第五章 セブンス・シエナ
マリアが神の間を出ると、目前には竪琴を奏でるサタンの姿があった。
最初はシエナによる攻撃ではないかと警戒したが、サタンはそれを気にする様子もなく、演奏を続けている。
サタンは数十本の弦を巧みに捌き、滑らかな指の動きで美しい旋律を奏でた。マリアは思わずその音色に耳を貸してしまったが、視線を正して拳を握り、決意の表情で顔を上げる。
「ようやく出てきたか、待ち侘びたぞ」
サタンはマリアに目をやることなく演奏を続けると、いくつかの小節を奏で終え、指を鳴らして演奏を沈めた。
「これは逆さの竪琴 (アポロン・ハープ)という。どうだ、美しい音色だと思わないか?」
サタンはおもむろに、シエナ、アポロン・ハープの横に立つと、乱暴に弦をなぞってシエナを消費させた。
すると竪琴は、誰の手に触れる事もなく自動演奏を開始し、先ほどサタンが演奏したものと同じ曲を奏で始めた。
「どれだけの美しさを放とうと、最後は消えて無くなる。それは人も、世界も同じだ」
時が経過するにつれ、竪琴の弦が、一本いっぽん消えていく。失われていく音階は、次第にその音色を褪せさせて、単調な音の連なりに変化する。
「あなたはどうしてこのような行いをするのですか」
マリアは怒りのこもった声でサタンに訊いたが、返す声は冷淡で静かなものだった。
「マリア、お前はこの世界が本当に美しい物だと思うか? 栄枯盛衰を繰り返し、一時の美しさを放つためだけに多くを殺す。だがそれに、何の意味がある」
「答えになっていません!」
「神の間へ行き神に会ったのだろう、世界の全てを知ったのだろう? ならば分かる筈だ。世界の管理するテラ、人にシエナを授け、次期なる選定を行う神。ただ星の輝きを求めるためだけに、世界は生かされている。では、人が生を成す意味とはなんだ。テラの造った盤上で惨めに生きる人々など、家畜同然の扱いではないか」
「サンティさんは言っていました。星と世界は共存している、人はテラの物ではないと」
「フン、サンティか……懐かしい名だ。星の言いなりとなり、多くの死を眺め続けた愚か者め。お前も神となり、そんな愚か者と同じ道を歩むというのか」
「神なくしては世界の繁栄を続ける事は出来ません。多くの人々の命を奪おうとしていのは、あなたの方じゃないですか!」
マリアの怒りと共に、また一本竪琴の弦が弾けとんだ。それを見たサタンは竪琴を指差し、更にマリアへと問いかける。
「また一つ音が消えた。手を差し伸べれば再び美しい音色を取り戻すだろう、だが、時が経てば、それもいずれはまた消えて無くなる。朽ちていく物に輝きは無い。僅かな輝きは取り戻すことは出来ても、ひとつずつ引き裂かれる弦は何度も苦しみを感じながら再生を果たす。しかしそれは一体誰の為だ。苦しみ、傷み、悲しみ、なだれこむ悪意の中で、輝く光とはなんなのだ。僅かな光を何かに与える為だけに生きるのならば、そんなもの最初からなかったほうが良いのではないか」
「あなたにそんな事を決める権利はない……人は決して死を望むわけじゃありません」
「多くの者は世界を知らない。導く者、知ろうとする者……全てを知る者は極僅かだ。生きる事が運命というのならば、滅ぶこともまた、運命だろう」
「あなたに世界を委ねる事は出来ない……」
「ならば、どちらに進むかを、今から俺達で決めることだな」
サタンの言葉と共に最後の弦が弾け、竪琴は半分になって無残に消えていった。
マリアがシエナ、五剣の一振り (ミカヅキ)を構えると、サタンも、シエナ、怒りの剣 (グラム)を抜く。
ステンドグラスからの差し込む光の中で、二つの影が重なった。
「次なる神など、生まれる必要はない!」
サタンはマリアに向け、勢いよく剣で斬りつけた。マリアが刀でサタンの刃を受け止めると、二人の視線がすぐ近くで交差する。
サタンの黒く染まった瞳は怒りと憎悪の色で満たされていた。世界の全てを拒むかのように、マリアの瞳の光を滅ぼそうとしているようだ。
「シオン!」
マリアが叫ぶと同時、シオンは空間いっぱいに連なる紫の文字を展開させた。
『収集――分析――診断――情報の入力を開始します』
シオンは言葉を並べ、サタンの情報分析を開始すると、マリアの頭上に浮かび、攻撃の態勢を整えた。
「やらせん!」
サタンは連なる文字を斬りつけながら、五つの十等級のシエナを消費させ、複数の光弾を撃ち込んだ。
しかし、シオンの文字は途切れては繋がりを繰り返し、破壊するには至らない。
『スキャニング開始、情報を変換します』
