第5話:波乱の幕開け
目覚まし時計のアラームでリクは目が覚めた。いつもと変わらない朝。いつも変わらない日常がまた始まる。自室の扉を開け、眠い目をこすりながら階下へと向かい、リビングへと向かう。リビングの入口からは朝のニュース番組らしい音がかすかに漏れていた。
「おはよう」
リビングに入ると、既にテーブルについてテレビを眺めている父と、その向かい側に座るアキの姿が目に入る。しかし、2人の様子がおかしい事にリクはすぐに気が付いた。アキは俯いたまま、父はテレビ画面を見つめたまま、人形のように微動だにしない。ただじっとしているだけならば、呼吸などによって肩や腹部が動くはずである。だが、今リクの目の前にいる2人は、それすら見て取ることができない。
「・・・父さん?」
そう言って父の肩にリクが触れた瞬間、父の首がもげ、床に転げ落ちた。ゴトリとフローリングに硬い物を落としたような音が響く。切断されたような断面から赤黒い血が噴き出し、リクの上半身にかかった。一瞬の静寂が部屋を包む。テレビの音だけがその空間に垂れ流されている。リクは何が起きたのか理解出来ず、その場に固まる。
「え・・・?うわああああああああ!!!」
自分の置かれている状況に気付いたリクが絶叫したのは、その数秒後であった。声にならない悲鳴をあげながら、その場に尻もちをつく。乱れた呼吸につられるように涙と鼻水が溢れ出てくる。混乱する頭で、アキの方を振り返る。アキはただ俯いていただけかもしれない、それなら彼女もパニックに陥っているかもしれない。
「あ・・・あ、ああ・・・・・・」
リクの微かな希望は、彼自身の絶望に満ちた泣き声でその結果となった。俯いていた彼女の目元は、先程は前髪で隠れて視認することが叶わなかったが、尻もちをついて視点が変わったことでそれが可能となった。アキの両目はくり抜かれ、空洞になった眼窩からは涙と呼ぶには多すぎる程の赤黒い液体が流れ出ていた。
「そんな・・・あう、う嘘だ・・・・・・こんなの」
うわごとのように呟きながら、腰が抜けて力の入らなくなった下半身を引きずりながら、芋虫のようにキッチンへと這っていく。リビングにいなかった母の姿を探すためだ。やっとの思いで、キッチンとリビングを隔てる壁の横を通り過ぎると、リクの鼻先に何かがあった。結婚指輪を薬指にはめた、母の左腕だった。肘から上は無い。獣のような悲鳴をあげ、リクが体をよじると、キッチンの全体が目に入った。同時に、ばらばらになって散乱した母の四肢や体も。
「ああああああああああ!!!!!」
絶叫とともに身体を起こす。呼吸は乱れ、顔や背中にはじっとりと脂汗をかいていた。呼吸が落ち着くにつれて、リクはだんだんと自分の状況が分かってきた。どうやら自分は悪夢を見ていたらしい。身体を動かすと全身に鈍い痛みが走ることも判明した。歩くことはかなり苦労しそうだ。しかし、どうしても分からないことが2つあった。1つは昨日の帰宅後から今までの事。そして2つ目は今自分がいるこの部屋が一体どこなのかだ。窓にかけられたレースのカーテンの隙間から差し込む木漏れ日が天井の照明とともに、病院の個人部屋のような白い壁と床の6畳ほどの部屋を照らしている。リクはその部屋の入口らしき引き戸から離れた奥の真ん中に置かれたベッドの上にいる。ベッドの横には医療機器と思しき機械が並び、その中の1つが規則正しい機械音を発している。
しばらくぼんやりと部屋に置かれている物を見つめていると、廊下を歩く複数人の足音と話し声が近づいてきた。やがて足音が止まり、引き戸をノックする音が聞こえた。リクが返事をするまでもなく引き戸が開き、何かの制服を着た人間が6人入ったきた。その中の1人、黒髪のショートカットに琥珀色の瞳をした人物がリクに歩み寄り、ベッドの右側に立った。それにならい、残りの5人もリクのベッドを囲むように並んだ。ベッドの1辺に2人ずつといった感じだ。
「目が覚めたかい。気分はどうかな?」
