしっぽり飲む予定やったんすよ。ねえ、先輩?」


「そんな予定あったっけ?」


 それからというもの、やれ「夢野さん行ったらお金が足りない」だのやれ「今日嫁が実家に行ってて一人は寂しい」といった数分間の押し問答があり、夢野が奢るということで片がついた。ちなみに、城戸の片はついていない。

 片はつけないまま強制的に連行され、少し駅を跨いだ店舗に到着した。中に入るとテーブル席が三卓カウンターには七輪が三台あり、少し小規模で古きよき昭和を感じるような焼肉屋だった。少し煙くて視界が白いが、それがまた味がある。


 奥のテーブル席に通された三人は、メニューに一番大きく書かれたド定番な盛り合わせと酒を注文した。入口側の席に有田と夢野が座り、その向かいに誘い込まれた城戸は決して逃がさないと言わんばかりの二人に圧迫感を感じていた。

 やがて頼んだ酒がやってきて、有田が「今日もお疲れ様、乾杯です!」と音頭を取りグラスをくっ付ける。カチン! とガラスがぶつかり合う音が音叉にも負けないほど綺麗に、そして心地よく鳴り響く。

 一口。喉を焼いてしまうかのごとく炭酸が暴れだし、鼻から梅の香りが突き抜けていく。疲れた体にアルコールが染み渡り、頭のてっぺんから足の指先の爪まで酔いしれていく。


 筈だった。


「夢野さん、これ味あります?」


 水、ただの水、舌と喉が痛くなるだけの水。梅を一日も漬け込んでないかのような味もしないアルコールに、城戸を眉をひそめた。


「おいおい、薄く作りすぎたんか? ちょっと店員呼ぶわ」


「見た目、普通ですけどね」


 城戸は大きくため息をつき頭を抱えた。やっぱりかと言いたげな面だ。

 そんな男を横目に、有田は城戸のグラスを手に取り口にした。口の中でそれを転がし、喉に滑らしていく。まるでCMかのように味わい、見るだけでも気持ちよさそうに喉を鳴らした。


「うん、普通に美味しい。美味しいですよ城戸さん、味ありますよこの梅酒」


「なんやなんや幸雄ちゃん、ケチつけたい姑か? クレーマーも程々にしなアカンでホンマに」


「いや、違うんです」


 城戸は頭を抱えた。ただの頭痛で頭を押えているだけならマシだっただろうが、それはもう辛酸をなめたであろう空気での苦悩の体制だった。喉につかえて出てこない言葉を無理やりひり出した、長い数十秒だった。


「味、分かんないんです。もう一ヶ月くらい」


 空気が重くなったのが肌で分かった。目を丸くする二人を目の前に、城戸はどこか遠い目をした。周りの客にも聞こえたのか分からないが、心なしか静かになっていた。


「えっとコロナですか?」


「いや、検査したけど陰性だった。体に異常はない……と思う。恐らく、精神的なアレだと思う」


「精神ですか。ちょっと俺、今から携帯で課長に文句言いますわ。あのハゲをパワハラで訴えましょう!

「違う。違うから落ち着け有田。俺なら大丈夫だから。夢野さんすみません、そういうことなんで俺はここで」


 再び立ち上がり鞄を持ちジャケットを抱え店を出ようとした城戸だが、その通路を夢野が足を出し道を塞いだ。いつも楽観的で脳天気な夢野だが、その表情はいつになく真剣だった。机から大きく足を出している夢野は、机を指で何度も叩く。何度も何度も叩き、何かを急かすように叩いた。言葉は一切出していない、だが『さっさと戻れ、そしてそこに座れ』ということが伝わり、城戸は居心地悪いまま大人しく座った。


 すると突然、カウンターに座っていた男たちの一人が立ち上がり、城戸たちの席の前に佇んだ。その男は額に青筋を立てて、腕を組み三人を睨みつけた。


「まさかとは思うが、私のことではないだろうな?」


 その男は今日も今日とて暴言を吐きまくりヒステリックに騒ぐ会社の上司、城戸たちを含め会社の全社員から煙たがられてる存在。偶然か必然か本当にたまたまこの焼肉屋で居合わせたその上司は自分の悪口を聞きつけ、血管を浮き立たせ分かりやすく苛立っていた。相も変わらずバーコードを携えて。


 その上司は耳をつんざくほどの声量怒鳴った。


「なあ有田てめぇこの野郎、誰に喧嘩売ってんのか分かってんのか! 訴えれるものなら訴えてみろよ」


「ちょ、ちょっと声抑えて下さいよ! 人様に迷惑ですって」


「関係ねーよ。お前、俺を怒らせたらどうなるか分かってんだろうな! 俺が社長に直々に言えばお前なんて簡単にクビにできるんだぞこの野郎!」


「いや、ちょっと……それは」


「何だ何だ? 今更謝ろうったって遅いからなぁ。お前はクビだ、いやお前ら纏めてクビにしてやるぞ。いや、やっぱり転勤の方がええか。とんでもないほどド田舎の地方に飛ばしたるわ。ただまあそうやなぁ、どうしても許して欲しかったら許して欲しかったら今ここで土下座でもしてみろよ。ほら、土下座するか? ど・げ・ざ! ど・げ・ざ! ど・げ──」


 見た目から声色まで全てが不愉快な上司は、静まり返った店内でただ一人唾を飛ばしながら騒ぎ立てていた。

 まるで中学生のいじめっ子のような土下座の強要に有田が呆れかけていたその時、夢野がその上司の髪の毛を手で握りこんだ。少しでも動けば抜け落ちていきそうなその状況にコールは止まり、命乞いでもするかのような目を向けている。


 熊のように大きい図体、昔やんちゃをしていた面構え、肉体的に逆らってはいけない逞しい腕により、どれだけ抵抗しようが離さない。


「クビにしたけりゃ勝手にせぇ、代わりにといったらなんやが、こっちはお前がパワハラしてる写真とか動画を山のように持ってるからな。なあ、分かるやろ? 退職金貰いたかったら分かるやろ。ここは会社やないねん。職場やったら先輩後輩かもしれんけど、今この場では俺たちとお前ははただの他人や。なぁ──」


 夢野は上司に顔を近づけ眼を付ける。


「うっさいねんお前、消えろハゲ」


 暴論だった。会社外でも上下関係があるのは当たり前だが、そんなことは関係なかった。まだ抜けきれていない不良さが、常識をぶち壊していた。


 夢野が手を離すと、その上司は大事そうに髪の毛があるか確認し「覚えてろよ!」と、まさかの何億回も擦られた捨て台詞を口にし店から出ていった。あんなこと言う人間がまだ現代に残っていたのかと感心しながら「大丈夫ですか先輩、これって傷害罪とか脅迫罪とかになんないですかね?」と有田が心配するが、夢野は「あんなプライド高いやつが、髪の毛を抜かれそうになったから訴えるなんてこと恥ずかしくて言われへんやろ」とケラケラ笑っていた。


 そんな一部始終を無言で見守っていた城戸は、ふと上司と飲んでいたもう一人の男に目が止まった。あんな上司とは一変、できる男はスーツから違う。見ただけで高そうだと分かる革靴、一件地味だが見る人が見れば分かる高級時計、身に纏う落ち着きながらも威厳のある雰囲気。いよいよ何故、あんな上司と相席していたか分からない。そんな男は今の出来事に、やれやれという風に額をかき、穏やかな表情を浮かべていた。


「いやはや、まさかここまで嫌われているなんてな。すまなかったね、あいつ私の学生時代からの仲でね。悪いのはきっと日頃の態度が原因のあいつだろうから、私は直々に注意しておくよ」


 そして、その男は颯爽と去っていこうとしていた。


「ちょ、ちょっといいですか!」


 城戸は呼び止めた。久しぶりに出た声は、ボリュームが壊れているのか思ったよりも大きい。そして所々に裏返っていた。


「えっと、何か?」


 改めて振り向いたその男、きっと親戚の中では、おじさんではなくおじさまと呼ばれているに違いない渋さに一瞬言葉が詰まった城戸だが、構わず口にした。


「どうして、どうしてあんな人と一緒にいるんですか?」


 突拍子もない質問に流石に夢野が止めようとするが、城戸は無理やり続けていく。


「あの人といて不満とか溜まらないんですか? あの人といて辛くならないんですか?」


 ……あんな男と一緒にいて耐えられるわけがない。あんな馬鹿で短気で理不尽で傲慢で仕事もろくにしない定年間際のハゲオヤジの隣にいて不満が溜まらないわけがない。きっと爆発するはずなんだ、あの時の俺のように!


 そんな城戸の願望に近い想像だが、男は間を置かずに答えた。さも当然のような面持ちの時点で、愕然するのに十分だった。


「ないね」


 実際に口にされて、愕然を通り越して唖然、唖然を通り越して呆然、呆然を通り越して血の気が引いていった。衝撃すぎて受け止められないまま、錆ようとする会話のレバーを無理やり引っ張って繋ぎ止める。


「ど、どうして」


「ま、いくら親友でも多少のズレはあるよ。我々はクローン人間ではないんだからね、全く同じ思考の人間なんていやしない。だから、その都度修正していけばいい」


 男は何やら思い悩んでる表情を浮かべる城戸の肩に手を置き、優しく微笑んだ。


「駄目なことを駄目と言い合える、それが一番良い友人関係だと思うんだよ私は」


 そう言い残し、男は城戸が何かを言い返す前に素早く会計をし出ていった。まるで嵐のような出来事だったが、直ぐに雰囲気は切り替わり元の騒がしい焼肉屋に戻っていく。焦燥しきった顔で席に座り直した、グラスに入った酒をラッパのように傾け流し込んだ。やはり味はしない。

 ふと酒と一緒に流れ込んでくる記憶。


『いや、そりゃ何かあっただろあのハゲ。何かなかったらあんなに怒らないって。俺の予想だけど、家庭に居場所がないんだろうな。奥さんと娘に煙たがられて家に居場所がないから、会社でストレス発散してるんだ。会社で味方居なけりゃ、家庭でも味方が居ないってお前、天涯孤独とか笑えるな』


 ……誰かが言った台詞だ……確か有田に言ったのをよく覚えてる……本当によく覚えてる、惨めで馬鹿でそいつよりも劣っている男の捨て台詞だ……。


 城戸は有田の顔を向けた。


「有田……あんな奴にも、あんな気を許せる友達がいるんだな……笑えるな」


「先輩……」


 自分が今までずっと馬鹿にしていた上司、それを遥かに劣っていた現状に城戸は笑った。笑うしかなかった。天涯孤独、相応しいのはどっちだと決を採れば一人残らず自分に票が集まるだろう。

 賑やかな焼肉屋に不自然に会話がない一席、まるでお通夜の空気を漂わせながら店員が気まずそうに肉を運んでいく。ポツリと呟く「ごゆっくりどうぞ」という言葉はどこまでが嘘か本音か明白だった。


 城戸は鞄を固く握りしめた。


「帰ります」


「あかん」


「本当に帰ります」


「あかん」


「本当に帰らせてください」


「あかんっつってるやろ!」


 夢野は血管がちぎれんばかりに怒鳴った。さっきと薄っぺらいハゲの怒声とは一変、ドスの効いた太い声は耳から胸まで響く。再び焼肉屋が静寂に包まれ、城戸もその大迫力に席から立とうとしていた足がすくんだ。夢野はジョッキを男らしく持ち、豪快にビールを呷った。舌を通り過ぎ喉に直接出会わせ、上品なほろ苦さを味わいながら鼻から息をつき城戸を見た。ただ、その感情は怒りや悲しみといった分かりやすく括れるものではなく、目の前の男に寄り添ってあげることができる心中をお察ししたような、そんな感情だった。

 一息つき、夢野は口を開いた。


「犬っころのことやな?」


 もはや当てて欲しくはなかったが、夢野は可愛がっている後輩の気持ちを察せないほど出来ない先輩ではなかった。

 城戸は動揺した、訳でもなくただ俯いた。まるで問題なんてなかったかのような、まるで問題は全て解決したかのような、まるで問題から目を逸らし逃げてしまったかのような。


「犬っころって確か、先輩の同級生のことですよね。旅館のあの件があった」


「あったな……そんなことも」


「俺がアドバイスしたあの日から、なんかあったんやろ?」


「……ありました。それはもうめちゃくちゃありました。けど、もういいんです。もう全部終わりましたから。いや、終わらせちゃったんですよ、俺が」


 そのまま口を閉ざした城戸は、もう何も喋るつもりはないと言わんばかりの雰囲気を醸し出した。

 だが、この場から出ることは夢野が許さなかった。夢野は運ばれてた肉をトングで掴み、一枚一枚丁寧に焼いていく。直ぐに火が通る牛タンを城戸の皿に起き、別皿に運ばれたネギを大量に振りかけた。


「食え」


 まるでパワハラのようだった。


「早く食え、ほら次がくるぞ」


 まるでわんこ蕎麦のように肉を置いてくる先輩に、城戸は何も言わず肉を胃に収めていく。正直、味はない。感触は確かにあるが、噛めば出てくる肉汁も、舌全体に染み渡るタレの味も全く分からない。

 気づけば、城戸は涙を流していた。肉を口いっぱいにしながら、嗚咽を漏らし泣いていた。

 この厳しさが今、城戸には必要だった。


 怒って欲しかった。攻めて欲しかった。こんなに醜く、浅ましく、無様な自分を叱り飛ばして欲しかった。誰も責め立ててくれない。大人になって初めて実感する、子供の頃にイタズラをし説教してくれる人の有難みを。


「栄養が足りてないんだ栄養が。正直、日に日にやつれてくお前を見逃すことはできん! 二人の問題やからこれ以上の深入りはせん」


「そうですよ! とりあえず今は食べましょう。食べたくなくても食べましょう」


 涙を流し鼻水もたれ嗚咽を漏らし、ぐちゃぐちゃな顔をしながらを城戸は肉を頬張った。「ごめんなさい……ごめんなさい……」と訳も分からずそう呟き、いつの間にか横に来ていた夢野が城戸の背中をさすった。有田はそんな二人を軽く微笑みながら次の肉を焼いていく、まだ半分以上残っている。