シオンはサタンに複数の赤い光線を当てたが、サタンはすぐに一本の矢を上空に放った。
「打ち消せ、破魔矢 (ブレイクアロー)!」
サタンは自らに降り注ぐ効果を打ち消すシエナ、ブレイクアローを使うと、シオンが広げた文字をあっという間に掻き消してしまう。
『継続不能、変換をキャンセル、パージします』
サタンの攻撃予測を得られなったシオンは、ブレイクアローの影響を受ける箇所を瞬時に切り捨てると、すぐさま改変を行い、戦いを継続する為の更新を開始した。
それを察知したマリアは、サタンの動きを鈍らせる為、次なるシエナを開放させる。
「全てを貫くもの (かあさま)!」
ブリューナクを握り締めたマリアは、矛先をサタンへと向け、最高出力の雷を放った。
辺りを埋め尽くすほどの電撃だったが、サタンの構えた盾がそれを吸収し、攻撃の全てを受け止める。
「雷を防ぐ盾 (アイギス・シールド)。どうした、一等級の雷はそんなものか?」
「くっ!」
サタンはシエナ、アイギス・シールドを消費させて雷を無効化すると、今度は鉄で出来た槌を取り出し、それを掲げて消費する。
「雷を扱うのは、何もお前だけではない。空鍛冶の鉄槌 (ヴァジュラ)!」
サタンが宙で稲妻を生み出すと、迸る雷光を束ねて、連続放射を行った。
放たれた雷光に、マリアは一歩も動く事が出来なかったが、ブリューナクが雷をぶつけて道筋を作ると、全ての攻撃はマリアを避けるように歪み、消えて行く。
「ハハハ。どうした、お前の番だぞ」
サタンがからかうように笑うと、見計らったように、小さな雨粒がマリアの頬にあたった。
「雨……?」
「雨乞いの祈祷 (イスティスカー)を消費させた。なぁに、一時的に雨を降らせるだけの九等級シエナだ。だが、これでしばらくは雷は扱えまい。さぁ、マリア……お前の次なる駒を見せてみろよ。クククッ」
降りしきる雨の中で、サタンは不気味な表情を浮かべて両手を広げた。
マリアがシエナの所有者と戦ったのは初めてではなかったが、サタンの実力は計り知れないものだった。シエナを自在に操りこれほどまでの実力を現すサタンに、マリアは戦いの中で言い知れぬ恐怖を感じてしまう。
世界を壊す者、サタン。最強の敵を前にして、マリアは更なるシエナを放出させる。
「お願いします……兄さま」
マリアの呼び掛けに応じたランスロットの勇士 (ナイト・オブ・ランスロット)は、金属音を響かせながら、漆黒の鎧を形成した。
全身を覆う黒い甲冑とは対照的に、白銀に輝く剣、アロンダイトはその白さを際立たせている。伝う雨粒を凍らせ、煌く雫はガラス玉を転がすように地面で砕けていく。
「マリアよ、感謝する。我輩は騎士として、最大の戦場に立つ事が出来た」
ランスロットは剣を振り抜きながらサタンを見下ろすと、騎士の構えを見せ、一直線に飛び出した。
「覚悟せよ!」
ランスロットが飛び掛ると同時に、マリアは大地幾何学図形 (デュビュロン・ナスカ)を開放した。
デュビュロンは地に線を描き始めると、土の拳を造り出し、サタンを攻撃する。
「フハハ! そうこなくてはな!」
サタンはランスロットの刃を片手で受け止めると、向かう土の拳に左手を翳した。
「散弾義手 (ショット・ガントレット)!」
装着されたシエナが、散弾が撒き散らし、無数の爆発を伴って土の拳を砂礫に変えた。
「兄さま、父さまの援護を!」
マリアは兄に指示を出したが、それよりも早く、サタンはランスロットに向けて、ぜんまいで稼動する鎧武者を相対させていた。
「相手をしてやれ、絡繰武者 (カラクリ)!」
六本の腕を持つ機械人形のシエナ、カラクリは、背負った六本の刀を一度に抜き、ランスロットを力のままに押し潰そうとした。
「ぐっ……重い!」
カラクリはランスロットを押さえ込みながら一本ずつ腕を引くと、重ねるように何度も上から刀を打ち込んでいく。
ランスロットは止まない攻撃に後退を余儀なくされるが、剣の平に兜を叩き付けると、支える腕をカラクリの胴に潜り込ませ、剥き出しになった歯車へ、篭手をねじ込みへし折った。
「ギギギギッ……ガガーッ!」
カラクリは悲鳴とも取れる異様な軋み音を発するが、砕けた歯車を無理矢理稼動させると、刀を構えた右腕を回転させ、ランスロットに斬りつけた。
「遅い!」
ランスロットは回転する刃を容易にかわすと、カラクリの足に刃を突き立て、一瞬にして繋がる具足を凍らせた。
体制を崩したカラクリは反対方向へ間接を曲げると、右足をぶら提げたまま、地を這う蜘蛛のように走り出す。
