苦悩
「…じょうさま、お嬢様」
「どうかしたの?」
水差しを持ったヴェラは、どうしたもこうしたもありませんといわんばかりに首を横に振り、ご自身の手元をご覧くださいと言った。言われた通りに視線を落とすと、ほぼ書き上がっていた手紙に大きな黒いシミが出来ていた。ぼーっと考え事をしている間に、ペンからインクが滴り落ちていたらしい。
こうなっては仕方がないので、新しい便箋に書き直す。最近は悩みのタネがいくつもあって、先ほどのようなことも少なくない。まだまだ贅沢品である紙を無駄にして申し訳ないと思いながら、パーティーの誘いを断る手紙を書き上げた。
予定としてはいよいよ1年以内にカートレッタ侯爵家の若奥様になるということで、それまでに関係性を築いておきたい貴族令嬢たちからひっきりなしに誘いが届く。こちらとしてはタンザナイトの販売営業中なので願ったり叶ったりなのだが、30以上ある伯爵家、それよりも多い数ある子爵家から届くとなると少々うんざりするのも仕方がないだろう。
タンザナイトの売れ行きは上々だ。すでに5校の地方校建設が始まっている。同時に多数の建設を進めるのはリスクも高いし忙しくなるので大変なのだが、私が花嫁修行なり就職なりで忙しくなる前にひと段落つけておきたいというのが本当のところだ。優秀な部下たちのおかげで、大きな混乱もなく進んでいる。アドベイラが卒業後に働きたいと言ってくれているので頑張らなくては。
「最近は本当にお忙しそうですわね…なかなかお会いできなくて寂しいですわ」
「今日もアカデミーの帰りなのよね、無理を言って申し訳ないわ」
「とんでもございませんわ。殿下のお誘いなら多少無理をしてでも予定を空けますもの」
今日のお茶会のメンバーは、いつもとほとんど同じ。アカデミーでの授業が終わってそのまま来た私、王太子殿下の帰還に目処が立ったために結婚式の準備で忙しそうな王女殿下、婚約者と言い争いをしたらしく元気のないジニア様、今年の春から正式に騎士として働いているメイフェルだ。
いつも明るいジニア様に元気がないと、お茶会の空気も自然と重くなる。彼女自身もそれを理解しているからか無理に明るく振る舞おうとしているが、すぐに表情に陰りが現れる。なんとも痛々しくて放っておけないので、3人で話を聞く。
「最初は大した言い合いではなかったのですが、お互いに日々の不満が溜まっていたみたいで…言い出したら止まらなくなり、最終的に喧嘩になってしまったのですわ」
伏し目がちに、苦しそうにそう言ったジニア様は、ハンカチで口元を隠して続けた。
ある日、花嫁修行の一環でご婚約者の家を訪れたジニア様は、義理の母親に指導をしてもらっていたらしい。そのなかで、ジニア様を軽く侮辱するような発言をされた上、友人である私やメイフェル、セレン様のことまでもを悪く言われた。それに怒ったジニア様は直接抗議したものの、義母は発言を撤回しなかったそうだ。元々折り合いが悪いとは聞いていたが、まさかこれほどまでとは思っていなかった。
「彼は母親から話を聞いたのか『母の気を悪くすることは口にするな』と言ってきたのです。いくら何でもそれはないでしょう、と反発したせいで言い争いになってしまいました…」
確かに、ジニア様はこの貴族社会におけるあるべき令嬢、夫人像とは少し異なっているだろう。それは彼女自身も自覚しているはずだ。ジニア様と婚約者様は政略的な婚約関係のもと一緒にいるだけなので、型にはまっていない彼女のことを面倒に思うのも仕方がないのかもしれない。しかし、いくら政略的な婚約だったとしても最低限の思いやりは必要だろう。これは好き嫌い以前の問題である。私は、人としてどうかしているだろうと会ったこともない相手への怒りを募らせていた。
「あの…婚約破棄をしてはいけないのですか?」
メイフェルがすっと手を上げて、とんでもない発言をした。家同士の利益を求めて成立した婚約を一方的に破棄するとなると、ブランカ伯爵家は多額の賠償金を支払わなければならないだろう。もし仮に婚約破棄が成立したとしても、ジニア様と婚約してくれる令息が見つかるとは限らない。そんなことになれば、ジニア様は社交界から後ろ指を指されながら、自力で生きていく必要が出てくる。婚約破棄とはそれほどまでに大きな決断なのだ。
メイフェルは幼い頃から騎士を目指して淑女教育をほとんど受けずに育ったためか、少々世間知らずな発言をすることがある。このメンバーは慣れているので非難することはないが、今後彼女が社交界に関わる気があるのであれば気にした方がいいだろう。
「そうですね、父の許しさえ得られるのであれば破棄をして、殿下やクララベル様のように恋愛をしたいと思いますけれど…」
その言葉の後に続くのは「難しいでしょうから、諦めていますよ」であろう。自分自身の感情を押し殺したような、夢を諦めたような、そんな顔をしている。彼女を見ていると、自分はなんて恵まれているのだろうと思った。お父様に進路について反対されているとはいえ、進学も恋愛も自由が許されてきたのだから。
結局、お茶会がお開きになるまでの時間でジニア様の顔が晴れることはなく、また近々お話ししましょうということになった。
[補足説明]
ジニア様の婚約者はメイフェルの実家であるマリンテリア伯爵家と同格の伯爵家です。つまり、格上であるジニア様やララ、セレンを侮辱した義理の母親は貴族社会のルールを破っているということになります。