 少し──タレの味がした。




 体が重い。風船のように破裂しそうほど伸びきった胃袋には、大量の焼肉が隙間をなく詰め込まれている。少しでも衝撃が加わると全てを戻しそうになるくらい満腹になった城戸は、あの号泣を恥ずかしがることもできないくらい気分が悪くなっていた。


 まだ花見をするほどではないが、チラホラと咲いてきた桜は住宅街の光に当てられ美しく輝いている。白い割合が多い薄ピンク色、散る最後の一瞬まで可憐に舞う。どこか儚さを感じながら、景色を見ることにより油の気持ち悪さを軽減させる。もう直ぐ満開になるであろう桜の木の下で城戸は、暴飲暴食の末に寄り掛かり休憩していた。そんな男に夢野は自動販売機で購入した缶コーヒーを片手に同じくもたれかかった。


「酔い覚ましだ、飲んどけ」


「……その割にはブラックじゃないんですね」


「缶コーヒーのブラックなんて飲めたもんじゃねぇ。あんなん飲んでるやつはカッコつけてるやつだけや」

「いやいや夢野先輩、じゃあ何で僕のはブラックなんですか!」


「既にカッコイイからな、俺に奢らせた罰や。是非ともそれで苦々しく顔を歪めてくれや」


「何ですかそれ、このパワハラ上司!」


「ブラックな会社ですね」


「俺は微糖やけどな」


 どこか緩やかで穏やかな風が流れる。普段しないようなやり取りに新鮮さに思わず笑みが零れた。酒が脳にまで回っている、コーヒーが楽しかった時間を包み黒くモヤをかけていく。もう直ぐ解散だ。

 沈んだままでもう登ってこない太陽のごとく気落ちしていた城戸だったが、月の光で視界が分かるくらいには明るくなった気がする。問題は解決してないにしても、どこかもがき這って生きていけるくらいには回復させてくれた二人に感謝が溢れてくる。だからこそ、もうすぐやってくる解散にどこか寂しさを覚えていた。


「さて、そろそろうちの妻も寂しがって頃やしお開きといきましょか」


「そうですね、夢野さん改めてご馳走様でした!」


「おうよ!」


 城戸は帰路に着くため歩き出す二人の三歩後ろを歩いた。少しだけ歩くのが遅いのは、二人も同じことを持ってくれているのか、それともただ単純に気を使ってくれているだけなのか真意は分からない。名残惜しい時間は瞬く間に過ぎ、電車に乗り揺られている。あまり人もおらず席に座った三人は、目で追えない外の夜景をボンヤリと眺めていた。

 不意に城戸は口を開いた。


「夢野先輩、殴っていいですか?」


「あかんわ」


 当たり前だった。


「急になんやねん」と眉をひそめる夢野を横目に、城戸は携帯に入れていた例のメモ用紙を取り出した。


「どうしたんですかそれ、なんかくしゃくしゃでくたびれてますね」


「半年前くらいに貰った、知らないおっさんに」


「なんやそれ、よう今まで持っとったな。早く捨てぇな気持ち悪い」


 手に持つメモ用紙を横から覗きこんだ有田と夢野は、その謎解きの暗号のような不可解なメッセージに首を傾げた。「ぶん殴るのに丁度いい人……あー、夢野さんのことですね!」と有田は茶化し「そうそう、何でも受け止めてあげる優しい先輩の俺が……って馬鹿野郎!」とノリツッコミをした。関西人同士のテンポのいい掛け合いだったが、その茶番に一笑もすることのない城戸に、ふざけているのではなく真剣に考えている空気を察知し、今度は真面目に頭を悩ませた。


 顎に手を当て思考を巡らせながら有田は口を開いた。


「まあパッと出てくんのは、さっきのハゲ上司ですけどね」


「確かに丁度いいかもな。今までの恨みつらみで思いっきりいけそうや」


 頭をひねり出した結論だが、城戸はあまり納得しなかった。


「俺も確かに思い浮かべましたけど、ただなんとなく違うんですよ。殴りたいとは思うんですそれはもう確実に。ただ、丁度いいというのが気になるんです。よくはないんですよ、あのハゲは」


「あんなんでも一応人権はありますし、殴ったら犯罪になりますよね。丁度よくはないかもですね」


「あんなんシバいても逮捕されへんやろ、ギリセーフやって」


 もちろんアウトである。

 城戸には根拠はないが確かな直感があり、このメッセージはそんなものを伝えたいわけではないと思っている。何を持って丁度いいとするのか、考えれば考えるほど沼にハマっていく。


 それから有田と夢野はありとあらゆる可能性のある人物を挙げていく。

 やれ非人道的な犯罪を犯した罪人、やれ殴られていることに慣れているプロのボクサー、やれ金を貰って議会で居眠りをする議員、やれ世間を賑わせるために平気で事実をねじ曲げるマスコミ関係者、やれ愛情を忘れて我が子を育児放棄する親、やれネットの匿名で誹謗中傷を繰り返す暇人、やれ仕事を名目に迷惑行為をしカメラを回す動画投稿者、更にはレジで割り込みしてきたババア。城戸はどれもピンと来ていなかった。


 どれだけそれらしい人物を挙げようと結論は決まらず、正解もあの奇っ怪な男しか分かっていない。途方もなくなり、有田が降りる駅も近づいていた。


「あっ!」


 悩む城戸と夢野をよそに、有田は大きく声を張り上げた。

 謎解きが全て解けたかのように「あー、なるほど! あっ、そういう、あーね」と自己完結している後輩に、追い縋るように城戸は迫った。


「分かったのか!? 頼む教えてくれ!」


 有田の両肩に手を置いた城戸は、脳震盪が起こりそうなほど強く揺らした。そして、興奮状態な男に夢野のチョップが降り注ぐ。大騒ぎする電車内で他の乗客も不振な目を向ける中、有田は城戸に一つの質問した。


「もしかしてですけど、このメモを渡された時も今日みたいに友達絡みで落ち込んだ日じゃなかったですか?」


 その質問に城戸は即座に頷いた。半年も前の出来事だったが、仕事帰りに焼肉屋で戌亥に奢らされた挙句にエレベーターが止まった不幸続きのあの日を鮮明に覚えている。


「やっぱり。よし、完全に分かりました。まあ正解はなさそうなんで、自分なりの結論というのは纏まりました」


「え、え、何、何なん? どんなやつがぶん殴るのに丁度ええん?」


「言わないです」


「なんでやねん!」


 何故か口を割らない有田に城戸の頭の中は、はてなマークが溢れて止まらない。綺麗でオーソドックスなツッコミをした夢野も歯痒くて仕方なくなっていた。


「これに関しては自分で気づかなアカンと思うんです、特に先輩は」


「え、いやそんなこと言われたって」


 城戸は目の前が真っ暗になる思いだった。このメモを見つけて一ヶ月、今の今まで誰にも相談せず一人が頭を悩ませていた。どれだけひねろうが答えらしい答え、模範的な解答には至れなかった。もうこれ以上の脳を動かしても結論にたどり着けないことは自分が一番分かっていた。だからこそ、即座に理解した有田に頭を下げてでも教えを乞いたかった。


 後ろポケットに入った財布を手にかけたところで、有田はバッ! と音が出るほど勢いよく立ち上がった。

 もう、有田が降りる駅だ。


「これは先輩が気づくべき、それは曲げられません。なので、少しだけヒントを」


 破裂するような音。電車が少しずつ減速していき、ちらほらと乗客が立ち上がる。もう数秒もしないうちに駅に到着するであろう。

 有田は、城戸と夢野に向かって固く握りしめた拳を突き出した。


「僕にもいます、たった一人ですけど確かにいます。ぶん殴るのに丁度いい人」


「そ、それって」


「はい、先輩と夢野さん──以外の人間です」


 有田は続ける。


「いつか、お二人ともそうなれたら嬉しいです」


 電車アナウンスとともに扉が開き、なだれ込むように人が降りていく。「それじゃあ先輩、夢野さん、また明日もよろしくお願いします、お疲れ様でした!」と声高らかに言い残し、人混みに混ざり流されていった。姿が見えなくなり扉が閉まった、電車が動き出す。


 高速で横切る電気が満点の星空のようで、目がおかしくなる。チカチカだ。たった今まで話していた人間が既に何キロメートルと距離を広げていく。物理的に離れていくが、なんとなく温もりを感じていた。人と人との温もりを。


「あいつ、ほんと良い奴ですよね」


「ちょっとあざといけどな」


 城戸は拳を固く握り締めた。


「夢野さん、殴っていいですか?」


「……あかんわ」


「殴ったら、怒りますか?」


「……そりゃ怒るやろ」


「じゃあ殴ったら──」


 点火。


「拒絶しますか?」


 夢野は重くなった口を開いた。


「……どうやろうな」


 そのまま夢野は固く口を結び、ただただ電車に揺られた。城戸もまた沈黙に身を任せた。銀河のような街並みを走行する電車には、たった今何百と命を運んでいる。難病にでもかかれば倒れ、鉄の塊に轢かれれば骨が折れ、目に見えないようなウイルスで絶えていく、そんな脆い命を運んでいる。


 クレヨンで塗りつぶしたような涅色の夜に散らばる人間。無数の人間、無数の生活、無数の繋がり、無数の命。


 そんな無数の中に、あいつもいる──きっといる。

 あの感触が忘れられない。

 手が痛む。


     *


 夢野とも別れた城戸は、そのはち切れんばかりの満腹な重たい腹を抱えてなんとか帰宅についた。真っ暗闇に包まれた家に明かりをつけると、目を疑うような光景があった。


「汚っ」


 出すつもりもなかった言葉が突然溢れ出た。乱雑に散らかった生乾きの衣服に埃をかぶった漫画、そして溢れんばかりのゴミの山。灰皿代わりにしていた缶の中にはこれでもかという程の煙草の吸殻が詰められており、溶けて放置された底に溜まった水がこの世の終わりを表していた。このどうしようもなく散らかった家は、本当に自分の家なのか疑わしくなった。もしかして空き巣が入ったのか? と恐怖したが、城戸は不意に最近の行動を思い起こし気がついた。


 ……ちょっと待てよ、最後にゴミ出したのいつだっけ?


 一ヶ月前の件から抜け殻になり食べて寝てたまにシャワーを浴びる、そんな生活をひたすらに繰り返していた。末期な人生、目の前の食べかけのまま放置されたカップラーメンのように腐ろうとしていた。どちらかといえば潔癖症な城戸は、こんな汚部屋になっていたことに気づいていなかったと同時に、人間は一ヶ月でこんなに汚くなれるものなんだと感心すらしていた。有田と夢野のおかげか、今日の一件で少し視界が拡がっていた。


 仕事の疲労と爆食のせいか睡魔が襲ってきている。今すぐにでも布団に潜って泥気ままな猫のように深い眠りにつきたかったが、こんな不衛生で大量な虫が湧いて出てきそうな空間で眠れるほど男気はない。昨日まで寝てたみたいだけど。

 もう夜遅いが幸い明日は休みだ。掃除をするくらいの気力と時間は残っていた。


 城戸はゴミ袋の広げていつの日か食べたスーパーの弁当や惣菜の空箱を入れていく。ペットボトルや缶を寄せ集め分別しながら袋に押し込んでいく。異臭を放つゴミに眉をひそめながら、淡々と掃除に励んでいく。


 掃除を始めて一時間ほど経ち、そろそろキリのいいとこまでやってきた。かなり疲れてもう寝てしまおうと思った矢先に、とある物が出てきた。それは部屋を汚す前からずっとあった物。実用性があるようでない物であり、人によっては全く使わないゴミのようなゴミでない物。


「あー、まだ返してなかったか」


 懐中電灯。それも超高性能で聞いたこともないような単位が十万もある懐中電灯。決して自分では買わないような代物が城戸の家にあるのにはわけがあった。

 半年前に行った旅行であの男が持参していた物であり、誤って城戸の荷物に紛れ込んでいた。返そうと思っては忘れてを繰り返し、今の今までここにあり今もこうして存在を忘れていた。


 なんとなく城戸は部屋の電気を消した。そして懐中電灯にスイッチを入れてみた。しかし、どれだけ電源を入れようとしてもうんともすんとも言わない。電池が切れているのか故障しているのか分からないが、光が放たれることはなかった。あの美しい景色を映し出すことはなかった。


 ……そうか……あの雪景色はもう見れないのか……あんなに綺麗だったのにもう見れないのか……暗闇を照らすことはしてくれないのか……。


 暗闇の中でごとりと音がした。

 城戸はそのまま座り込み、首を落とされる罪人のように頭を垂れた。


「ちくしょう……今日はよく泣くな俺」


 悲しいのか悔しいのか腹が立つのか苛立ちなのか、自分の感情が分からないまま。さっきの焼肉屋での大号泣とは一変して、城戸は声を殺しながらすすり泣いた。カッターシャツで目を押さえる、じんわりと滲み広がっていた。


 城戸には信頼できる後輩がいる。

 城戸には頼もしい先輩がいる。


 今まで小さい信頼をコツコツと積み上げてきたからこそ、築いた拠り所がある。きっとこのままいけば時間が解決してくれるのは分かった、分かってしまった。心置きなくいれる人間ができてしまったから、きっとこれからなんとかなっていく、アイツなしでなんとかなってしまう。

 だからこそ、ずっと隣にいてくれた男の存在が必ず必要でもなくなることに、城戸はなんとも言えない虚しさを感じていた。


 どうしようもない感情に押しつぶされ沈んでいこうとしていた、その時だった。


「──電話?」


 漆黒を照らしたのは懐中電灯ではなく携帯だった。病んでいくそんな空気を呑気な木琴の音色でぶち壊していく、着信がいつまでも止まらない。

 あまりにも不自然な着信の長さに不信感を覚え、感傷にも浸れない現実に苛立ちを感じながら渋々携帯を手に持ち画面を眺めた。その表示された相手の名前に城戸は動きを止めた。


【田中加奈】


 怒りが消え去った。代わりにやってきたのは緊張と焦り、どこかドラムロールでもしているのか勘違いしそうになるほどの大きく早い鼓動。城戸は目を白黒させ、次第に冷や汗をかいていく。


 ……何故、どうしてだ……俺と彼女は終わったはずだ……なんなら俺が終わらせてしまった……もう俺なんかに用も愛も何もないはずだ……それなのに何故?