背中に残った一本の刀はランスロットに向けられ、まるで毒針を構える蠍のようだった。
「虫風情が、武者とは名ばかりだな」
ランスロットは赤い目を輝かせると、再び刃に冷気を纏わせた。
僅かに続いた雨が止み、再び雷が轟いていた。
マリアの刀がサタンの怒りの剣 (グラム)を砕き、ブリューナクの雷が、シエナ、不死植物 (アムルタート)が遮る巨大な蔦を焼き尽くした。
サタンは、シエナ、浮かぶ十字細剣 (ラピエル・ダマスカス)を、クヴァシル砥石 (エレメントシャープナー)で更に鋭さを強化させたが、デュビュロンが産み出す砂壁を前に、マリアへ攻撃が届く事は無かった。
サタンは様々なシエナを消費させ、惜しみなく力を使い続けていた。
マリアはその全てを防ぐことが出来ていたが、複数の一等級シエナを扱い続ける事は、同時に体力の消耗を強いられるものだった。
「かあさま!」
シオンが狙うべき正確な位置を光で示すと、マリアはシエナの力を扱い、サタンへと攻撃を行った。しかしサタンも圧倒的に勝る数のシエナを扱い、マリアの攻撃を巧みに捌いていく。
「どうした、息が上がっているぞ? 辛いのならば、さっさと世界など捨ててしまえ」
「世界を馬鹿にして! 私は絶対に負けない……負けられない!」
「マリア、お前はなぜ神になろうとする……星の為、世界の為、それとも人の為か? お前が一万年の神になろうとも、生と死の輪廻は変わらず行われる。星に意志を向けようと、結局お前もサンティのようにしかなれないのだ!」
「一万年の神がいたからこそ、世界は今日まで成してきたのです! 世界の安寧を覆そうとするあなたこそ、世界の闇ではないですか!」
「安寧だと? 神の全てを聞いても尚、そのようなことを言うのか!? 神は人を救わぬ! 世界を救えぬ! この世界を生きたお前なら、分からないことではないだろう!!」
サタンの振るった剣が、マリアの刀を強く弾き飛ばした。
怒りの瞳を向けるサタン。マリアはそれにたじろぎ、慌てて地に落ちた刀を拾った。
ブリューナクは雷を放って威嚇し、デュビュロンは厚い壁を纏って立ち上がる。しかしサタンはマリアへの追撃を行う事は無く、静かにその場で拳を震わせていた。
「宇宙と呼ばれる世界は果てしなく広い。そこに存在する星々は、自信が一番の輝きを持っていると証明したいのだろう。炎を纏おうが、光を望もうが、そんなことはどうでもいい……しかし、人に輝きに求め、世界を成そうとするテラは許されるものではない! それを統治しようとする神も、繁栄を与える道具にしか過ぎぬシエナも……存在する必要はないのだ! 人は欲を求め、争いを望み、多くを殺していく。シエナを手にする強者が輝きを生むのではない……そんなものは輝きでもなんでもない!! 本来輝くべきは、幼き子等であったのではないか! なのになぜだ!? なぜお前は子供たちを見捨て、世界を選んだのだ……神であるお前なら、あの子たちを救えたはずだ……答えろ、サンティ!」
サタンの視線はマリアではなく、神の間へと向けられていた。
怒り、苦しみ、悲しみ。人間の持つ悲痛の感情を現にし、サタンはサンティに叫び、訴え掛けているようだった。
約一万年前。
新たな神が誕生し、五年が過ぎた頃。サタンは選抜者たちがいた国を巡り、自分を世界に還してくれた者たちの世界を見て回っていた。
共和国バルハラーム。三つの国家が一つになったこの国は、サンティの故郷だった。
三国は五十年にも及ぶ戦争を続けていたが、それぞれの国家が代表者を選出し、国を納めるという形で、ようやく長きに渡る争いに終止符を打つことが出来たのは、ほんの十年前の話だ。
サンティは戦争孤児を集めた施設を作り、そこで教師をしていた。平和な国であったが、戦争の爪痕を消す事は、そう簡単なものではない。
サタンはサンティから話しを聞いていたので、いつかはこの土地に訪れたいと強く思っていた。
選抜者たちが望んだ通り、サタンは大きく成長していた。類稀なるその才能とカリスマ性により、導かれるようにシエナがあつまり、その大いなる力を持ってして、世界平和の貢献に力を尽くし、人々からは若き英雄と呼ばれるまでになっている。
いつか全ての世界に平和が訪れたら、サタンはサンティと同じように、教師になりたいと考えていた。
しかしある日、平和だった国で戦が始まる。
最初の歪は些細なものだったが、小さな裏切りから三国の同盟は脆くも崩れ、サタンの尽力空しくも、それを救う事が出来なかった。
サンティの教え子たちを見ていたサタンだったが、子供たちは皆、戦禍に飲まれ死んでいった。
