1歩
家を出てすぐに帰って来たので、お母様やヴェラたちはびっくりしていた。当たり前だ。
「ヴェラ、アカデミーに私とララの欠席を連絡してください」
そう言ったセレン様は、お母様に一言断ってから私の手を引いて歩き出した。迷いのない足取りで私の部屋まで行き、「ドアの外で待っているので、楽な服に着替えてください」と言う。
いつも部屋で着ている締め付けの少ないワンピースドレスを着て、廊下にいるセレン様を呼んだ。セレン様は私をソファに座らせ、ブランケットを膝にかけた。
「昨日の夜からほとんど何も食べていないと聞いたんですが…何か食べられそうですか?」
「液体ならかろうじて飲める気がします」
セレン様がアールグレイを淹れてくれて、その暖かさに心の中のモヤが少しはれる。気持ち悪さも多少マシになって、紅茶を吐いてしまうこともなかった。
「セレン様まで休んでしまって良かったのですか?」
「もちろん、ララのことより優先すべきことなんてありませんからね」
アールグレイが効いてきたのか、話しているうちに少し眠たくなった。昨夜一睡もしていないので当たり前と言えばそうなのだが。セレン様の声が遠くなって、瞼が落ちてくる。あぁ、寝てしまいそう…と思った瞬間、体がふわっと持ち上げられた感覚に覚醒した。セレン様が私を横抱きにしているのだ。
「や、重い、ですから…」
「こんなに軽いのに何を言っているんですか…大人しくしててくださいね」
そのままベッドまで運ばれて、かけ布団を整えられた。セレン様はベッドサイドの椅子に座り、ふわふわと頭を撫でて、額に唇が触れる。
もうそこからの記憶はない。しばらく起きていたのか、すぐに寝てしまったのかさえ。
「…ん」
ぼやけた視界がはっきりすると、セレン様が私の右手を握ったまま寝ているのが見えた。あれだけ私の心配をしてくれたセレン様もきっと、疲れているんだ。起こしてしまわないように、そっと手を離す。ブランケットをかけて、廊下に使用人を探しに出る。長い間安眠したおかげか、食欲が戻った。何か食べないとお腹がなってしまいそうだ。
急いで作ってもらったお粥を食べて、窓から外を見る。まだ日は高く、昼食の時間を過ぎたくらいだ。
「…ララ?」
「おはようございます」
初めてセレン様のぼんやりとした寝起きの様子を見て、不覚にも少し笑ってしまった。いつも私より大人っぽくて完璧なセレン様の違う一面が見られるのは今、私しかいないんだと思うとなんだか照れ臭い。
「ねえ、どうして今笑ったんですか?」
「なんでもありませんわ!」
セレン様も軽く昼食をとり、ただ会話を交わすだけの時間が過ぎていく。何もかも忘れて話し、笑うだけで幸せだ。
「やっぱりララには笑顔が似合いますね。他の男にそんな顔、見せたらダメですよ?」
「えっ…?」
「当たり前でしょう、ララは僕だけの婚約者ですから」
セレン様こそいい笑顔だ。初めて街に遊びに行った時に見せてくれた、花が咲くような笑顔。
「今はまだ、社交界から距離をとっているので実感はないかもしれませんが、アカデミーでも頻繁に、ララのことを好ましいと思っている人がいるという話を聞きますからね。誰にも渡しませんけど」
「さ、先ほどからセレン様、いつもと様子が違いませんか!?」
頭の上から砂糖をかける勢いのセレン様に、ストップをかけたつもりだった。しかし…
「これを機に、ララにも僕の考えを知っておいてもらおうと思いまして」
セレン様の口撃は止まらなかった。私の足りない自己肯定感を底上げしてくれて、自分のことを特別大切に思ってくれる人がいることが、こんなにもあたたかい気持ちになることだと初めて知った。セレン様といると初めて経験することばかりで、寿命が縮みそうだ。
ようやくセレン様が止まったのは、もう日が傾いた頃だった。私はというと、2回の人生の中で1番甘い半日に少々疲れ気味。
結局1度も嫌なことを思い出すこともなく、この調子なら明日から学校に行けそうだ。何もかも、セレン様のおかげ。本当に頭が上がらない。
翌日、セレン様と一緒に登校した私は、大きな問題なく1日を過ごした。
教養の授業の時はさすがに手が震えたけれど、フラッシュバックを起こすこともなかった。トラウマによる症状は簡単に治るものではないので、これは一時的な効果に過ぎないが、私にとっては大きな1歩だ。きっとセレン様も褒めてくれるだろう。
これから少しずつ人にも慣れて、セレン様の隣に立つに相応しい人になってみせる。
ようやくセレンとララに笑ってもらうことができました。作者もやっと安心して寝られます。