 考えれば考えるほどドツボにはまっていき、ぬかるみに足を取られていく。自分だけが考えても結論なんて出てくるわけがないのは分かっている。震える手が携帯を強く握りしめすぎて、心做しかミシミシと嫌な音が聞こえた。


 ただこの瞬間、この間、このへっぴり腰を晒している今でさえも電波を通じたその先で、彼女は携帯を耳に押し当て待っている。いつまでもある訳では無い、覚悟の時間はもう残りわずかだ。

 城戸は「よし出るぞ、大丈夫、大丈夫だ落ち着け」とほんの少しでも時間を稼ぎ、自分を慰め寄りの鼓舞をし続けようやく応答のボタンを指で押した。軽快な木琴の音は消え、通話中という文字とともに時間がカウントされていた。



「もしもし」

「もしもし、聞こえる?」


「うん、聞こえてるよ」


「こんばんは、夜分遅くにごめんね」


「い、いえそんな」


「よかった、もう着信拒否されたと思ってたんで」


 辿々しい言葉、何度もつまづきそうになりながら会話を繋いでいる。いつでも引きちぎれそうな空気が漂っている。

 あんな出来事がありもう関わることも出会うことも、ましてや話すことはない思っていた城戸は、機械越しだが久しぶりに聞く加奈の声に口角が上がっていた。つい先程まで泣いていたのが嘘のよう、情緒がおかしかった。


 本当に短い間だったが、確かに城戸は恋をし愛おしく思っていた女性であり、そんな彼女の肉声が今日この日に聞けるなんて思いもよらなかった。

 スキップをするように心臓が跳ねている。


「……」


「幸雄さん?」


 だが、そんな浮ついた感情も一瞬でなくっていった。自分が何をしてしまったのかを思い出し、みるみるうちに城戸は熱を失っていく。


 ……俺は彼女に暴言を吐き捨てたんだ……あいつとの関係が上手くいかなくて、対処を考えて提案してくれた彼女に当たってしまった。酷いなんてものじゃない、到底許されることではない……誠心誠意謝ってお詫びをするしかない。


 城戸は歯を食いしばった。唇を噛み締め、見えもしない電話越しで深く頭を下げて口を開いた。


「ごめんね」


 しかし、先に聞こえてきたのは加奈の声であり、更に城戸が言おうとしていた台詞を言い放った。

 城戸は瞬く間に頭が真っ白に染まった。


「えっ、あれ……何で?」


「深く知りもしないのに、幸雄さんの友達を悪く言ってごめんね。許して欲しいなんて烏滸がましいことは言わないんやけど、それだけは伝えたかった」


「ん? ちょっ、ちょっと」


「ごめんね……本当にごめんね」


 涙を流し鼻をすすりながら、加奈は何度もそれを繰り返した。

 訳が分からず困惑していた城戸だったが、惚れた女性にこんな事を言わせ思わせた自分が情けなくて仕方がなかった。気がつけば携帯電話に縋り付くように持ち、蹲り絞るように口にした。


「俺の方こそごめん。元々は俺が原因なのに勝手なことばかり一方的に怒鳴って、本当にごめんなさい」


 城戸はずっと引っ掛かっていた。友達やめれば? と加奈言われた言葉、あの時は我を失っていたから分からなかったけど今なら分かる。あれいつだったか、自分と同じく悩んでる女の子にアドバイスをした。そして、ほとんど同じ言葉を投げかけたのを覚えている、別れれば? なんてこと。加奈が悪気がないのは自分が一番分かっていた。それなのに暴言を吐くなんて愚行、押し寄せる後悔が今になって胸に突き刺さっていく。


 あんな別れ方をした蟠り、どれだけ心の奥底で沈め蓋を閉じようと無念は消えなかった。その後の別件もあるが、確かにその心苦しさを抱えてこの一ヶ月を生きてきた。長く辛い一ヶ月を乗り越えたきた。

 荷物が一つ肩から下りていくのを感じた。

 ふと、城戸は思った。

 もし彼女に殴られても、きっと俺は拒絶しないんだろうと。


 加奈は語り出した。ここ数日にあった奇妙な出来事、そして今こうして城戸に電話をかけるきっかけをくれた出来事。

 少し、焼き鳥臭い。


「幸雄さんと別れた日、バケツをひっくり返したよう大雨やったよね。ほとんど人がいない終電に間に合って最寄り駅まで着いたんやけど、あまりにも豪雨で傘もなくて改札前で立ち往生してたねん。タクシーを呼ぼうかコンビニまで走るか考えてた時、突然変な人が話しかけてきた。すると、よかったら使ってくれと傘をくれたんよ。よく見るとその人手に七本くらい傘を持ってた、変やったけど良い人やったねん。

 それから今日まで、機械のように仕事をして夜になったらガソリンのようにお酒を体に流し込む日々が続いていて、焼き鳥屋で頭を抱えていたと思う。少しボヤけた記憶の中で、隣の人に無意識に絡んでたのを覚えてる。愚痴というか悩みというか、まあ色々なことで口が勝手に動いたというか。

 零すだけ零して隣の人を改めて見ると、いつかの傘をくれたおじさんやった。私は思わず人の目も気にせず立ち上がった。どれだけお酒を飲んでいても覚えていた、あの特徴的な人を。お礼を言おうとしたけど、呂律も回らないし鉛のように身体も重い、そうこうしてるうちにおじさんは帰っていったんよ。

 ただ、帰る前に渡されたねん。直ぐにでも無くしてしまいそうな小さいメモを、いいから持っときって」


 語り終わった加奈の電話越しの音声からは、紙が擦れる音がした。メモ用紙だ。

 城戸はそのエピソードにどこか既視感を覚えていた。


 ……俺もそんなことがあった……それはもう確実に。メモ? そうだ俺もメモを貰った。なんなら今もそのメモに振り回されている。いや、縋っている……どうしようもない状況がどうにかならないかと、知らない男に全てを委ねている……その男は。


「もしかして、麦わら帽子とか被ってた? あと下駄と必要なのか分からない小さなサングラス」


「え、何で知ってるん? もしかして幸雄さんの知り合いとか親戚とか?」


「あれが親戚は勘弁して欲しいな」


「あ、でも下駄やなくて変な形の靴やったよ。なんやったけなバレエで履くやつ、そうトゥーシューズやった」


 少し変わってるが、まあ何となく想像ができる。きっと変態だ。個性が強すぎて無意識に拒否反応が出てしまう。良い人は良い人のはずなのに、格好がどうしても受け入れられない。やはり中身だけではなく見た目も大事だと分からされる。

 それは城戸たちの中のことだけであり、その男にも確か


「……羨ましいな、俺も会いたかった」


「え?」


「いや、なんでも」


 ポツリと呟いた独り言を加奈に拾われ、城戸は誤魔化し無理やり遮った。

 少し頭を捻る。ずっと考えているこのメモの内容、有田は直ぐに理解し納得していたが、城戸はまだそこにたどり着けていない。もっと頭をこねくり回し柔らかくする、城戸の中であともう少しで分かりそうなとこまで来ている感覚があった。


「ぶん殴るのに丁度いい人……ずっと考えてるんだが、やっぱり分からないな」


「ん?」


「ん?」


「え、ぶん殴る? ぶん殴られるじゃなくて?」


「ぶん殴られる。え、誰に?」


「誰にって……誰だろう?」


 あまりにも噛み合わない会話に、流石に疑問に思った城戸は携帯挟んでいたくたびれたメモ用紙を取り出し改めて読み上げた。


「ぶん殴るのに丁度いい人だよね?」


「ぶん殴られても構わない人やなくて?」


 城戸は目を丸くした。全く同じだと思っていたメモの内容が違ったのだ。しかも、完全に違うのではなく微妙に違う。


「丁度いい人って、そんな人おる?」


「いや、今まで生きてきてそんなの思ったことはないな」


「でもこれあれやね。真逆なことのようで、意味合い的には一緒のこと言ってるんちゃう? 自分が殴る側と殴られる側に回ってるだけで」


「え?」


 城戸は慌ててその辺に置いていた紙で書き出した。


『ぶん殴るのに丁度いい人』

『ぶん殴られても構わない人』


 自分がぶん殴る側に立った時、相手は自分の暴行を承知しそれを受け入れてくれている。それで構わないのだ、と。

 自分がぶん殴られる側に立った時、自分は相手の暴行を承知しそれを受けていれる。それで丁度いいのだ、と。


 ……ただ、そんな関係は有り得るのか? ただの夢物語に過ぎないのではないか? ぶん殴るんだぞ? そもそも殴るって何だ? 暴力だ……ただの乱暴。怒りや悲しみを纏った、ただの発散方法。それをされて承知するわけがない、それをされて受け入れるわけが……。


 城戸は固唾を呑んで、引っかかる言葉をなんとか吐き出した。


「加奈さん……例えば、例えばだけど……加奈さんに好きな人がいて、その人に……」


 城戸の胸が張り裂けそうになりながら口にする言葉を「幸雄さん!」と、加奈は遮った。思ったよりも大きい声と通した機械音が合わさり、破裂音が城戸の耳を襲った。

 何事か分からないまま衝撃を直にもらった右耳を抑えて、城戸は加奈の返答を待った。たった十秒、十秒程度の間。ごくごく普通に時が流れているのを感じる。


「私、まだ幸雄さんと別れたつもりないんやけど」


 今、遅くなった。

 何が起こったのか、何を言われたのか、何を感じたのかも分からなくなり、さっきの加奈の大声とは比べ物にならない気絶しそうなほどの衝撃が城戸を襲った。そして「へぇぁ?」とおかしな言葉が口から漏れ出た城戸だが、それ以上にこの女性は何を言っているんだろう? と疑問を持たざるを得なかった。


 未練がないことはなかった。実際、城戸はなんとか修復できないものか頭の片隅になくはなかった。しかし、それは烏滸がましいし駄目だと思っていた。実際、世間一般的に言えば駄目どころか一発アウトだろう。修復したいなんて言語道断、巫山戯るなと一蹴されるのが常である。

 しかし諦めの悪いネチネチした男もここに一人。割かれていた関係を一つずつ慎重に言葉を選びながら紡いでいこうとするネチネチ男に対して、加奈は躊躇もなくストレートに詰め寄った。


「いや、いやいやでも……田中さんにあんな暴言を」


「そもそも私が聞かんかったらこんなことになってなかった。それに、夫婦になったらこんなもんやないでしょ。もっと言い合いも増えると思うし山あり谷あり、こんなところで躓いてる場合じゃないと思う」


「ふっ!?」


 頼りになる、というのを超えてもはや男らしいまである加奈は、今までのことを全部なかったことになんてしない。


「はっきり言うねんけどさ。私は別れる気はない、たとえぶん殴られたとしても」


 今までも、そしてこれからも全てひっくるめて引きずり前に進もうとしていた。

 そして城戸は思った。改めて、自分はこの女性に心から好意を持っていることに、体の底から熱を帯びていく。顔を見られたらきっと茹でダコと馬鹿にされるであろうが、今ここに誰にもいない、ましてや電話越しの彼女がいないのが唯一の救いだった。そしてこうも思った。加奈になら突き放されても暴言を吐かれても何をされても、ぶん殴られても構わない。


 ……たとえ、毎回奢らされても……ゴミのポイ捨てをしても……店員に横柄な態度だったとしても……自分の彼女を大事にしなくても……酒に酔って暴れても……。


 踊。


 ──あぁ、やっと分かった。


 城戸はその結論に噛み締めた。ずっと抜け落ちてむず痒かったピースがようやくハマった。これが本当に正解なのかは分からないが、自分の中で一区切りを付けれる地点に着地できた気がした。

 同時にやるべきことができた。むしろ、最初から分かっていたことなのかもしれない。

 城戸は携帯を強く握りしめて微笑んだ。


「加奈さん、俺別れたくないです」


「うん」


「加奈さんともアイツとも、このまま終わりじゃ嫌です」


「うん」


 事情なんて知らないはずだった。それでも加奈は携帯越しでは分からないくらい小さな声で笑った。囁くように笑った。その願望が叶うようにと寄り添うように、そんな笑いだった。


「話し合う、ただそれだけ。私たちのように、幸雄さんの全てをぶつければええんよ」


「うん、そうすることにするよ」


 名残惜しい。そんな気持ちを残しながら城戸は「また連絡するよ」と言い、加奈もその気持ちを汲み取りながら釘を刺した「そっちが終わったら、今度はこっちやから逃げたアカンよ!」


 時計の針が自己主張を始めた、辺りが静まり返ったのを見計らったかのようだ。規則正しく寸分の狂いもなく針は動き、皆が平等に、そして無惨に時は流れていく。


 通話が終了すると、携帯はうんともすんとも言わなくなった。もう聞こえなくなった加奈の声に名残惜しさを感じながら、城戸は携帯を操作し連絡用のアプリを開いた。


 心と体に差異を生じている。体がこわばり、直ぐにでも携帯を投げようとしている。石像のように止まろうとする指を、無理やりにでも動かして奮い立たせる。絶対に受かりたい就職の最終面接かのような緊張と冷や汗が溢れ出る。しまいには薄らと涙も滲み出ている。もう、あとワンタップでもすれば通話が開始される画面にまで来た。


 思えばこの短期間で色んな人に出会った。後輩の有田に先輩の夢野、ファミレス近くのベンチに座っていた老婦人、悩んでいるその人物の彼女である青葉、愛おしく一途に想ってくれた城戸の彼女である加奈。そして、止まったエレベーターで現れた奇妙な男。城戸が今、五体満足でここに立てているのも多くの人が背中を押し続けてくれたからだ。