二百を越えるシエナの力を持ってしても、サタンは戦争を止める事は出来なかった。平和だった国の未来も、幼い子供たちの命も、サタンはなに一つ救う事は出来なかったのだ。
所詮はかりそめの平和だったのか。穏やかな時間は、争いに費やした時間には到底及ばない。
戦煙立ち上る瓦礫の中で、子供の亡骸を抱き、サタンは涙を流して呟いた。
「どうしてだサンティ……あなたは神になったのではないのか。なぜ救ってはくれない。子供たちの未来は、世界の平和は……神よ……これが世界の運命なのか? ならば世界とは、なんと残酷なものなんだ」
この日を持って共和国バルハラームは、僅か十年という歴史の中で世界から消失した。
立ち込める冷気の霧から飛び出したのは、カラクリだった。
半壊した兜の中では、動かなくなったギアが飛び出し、凍りついた右足は、もう既に無くなっている。六本の刀は全て折れ、まるで使用者の意志に反するように、目標から逃げ延びようとしていた。
駆動箇所が歪な音を発し、目玉に埋め込まれた黒曜石が鈍く輝いた。折れた刀を支えに、一歩踏み出そうとした時、背後からのひと突きで、カラクリは呆気なく、その動きを止める。
「騎士は戦いの相手に、決して背中を見せぬ。貴様は所詮、それまでの存在だということだ」
ランスロットが剣を抜くと、カラクリは氷の塊となって砕けていった。
サタンは無残に消えたカラクリを気にも留める事なく、荒げる呼吸を整え、マリアを強く睨みつけた。
突然見せたサタンの怒りと悲しみに、思わずマリアも動きを止めてしまう。
「サタン……まさかあなたは、今でも世界の事を……」
マリアの言葉に我を取り戻したサタンは、見透かされた心を否定するように、シエナを消費させた。
「だまれ! C4爆薬 (コンポジションフォー)!」
投げつけられた四角い三つの白塊。マリアはそれらを切り落とそうとしたが、遮るようにシオンが行動を起こす。
『出力・散乱集光炉 (アウト・コロナグラフ)』
シオンが蓄積されたエネルギーを放つと同時に、爆薬の時限装置が作動する。
三つの爆発が重なり更なる大爆発を生むが、実体化した壁がその全てを防ぎきると、シオンは何事もなかったかのようにマリアの頭上で静止した。
『マリアは私が守ります』
「今のが何かを知るとは、新古代文明の力を持つシエナだな……フン、厄介なものを」
デュビュロンは翼竜の姿に形を成し、ランスロットは第二の構えを見せた。二人はサタンを囲うようににじみ寄るが、マリアはサタンの言葉が気に掛かり、次なる行動に移せずにいた。
「サタン……あなた一体、何を考えているの……」
「マリア……世界を渡せ」
サタンは一言発しただけで、それ以上は何も言わなかった。マリアは続けて問いかけようとしたが、ふと、シオンのわずかな異変を感じる。
「シオン? ……言いたい事があるなら言った方がいいわよ」
『いいえ、私に言いたい事などはありません』
「なら言い方を変えるわ。シオン、私の知りたい事を教えて」
いつからだろう、いつもならばこのような異変を感じるような事はなかった。必要なことは全て伝え、不必要なことの全ては絶対に表に出さなかった。
マリアの望みに必ず決まった動作を行うシオンだが、最近は本当の人間のように、心を感じる瞬間がある。
マリアの言葉の後、僅かな沈黙を要したシオンだったが、頷く様に小さく宙で上下すると、マリアとサタンとの間に、いくつかの映像を展開させた。
『サタンには何らかの目的行動が見られます』
「目的……?」
『世界の全てを破壊するという言葉は偽りであり、真なる目的と意図が見受けられます』
シオンの言葉に、サタンの表情が僅かに歪んだ事をマリアは見逃さなかった。
そしてシオンは更に言葉を繋げていく。
『サタンは第一の選抜者、ヨハネスの持つシエナに身を隠すまで、一人として人を殺めてはおりません。神に対して疑問を抱いた後も、シエナを悪用する事はなく、人々の為に使い続けていました。人々や世界から、有害な諸事象を遂行する者とすれば、やはり悪となるのでしょうが、
利己主義的な考えも見受けられず、言動と行動が一致しない部分が多く見られます』
そこまで話したシオンに目をやったマリアは、戸惑いを隠せぬまま、ミカヅキの剣先を床につけてしまった。
サタンは世界を破壊すると言った。果たしてそれは、どのような事を指すのだろうか。平等の間に訪れるまで、誰一人として殺生を行っていないという事は、つまり、殺したくはないということだ。
