存在証明
「おい、鈴白!鈴白!!!」
誰かの名前を呼ぶ、男の子の声が聞こえる。体を揺さぶられている感覚に、酔ってしまいそうだ。
「はい…私はクララベル・ロザリンドですが。誰かとお間違いなのではありませんか?」
はっきりとしない視界で、何とか答える。しかし、返ってきた言葉は冷たく辛辣だった。
「はぁ?お前、鈴白歌音だろ?何言ってんだよ、気持ちわりぃ」
「す、鈴白…カノン」
私の名前だ。いつから別の人間と錯覚していたのだろうか。私は鈴白歌音だ。
目の前の男の子は、私の事を心底嫌っているレオくん。私に暴言や暴力を奮ってくる人達のリーダー的存在だ。
「意味わかんねぇ事言ってねぇでさっさと視界から消えろ!!なんで戻ってきたんだよ、目障りだな!」
「ごめっ…なさいっ!」
教室に響いた椅子が蹴り倒される音に驚いて、反射的に立ち上がった。もたもたしていると何をされるか分からないので、言われた通りに教室を出る。レオくんの発言に引っかかるところはあるが、走って、走って、4階にある音楽室の前までやってきた。私にはここしかない。ここだけが、私の安心できる場所。
扉を開けようと手をかけると、音楽室の中から音が聞こえた。誰か先客でもいたのかと耳を寄せると、一定のリズムを刻む、メトロノームの音だった。
教室の中に人の気配はないので、扉を開き、中に入る。ピアノの隣に置かれている机の上には、やはりメトロノームが。誰がこんな所に置いたままにしたんだと思いながら、巻いたネジが終わっていないということは、さっきまで誰かがいたということに気づく。そして、窓を開けたままどこかへ行ってしまったのか。寒いのですぐに閉めて鍵をかける。昇降口に面した校舎とはいえ、4階なのでここに来る人は少ない。珍しいこともあるものだ。
深いことは気にせず、ピアノの椅子に腰を下ろして振り子を止める。鍵盤蓋を開こうとしたその時、見覚えのある日記帳が目に入った。私が日々のいじめを綴っているものだ。どうしてこんな所に、いつも自宅の勉強机にしまってあるのに。
恐る恐る開くと、間違いなく私の日記帳だと分かる。まだ埋まっていないはずの1番最後のページには、黒いボールペンで書かれた文字。1番上には昨日の日付。そして…
『なんのために生きてきたんだっけ。お父さん、お母さん、こんな娘でごめんなさい。
でも、もう耐えられそうになかったんだ。心が壊れて、身体中にモヤモヤとした黒い感情が広がっていく毎日が辛かった。クラスメイトからの鋭い視線が痛かった。
もう、限界だった』
こんなの、知らない。記憶にないのに、私の字だ。意味がわからない、怖い…
何度も何度もその文字列を目線でなぞって、噛み砕こうとする。でも、分からない。昨日はいつもと同じように、淡々と暴言と暴力の詳細を書いただけだったはずなのに。
昨日…?
詳しく思い出そうとすると、モヤがかかったかのようになって分からなくなる。曜日としては学校に来ていたはずだけど、何かをされた覚えもない。そもそも学校に来ていたのだろうか。何を食べた?何をした?分からない。思い出せない。
どうして…?
考えれば考えるほど頭が混乱して、思考はまとまらない。どうしてここに私の日記帳があるのか。昨日の日付で書かれた日記に覚えがなく、そもそも昨日の出来事を何ひとつ思い出せないという現象の謎。
何が起こっているのか全く分からないが、教室にレオくんがいる可能性がある以上、まだ戻れない。仕方が無いので、日記帳を脇に置いて鍵盤蓋を開く。再びメトロノームを動かして、自作の曲を弾く。音楽が、この曲が、私の心の拠り所なのだ。
ゆったりとしたテンポで進むこの曲は、どんなに理不尽で腹立たしいことがあった時でも私のそばに寄り添ってくれる。何でもわかってくれる、親友のような存在だ。生まれてこの方、親友と呼べるような人はおろか、友達さえ満足に出来ていないが。
現在完成しているところまでを弾き終わると、何やら外が騒がしいことに気がついた。この校舎のすぐ下は昇降口なので、下校時刻を迎えた今、話し声が聞こえることは不自然でない。しかし、この声量は異常だ。何を言っているのかは分からないが、大きな声で何かを叫んでいる。そして、悲鳴のようなものも聞こえる。
窓を開けるとカーテンが揺らいで、音楽室に雪混じりの風が吹き込む。寒さに鳥肌がたった。
身を乗り出して下を覗くと、数人と目が合った。こちらを指さして、なにか叫んでいる。人だかりの中心には真っ赤な血溜まり。その中には私と同じ制服を着た女の子が倒れている。
驚いて目を凝らして見ると、すぐに分かった。同じ制服を着ているのではない。あれは私なのだ、と。
そして気がついた。
日記帳を置いて、メトロノームを動かしたまま飛び降りた私。音楽室に来て、自作の曲を弾いていた私。どちらも私で、私では無い。
私はもう、鈴白歌音ではなく、クララベル・ロザリンドだ。
それに気がついた瞬間、心臓が大きく跳ねて、視界が歪む。気持ち悪くて吐きそうだ。
歪んだ視界が崩れ、そこで私の意識は途切れた。