 自然と震えはなくなった。


「……おう」


「も、もしもし戌亥。聞こえるか?」


「……おう」


「あー、えっとなんだろう。久しぶりだよな? ってたった一ヶ月だけか」


「……元気にしてたか?」


「え、あ、うん。まあまあだな……お前は?」


「ま、それなりやな。で?」


「え?」


「なんか用あったんやろ、なに?」


「あ、えっと……あー、そうだな。どこから話したらいいもんか」


「あんなぁ、ごめんやねんけど今出張先で明日も早いねん俺」


「あ、悪い」


「じゃあ切るで」


「……」


「ほんじゃあな」


「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


「……なんや?」


「お前と話し合いたい。このままだと嫌だからさ……駄目か?」


「……来週の土曜日、夜やったらまあ」


「助かる。じゃあ土曜日、詳しい時間と場所は後で送るから」


「分かった」


「うん、それじゃあ。こんな遅くにごめんな」


「おう、んじゃ」


「う、うん──それじゃあ」


     *


 阪急大阪梅田駅、Mのマークが付くファストフード店前。人によっては平日と何一つ変わらず労働に勤しむ休日、土曜日の午後十時。定時で帰宅する輝いたエリートなサラリーマンはもう既にここにおらず、目の腐ったくたびれた人間がゾンビのように歩いていく。他には酒を覚えたてで調子に乗った大学生たち、どこで何をするのかも知りたくない刺青が顔まで迫ってる強面の男、発情した猿が脳を支配してホテルしか見えてないカップル。誰も彼もが他人である。それぞれの道があり、生き方があり、人生がある。そしてものの数秒で顔も忘れていく薄情な生き物、それが人間である。


 しかし、夕飯で話題を出すくらいには記憶に残るような男がそのファストフードの前で立ち尽くしていた。夏ですらないのに堂々と被った麦わら帽子、必要なのか分からない小さなサングラス、上は緑のパーカー、下は七分丈、足元は下駄。夜桜が舞うが人々の目を一瞥も奪いやしない。なぜなら、それよりも気になる男が春風駘蕩たる風格で堂々と佇んでいたからだ。しかし、よくよく見ればその堂々とした面はかなり無理をしていることが分かる。


 城戸は約束の一時間も前から待っている。行き交う人間を横目にひたすら待っていた。表は堂々としているが、ファストフードから見えるその背中は孤影悄然としていた。


「どんな格好やねん」


 約束の時間、右前方から戌亥の声がした。顔を向けると戌亥が居心地悪そうに歩いてきていた。整えられた髪型に新調したと直ぐに分かるスーツと靴。少し見ないうちに少し痩せている気がする。眠れていないのか分かりやすくクマもある。声にもハリがない。


 城戸も少し気まずく麦わら帽子を深く被った。


「結構前に出会ったおっさんのコスプレ、似合うか?」


「似合う似合わん以前の問題やろ、別次元の人間の格好やろ。あんまファッションとか詳しない俺でも分かるわ、酷いでそれ。何でそんな格好することなったん?」


「知りたかったから、あの男が何を考えているのか。いや違うか……まあ、気まぐれが九割だな」


「めっちゃ目立ってんで。お前、そんなこのするタイプやったっけ?」


「うん、自分でも分かってる。やるんじゃなかったってずっと思ってる」


 久しぶりの軽口に城戸は思わず笑ってしまった。こうして軽口を叩けるのが最後かもしれない。だからこそ噛み締め、心から嬉しく思っていた。


 腹が減ってはなんとやら「そうだな串かつでも行くか!」と城戸は浮つきながら歩き出し、その後ろを戌亥もついて行く「ええな、結構遅くまでやってる所やろ? 久しぶりやで!」と有頂天になりながら。

 道中も中身があるようでない話をし、折りたたむ気のない風呂敷を広げていた。仲良しこよしだった。まるで今までのことがなかったかのよう。


 串カツに着いても同じだった。どちらが本数食べれるか、串カツのキャベツは本当に必要なのか、二度漬けするやつはどういう神経なのか、他愛もない話に花を咲かせ続けていた。このままあの一件なんて無かったことにならないかと切に願う城戸だが、そんな夢物語もあっという間に流れ去る。和気あいあいとしているが、ふとした拍子にキャッチボールが途切れる。その気まずさを振り払い、間を埋めるように会話をしていた。


 不意にテーブルに並んだ串かつを見渡し違和感を感じた。本当に何気ないことだ。


「あれ、ちょっと待てよ。何か少なない? ひー、ふー、みー、これで全部か。俺らこんだけしか頼んでなかったっけ」


「違う。多分だけど、うずらと紅しょうがが来てないな」


 ここはセルフで自分で取りにいく店ではなく店員が運んでくる仕組みであり、運ばれてこない以上客側はどうすることもできない。確かに揚げ物で時間もかかることはあるが、客の数もそれほどではない為、いくらなんでも遅すぎることに違和感を感じていた。完全なる店側の不手際だが、その状況に城戸は背筋を凍らせた。いつもの嫌な予感だ、何度も味わったアレだった。


「あのー、ちょっといいですか?」


 戌亥が店員を呼び止めた。


「うずらと紅しょうがが来ないんですけど、まだですか?」


 戌亥の一言一言に城戸は心臓を跳ね上がらせた。


「あー、そっすか」


 城戸は更に動揺し目の玉が飛び出そうになった。店員はさっさとバックヤードに戻り、数分の後に「すんませーん」と本当に謝罪なのか分からない言葉を口にしヘラヘラとしながらうずらと紅しょうがを雑に置いてきた。見た目から熱々できっと早急に揚げたのであろう、やはり注文が通ってなかった。向こうのミスだ。


 社員かアルバイトかは知らないが何故こんなにも態度が悪いのか、そして何故寄りにもよって戌亥がいる日なのか。別に今日じゃなくてもいいじゃないか! とそんな城戸の思いは、舐めた態度の店員には全く持って届かない。


 そのまま去ろうとする店員を戌亥は呼び止め、城戸は周りの客を見渡し頭を抱えた。声がワントーン下がる。

 怒り。


「今度から気をつけてください」


 怒号、ではなかった。冷静、そして確かに重く深く怒り、大人としての注意だった。あまりにも思いがけない対応に城戸は間抜け顔であんぐり口を開けた。店員は再び「すんませーん」と反省の色を全く見せないまま裏方に戻っていたが、そんなことはどうでもよかった。


 あの一件が脳裏をちらつき城戸はつつくことができなかった。まだ終わらせたくなかったから。

 だから──


「俺、うずら好きなんだよなぁ」


 ──まだ目を逸らしていく。


 そうこうしてるうちにラストオーダーになり、もう足りている酒を追加しデザートも頼んでいく。有田と夢野といった焼肉の時のように食べ過ぎて気持ち悪くのは目に見えたが、この至福の時間を稼ぎたかった。ほんの少しでも多く、この時間に浸りたかった。


 閉店ギリギリまで粘りようやく立ち上がり、店から出る支度を始めた。城戸は七分丈のパンツから財布を取りだしレジに向かった。


「あ、会計……」


 後ろから、戌亥の独り言が聞こえた。なにやら鞄を乱雑にかき分け、財布を取り出した。

 ……何なんだこいつ……こいつ、本当に俺の知っている戌亥か? 俺の知っている戌亥はこんな所で財布を出すようなやつじゃない。会計になると颯爽と外に出てふんぞり返って爪楊枝で歯を弄っている筈だ。


 城戸はそんな戌亥を無視して財布のチャックを開けた。後ろにいる男が何を考えているのか、何を思って自分の財布を出したのか、あまり考えたくなかった。考えるのが億劫になっていた。今はただ、今までのままを楽しみたかったから。


「いや、いいよ」


「え、でも……」


「いや、いいんだって」


 城戸は釣り銭受け皿にお札を置いた。


「いつもの事だろ」


 花は枯れた。夢物語も終わった。

 会計を済ませて店を出たが、二人に会話はなかった。本来なら帰路に着くために駅に向かうはずだが、城戸は全く違う道を歩き始めた。どこに向かうわけでもなく、ただひたすらに練り歩いていく。戌亥も察しているのか黙って三歩後ろの間隔で歩いていく。ウイルスも驚きのソーシャルディスタンス。本当に友達なのかと疑いたくなる距離感、人混みに入ればあっという間にかき消されるだろう。


 これが今の二人の距離。ずっと隣にいた筈だった二人の隔たり。


 少し足が疲れてきた頃合。城戸は名前も知らない公園に入りベンチに座った。無意識だった。名前は知らないが、この公園はよく知っている。自分が自分の彼女に暴言を吐いた例の公園だった。続いて戌亥も城戸の隣に座り桜を眺めた。街路灯が幽に光り淡く桜を照らしており、月も心做しかいつもより光り輝いていた。


 時間が亀のようだ、ずっと見ていられる。どれだけ関係が拗れたとしても、隣にこの男がいれば安心できる。それは今まで築き上げてきた、どうしようもなくくだらなく大切な関係のおかげなのだろうか。

 ようやく城戸は口を開いた。


「あの店員、接客態度最悪だったな」


「あぁ、そうやな」


「何で怒らなかったんだ? 今までやったらもっと切れてただろ、テメーこの野郎とか言ってよ」


「……まあ、そうやな。いつもやったら、そうやったんやろな」


「あと、何でさっき財布出そうとしたんだ?」


「……そうやな、色々とな」


 戌亥は歯切れ悪く言葉を濁した。


 そして再び静寂が支配し、心地良さがなくなった。さっきまで起こさないようにしていた重たい空気、二人にとって初めて経験する空気。右手の甲が痛みを熱を帯びていく。忘れたくても忘れられないあの感触に、城戸は頭を垂れて目を閉じる。


「頬……痛かったか?」


「え、あー、まあそれなりに」


「そうか」


「口ん中切れたし」


 城戸は戌亥の口元を不安げにしげしげと見つめる「もうとっくに治ってるで」とフォローをした。だが、そういう問題じゃない。


 改めて戌亥の顔をよく見ると、一ヶ月前とはかなり変わっている。分かりやすくクマがあり僅かにやせ細っているのが見て取れた。どこか調子が悪いのか、それとも病気にかかったのか、間違いなく一か月前と比べると不健康になっている。幼少期から知っている城戸の立場からすれば、こんなに弱っている親友の姿を初めて見ることになる。風邪にすらかかったことがない男がだ。

 戌亥は口を開いた、掠れ声だった。


「お前が俺を殴ったのは、なんとなく察した。ごめんな……ずっと」


 城戸は頭に衝撃を受けた。そして涙が堰を切ったように溢れ出した。


「違うだろ、なぁ……何でお前が謝ってんだよ。俺だろ悪いのは……俺が勝手にストレス貯めて、勝手に爆発させて、勝手に暴走して……しまいにはお前を傷つけて……どう考えても俺が悪いに決まってんだろ!」


 まるで子供の癇癪のように城戸は言った。その反応に戌亥もまた力が篭もる。


「ストレスの発端は俺やろ! 俺がいらんことばっかしてお前におんぶに抱っこで、今思えば俺からは全然なんもしてへんわ。それでストレスなんか蓄積されるに決まってんのによ……ごめん。ほんまにごめん」


「違う……違うんだよ……全部違う、何も分かってないよお前! やりようはいくらでもあった筈なのに、俺がお前から逃げて続けたからこんなことに!」


 お互いが自分を罵り合い、ああ言えばこう言う堂々巡りをしている。


 思えば二人が出会って二十年、こうした大きい喧嘩をせずにここまでやってきた。あまりに行儀よく、ちょっとした議論ですら起こさず争わずに歩いてきた。本当に仲良しだったからこそ、少しずつズレていった隔たり。初めてぐらつきを起こし、どうしようもなく不安に駆られていた。


 少し異質とさえ思える。

 ヒートアップした熱が冷めないよう、戌亥は続けた。


「俺、馬鹿やからさ。自分の何があかんかったんか分からんねん。何で注意してくれへんかったん? 俺はお前のそういう所が嫌やねん! つって何で言ってくれんかったん?」


「言えるわけないだろ! ……だって言ったらお前」


 城戸は言った。


「お前に拒絶されるかもしれなかっただろ!」


 大砲のような声量、響くは情けなく女々しい言葉だった。


「嫌だった……怖かった……だって、お前だけが俺の友達でいてくれたんだ。ずっとこんな俺と……でも注意とかして友達じゃなくなったら俺は……だから多少嫌なことがあっても、俺が我慢すればいいだけの話だった。まあ、こんなことになると思ってなかったけどな……自分の器の狭さが嫌になったぞちくしょう

 滲み出る意気地のない言葉に自分で情けなくなり、城戸はベンチに蹲った。本音はきっと出していたんだと思う。しかし、こうした弱音を晒すのは初めてだった。

 そんな姿を戌亥は呆然と眺めていた。そして、目の前にいる城戸にも聞こえない声で呟いた。


 ──アホか、と。


 戌亥はジャケットの脱いで雑にベンチに放り投げた。ネクタイも外し同じく投げて、カッターシャツの袖を捲っていく。不健康でも衰えないその逞しい腕を振り、手の指を一本一本鳴らしていく。


「分かった、じゃあこうしようや」


 戌亥は言った。


「今から全部出そう。お互いの思いの丈を全部吐き出す。そんでまだ友達でおりたい思ったら友達でおればいい。無理やったらしゃーない」


 ……全部吐き出す、何を言ってるんだ? またあの爆発をしろと言うことか? それも今度は自分から起爆させろとでも言うのか?