千を越えるシエナを持つ所有者ならば、一万年の時を有さずとも、結果を求める事は出来た筈だ。
ならば、なぜ、あれほどまでに選抜者達を追い込み、凄惨な結末を迎えさせたのか。
サタンに対する思考を巡らせたマリアは、世界の全てを視るというラノラダ・アイの存在を思い出した。
「そうだ……あの人はサンティさんが行ってきた全てを見たんだ……不老不死のシエナを持ち、世界の全てを見通す目を持っていた。それはつまり……サンティさんと同じ数だけ、一万年の世界を見続けてきたんだ」
『マリア!』
二つの光弾がマリアを襲うが、シオンがそれらを寸での所で防御した。
「おしゃべりはそこまでだ」
「くっ……!」
マリアが言うよりも前に、サタンの次撃が放たれた。
下等級のシエナといえど、消費による攻撃力は侮る事は出来ない。マリアは落ちた切っ先をすぐさま掲げ、一瞬にして五つの光弾を切り落とした。マリアが持っていたロング・ソードではシエナの光弾を打ち落とす事など到底出来ない芸当だが、コーヴィより託されたミカヅキならば、何ら問題なくそれを可能にする。
サタンが動いたのを同じとして、ランスロットが斬りかかったが、サタンは、シエナ、M18投擲発煙弾 (スモーク・グレネード)を投げ放ち煙幕を張ると、新たに、シエナ、干将莫耶 (カンショウ・バクヤ)を抜いて、更に二つのシエナを消費させた。
刀身が湾曲した二本の剣を手にしたサタンは、空を泳ぐ小さな文字の塊と、青銅で出来た巨大な人形を新たに配していた。
サタンの指示もなく動き始めた青銅の巨人、無形の真理 (ゴーレム)は、デュビュロンを視界に捉えて拳を打ち鳴らすと、デュビュロンもまた、その動きに呼応するように砂を巻き上げ、巨像の姿を晒した。
ランスロットは、巨大な獲物をデュビュロンに取られ、幾分不満そうに剣を構えたが、進軍する装飾文字 (カリグラフィー)が、三本のペンで大剣を背負った騎士を描き始めると、ランスロットの瞳はみるみるうちに、戦の色へと染まっていく。
宙に浮かぶブリューナクを背後に、マリアは改めてミカヅキを構え直した。サタンの瞳の奥にある心情を探る時間は無い。それに、取るべき行動は一つしかない。マリアが何をすべきなのかは、随分前に決まっているのだ
サタンが何を考えているのかは分からないが、選抜者の意志を継ぎ、世界を救う為、マリアは戦わなければならない。
既にランスロットとデュビュロンは戦いを開始していたが、マリアとサタンは互いに剣を構えたまま、しばらく動かなかった。
その隙にシオンは情報分析や、行動予測を行い、いつでもマリアの補助が出来る体制を取っていた。
サタンはひとつ大きく息を吸い込むと、双剣特有の構えを見せ、地面を蹴った。
「――っ!」
それは、予想を上回る速度だった。サタンが飛んだ瞬間、床が割れ、透き通った大理石の破片が飛び散った。
その少し前、鈍い輝きが見えたのは、何らかのシエナを消費させ、疾風の如き瞬発力を得たのかもしれない。直進から直角に、稲妻が走るような動きで距離を詰めるサタンの姿を、マリアは捉えることが出来なかった。
しかし、シオンとブリューナクはその動きを察知していた。
シオンはすぐさま赤い線でサタンの予測する位置を示すと、ブリューナクは寸分狂わぬ正確な照準で雷光を着地点に落として行った。
だが、サタンはそれも見越している。
「アリー第一の盾 (アンアスピス)! 第二 (デュオ)、第三 (トリア)! 」
三度落ちた雷は、サタンの掛け声と共に出現した三枚の盾に遮られ、一つとしてサタンに命中することはなかった。
空中で三枚の盾が砕けると、サタンは双剣を逆手に構え、大鋏を扱うように二つの剣先を向けて斬り込んだ。
マリアは咄嗟に峰に手を当て、両腕の力でなんとか片方の刃を止めることが出来た。正しくは、片側の剣しか止めることが出来なかった。空から落ちたブリューナクが、もう片方を止めてくれなければ、マリアは間違いなく片腕を落とされていただろう。
ぎりぎりと刃の擦れる音が耳の奥まで響く。マリアはそれを弾き返す事が出来ずに、力の押し比べに限界を感じたが、双剣に熱線を当てたシオンが、エネルギーを集約させ、二つの刃を溶かし崩す。
その隙をマリアは逃さなかった。
全ての熱が伝わるよりも先に、双剣から手を放して後方へ飛んだサタンだったが、マリアはそれを追うように前傾姿勢で刀を突き出した。
胸を一突き――一瞬の狙いは極めて正確だったが、サタンは空中で身を捩り、左肩で刃を受け止めた。仕損じたが、追撃は可能。
マリアは突き出した右腕を引くと同時、左足で地面を掴み、体全体を収縮、蓄勢させ、一気に跳ね飛んだ。