黒髪の人物がリクに話しかけてきた。中性的な顔立ちで、見た目だけでは性別が判断できなかったが、声も男性にしてはかなり高めで、仮に女性があえて低い声を出していると言われても、何ら違和感が無い。要するに全く分からない。
「あ、あの・・・」
「うん?ああ、すまない。紹介がまだだったな。俺は朧。アステライド王国遊撃部隊1番隊の隊長を務めている者だ」
朧と名乗ったその人物は、制服の胸の部分に付いているマークを指さした。おそらく、階級章と呼ばれるものだろう。青地に金の刺繍が施されている。
そして、言われてみれば確かに名前もまだ知らなかった。そして他にも疑問は沢山あるが、リクが気になっていたのはそこではない。
「男・・・!?」
思わず、考えていたことが口から零れる。リクの発言に朧は少し目を逸らして、よく言われるよ、と恥ずかしそうに言った。
「初対面の人に男って信じてもらえませんもんね〜、隊長!」
朧の右隣に立っていた金髪のロングヘアの少女が、吸い込まれるような青色をした瞳の端に溜まった涙を右手の人差し指で拭いながら笑った。歳はリクと同じくらいだろうか。色白で線が細く、すらりと伸びた四肢はしなやかで、男なら誰でも見蕩れてしまうような美しさだった。胸は少々残念だが。
「うるさい、俺は男だ!いいから自己紹介しろ」
ふん、と鼻を鳴らし朧はそっぽを向いた。はーい、と間延びした返事のあと金髪の少女はニコニコと話し始めた。
「私の名前はレイ=エスター。普通の人間に見えると思いますが、アルマージと呼ばれる亜人種で、様々な武器に変身できます!まあ、隊長の頼れる右腕ですねっ!」
ふふん、と胸を張り満足気なレイが朧を見つめる。朧は少し引いたような顔で、次と呟いた。ええっ!?スルーですか!!というレイを更にスルーしてリクの正面に並んでいる2人のうち、右側の少女が口を開く。
「私はレン=エスターです。レイお姉ちゃんの双子の妹で、同じアルマージです。お姉ちゃんは武器系の変身が得意ですが、反対に私は盾系の変身が得意です。防御ならお任せ下さいね」
胸の前で両手を合わせて話すレンは、レイに比べるとおっとりした口調で、髪色はレイよりも白に近い金髪だ。瞳の色は海のようなコバルトグリーンをしている。身長は2人とも同じくらいだ。自己紹介を終えたレンが、自分の右側にいる長身の女性を向く。レンに促されたその女性が、まっすぐとリクを見つめる。目鼻立ちのしっかりした、モデルのような顔と、鎧を着ていてもわかる抜群のスタイル。夕陽のような赤色のくせ毛のロングヘアがかすかに揺れている。腰に差した長剣は柄の部分に赤色の宝石が埋め込まれている。
10秒程経過したが、目の前の女性はリクをじっと見つめたまま、一言も喋らない。
「あの・・・」
沈黙に耐えきれずリクが口を開くと、彼女がはっと慌てたように話し始めた。
「ごめんごめん!かわいい顔してたからつい見とれちゃって。私はマルス。マルス=アダルバート。アダルバート家の7代目当主なんだ。好きなものは男の娘!かわいい子に女装させるのが趣味で、恥じらう姿がたまらないんだ!できればリクくんにも私の秘蔵コレクションを着てもらいたいなって・・・」
リクの足元の手すりから身を乗り出しながら、マルスはヒートアップしていく。リクは上半身を軽く仰け反らせ、そっと距離を置こうとした。
「はいはいその辺にしようね」
リクから見てベッドの左辺、奥側の少女が息を荒くするマルスを制止する。薄い青色のショートヘアに聡明な目付き。瞳は両方とも紫色だが、左の瞳が少しだけ色褪せ、瞳孔に細かい模様があるように見える。ボーイッシュな見た目通り、口調は少年的だ。かたじけない、と頭をかくマルスに引きつった笑顔を返しながらリクは思った。
変態だ・・・。
マルスを止めた少女がリクに向き直り、自己紹介を始めた。
「マルスさんがごめんね。この人興奮すると止まらなくて。こんなんだけど、王国で五本の指に入る騎士なんだよ、この人。ボクはナツメ。銃の扱いが得意だよ」