「そんなこと出来るわけが──」


「言っとくけど、悩んでんのはお前だけやないで! 今回はたまたまお前が爆発しただけで、俺もお前に言いたいこと山ほどあんねん!」


 城戸が言葉を言い切る前に、戌亥はそれを遮り猛獣のような目つきで睨んだ。まるで自暴自棄になった人間が爆弾を片手にライターを構えているかのような表情だった。


「俺もお前と親友やなくなるんは嫌や。けど──」


 戌亥は言った。


「注意もできへん人間関係なんて……友達やないもんな」


 滲み出る嫌な汗。緊張の震え。これからどうなるかも分からない悪寒。全てを受け入れてくれるのかも分からない賭け。全てを受け入れることができるのかも分からない賭け。そんな現状に目が血走り鳥肌が止まらない。そして、それをなんでもないよう笑って見せた。戌亥は無理してでも笑っていた

 そんな戌亥を見て城戸も立ち上がった。へっぴり腰に無理やり鞭を入れて奮い立たせた。顔色が悪く、子供であれば直ぐにでも保健室扱いの事案だがそれでも立ち上がらなければならない。この関係を崩したくなかったら、たったそれだけでマリオネットのように無理やり体を動かす。


 目が合った。思えば、今までこんなにきちんと目が合ってなかった。合わせようとも思ってなかったし、少し小っ恥ずかしくも思っていた。だからこそこうなった、目を背け続けていたからこうなったのかもしれない。向き合ってなかったからこそ、こんな関係で収まっていたんだと思う。折り合いもつけない、適当、妥協、及第点、なあなあ。──駄目なことは駄目とも言えない関係性

 たったそれだけだった。違うことは違う、良くないことは良くない、嫌なことは嫌。爆発させる要因を次々と排除し、何かが起きてもそれから逃げ続けた。

 関係性も十人十色。真っ裸で自分の全てをさらけ出し抱き合う関係もあれば、気を使いゴマをすり続ける上司との関係もある。きっと駄目と言えないまま死ぬまで友人関係を続けた人間もいるだろうし、それが間違いだとも思わない。我慢できるならそれに越したことはない。


 城戸も薄々は感じていた。このまま普通に謝れば、また前のような関係性には戻れるだろうと。戌亥は優しいからきっと自分を許してくれるのだろうと。老婦人の人間関係は妥協の連続という言葉、夢野先輩の諦めたらいい自分が我慢して飲み込めばいいという言葉、そして戌亥の彼女の青葉は文句があっても自分が我慢すれば別れずに済む関係性を選んだ。


 しかし城戸は、このままじゃ嫌だと思った。わがままで理不尽でエゴイストだった。


 ──信じろ。


 戌亥の顔がそう言ってる風に見えた。ただの妄想だ。それでも城戸は目の前の男を信じようと思った。そして心に覚悟を刻みつけた──俺は戌亥を全て受け止めると。


「人の家の冷蔵庫、勝手に開けるのかやめて欲しい」


「お前から一回も遊びの連絡とかくれへんやんな」


 怒りが踊っている。


 誤魔化していた。茶を濁していた。目を背けていた。


 怒りを踊らせていた。


 ギクシャクしたくなかった。気まずくなりたくなかった。争いたくなかった。関係を絶ちたくなかった。

 爆発しないよう、暴発しないよう、必死に手綱を握っていた。血が出るほど握り締めていた。

 きっと二人は大丈夫。


 拳をも受け止めてくれたから。

 

 怒りはもう──踊らない。











「……」


「……」


「焼肉」


「え?」


「半年前くらいに焼肉奢っただろ、返せよ」


「……あー」


「焼肉だけじゃないよな。ファミレス、喫茶店、ゲーセン、カラオケ、ファーストフード、レンタルの釣竿代から自動販売機で売られてる飲み物代まで」


「……」


「何で俺が奢ってんだよ。いつもだよなぁ! なぁ! いつもいつも俺が奢ってんだよ。いつから決まったんだ!」


「……」


「慣れてきたのか知らないけど気づいたら感謝もしなくなったよな。それが当たり前みたいな態度でよ! 俺は覚えてるぞ、五年前くらいに行った寿司屋からお礼も言わなくなったのを。さぞよかっただろうな!  人を都合いいクレジットカード扱いしてよ!」


「……」


「おい見ろよ、これ! これ何か分かるか?」


「……ペットボトル?」


「ああ、そうだ。お前がついさっき捨てたペットボトルだよ。お前が買って、お前が飲んで、お前が出したゴミだぞ。何でその辺に捨てるの? 誰かが捨てるからいいだろって? ふざけんな! いいですな、地球をゴミ箱扱いできる身分でよ!」


「……バレなきゃセーフだろ」


「はぁ、なんだそれ? ポイ捨てとか考えられないんだよ。よくこの公共の場で自分の私物を捨てれるよな! 人として駄目に決まってるだろ! なあ、何か言ってみろよ」


「……煙草」


「……は?」


「煙草。お前もよくポイ捨てしてるやろ。カッコつけてるんか知らんけど、お前も自信満々に捨ててるやんけ!」


「……いや、それは」


「何がちゃうねん、言ってみろやこら」


「……いや、煙草は溶けるから」


「煙草のポイ捨てで海とかが汚染されてるつってネットがちょくちょく話題になんの知らんのけ? 溶けるから何や、無くなるとでも思ってんのけ?」


「……」


「煙草もそうやけどさあ、遊びに行く時とかよく携帯触ってるよな。あれ、やめろや! 折角楽しめると思ったらポチポチポチポチってアホみたいに触りやがって! 触るだけならまだしも、ヘッドホンとかしだすやろ? 会話する気ないやん、なんなんお前!」


「はぁ? いやそれは……」


「どうせSNSでなんの生産性もなくトレンド追っかけて、一段落したらゲームして、それも一段落したらなんかよく分からん二次元の絵ばっか見て、そんでまたSNSに戻んねん。遊ぶ時くらい携帯しまえや! そんなに携帯が好きなんやったら携帯とでも結婚しとけ!」


「っ! お前さあ、そんなこと言うけどよぉ、お前の方が酷いことしてるからな! あの、あれだ……店員に横柄な態度やめろよ! 店員のミスでも大人なんだから少しくらい心にゆとり持てよ! 自分たちが浮いてるとか周りの空気読まれへんのか馬鹿がよ!」


「間違ってること間違ってるって言って何がアカンねん! 向こうの不手際でこっちが怒ったら何で俺らが悪者になんねん! つか浮いてるって言うけど、お前の方が浮いてるで。なんなんあの食べ方、お前食べ方汚いねん! この前ミートソース食ってた時も、口元ベッチャベチャでクソキモくて食欲無くすんじゃ! お前の方が周り見えてへんやんけ!」


「うるせぇな! そもそも奢られてる立場でそんなこと言えたな、やりたい放題か。え、なに山賊? 前世もしかして山賊ですか? 絞るだけ絞って財布開かなくなったら拗ねるだろ。そもそもお前は金にルーズ過ぎるんだよ! どこに行くにも金がない金がないって冷めたこと言いやがって!」


「出た、はい出ました。知ってるやろ俺が奨学金とかあの車買ったとかで色々と借金あんのをよ! 高収入で実家もボンボンなお前には分からんやろうけど、こっちはこっちでなんとかやりくりしとんねん! 飯代とかちょっと奢ってくれてもええやんけ! そんなしぶちんやからいつまで経っても彼女居らん童貞やねん!」


「はぁ!? 童貞じゃねーし! 彼女やったらできそうやったわ! お前が居らんかったらなあ! つか、お前もそろそろ落ち着けよ! もういい歳なのに、いつまで経っても女にだらしないキャラ、クソダサいぞ! いい加減、青葉ちゃんのこと大事にしろよ!」


「英雄色を好むって知らねぇのか! そもそも本気の浮気はしてへんわ、キャバクラとかガールズバーはノーカンやろうが!」


「風俗とかはノーカン違うだろ! 性欲にばっかり振り回されやがって気持ち悪いなあ! 猿じゃん、えー猿が動物園から脱走してるー超ウケんだけど! そもそも、あんなにいい子と付き合ってるのに何を遊ぶことがあるんだよ! 悲しませるんだったらさっさと別れろ! 幸せもにできないんだったらさっさと別れろ!」


「っ! お前が言えることか? なぁ! お前もすずこのこと悲しませてるやろ。好きでもないケーキ食わせてたやろ? どうせ女やから甘いもん好きやろー、とか思ったんやろ。お前っていつもそうやんな。店とか行ったら人のメニューとか勝手に決めんねん。なんなんあれ、あれホンマに意味わからんねんけど何が目的なん? 全世界がお前と一緒の味覚と思ったら大違いやで!」


「必死に考えてんだよ! 俺なりに必死に頑張ってんだよ! どうしたら喜んでくれるかなーって、どうしたら楽しんでくれるかなーって、俺も必死に生きてんだよ! コミュニケーション能力が高いお前には分かんねーだ! 言っとくけど、たまたまだからな! お前が話上手なのは生まれつきのたまたまでお前の努力じゃねーから! 凄いのはお前じゃなくて、お前の親だから!」


「誰が努力してないやって? はい出ました、そうやって人の粗ばっかり探しやがって。だいたいお前は根暗やねん! ネガティブやしひねくれてるし、お前と話してると暗くなんねん! なあ、教えろや。どうやったらそんなに暗くなれんねん! その癖、人の悪口ばっかり言うねん。嫌な部分ばっかりアホみたいに見て、影でグチグチグチグチ。そりゃモテへんわ!」


「はぁ? じゃあ何、全部本人の目の前で指摘した方がいいのか? あ、思い出した! 何年か前に釣り堀で隣だった人にハゲてるだのデブだの言ってたよな? ありえないだろ初対面の人間によ! デリカシーがないんだデリカシーが。言っていい事と言ったらいけない事が何で分からないんだ! それで自分が一番正しくて相手のことを見下してるんだよ。どうせ俺のことも見下してんだろ!」


「あ? 本音を言わないと分かり合えへんやろ。ずっとそうや、お前は言いたいことがあってもずっと我慢してんねん。今やっと爆発してくれたけど、我慢ばっかりする奴らなんか友達ちゃうやろ! なあ、そんなに見下して欲しかった見下したろか? お前のやったパンチ、全く痛くなかったわ。軟弱過ぎんねん、筋トレくらいやれや雑魚モヤシが!」


「ガタイがいいだけで自分が偉くなった気でおれるなんて単純でいいよな! 何かあったら直ぐ暴力で解決しようとすんのやめろよな! え、中学生じゃん。ちょっと空手とかボクシング習って同級生に試してくる中学生じゃん、ダッサ。俺たちもういい歳やねんぞ、肩パンとかサブすぎるだろ! 何なんだよそのノリ、いい加減中学生から卒業しろよ!」


「はぁ? え、ちょっと待ってお前にだけはホンマに言われたくないねんけど! 中学生なんはお前やろ、アホみたいにアニソンばっか聞きやがって! カラオケ行ったらそうや、アニソン、ボカロ、アニソン、ボカロつって同じジャンルばっか歌いやがって! 好きなんは分かるけどちょっと違う曲聞けや! 何でもそうやお前と話してると自分の趣味ばっかで、世間一般的な文化の話は一切出来へんねん。俺は何回もお前のおすすめのアニソンとか聞いてんのに、お前は一切やんな! 何回もCD貸してるのに一個も聞かへんよな! 中学生の趣味で止まってるお前の方がサブいやろ、クソキモオタがよ!」


「なんだよそれ! じゃあなんだ、好きでもないのによく分からないアーティスト聞かないといけないのか? ドラマとか映画とか好きじゃないのに見ないといけないのか? 何だその文化、随分と行きずらくなったな日本もよお! 知らないのは罪なのか? 知らなかったら悪なのか? 誰にも迷惑かけてないのに、何でそこまで言われるんだ! 知らぬが仏って言葉知らねーの? 本当に日本人かお前?」


「んなこと言ってへんやろが! ただ世間一般的な知識は入れといた方がいいんやって。そうや、無知は悪じゃないで。罪でもない。でも、高校の頃とか皆が見とった番組とかお前知らんかった時、どうなったか覚えへんのか? なあ、めっちゃ白けたよな。何で見てへんの? ってみんなに言われたよな。馬鹿にされたよな。そんなもんやねん。コミュニケーションの一環として知っとくべきやんねん。好きでもなくても知っとくべきやねん。知らなすぎるのもどうなんやって話や。じゃあお前、今好きな女優言ってみいや。お前の好きな女優誰や?」


「……」


「ほら、出てこうへんやん。ヤバくない? 女優の一人も名前出てこんって。知らないのは恥じゃない? 恥やん。度が過ぎて知らなすぎると世間から追いやられんねん。そういうのみんな世間知らずって言うねん。知らないのは罪じゃない? 馬鹿にされてるやん実際。そんなん言ってるのって、ネット世間についていけてない馬鹿が言うことやで」


「……」


「どうせあれやろ、女の子って言われたらアニメとかゲームの女の子キャラ思い浮かぶんやろ? きんもー。マジでこの歳でそれはキショす──」


「うるさい!!」


「──痛てぇな」


「人の好きなものを馬鹿にするなよ! お前の方が人としてどうなんだよ!」


「人の好きなものねぇ……この野郎!」


「ぐっ!?」


「好きなもんを馬鹿するな、だ? なんやそれ、お前も俺の愛車よく馬鹿にするやろ。俺のベルファイヤ、無駄にデカいとか言って馬鹿にするやろ」


「……」


「立てや。今日で清算するぞ、全部」


「──おい」


「あ?」


「お前今、手加減しただろ?」


「は?」


「いっ!?」


「なあ、本気で殴ってるぞ俺。本気で人間を、本気でお前を殴ってるぞ。来いよ! 本気で来い! 全部受け止めるから──


──死ぬまで喧嘩しよう」






 水魚之交。






「俺はいつも言ってるよな! お前は図々しいって。人の家のエアコンとか勝手に付けるし、ゴミ箱に近いからとかついでに自分のゴミを捨てさせるし、お菓子とか勝手に持って帰るし! 俺だけだったらまだしも初対面の人間にも厚かましいだろ。お前、ちょっと前に俺の母親に結構老けましたね? とか言っただろ。ふざけんな! 母さんは全然気にしてなかったけど、それにしても駄目だろ! 人によっては大変なことになるくらいだぞ! デリカシーがないんだよデリカシーが! 多少なりとも遠慮というか、お世辞というものを覚えろよ。そんなんだからいつまでも出世しないんじゃねーの? どうせ上司に向かって、先輩ってあんまり仕事できないですよねー、とか言ってんだろ。上司に臆せず何でも言っちゃう俺、に酔ってるだけだろお前は! 言っとくけど生意気なキャラクターって全然かっこよくねーからな! お前がさっさと出世して給料を増やしてさっさと借金かえしたら、もっと遊ぶ幅とか範囲が増えるのによ! 俺はもっと色んな外国とかに行ってみたいのによ、行くのはいつも車で移動できる県内だよ。そして決まって温泉、サウナ、温泉、サウナ、温泉温泉、サウナサウナ、どれだけ整いたいんだお前は! それで旅館に止まって酒で酔っ払って隣の宴会場に怒鳴り込んで、酔いが覚めたらナンパってやりたい放題か! 頼むから落ち着けっていい年なんだから、痛々しいんだよ!」