空中でこれ以上身動きの取れないサタンに、マリアの渾身の一撃が向けられた。
勝利の確信を掴もうとした時、マリアは頭上に気配を感じた。シエナ、透明人間 (ハイド・トランスポーター)が運んだ梵鐘 (アイアンベル)が頭上に落ちてきたのだ。
マリアは突如降ってきた釣鐘を避ける事も出来ず、暗闇の中に閉じ込められてしまう。
「シオン!」
マリアはシオンにアイアンベルを焼き斬るように意識を飛ばすが、この狭い空間の中で二億度を越える増光放射 (レーザー)を撃つ事は、自殺行為に等しい。
『使用不可、斬り開いてください』
マリアは狭い空間の中で助走を着けると、渾身の力で鐘を突いた。しかし、鐘はびくともしない。これもやはり消費による使用で、頑強な鐘を更に強固にしている。
シオンは平等の間に配した監視回路 (キューブ)から映像を拾うと、マリアの視線脇に小さな映像を展開させた。
傷を負ったサタンは片膝を付き、握り締めたシエナを傷口に当て、回復を行っている。
レコが言っていた、サタンの所有する回復型のシエナの一つだろう、と、マリアは悔しそうに口を引き結ぶ。早くここから出なければならない。
シエナ、万能水剤 (エリクス・ポーション)は本来、液状のまま服用する事が正しい使い方だった。しかし、万全の体調を整える、という効果だけでは、深く負った傷を完全に回復するには至らない。
サタンはエリクス・ポーションを少しずつ蒸発させながら消費させ、傷の治癒に専念していた。
滲み落ちた血溜まりを気にする事なく、暗然たる表情のまま、視線をアイアンベル一点に集中する。
アイアンベルが破壊されるまで幾分かの猶予がある。最後の一滴を消費させたサタンは、左右に視線を滑らせ、先にランスロットを葬るべく、シエナ、千殺突剣 (ラピエル・ファルコン)を抜く。
デュビュロンとゴーレムの力比べは続いていた。
静かな戦いを行うデュビュロン達とは対照的に、カリグラフィーの生み出したインクの騎士は、大剣を回しながら、ランスロットに斬りかかっていた。か細い線は糸を手繰るように黒い腕を引き戻し、強く引かれた線に繋がって、上空から刃を振り下ろす。
だが、ランスロットの速度についていけるものではなかった。黒い文字を薙ぎ払う度、鮮血が散る様に墨が散り落ち、力任せの斬撃がその面積を上乗せにする。
アロンダイトの冷気が、3本のペンが筆記した文字を凍らせると、途端にカリグラフィーの動きが鈍くなった。次々に生み出される文字は、騎士の復元を迎える事無く凍結し、ランスロットと一撃によって両断される。
ランスロットはペンを握りつぶそうと腕を伸ばしたが、突然の殺気を感じ、おもむろに防御姿勢を取った。
側面から撃たれたのは、一点集中の素早い突き。弾丸のように虚空を貫くその攻撃は、サタンの剣戟によるものだった。
「グゥッ!」
ランスロットは初撃を捉える事も出来ずに、自身の篭手が砕かれるのを目にしてしまう。極限まで研ぎ澄まされた鋭利な剣は、微かだが高速に振動していた。
一等級シエナ、ランスロットの勇士 (ナイト・オブ・ランスロット)は、妖精の時代に名を馳せた、無敗の騎士だった。
最後は愛する者の死に付き従い、自身で命を落とすことになったが、シエナとなって世に戻った今でも、一度も戦いに敗れた事はない。
そんなランスロットだが、サタンに対しては僅かな畏怖を抱いていた。
連続的に消費される下等級のシエナ。光弾を牽制として撃ち込み、時には目眩ましや派手な音を放ち挑発する。カリグラフィーの騎士に攻撃を任せたかと思えば、隙を縫ってはサタンも剣を突き出した。
けたたましい金属音は鳴り止む事無く平等の間に響き渡り、衝撃が空気を裂いて震わせる。
百戦錬磨のランスロットも、戦いの中でサタンを唯一無二の強者だと認めた。これ程までの強さを持ち合わせ、千を越えるシエナに認められる者を、ただ一つ、世界の破壊という手段を目論む事を除いては。
サタンの突きを拳で掴み、カリグラフィーの大剣を軽々とアロンダイトで受け止めた。
「強さの先に求める物とはなんだ」
「強さは手段にしか過ぎぬ。最初から求めてなどいない」
「惜しい男よ、どこで道を踏み外した」
「正しい道など最初から無かったのだ。運命と称して統べる世界など、選択の余地も与えぬ非道な畢生よ」
ランスロットはカリグラフィーを蹴り上げると、兜の面頬を勢いよく開き、噛み砕くように右側のペンを砕き割った。動きを司る第三書体 (ラスティック)が崩壊すると、途端に動きが制限される。