手短に自己紹介を済ませたナツメが制服のコートの片側を開く。内側には銃とナイフが数本見えた。マルスのインパクトが強すぎたせいか、ナツメの一人称がボクなのも今のリクにはさほど気にならなかった。このくらいかな、とナツメが隣の犬耳の少女を促す。こくりと頷き、少女が話し始めた。猫耳や犬耳などは、アニメなどで見たことがあるが実際に見るのは初めてだ。リクの関心は自然とそこへ集中する。
「え、えと・・・ロッド=ウォルフェンです。ルプスっていう獣人族で、その、狼です。あの・・・あんまり、見つめないで、ください・・・」
「あ・・・ご、ごめんなさい」
リクが謝罪するとロッドは首を横に振って下を向いた。たどたどしい口調で話すロッドの犬耳は、ベージュ色のセミロングの髪の上でしんなりとしている。おそらく相当人見知りなのだろう。見つめないでとは言われたが、よく見るとロッドは小刻みに震えており、俯きがちな茶色の両目は今にも泣き出しそうだ。
「ロッドは人と接するのが苦手でな。慣れるまではそっとしてやってくれ」
朧が微笑みながらリクに言った。
「みたいですね。わかりまし──」
「わっ・・・!あのっ・・・」
リクの返事を遮るように聞こえたロッドの声に振り向くと、いつの間にか移動していたマルスがロッドを背後から抱きしめ、頭をぐしゃぐしゃと撫でていた。
「慣れればこんなことも出来ちゃうよ!」
「何してんのさ、マルスさん・・・」
「このモフモフの感触がたまらないだよねえ」
呆れたような顔のナツメや朧を尻目に、マルスはロッドを撫で続ける。当のロッドは、最初こそ抵抗したものの、諦めたのか半ベソをかきながらされるがままになっている。
「あんまりいじめると後で怖いですよ、マルスさん」
レイの言葉に一瞬でマルスが固まった。そして、今までの行動がウソだったかのように、ロッドから手を離してぎこちない笑みを浮かべた。しかし、既に遅かったようで、ロッドがプルプルと震えながらマルスに振り返る。横からロッドの顔を覗き込んだナツメが目をそらす。
「いやあ、つい、ね?ロッドちゃんが可愛くて・・・いわば不可抗力ってやつで・・・って・・・いだだだだ!?」
マルスの言い訳には一切耳を貸さずに、ロッドは鎧の上からマルスの脇腹を掴んだ。メキメキと大きな音をたてて鎧が変形していく。一体この小さな少女のどこからこんな力が出ているのかリクには見当がつかなかった。
「ぎゃあああ!ごめんなさいごめんなさい!」
マルスの絶叫が部屋に響いた。口から泡を吹きながらマルスの身体が崩れ落ちる。
「まあ・・・うん」
「自業自得だな」
「ですね」
リクたちは白目を剥いて床にのびているマルスの残骸を見ながら口々に呟いた。
しばらくすると、廊下をパタパタと走る足音が聞こえ、入口の引き戸が勢いよく開かれた。
「お、目が覚めたんだねー!よかったよかった」
リクが入口に目を向けると朧たちと同じ制服を着た背の低い女の子が入ってきた。女の子は転がっているマルスをぴょんと飛び越え、リクの左側に着地した。
「キミが一条リク君だね!私は五番隊隊長のチコ!身体の調子はどう?」
チコは無邪気な少女のような顔でリクにたずねた。チコの胸にも朧のものと似た階級章が付いていた。紋章は朧とは別のものだ。どちらが上の階級かはリクには分からなかった。
「大丈夫、だと思います。動くとまだ少し痛みますが」
「拒絶反応も無いみたいだし、経過は良好ってとこかな」
うんうん、と頷くチコにリクは溜まってた疑問をぶつける。
「あの、ここはどこなんでしょうか。俺はどうしてここに?」
リクの問いにチコは一瞬不思議そうに首を傾げた後、朧に怒鳴った。
「もしかして朧っちまだ話してなかったの!?」
「いや、話そうとは思っていたんだが、タイミングを見失ってしまってな」
チコのものすごい剣幕に気圧された様子で、すまない、と謝る朧にチコがさらに続ける。
「じゃあここで説明しよ。この子の為でもあるし、大事なことだから」
朧は頷き、リクに向き直って話し始めた。