「そういうお前はどうや? いい年にしてリア充がとかカップルとか妬んで、そのくせ彼女作れば? ってゆうたら自分は陰キャやからつって中学生みたいなことやってるやん。もうええやろ自分は陰キャとか相手は陽キャとか区分すんの、いつまでそんなこと言っとんねん。要はビビってるだけやろキショいのぉ! そのくせプライドも高いねん。ちょっと前ラーメン行った時、得意げにニンニクマシマシとかよく分からんこと言って店員に、うちそういうのやってないんでー、って言われてたよな。そん時、絶対に間違い認めんかったやんな。この店は遅れてんなーとか言ってよ。うぜー、うぜーよお前! 面白いことやん、盛り上がることやん、恥ずかしいけど話が弾むことやん。間違ったんやったら面白い方向に仕上げろや、何で微妙な空気にすんの? 無理やり煙に巻いて正当化しようとする感じ鼻につくわマジで! 話の腰を折んのが得意やもんなお前。そう、いや、って言うねん。話の冒頭でいっつも、いや、って絶対言うねん。俺が言うことなすことに全部、いや、って言うねんなお前。なんなんそれ、そんなに人のこと否定して楽しいんか? 論破した! 論破した! って、ガキみたいによぉ! 直ぐに優劣つけるくせにめちゃくちゃ負けず嫌いやし、負けたら負けたでネチネチ愚痴んのやめたら? ゆとりを持てやゆとりを! 視野をもっと大きく持って、相手と同じ目線に立つこともかんがえろや!」




「お前にだけは言われたくねーよ! 店員に偉そうにしてるお前にだけ言われたくねーよ! 店員には横柄な態度とるな、感謝の一言でも言え! 漫画のカバー勝手に取るな、人の物は丁重に扱え! こまめに掃除しろ、いつまで経っても鼻炎が治らないのはそれのせいだ! 当たり前のように奢らすな、たまにはお前が奢れ! その辺にポイ捨てすんな、自分が出したゴミは持って帰れ! 勝手に冷蔵庫開けて水飲むな、飲んでもいいけど一言あるべきだろ! 唐揚げにレモンかけるな、それも一言あるべきだろ! よく知らないのにブランド買うな、借金してるのに無駄遣いすんなよ! 金無いくせにパチンコに行くな、そんなことしてるからいつまで経っても貯金ないんだぞ! 突然シャドーボクシング始めんな、格好つけてるのか知らんが公衆の面前でやるとかふざけてんのか! 女遊びなんかすんな、もういい加減青葉ちゃんを幸せにするか解放するかにしろ! いい歳して酒に溺れるのはやめろ、関係ない人に絡む俺の身にもなってくれよ! ……もういい加減にしてくれ。常識は守ってくれ……何時になったら落ち着いてくれるんだお前……節度持つっていう概念がないのか? 俺たちもうちょっと三十歳になるんだぞ? 分かるか三十、アラサーだよアラサー! 立派な大人なんだよ! なぁ、覚えてるかお前? お前が大学生の頃に酔っ払って暴力団に絡んでボコボコにされた時、俺がどんだけ心配したか知らねーだろ! ボロボロになって頭からも血が出て、半殺しにあったのに何でまだ懲りてねーだよ! もしかしたら死んでてもおかしくなったんだぞ! もういいんだよそのやんちゃキャラ、いつになったら卒業するんだ。そうだ、言ってやる、今だったら言えるぞこの野郎! 俺はずっとファミレスよりも小料理屋が好きなんだ! 焼肉よりも寿司を食いたい! 温泉よりも岩盤浴の方に行きたい! 何回かそっちに行ってみようって提案したけど、気づいたらお前の行きたい所に行ってんだよいつもいつも。お前が行きたかったんだったらお前が奢れよ! いや、いいよお金は……お前にだったら何回でも何でも奢ってやれるよ、だって大切な友達だからな! でも、ありがとうの一言もないのが気になるんだよ。ありがとう、ありがとうだ。たった一言、一秒で済む感謝もないのが悲しくて仕方ないんだ! 人間関係を継続する上で日頃の感謝を忘れたら絶対に駄目だろ。職場の人間でも親友でも彼女でも家族であっても、ふとした時に感謝の言葉が出なかったら人間性根が腐っちまうんだ! そんなに蔑ろにできるんだな友達を! お前にとって友達ってなんだ? なぁ正直に言えよ、俺のこと金ヅルだと思ってんだろ? 別にこいつだったらATM扱いしてもいいやーって、そういうことでいいんだな?」






「金銭面に関しては俺が全面的に悪いけど、蔑ろにしてるのはどっちかというとお前の方やろ! 温泉、サウナ、アスレチック、ドライブ、カラオケ、ボーリング、ダーツ、カフェ、バー、夕飯の食事から旅行まで全部引っ括めて俺がやろうって言ったよな? で、なに? お前はなに? なに誘ってくれたっけ? ないやん! 一個もないやん! 一回だけお前から誘って欲しいなぁ思って連絡せんかったら、ゴールデンウィーク丸々過ぎていったやろ! 予定でもあんのか思って後々聞いたら家で暇してたってなんなんそれ! 滅茶苦茶他人の対応やん、どこが友達なん? 随分と都合がええな俺は! 社交辞令か! あれホンマに嫌やねん、何でお前から誘ってこんの? どういう意図があって誘わんの? そんなに一人が好きなんやったら一生一人でおれや! ほんで俺が折れて遊ぶってなった時、当日になって絶対に五分か十分くらい遅刻すんねん。あれなんなん? こいつやったらちょっと遅れてもええやろとか思ってんの? 仲良しやからええやろとか思ってんの? あのよ、遅刻された側からしたらどう思うか知ってる? 今日そんなに乗り気じゃない、なんやったら全然楽しみやないちゃうかって思うねん! 他のやつがそれくらいええやろって言っても俺はやっぱ嫌やねん! 悲しくなんねん! 分からんねんお前のラインが! ポイ捨てはあかんとか言いながら煙草のポイ捨てはするし、常識を守れとかいいながら遅刻はするし、滅茶苦茶なこと言ってんで! わがままか! そうやわがままお前は! わがままなくせにそれを表に出さんといい子ちゃんぶってんねん。そんでホンマにピンチの時もそのいい子ちゃんの仮面取らへんねん、頼らへんねん。さっき言ったよな、俺はデリカシーがないって。デリカシーがないやと? お前は気使いすぎやねん。気使わんことが正しいとか思ってんの? ちゃうで、全然ちゃう。知らんやつに気使うのは分かるけど、友達にやりすぎたらただの他人行儀やねん! お前さ結構前に梅田で一人財布なくして帰れんくなった時あったよな? あん時、十キロ以上歩いたわーとかなんとか言っとったけどよぉ、何で俺に連絡くれんかったねん。車出して迎えに行くやんけそれくらい! 確かに俺は飯とか奢ってもらってお前に頼りっきりやけど、お前からは全然頼ってくれへんやんな? ただやっぱ根っこの部分はわがままやからふとした拍子に遅刻とかすんねん。信号無視もするし、煙草もポイ捨てするし、ドタキャンもする。でも外面はええから店員には行儀ええかっこすんねん。もうええやろ、なぁ! 友達やと思ってるんやったらちょっとくらいは信頼して頼れや! 全部受け止めるから信じてわがまま言ってくれや!」






     *






「それ、いつ取れんの?」



「二ヶ月で完治らしいです」


 夢野は怪訝な表情で目の前の男を見た。

 腫れ上がった目元だけが露出し、顔の大部分は包帯でぐるぐる巻きにされている。乾燥され形が残った死体であるミイラとまではいかないが、某RPGのモンスターに限りなく近い男に仕上がっている。

 城戸は首を傾げた。激痛が走った。


 横で明太釜たまうどんをすする有田は、何度見ても見飽きない城戸の姿を今一度確認した。笑った。


「いやいや、それにしてもこの姿でよく商談が成立しましたね」


「あぁ全くや。どっちかと言うと向こうも契約内容よりお前のその姿で喜んでた節はある。幸雄ちゃん、これからそういう路線でいったら?」


「そんな路線いりませんよ、ちゃんとした線路を走らせてください」


 取引先との商談も終わり、少し早めの昼食にチェーン店のうどん屋に入った城戸たちは、そのどうしようもなく変わってしまった男に言及していた。


 あれから二日、休む暇もなく会社に出勤した城戸は分かりやすく注目の的だった。しかし、気にはなっても堅物で寄り付きがたい城戸幸雄という男とプライベートで話す人間は数少ない。よって突然のミイラ男化に対して、どれだけ気掛かりでも尋ねれる人が夢野と有田以外にいなかった。


「そういえば先輩、近いうちに有給取るって言ってたじゃないですか。どこか悪いんですか?」


「いや、旅行」


「お、もしかしてコレっすか?」


 有田は小指を立てた。


「ちげーよ男だよ」


「馬鹿か有田、コッチだわ」


 夢野は中指を立てた。


「何でですか!」


「俺らがせっせて働いてる中、呑気に温泉旅行すんだよ。ふざけんな、羨まふぁっきゅーメーン!」


 城戸は複雑そうだがどこか嬉しそうにこめかみを掻いた。バツが悪くなり城戸はうどんをかきこみ、水も一気に飲み干して立ち上がった。ご馳走様、と手合しトレーを返却口に持っていき「ちょ、早いって! もっとゆっくりしてこーや!」という夢野の言葉を振り払い外に出た。


 桜も直に散るであろう夏に近い春。なんのわだかまりもない温かな空の下、小唄の一つでも出てきそうな気分になる。そんな心地よい環境だが、何か足りない物を感じた。絶対に忘れてはいけない物を感じた。自然と仕切りのある空間に足が動く。


 城戸は懐から四角い箱を取り出した。それはこの恵まれた青空を汚すのに適した物だった。指で箱を叩くとそれは顔を出した。ジッポーでくわえたそれに火をつけ、めいいっぱい息を吸い肺に流し込んでいく。


「ふぅ……この一本のために生きている!」


 脳が溶けるような感覚は何度味わっても辞められない。いや、辞めようと思えば辞めれるのだ。事実、城戸は今までに三回も禁煙を成功させている。断じて失敗しているわけではない、成功しているのだ。

 こうして煙草を嗜む程度に楽しんでいると、同じく急いで食べてきたのであろう夢野と有田が店から出てきた。


「何やってんすか先輩、次のお得意さんの所まで時間あるんですしゆっくりしましょうよ」


「そうやで、客も少なかったしあと一時間は粘れたやろ」


「お詫びに煙草一本ください!」


「しょうがないなぁ」


 と言いつつも、城戸の顔はニヤけていた。


「夢野さんもどうぞ」


「悪いな、俺ちょっと前から禁煙してるから」


 城戸の手から煙草が滑り落ちた。この中の誰よりもヘビースモーカーな夢野の口から出てきた禁煙という言葉は、世界の時を止めるには充分だったり。実際に止まっているのは城戸と有田だが、この二人は確かに時が止まっていた。九割がヤラセで一割が止まっていた。

 そんな止まった二人に気づいた夢野は、得意げに小指を立てた。続いてお腹が膨らんだジェスチャーをし「これがこれなもんで」と幸せそうに微笑んだ。


「え、夢野先輩太ったんですか?」


「天然か! しかも俺ちゃうし」


「違うだろ有田。小指立てたってことは奥さんだろ。つまり、夢野さん──デブ専ですか?」


「殺すぞ!」


 悪気はある。


「妊娠や妊娠! 俺の妻が妊娠したねん、分かるやろ!」


「冗談ですよ。いや、おめでたいですね!」


「おめでとうございます、夢野さん」


 冗談はさておいた二人が茶化しを抜きにして祝意を表し、素直に受け取れず照れくさそうに夢野は応えた。有田に煙草を渡すと「ありがとうございます! やっぱ煙草は先輩から貰うに限りますね」と小生意気に言い放ち、城戸は憎たらしくも可愛らしい後輩に思わず笑みがこぼれた。

 そんな二人を尻目に夢野は、なにやら鞄を漁っていた。


「ていうか夢野先輩偉いですね、子供が出来たからちゃんと煙草止めるって」


「やろ、ええ男やろ? ただやっぱり口元が寂しいからコレや」


 夢野が取り出したのはカラフルなグミ、パッケージには黄色の熊が笑いながら手を挙げている。しかし、そんな見た目とは裏腹に噛みごたえは十分のハードグミだった。


「これでも噛んどきー、って」


「家では尻に敷かれてるんですね」


「意外です。なんやったら夢野さんって亭主関白って感じがしたのに」


「ま、親父なんてそんなもんよ」


 こうして喫煙所にて、煙草休憩をする二人の男とグミ休憩をする一人の男の構図が完成した。息を吸い、息を吐き、咀嚼をする。有害物質を肺に入れ、白い煙を空に放ち、なかなか切れないグミに苦戦する。なんとも面白い光景だった。