カリグラフィーに背を向けたランスロットは、アロンダイトを氷の剣に変化させると、疾風の如く、吹雪を散らせながら連斬を繰り出した。
一対一を余儀なくされたサタンは、斬撃を交わしながら、いくつかのシエナを消費させ、ランスロットの懐に光弾を撃ち込んでいく。しかし、ランスロットの漆黒の鎧は、下等級のシエナなど受け付けないとばかりに、容易にそれを弾き返していた。
二撃、三撃。サタンの弾丸のような突きが放たれるが、ランスロットの赤い瞳は、全てを見切り、軌道を逸らしていく。それとは対照的に、打ち合いとなって交差する度、ランスロットは的確に打撃による攻撃を与えていった。
互いの剣戟が重なる度、サタンは打撃を受けながら圧し込まれていく。勢いのままに弾き出され、地面に手を突いた瞬間。ランスロットは両手で剣を掲げ、振り下ろそうと力を込めた。
だが、その時、二本のペンが描いた騎士が、背後からゆっくりと掴み掛かろうとした。
ランスロットは素早く踵を返し、二本のペンごとカリグラフィーを薙ぎ切った。すぐさまサタンに向き直り、返す刃で斬り払う気でいたが、突如、文字が途切れた向こう側で、黄金色をした剣がランスロット目掛けて飛んでくる。それは、カリグラフィーが最後に描いた、投擲台から発射されたものだった。
アロンダイトを構え、切っ先が触れた瞬発。黄金色をした剣の先端が、氷の剣に一筋の傷を入れた。
剣を裂く剣は、そのまま刀身に線を入れながら進行し、ランスロットの兜を、顎元から頂点にかけて一撃で貫いた。
カリグラフィーが最後に飛ばしたのは、文字の剣ではなく、サタンが消費したシエナだった。
「グッ……ガフッ……これは、我が王の剣……聖なる剣 (エクスカリバー)……!」
一等級シエナ、エクスカリバー。闇を打ち払い、如何なる物も切り裂くその刃は、ランスロットの漆黒の鎧を、いとも簡単に貫いていた。
同時、アイアンベルが鈍い音を立てて割れ、異変を察知したマリアが、叫び声を上げた。
「兄さま!?」
「すまない、マリア……我輩は、ここまで……だ」
一度だけマリアを見たランスロットは、短い言葉を放ち、瞳の灯を静かに闇の中へと沈ませた。
「にいさまぁぁぁぁぁっ!!」
ブリューナクを掴み、太陽への翼 (プリュム・ダイダロス)を広げて突進したマリアは怒りのままに槍を突き、見境なく剣を振るう。
「よくも! よくも! よくもぉぉっ!」
怒りと気迫を載せた一撃一撃を、サタンは落ち着いた様子で見極めると、マリアの動き合わせて反撃を行い、脇腹を捉えて捌き斬った。
サタンもまた、マリアの槍を右胸に貫かせていたが、自身を犠牲にすることで、サタンは確実に、マリアに深手を負わせることを成功させたのだ。
翼を切り返したマリアは、上空に逃げるように飛び、奥歯を噛み締めて着地をした。マリアは響く痛みを堪えて表情を歪めるが、シオンが傷口に沿うように光を当て、出血を止める為に可能な限りの熱で肌を焼く。
「くぁぁっ!」
短い悲鳴を吐き捨て、刀を地面に突き刺したマリアは、視線をサタンへと向けた。
重傷を負ったサタンだったが、蘇生の羽 (リザレクション・ガルダ)を消費させて復活すると、すぐに満潮の鍵 (フルート・シュロス)を回して水門を開き、水竜の如き海流を放出させる。
傍らでシオンが叫んだが、苦痛で動けなくなったマリアは、蠢く水竜の奥で、無残に崩れゆく兄を目にしていた。
兄はマリアにとって良き理解者だった。どこか無機質なシオンや、無邪気なフェンエルとベルガモットと違い、生真面目だが、いつも優しかった兄。
意識を持つシエナとはいえ、元々は人間だったこともあり、マリアは兄から色々な事を学ばせてもらった。時に笑い、時に泣き、叱られることも多くあったが、ランスロットはマリアにとって最高の兄だった。
滲む視界の中で、轟音に紛れて小さく響く金属音が、兄の最後を悟らせる。
シオンの放った熱線が、水面を割って霧へと変えたが、辺りを埋め尽くす程の膨大な水量を前に、それは何の役にも立たなかった。
水竜がマリアを飲み込もうとした時、大きな砂壁が、マリアの前に競りあがった。
マリアと意識を共有するデュビュロンは、瞬発的に自らの力を大きく解放させると、一撃でゴーレムを押し潰し、身を挺してマリアを守り抜いた。
「とうさま!」
何も言わぬ背中が、打ち崩れたマリアに、しっかりしろ、と言っているようだった。
瞬時に冷静さを取り戻し、顔を上げて立ち上がったマリアだったが、瞬く間にデュビュロンが砂礫を撒き散らして砕け散ってゆく。