「ここはアステライド王国。君がいた世界とは別の千年界という世界に存在する場所だ。俺たちは、数日前に起きた事故によって君たちの世界に侵入したベーゼと呼ばれる怪物を討伐する任務のために、君たちの世界に向かった。当初の目的であったベーゼ討伐と生存者の救護を終えたところで、新たに君の住んでいた町に大規模なベーゼの襲撃が発生した。想定外の事態に、俺たち遊撃隊と王国からの応援部隊は最善を尽くしたが、慢性的な人手不足もあり、すべての人々を救う事はかなわなかった。それでもベーゼの大群をなんとか撃退し、撤退作業に入ったところで、町のはずれに倒れている君を見つけたんだ。あまりに外傷が酷く、応急処置だけでは助からないと判断した俺たちは、やむなく君を千年界に連れて帰ることにした。傷が癒えて意識が戻ったら元の世界に帰すつもりだったんだが、色々と問題が発生してしまって今に至る」
朧の説明を聞いて、ぼんやりとしていたリクの記憶が、脳内で鮮明に再生されていく。化物に襲われて両親と親友を失ったこと、自分も瀕死の重傷を負ったこと。そして、思い出した。リクは朧に大声で叫んだ。
「アキは!妹は無事なんですか!?」
「君がいた場所の付近には、君と王国の兵士以外は誰もいなかった。他の隊員が保護した人たちのリストにも君の妹の名前は無かった」
朧は表情を暗くして、静かに首を横に振った。
「そんなはずありません!俺はアキとあの場所まで一緒だったんです!!絶対近くに・・・」
「となると、考えられる事態が・・・ひとつ」
チコが小さく呟いた。真剣なチコの横顔を見て、リクの中の熱が落ち着いていく。
「千年界では前例があるが、向こうでの報告例はまだ・・・」
朧が納得していない様子でチコを見る。
「あの・・・なんの話をしているんですか?」
リクの質問にチコがゆっくりと答え始めた。
「私たちの住む千年界では、昔から、ベーゼに襲撃された地域で、不可解な失踪報告があるんだ。捕食されたけど、たまたま痕跡が無かったっていう意見もあるんだけど、私はそうは思えなくて。学者の人たちと何度も話し合って、ある結論にたどり着いたの。ベーゼが意図的に特定の人間を攫っていると。でも、それを証明するにはまだまだ論拠が足りなくて、本格的な調査を行うには至ってないんだよね」
そこまで聞いて、リクは自分に重傷を負わせ、アキを連れ去った犯人を思い出した。
「俺、思い出しました。アキを攫った奴を見たんです。あいつ、アキのことだけは絶対に傷つけようとしなかったんです。取り返そうとしたけど、俺は何もできなくて・・・」
「そうだったのか・・・。リク、そいつの特徴を覚えているか?もしかしたら、何か分かるかもしれない」
リクはアキを攫ったベーゼの特徴を覚えている限りで朧に説明した。少し考えこんだ後、朧の顔色が変わった。
「ベーゼはその強さによって区分されている。リクの両親を奪ったベーゼは、ファルクスと呼ばれ、A区分に属している。そして、その遥か上の強さを持つSS区分のベーゼの中に、リクの妹を攫ったベーゼと特徴が類似している個体がいる。しかし、詳しいことは首都にある魔法図書館に行かないと分からないな」
「良かったら、そこに連れて行ってもらえませんか?可能性があるなら、少しでも知りたいです!」
リクは懇願するように朧に頼んだ。アキを連れ去ったベーゼ、もしもチコの推察が正しければ、アキは何らかの理由で生きたまま連れていかれたのだ。先程知ったばかりで、この世界のことやベーゼのことはよく分からない。しかし、意識を失う前に見た光景をリクははっきりと覚えている。奴のアキに対する執着。自分に向けられた殺意とは明らかに違う何か。リクもまたチコと同様の考えを持っていた。
「それは構わないが、首都まではここからかなり距離がある。長距離移動にはまだ身体の調子が・・・」
「大丈夫です!俺、動け・・・ぐっ・・・」
意志とは裏腹に身体は正直だ。今のリクには、上半身を起こすだけで精一杯だ。
「無理はしない方がいいぞ、回復してからでも遅くない。また日を改めてからでも・・・」
「そんな時間ありませんよ!今こうしてる間にも、アキは助けを待っているんです!!行かないと!早く、アキを助けないと!」