「ほんで幸雄は今回の旅行はどこまで行くんや?」


「群馬県ですね」


「あれ、前にも行ってませんでした? 確かお土産で温泉まんじゅう貰ったの覚えてますよ?」


「あぁ、もう一回行く」


「なんでやねん。折角やったら海外とか行けばええのに。なんやったら俺がおすすめの旅行スポット教えたろか?」


「いえ、もう一回行きます」


 頑なな意思、城戸は真剣な眼差しだった。


「リベンジです。灰色の思い出に色を塗る──何の不満のない旅へと」


 夢野は隣にいる城戸の顔を見た。


「先輩、結局ですが先輩の友達の人とは折り合いが──」


「有田。もう聞かなくても分かるだろ?」


 雲一つない晴れた表情、口にしなくても全て分かるような分かりやすい顔。有田も城戸の表情を見て「あー、ですね」とチャックを引っ張り口を閉まった。聞きたい気持ちは大いにあるのだが、これは二人の男だけの問題であり、それを追根究底するのは野暮というもの。聞きたい気持ちは煙にして飛ばし、疑問の喉のつかえはグミで押し込んでいく。


 城戸の体は傷だらけで、その外傷に誰もが憐憫な眼差しを送る。同情なのか分からないが、いつも暴言を吐き罵ってくるハゲの上司も口を開かず目を逸らしていた。

 しかし、城戸の目だけは綺麗に澄んでいた。


「幸雄、さっきのうどん美味しかったか?」


「はい、とても」


「そりゃよかった」


 夢野父親のように微笑んだ。


「壁はなくなりました。二人のおかげです、ありがとうございました」


 城戸は深深と頭を下げた。心の底から頭を下げた、これほど感謝したことはない。そんな城戸の姿に有田は微笑み、夢野も呆れるように笑った。


「お礼なんかいらんわアホ」


「そうですよ、当たり前のことをやっただけです」


 すると有田は「あっ、そうだ!」と何を思ったのか鞄を開き、一枚のチラシを取り出した。チラシには大袈裟な文字で北海道ツアーと書かれている。


「北海道の旅か」


「観光にグルメスポット巡り」


「先輩が旅行ばっかり行ってるから羨ましくなっちゃって。よかったら、今回は俺ら三人で旅行行きませんか?」


 少し照れくさそうにする有田の頭を、夢野は乱雑に撫でていく。その男らしくガタイの良い夢野に弄られ、加えて有田の幼い見た目せいか親子に見えてくる。城戸は吹き出しながら笑い有田の肩に手を置いた。

「そうだな行こう、多分その日は体調が悪くなる日だと思うし。会社には行けないけど、北海にだったら行けると思うぞ!」


「よっしゃ、いっぱい美味いもん食うで!」


 二人の同意に有田は子供のようにはしゃいでいた。


 そんないい雰囲気だった空気に嫌な機械音が鳴った。全く空気の読めないタイミングで鳴ったのは夢野の携帯であり、少し不機嫌な顔をしながらポケットから取り出した。城戸の目線から微かに見えた番号は会社の電話機、夢野が応答を押し耳を押し当てると嫌悪感溢れる顔を披露した。声も聞いていないし確信はなかったが、なんとなく相手が誰か分かった。ハゲだ。


 しばらく話し込み、突然「何でそんなことになってるんですか!」と怒鳴り気味に言い放ち、夢野は呆れながら携帯を切った。


「お前ら、急いで帰んで。あの小豆洗いいらんことやらかした」


「マジですか?」


「マジや。城戸はこの会社に電話でなんとか今日中に話する場を設けるよう説得してくれ、ほんで有田はお詫び用でセンスのあるお菓子を買ってくること、ええな?」


「承知しました」


「了解です」


 大慌てで喫煙所を飛び出した三人は、プライベートとは打って変わって仕事モードに移行した。何故あんな人間の不始末に自分たちが尻拭いをしらなければいけないのかと苛つきが隠せないが、会社の深刻化は自分たちの生活の悪化に繋がる。割り切ってやるしかないのだ。夢野がタクシーを拾い、有田は携帯でお菓子の検索をかけ、城戸は貰った名刺から電話にかけようとしていた。


 ふと、有田がそれに気づいた。


「城戸さん、煙草持ったままですよ!」


 いつの間にか指に挟んでいた煙草を脳内から排除していた城戸は、喫煙所からここまで気づかず持ってきていた。有田の指摘に城戸は「おぉおっ!?」と素っ頓狂な声を漏らした。

 そして、最後のひと吸いとばかりに気持ちよく煙を吐いて城戸は煙草から手を離した。地面に落ちた煙草の火を足で消し、そして──


 ──拾い上げた。


 携帯灰皿に閉まった城戸は、大急ぎで携帯を耳に当てた。それと同時に夢野がタクシーを呼び止めて、続いて乗り込んでいく。時刻は十二時半、まだまだ昼時。

 まだまだ、仕事の途中だ。


     *


 業務に追われ久しぶりに残業、加えて夢野と有田とのご飯でまさかの帰宅が丑三つ時。明日は休みだからとはいえ調子に乗りすぎた城戸は、タクシーに揺られながら窓越しに外を眺めていた。人間が生活するための光、毎日やってくる闇に抗う希望の光。人間の目では追えないその速さ、きっと写真で取ればこの光はくねくねと伸びるのだろうと不毛なことを考えていた。酔い醒ましだった。


 そんなに酒は弱くないし飲まれるほど愚か者ではない、とそう思っていた。信頼か人柄か分からないが、心の底から安心し酒を呷っていた。気づいたら溺れていた。記憶に残るタイプだったのか、城戸は酔態を晒し迷惑をかけたことによる申し訳なさが襲っていた。しかし、あの二人にだったら勝手ながら自分を任せられる、自分の醜態を顕しても構わないと心の底から思えていることに筆舌に尽くしがたい充実感があった。


 タクシー運転手に「この辺で大丈夫です」と車を停めてもらい、財布を取り出し支払いを済ませた。タクシーから出た城戸は、ずっと同じ体制だった鈍った体を大きく伸ばし息を吸った。力を抜くと同時に鼻から息を吐き肩から張りが消えた。家から少し離れた場所に降りた、少し歩きたい気分だった。


 酒で火照った体に涼しい風が通った。スキップとまではいかないが、少し跳ねるように歩いていた。上機嫌だった。そんな城戸の前に一匹の猫が通った。こちらを向いて大きな欠伸をしたと思ったら、その野良とは思えぬずんぐりむっくりな図体で大儀そうに歩き去っていった。そのどうしようもなく憎たらしい顔つきと巨体に、頭の中で戌亥の存在が連想したきた。城戸は思わず口元が緩んだ。


 我が家であるマンションにたどり着いた城戸は、誰もいない仄暗い廊下を闊歩しエレベーターのボタンを指で押した。かなり上に待機していたエレベーターが、一階に向けて降下していく。


 ふと、エントランスからこちらに向かってくる人に気づいた。「こんばんわ」と小声で会釈をした城戸だったが、その人物に見覚えがあった。そして、思わず吹き出してしまった。

 どこで買ったのかも分からないつばの長いキャップ帽、つい先程まで囚人だったのか疑いたくなる白黒縞模様の上下、何故かその上から高そうな赤いネクタイをつけ、雨も降っていないのに履いているピンクの長靴、そして変わらず小さなサングラスをかけている。深夜ということも合わさり不審者感が否めないその男は、城戸の顔を見て口角を上げた。


「お、懐かしい顔やな」


 男は城戸の姿を一通り見たあと同じくエレベーターに体を向けた。


「やっぱり同じマンションに住んでたんですね、あんまり会わないものですね」


「なんやなんや俺のこと探しとったん? アカンで、それは非常にアカン! ファンやったら適度な距離を保ってもらわんと困るわ!」


「違いますよ、ただの人間的な興味です。冬場なのに下駄を履く人なんてそうそういないですから、もう一回くらい見ておきたいものですよ」


「確かにあの時はズレとったかもしれんな。でもほら、今日のファッションは季節に合ってるやろ?」

「そんな服が似合う季節がきたら世界の終わりも近いですね」


 城戸は笑った、男も笑った。

 エレベーターがまだ来ない。


「そういえば、焼き鳥屋でおった女の子……あれ君の女やろ? めちゃくちゃ酒に酔っ払ってな、私のせいで! 私のせいで! つって。ほんで話聞いてみれば恋人と恋人の友達がギクシャクしてるって、それを何も考えず蔑ろにしてしまったって。直ぐにピンと来たでエレベーターで会った兄ちゃん、君のことやって」

「よく分かりましたね。ていうか貴方は色んな人にいつもいつも意味深なメモを渡してるんですか?」


「そうやで。なあに、老後の暇つぶしや」


 奇行。見た目も相まって限りなく不審者に近い人に、城戸は苦笑した。

 エレベーターがようやく着き、城戸に続き男も乗り込み七階のボタンを音を立てて指で押した。ゆっくり扉が閉まる中、城戸は改めて口にした。


「答え合わせ、していいですか?」


 男は城戸を一瞥をせずに「ええよ」とだけ口にした。


 ぶん殴る。


「ぶん殴る。殴るというのは、紛うことなき暴力。暴行。犯罪に値する行動です。では、殴るというのはどのような感情、どのような場面で行使するのか考えてみたんです。怒ったから殴った、苦しかったから殴った、辛かったから殴った、楽しかったから殴った。そして気づいたんです。殴るというのは、この身一つでできる最大級の『エゴイズム』じゃないかと。茶化されて怒ったから殴った、自分のわがままです。娘や息子が殺されて、裁判で飛びかかり馬乗りになって殴った。誰かの為だとか仇だとかではない。言わばこれも娘や息子の為でなく、自分が相手のことを憎かったから殴ったという一つの『エゴイズム』だと思うんです」


 丁度いい人。


「丁度いい人、都合のいい、おあつらえ向き。殴るというのにお手ごろな人間、いじめだったらサンドバッグ役か。果たしてこの世の中にそんな人間が存在するのか、甚だ疑問でした。もし、その人間最大級に自分勝手である『エゴイズム』を受け入れてくれる人が居るのなら、かなりの依存関係にあると思いました。理不尽な暴力、それを受け入れれる人間がいるのか。そして俺は逆転の発想をしてみました、自分が誰かの殴られる丁度いい人なら。それなりの信頼関係がないと成り立たない、まず初めに家族が思い浮かびました。ただ血の繋がりだけ成り立つのであれば、この世にDVなんて言葉はありませんし」


 ぶん殴る。


「この身一つで出来る最大級の『エゴイズム』。他人に迷惑をかけてはいけない世の中で、それなら誰に迷惑かけていいのか。一方的だったら駄目なんです、一方的だったら無理なんです、一方的だったらそんな関係は成り立たない。そんなものはただのイジメだ。『エゴイズム』を押し付けたなら『エゴイズム』を押し付けられる覚悟が必要なんです。パシッたならパシリ返される、悪口を言ったなら悪口を言い返される、殴ったなら殴り返される。迷惑かけあってでも一緒にいたいそんな関係。きっと他人では図れない屈強な絆が必要です。そしてもう一枚のメモに繋がる。俺は思いました、自分が殴っても受け入れてくれるなら……自分はその相手に殴られるのに丁度いい、殴られても構わないと」


 構わない。


「ぶん殴るのに丁度いい人とは、自分の『エゴイズム』を受け入れてくれる人間。そして相手の『エゴイズム』を向けられても構わない自分自身──どうですか?」


 エレベーターが上昇し機械音が支配した。切れそうな痺れを耐えながら返答を待つ城戸だったが、それを尻目に男は悠々と階数表示板を眺めていた。

 たっぷりとした間だった。時限爆弾を解除しているドラマや映画のわざと引き伸ばしてるような不自然な長さ。

 そしてようやく口を開いたが、出てきた言葉は城戸の望んでいる言葉ではなかった。


「正解なんちゃう」


「え?」


「知らんけど」


「は? ちょ」


 それは適当だった。

 もう二度と会えないと思っていた男と出会い、更に取り憑かれようなずっと頭を悩ませていた言葉がようやく聞けると思っていた。城戸はどうしようもなくむず痒いそれを、なんとか掻くことができないか目で訴えた。玩具やゲームを買って欲しいと強請る子供のような目に男は、やってやったという風に得意げに笑った。


「私と君は他人やで、殴ったり殴られたら即警察や。ごめんやねんけど、君の正解を教えて欲しいなんて『エゴイズム』を受け入れるほどの関係やないの私たちは」


 答えは得られなかった。しかし、城戸の中で腑に落ちる感覚があった。何日も悩んだ、眠れない日もあった。辛くて苦しくて泣きそうになった日もあった、なんだったら泣いていた。メモに縋るように生きてきた毎日に、ピリオドが打たれるのをずっと待っていた。その時が来たと思っていた。


 ……でも、そんなことはもうどうでもいい……だって周りには、どうしようもないわがままな俺を受け入れてくれる恋人がいるから、直ぐに心が折れて倒れるどうしようもない自分を支えてくれる先輩と後輩がいるから、自分で出したどうしようもない結論に付き合ってくれる親友がいるから……。


 もう正解なんていらなかった。

 城戸は固く握っていた拳を緩めた。


「それじゃあ、丁度いい奴らのとこで生きていこうと思います」


 男は笑った。


「うん、そうしぃ」


 エレベーターは動く。


 恐らくもう止まることはない。


     *


 包帯が少し取れた今日この頃、城戸はボストンバッグを片手に玄関から出た。携帯で時刻を確認すると午前七時半であり、約束の八時に着くには少し早いくらいだった。優雅な足取りで駐輪場に行き、自分の自転車を引っ張り出そうとした所で手が止まった。向こうの家に自転車を止めて、車で行くつもりだったが少し気分が変わった。


 城戸は徒歩で早朝の大阪の街を繰り出した。軽やかな足取りをするには、まだ傷ついた体が許さなかった。なので、その許さない体を無視してバッタのように跳ねながら歩いていく。痛かった、でも関係なかった。