朧が困ったように眉を顰める。自分がどんな我儘を言っているのか、リク自身も分かっている。しかし、一刻も早くアキを探さなければいけない理由がリクにはあった。
「いい加減にしなよ。あのね、急ぐ気持ちは分かるけどさ。その身体じゃ何もできないよ。隊長だって君を助けたいはずだよ。でも、ものには順序があるでしょ。君はまずその傷を治すことが役目じゃないのかな。我儘だけで解決出来るほど、甘くないよ」
冷静に諭すナツメの瞳には、静かな怒りが込められていた。憎しみのない純粋な怒り。リクは心臓を貫かれたような感覚に陥った。
「でも・・・」
「まだ言うかい?」
それでも続けようとするリクに、ナツメは一層怒りを顕にしてリクを睨みつけた。
「まあまあ!ナツメっち!そのくらいにしなよ!リクっちが怖がってるじゃない」
重苦しい空気を断ち切って口を開いたのはチコだ。
「チコさん・・・ボクはただ、隊長が困ってたから・・・」
「ナツメっちは真面目というか頑固というか・・・ま、そういう所が可愛いんだけどね〜。リクっちのこと心配してあげてるんだね!」
「そういうのやめてくださいよ・・・違うし」
チコの言葉に、ナツメは口を尖らせ不機嫌そうな顔をした。だが、注視しなければ気づかない程度にやや赤く染まった頬を見て、リクは彼女が照れているのだと理解した。リクと目が合うと先程までと同じようにキツい顔つきに戻ってしまった。それを見てチコがニヤニヤと笑った。
「リクっちの気持ちは私も痛いほど分かるよ。そういうの私は好きだよ。ナツメっちの言う通り、無茶はいけないなあ。でも、妹さんを想うその真っ直ぐな気持ちにチコお姉さん心打たれちゃった!」
そう言ってチコがリクに両手をかざす。魔法陣が展開され、翡翠の光がリクを包む。心地よい温もりが、体を芯から暖めていく。
「・・・特別サービスだよ」
ポンポンとリクの頭を撫で、チコが笑った。
「ささ、動かしてごらん」
「はい・・・ええっ!?」
リクは思わず変な声を出してしまった。チコに促され体を動かしたリクは、今まで鉛のように重く、動かす度に痛んだ体が嘘のように軽いことに心底驚いた。
「な、何をしたんですか!?」
「回復魔法だよ。私にかかれば、こんなの御茶の子さいさいよ!」
魔法!今、魔法って言った!?
リクは自分が妄想の中で思い描いていたことが今、目の前で起きているという事実に驚きと戸惑いが隠せなかった。
「もしかして魔法を見るの初めて?」
そんなリクの思考がまるで筒抜けだったかのようにチコがたずねた。はいと答えたリクにチコが続ける。
「倒れてるリクっちを見つけた時、右手と右足が無くて、お腹も骨が見えるくらい、それはそれは酷い状態だったの・・・だからね、お姉さん頑張って怪我した部分と手足再生させました!」
「えええっ!!?」
再びリクは間の抜けた声をあげた。怪我を治すことはできても、限度があるだろう。欠損した手足の再生など、リクの理解の範疇を超えていた。
「再生って言っても全部完璧に元通りってわけにはいかなかったんだけどね。最初は本来のパーツを再結合させようと思ったんだけど・・・ベーゼの影響で、傷口は化膿してたし、切り離されたパーツはボロボロに腐蝕しちゃってたから。他にも、リクっちの生命力を使って再生させることも考えたんだけど、瀕死の状態じゃ生命力が足りなくてね。最終手段として、魔法で新しい手足を作り出して、できるだけ本物に近づけて本体と再生させたの」
「そんな事もできるんですか・・・!それで、拒絶反応って何のことでしょうか?」
「本物に近づけたとはいっても、本物に近いだけで、本物とは違うの。いわば本体と同化した義足、義手ってところかな。だから、ごく稀に相性の問題で拒絶反応が起きることがあるんだよね。リクっちは今のところ、その兆候も見られないし、ひとまず安心だね」
説明しながらチコは、自身の両手のひらを握ったり開いたりしている。チコの説明でリクは大体理解した。つまり、今こうして自由に動かせているこの手足は、精巧に作られた別物と言うわけだ。それにしても、感覚はちゃんとあるし見た目も全く違和感がない。言われなければ絶対に分からなかっただろう。
「壊れたりとか、しないんですか」
「それは大丈夫!むしろ元の手足より丈夫だよ。多分、上位魔法の使用にも耐えられるんじゃないかな〜。なんてったってチコ姉さんの特製だからね!ああ、でも反対側の本来の手足は普通だからね、無茶しちゃダメだよ」
リクの疑問に対し、自慢げにチコは語った。またもや聞こえた魔法というワードに、リクの心にある期待が芽生える。
「俺も魔法が使えるんですか・・・?」
「ううん、それは何とも・・・千年界の生まれならともかく、リクっちは違うからなあ・・・」
「そうですよね・・・」
否定とも肯定とも取れない返事だった。分かりきったことだが、改めて言われるとがっかりしてしまう。ここにいる彼らとは違い、自分はただの一般人。当然の返答だろう。リクは肩を落とした。
「まあそうがっかりするな。可能性がゼロな訳ではない。それはまた別の機会に確かめてみよう」
朧の言葉にリクは安堵した。気休めだろうが、それでも十分であった。安心したからか、リクの腹が大きな音を立てた。
「もうそんな時間か〜!なんだか私もお腹すいちゃった。それじゃあ、用も済んだし、そろそろ隊舎に戻ろうかな!」
「ああ、そうだな。俺たちも昼にしようか」
「今日は何にしましょうか!なんでもお作りしますよ〜!」
レイがニコニコしながら言った。
「じゃ、またね!」
「チコさんも一緒に食べて行けばいいのに!」
「ウチの大食い野郎共がお腹空かせて待ってるから今日は帰らないと!今度みんなで一緒に食べよ!」
そう言ってチコは、ヒラヒラと手を振って帰っていった。帰り際にまだ倒れていたマルスのお腹をつついて回復させて行った。
「いやあ、よく寝たなあ。うん・・・?この香り、チコさんが来てたの?」
「今さっき帰りましたよ。私たちはこれからお昼ご飯です」
レイがそう答えると、マルスは大きく伸びをして立ち上がった。ロッドに破壊された鎧はそのままだが、マルスは気にしていない様子だ。
「りょうかい!リクくん元気になったみたいだね。ほら、立てるかい?」
「え、はい。ありがとうございます」
マルスの差し伸べた手に掴まり、リクは立ち上がった。細く長い指だが、全体的に力強く大きな手だ。
「では、行きましょうか!」
「行くってどこへですか?」
「食堂です!これからお昼ご飯をみんなで作るんです!病み上がりで悪いですが、リクさんにも手伝ってもらいますよ〜!」
長い金髪を揺らしながらレイが元気に答える。
「わかりました!」
「ほらほら、行くぞ。話の続きは、昼飯の後にしよう」
最後尾で手を叩きながら、朧が隊員たちを促す。朧に追いたてられるように、リクも他の隊員たちに続いて退室した。一番隊の隊舎は二階建てで、階段は片側にある。リクたちが先程までいた部屋は二階の角部屋、階段の反対側だった。二階は隊員たちそれぞれの部屋があるらしく、ドアにネームプレートがかけられている。
そのまま階段を下り、一階の端まで廊下を進むと、突き当りに両開きの扉があった。レイが扉を開けて中に入る。リクたちもそれにならった。中に入ると、二十畳ほどの開けた空間に出た。向かって左側がキッチン、右側が食事スペースだろう。テーブルと椅子が並べられている。
「それじゃ、皆さん手を洗ってエプロンを付けてください!」
そう言ってレイがテキパキと冷蔵庫から食材を出したり、調理器具を棚から取り出し始めた。リクは言われた通り、手を洗いエプロンをつけた。
「さ、みんなで作りますよ〜!」
レイが一声かけると、隊員達が広いキッチンに散らばり、それぞれ慣れた動作で食材の下ごしらえや食器の準備を始めた。玉ねぎ、ひき肉、ナツメグなどの材料から、どうやらハンバーグを作るらしいとリクは考えた。
「料理は得意か?」
「両親が遅くなる時は、アキと一緒によく夕飯を作ったりしてたので、一通りはできると思います」
リクが答えると、朧は感心したような様子で、レイが隊員達に回したハンバーグのタネをこね始めた。
「俺はあまり得意じゃないから、少し憧れるな。ハンバーグはこの作業が、中々上手くいかない・・・」