 サラリーマンが今日も今日とて出勤しているのを横目に悠々自適する。なんなら鼻歌でもしたいような気分だ。なので、した。上機嫌の波に体を任せていた。

 麦わら帽子が似合う季節がやってきたのか太陽が眩しい。照りつける日差しの下で、生後零日から一週間のセミたちが朝っぱらから単独ライブをしている。いい迷惑だが、今日だけは許そう。そう思いながら城戸はセミの武道館である公園を横切っていく。


 飲料を買いにコンビニに寄った城戸は、どうせだったらとお菓子を買うことにした。これから旅行だというのに家でパーティでもするのかと疑うくらい買い込み、コンビニ袋で片手が塞がった。右手にボストンバッグ、左手にコンビニ袋。城戸は荷物が増えることに気づき後悔した。買った直後に後悔した。

 約束の時間五分前と、いい頃合い。たどり着いた城戸は、戌亥という表札を確認しインターホンを押そうした。しかし、押す前に玄関が開きその人は現れた。


「城戸くん?」


 同じく両手いっぱいにゴミ袋を抱えて出てきたのは、戌亥の彼女である青葉だった。


「あっ、わわっ! ごめんね、こんな格好で」


 彼女のルームウェアは子供のようなパジャマでかなり幼らしい印象が強い。本当にごみ捨てる為だけに少しだけ外に出たはいいが、まさか城戸と搗ち合うとは思っていなかったんだろう。


「あはは、なんだか照れるな。まだ間に合うかなーと思って油断してたよ

恥ずかしがる青葉を前に、城戸は少しずつ申し訳なさが募らせていた。それは、パジャマ姿を見た訳ではなく別の事で。

 城戸は思い返した、自分が目の前の彼女に何を言ったのか。自分が爆発したきっかけだった言葉を、何気なく使っていたのを今でもハッキリ覚えている。


「そんなに嫌なら、別れたら?」


「え?」


 自然と口にしていたその言葉。確かに城戸が口にした言葉であり、口にされた言葉でもある。

 城戸はこれまでにないほど綺麗に頭を下げた。


「青葉ちゃん、ごめん! 許してくれるなんて思ってないけど、謝らせて欲しい!」


 朝一番に玄関を開けたら謝罪された青葉は、突然のことで脳がショートを起こしていた。もしもコミックの世界だったら目を回して頭から煙を出すであろう。青葉を直ぐにその混乱状態を振り払い、深々と頭を下げる城戸に駆け寄った。


「俺、青葉ちゃんの気持ち全く汲み取れなかった。それなのに分かった気になって、別れたら? なんて的外れで馬鹿なこと言っちまった。本当にごめん!」


 城戸と青葉の水準は似ていた。戌亥の件で不満はあるが大切に思っている、だからこそ第三者に軽々しく言われたくない。城戸は加奈に指摘されて直ぐに爆発したが、怒った城戸自身も青葉の導火線に火をつけていたことに改めて気づいたのだ。


 青葉は誠心誠意謝る城戸の姿に優しく微笑んだ。


「ううん、そんなことないよ。何が相手の逆鱗に触れるかなんて触れてからじゃないと分からないし。なんというかそうだな……自分から地雷を踏みに行こうとする人なんていないと思う。城戸くんはきっと、私のことを思って言ってくれたんだよね? そんなに気にしなくても大丈夫だよ」


 城戸は決して茶化して青葉に別れを勧めた訳では無い。青葉のような良い女性はあんな男よりももっと良い人がいる、という思いで放った言葉だった。決して悪意はない。加奈も同じく苦しむ城戸を解放させてあげたい思いで放った、決して悪意はない。すると青葉は「そもそも京介が浮気しなければこんなことになってなかったんだから!」と腕を組み頬を膨らませて怒りを顕にした。


 青葉はゴミ袋を地面に置きカラスよけネットをかけて腰に手を当てた。燦燦と照りつける太陽に手を伸ばした、右手を大きく開けて掴むようにゆっくり閉じた。大きく息を吸い込み、肩から重りがなくなったように息を吐いた。


「京介、プロポーズしてくれたの」


 城戸は衝撃のあまり少しよろけた。

 青葉は続ける。


「今までのことは全部謝る、スマンって。もう二度と浮気はしない、キャバクラも金輪際行かないって。あんなに好きだったのビックリだよ。で、まだ少しでも俺に愛情を向けてくれるんやったら絶対に幸せにする! って……ほんと、勝手だよね」


 青葉はもう一度、手を広げた。

 大空に翳した手が影て暗くなり、その薬指に光り輝く指輪が現れた。婚約指輪だった。


「城戸くん、ありがとう。私のお願い聞いてくれて」


「え、お願い?」


「私の気持ちを代弁してくれて」


 顔を上に向けているため表情が見えない。ただ声色だけで心事に立ち入らなくても読み取れた。その一筋に流れる感謝の感涙と、頭のてっぺんからつま先まで滲み出る幸せなオーラ。もう何も言葉は要らなかった。


「おう」


 開きっぱなしだった玄関から戌亥が現れた。相も変わらず偉そうな足取りだ。顔を見ると以前まであったクマがすっかり消えていた。その代わりに、城戸と同じく頭に包帯を巻き顔中に治りかけの切り傷や擦り傷があった。その前の会話を少し聞いていたのか「まあ、そういうことやから」と少し擽ったそうにしていた。照れる、という長年つるんでいてそんな表情を見たことがなかった城戸は生温かい熱を帯びた目を向けた。そんな冷やかしのような笑顔に戌亥の怒りを簡単に買い、両手に握りこぶしを作り城戸のこめかみを捏ねくり回すように圧迫した。国民的な五歳児のジャガイモ小僧の母親でしか見たことないようなグリグリ攻撃だった。


 しかし、いつもこういうやり取りでやられっぱなしだった城戸も反撃と言わんばかりに戌亥の頬を抓った。


「おい城戸! お前いい度胸しとるやんけ、またやるかこの野郎! そんなニヤケ面できんくらいシバいたるから覚悟しろや! ちょ、痛い痛い!」


「よおよおやってみろよ! その茹でダコみたいに赤くなった状態で出来んのか? なあ、お前のプロポーズ今そこでやれ。それ録画してネットに流したるわ! それが嫌だったらこのグリグリ止めろ! 痛い痛い!」


 子供のように取っ組み合いをしている成人男性二人を、青葉を微笑んだ。前の彼女からは想像できないほどの幸せで豊かな微笑だった。

 ふと戌亥な自分の腕時計が目に入り時刻を確認すると、こんないざこざに十分も経過していたことに気づいた。アラサーのおっさん同士が何をやっているだと我に返った二人は、そんな馬鹿をしていたことにクスリと笑った。青葉と同じ笑いだった。


 荷物をトランクに突っ込み戌亥が運転席に座ろうとした。


「戌亥」


 呼び止めた。


「なんや城戸」


 振り向くと、なにやらバツが悪そうに後頭部をかく城戸がいた。口をごまつかせながら難産だった言葉をようやく出し切った。


「俺が運転するよ」


 戌亥の返答がくる前に城戸は続けた。

「いや、こういう遠出の時にいつもお前が運転してくれてるし! たまには俺もやるかというか、お前にだけ負担をかけるのは違うというか、持ちつ持たれつというか、あのそのなんというか!」

 そんな勝手に慌て自爆していく城戸に、戌亥はせせら笑った。そして、大事に持っている車の鍵を城戸に放り投げて助手席に移動した。


「んじゃ、頼むわ」


 城戸の手に残った証、まだローンも払い終わってない車の心臓部品。それを託してくれたことに、今から運転をする緊張より嬉しさが勝っていた。


「なにわろとんねん、滅茶苦茶遠くて滅茶苦茶大変やねんからな。頼むでホンマに」


 城戸は運転席に座りシートベルトを締めて、車の鍵を回しエンジンをかけた。うっすらと冷や汗が出てきたところで、窓を開けると青葉を不服そうな顔をしていた。


「新婚旅行よりも先に旅行行くなんてズルいよ!」


「悪いな。お土産楽しみにしとってや」


「うん、そうする」


 青葉は城戸に顔を向けた。


「城戸くん、京介をお願いね。それと、向こうで浮気しないか見張ってて。変なことしてたら即連絡してね!」


「あいわかった」


「もうしねーよ……行ってくる」


 そして青葉の「行ってらっしゃい」という言葉とともに、城戸はアクセルを踏み込んだ。駐車場をゆっくりと出ていく巨大と車体は、道路に飛び出して直ぐに赤信号に捕まった。


「そうか……結婚か。本当に良い嫁さん掴んだな。結婚式は盛大にやるのか? 青葉ちゃんの性格的に大規模なのが好きそうだけど」


「まだ何も決まってないわ、その辺は涼子とおいおい相談やな。専門の人にも話聞きたいし。それよりお前の方はどうなんや、いい人できたんか?」


「……できた」


「え、嘘、ホンマに?」


「ホンマだ。俺にはもったいないくらいの素敵な女性だよ。一回俺がやらかして別れる寸前だったけど『私、まだ幸雄さんと別れたつもりないんやけど』って言ってくれたんだ」


「なんか男らしいな。肝が座ってるというか、できる女って感じや。もう頭上がらへんな!」


「そういうお前もさっきの青葉ちゃんの態度で、もう立場変わったの分かったぞ。いや意外だ、亭主関白になると思ってたお前がこれから尻に敷かれていくのか」


 話す。

 思えばここまで、こうした心の奥底をつつき合う会話をしてこなかった。お互いが深く入り込まず、友人の会話というより、友人であるための会話をしてきた。


 当たり障りのない会話は楽しかった、注意しなくてもいい関係はとても楽だったと思う。一人で、自分の足で立つのは楽だったと思う。

 ただ、まだ求めてしまった。人間は良く深き生き物だと改めて実感した。自分たちもその人間の一人であり、一人で立てる足を休めたかった。寄りかかりたかったのだ。そして、寄りかかって邪魔だと思われたくなかった。だから城戸は悩んでいた。


「なあ、一応言っとくけどよ」


 ──駄目なことは駄目という。


「今日はあんまり飲みすぎるなよ、あの割り勘だからな」


 それだけだった。


「……りょーかい。その代わり、お前もあんま携帯触んなよ。ヘッドホンで音楽聴き出すのもなしやから」


 たったそれだけだった。


「おう、気をつける」


 壁はまだまだ残っている。きっと二人はゆっくりとその壁を切り崩すように無くしていく。人間というピースは一つ一つ複雑な形状をし、完璧にハマることはない。ただ、ハマることはなくても削ることはできる。擦り寄せ合わせて、お互いが納得するまで削り合う。そういうふうにできている

 ……遊びたい時に遊んで、話したい時に話す。そんなものは友達という単語で誤魔化してるだけの都合のいい関係だ。相手のことを思って、多少無理してでも駄目なことは駄目という。姿勢を正す、根性を矯正する。そして、自分が駄目な時に相手が正してくれる。本当の友達というのは相手の不満が言えて、時には拳を交えてでも正し、それでもまだ一緒にいたいと思える人物のことを指すんだと思う。俺はそう思うんだ。


「よし、じゃあいつも通り曲でもかけるか。いつものアニソンでええか?」


「いや、お前のおすすめが良い」


「は? いや、そこまで気使わんくてもええで?」


「気なんか使ってねーよ。本当に聞きたいんだ、だから早く」


「……そっか。おう、分かったで! じゃあ俺のおすすめ一発かましたるわ! つってもほとんどメジャーな曲やけどな」


 気は本当に使ってなかった。ただひたすらに知りたかった、親友の好きな曲を。少し視野が広くなった気がするのは運転席に座っているからだろうか、それとも……。


 戌亥はダッシュボードに入っているCDを嬉々として選んでいる。赤信号が青になろうとしているそんな中、戌亥はあることに気づいた。否、今まで気づいていなかっと言った方が正しい。散らばったCDを掻き分けるのに必死になりすぎていた。カチャカチャと音を鳴らしながら探すが、決して律動的ではない。


「お前ウィンカー出してる?」


 城戸の顔が強ばっている。ただただ強ばっている。


「戌亥、ちょっといいか?」


「え、なんやねん」


「ウィンカーってこれだよな?」


 戌亥の顔色が一瞬で悪くなる。


「お前、最後に運転したんいつや?」


「十年ぶり」


「滅茶苦茶ペーパードライバーやんけ! ちょっとホンマに頼むで!」


 晴天の夏空と雲。あの絵画のような青空に貼り付いたような太陽が大きな車体を照りつける。滲み出る手の汗がハンドルを濡らす、この汗は暑さのせいか緊張のせいか。歩行者用の信号機が点滅を始めた。もうすぐ赤色灯が消えるだろう、右足が少し震える。


 エンジン音が車内を支配し、もう戻ることの出来ない現実に瞳孔が開きっぱなしだった。それは十年以上ぶりに車を運転するなんて微々たるものではない。

 ……人間に絶対的な関係はない……もしかしたら些細な喧嘩で終わるかもしれない……だからこそ今回の一件で心に染みた……上辺だけで付き合えば、いつか爆発することがあるのだと……思いやり、というのは優しくするだけではない。友人関係を続けるというのは多少無理してでも、相手を怒り自分の不満を打ち明けることが大切なのだと……だからこそ、俺たちは俺たちなりの思いやりでこの関係を続けていこうと思う。


 たとえ、ぶん殴ってでも──。

 たとえ、ぶん殴られてでも──。


 城戸はアクセルを踏んだ。もう止まることはないと願いながら踏み込んだ。


「大丈夫だから任せとけって、あらよっと!」


「え、今のやばかったって。ちょ、ちょっと怖いわホンマに、一回止まれ止まれ!」


 ぶつかりそうな車体が遥かな彼方へと向かいだした。踊るように走らせ、愉快にすり抜け、素敵に風を切る。丁度いい二人を乗せて運んでいく。心做しかその鉄の塊は笑っているような表情を浮かべていた

 スピーカーから広がる耳心地のいい柔らかい鳴り声。少しザラついた男性の歌声、世界樹が揺れた気がした。耳心地の良いバンドの楽曲が騒がしい車内を包んだ。

 セミたちが歓声を上げているようだった。




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