朧は少し不器用なのだろう。具材をこねる手つきがどこかたどたどしい。
「空気を抜くコツがあるんですよ。こうやって・・・」
リクが実演すると、朧は興味深々でそれを見つめた。
「こ、こうか?」
「そうそう!そんな感じです」
朧は飲み込みが早いタイプのようで、最初は見よう見まねでやっていたが、最終的にはリクが作ったものと遜色ないハンバーグを作れるまでになった。
程なくして、他の隊員たちもハンバーグを作り終え、無事に美味しそうなデミグラスソースのハンバーグが出来上がった。
「いただきまーす!」
みんなで食卓を囲み、手を合わせる。箸で肉を切り分けると、肉汁が溢れた。熱々のハンバーグを息を吹きかけて冷まし、口に運ぶ。ずっと眠っていて空腹だったのも手伝い、染み渡るような肉とデミグラスソースの味にリクは目をつぶって身震いした。
「美味いな」
ハンバーグの味を噛み締めるように、朧が静かに呟いた。
「おお、美味しいですね!さすが私!」
レイが頬に手を当て、うっとりとした表情をしている。
「いやいや・・・せっかくだから違う人のやつ食べればいいじゃん。ロッドちゃんのハンバーグ美味しいよ」
ナツメがそう言うと、リクの左隣に座っていたマルスが、ひょいっとリクの皿からハンバーグを一欠片取り、自分の口に運んだ。
「リクくん、上手だねえ。お嫁においでよ」
「よ、嫁・・・!?って近いです!!」
リクの肩に手を回し、マルスがニヤニヤと笑った。髪の毛からフローラルないい香りがした。動揺とともに心臓が素早く脈打つ。
「冗談だよ」
「勘弁してくださいよ・・・」
ポンとリクの背中を叩き、マルスが元の場所に戻った。リクが高鳴った鼓動を抑えるべく深呼吸をしていると、マルスが再びこちらに向き直った。
「私が作ったのもお食べ!!」
そう言ってマルスが差し出した皿に乗っていたのは、謎の黒い塊。いや、消し炭といった方が正しいか。それが放つ異臭と禍々しいオーラにリクは絶句した。
「あの・・・これは」
「私が作ったハンバーグだよ!」
目の前にある呪物は、もはや人間の食べ物ではない。食べればタダでは済まないだろう。しかし困ったことに、無垢な表情でその毒物を差し出すマルスの顔には、一片の悪意も存在しなかった。リクは思わず鼻と口を手で覆った。亡くなったお婆ちゃんの言葉をリクは思い出していた。無垢ほど怖いものは無い、と。
「いえいえ・・・!気持ちだけで大丈夫です!俺、まだ自分の分がありますし」
「そう遠慮せず、ほら!」
「ほんとに大丈夫ですから!ほ、他の皆さんにあげてください!!」
暗黒物質を掴んだ箸を持ったマルスの手を、力づくで押し返しながら、周囲を見渡したリクは、眼前に広がる光景に目を見張った。
まるで何か恐ろしいものでも見るかのように、隊員たち全員が青い顔をしている。リクの視線を感じた者は素早く下を向いた。さきほどまでワイワイと話していたのが嘘のようであった。
「なんでみんな顔を逸らすんですか!」
「どうしたのリクくん?冷める前に──」
「朧さァァん!」
左側から聞こえる悪魔の声に耳を傾けまいと、リクは右隣にいる朧に叫んだ。朧はビクッと肩を大きく揺らし、錆び付いたロボットのようにゆっくりとリクに微笑んだ。その顔は恐怖に歪み、無理矢理笑った目の端からは一筋の滴が伝った。
不意に背後から感じたおぞましい気配に気づいた時には、もう手遅れであった。
リクを後ろから抱きしめるように手を回したマルスが左手でリクを抱え、右手に持った箸をリクの口元に近づけた。この世の物とは思えない凄まじい臭いが、鼻腔を駆け上がり、直接脳を侵略する。これは絶対に食べてはいけない、そう自分の脳が警笛を鳴らしている。なんとか抜け出そうともがくが、女性とは思えない怪力に押さえつけられ、リクの体はピクリとも動かなかった。
「好き嫌いはいけないなあ、リクくん♡」
「い、い・・・や・・・・・・・・・だ」
口に感じた異物感とほぼ同時に、リクの意識は途切れた。
こうして、期待と不安に満ちたリクの異世界生活が幕を開けたのである。