「そんな……」
水流に乗せて走らせた駆逐水雷 (デストロイヤー・トルピード)がデュビュロンに刺さった瞬間、サタンは遠隔約物星 (リモート・アスタリスク)を押し下し、爆発の衝撃と共にデュビュロンを葬ったのだ。
震える両手を抑え、なんとかミカヅキとブリューナクを落とすのを堪えたマリアだったが、湿った空気に絡み取られたかのように、その動きを止めてしまう。
静寂が孤独感を増長させた。大事な家族が、次々とサタンに奪われていく。
「シエナを亡くした程度で、正気を失うなど、神が抱く痛みに耐えられる筈もない。さっさと放棄してしまえ、お前は神には成れぬ」
非常な言葉がマリアの心を締めつける。そんな事は言われなくても分かっている。だが、お前に何が解る。村を焼かれ、父と母を殺され、選抜者たちの死を乗り越え、多くのシエナ (家族)を失った悲しみを――お前に一体何が解るというのか。
マリアは沸き上がる感情を飲み込み、ただまっすぐな突きで否定した。
「選抜者達を殺したあなたこそ、ふさわしくない!」
「どうせ死にゆくさだめだったのだ」
「私の家族にだって、意志があった……思いがあった! 奪う事しか出来ないお前などに、分かる筈なんてないんだ!」
「ただの道具に意識を持たせ、愛を求めるお前こそが愚かだ!」
刀を弾き返したサタンは、襲い来るブリューナクに正確な照準を合わせると、低く腰を落とし、高速の連撃を撃ち出した。
軌道を逸らした一撃目と、破壊を狙った二撃目が、サタンの予測どおりに命中する。
雷の穂先にヒビが沸き、サタンを貫く筈だった雷撃が、虚空で炸裂した。
「くっ!」
右足でしっかりと床を踏み叩き、再び刀を回したマリアは、サタンと密着する形で刃を競り合わせた。
「あなたは何を求めているの……平和な世界を、一度は望んだのでしょう!?」
「黙れ!」
サタンの叫びと共に、シエナ、空を翔る咆哮 (グルファクシ)が消費された。強烈な咆哮が、威圧の重力となってマリアを大きく吹き飛ばす。
地面に転がったブリューナクが雷を纏って浮かび上がろうとしたが、サタンはラピエルを突き立て破壊すると、続けて電磁欺瞞装置 (エレクトロ・パルス)を布陣に敷いた。
サタンが広げた青白い光の中にあったシオンは、その領域に触れ、明滅を繰り返しながらその動きを止めてしまう。
「かあさま! シオン!」
『コ……ウドウ……フノウ……マリ……ア……マリ……ア――』
「やはり通用するか、まさか役に立つとは思わなかったがな」
小さく苦笑しながらシオンの脇を通ったサタンは、必死に起き上がろうとしたマリアの首を掴み、勢いよく持ち上げた。
マリアは苦しみながらも翼を広げたが、その手からは逃れられず、ばたばたと羽を散らせるだけだった。
「ぐっ……せ、世界の全てを、奪おうとする……あなたに……あなたの悪に、屈しはしな……い」
その言葉に、サタンはマリアを掴む腕の力を僅かに緩めた。
「悪……悪とはなんだ……本当の悪が、お前に分かるというのか」
「平和に……生きている人を……世界を奪おうとすることは……悪、そのものです!」
「お前も少なからず、この世界を見て来たのだろう。世界の負を目にしたのだろう。ならば、理解出来るはずだ。世界の闇をな」
突然サタンの肌が腕が黒く変色し、マリアを掴む咽元に到達した。
ぱきぱきと音を立てながら、マリアを黒く染めていったのは、シエナ、侵食の心 (ノクスファー・フォール)だった。
所有者の心に染めるそのシエナは、一万年もの闇を抱いたサタンの心を表すように、純黒の色を視界に現し出している。
「僅かな喜びを得る為に、盤上で踊らされる人々は正しい行いか、全ての苦しみを神一人に押し付けて、のうのうと生を成す人も、それを輝きとして受け取るテラも、それらは全て、悪ではないのというのか」
「せ、世界を正そうと……平和を願う人の、何が、悪だというのですか!」
「サンティは……一万年の神々は、一体どれだけの命を奪い、苦しみを味わってきたと思っている。お前にこそ解るまい! 幾億の苦しみを全て受け取らなければならない神の悲嘆を、一体誰がその苦しみを解き放つというのか」
その時、サタンの心がマリアの内に流れ込んでいった。
葛藤、恐怖、後悔、諦念、苦しみ、悲しみ、絶望の中で抱く罪悪感。
一万年の神が受け止めた負の感情を、サタンもシエナを通して全てを視て感じていた。
「ある時、二つの国で戦争が始まった。それは、とても長い争いだった。終わりの見えない状況に互いはいつしか焦燥し、蓄積されていく憎しみが、五千年もの歴史を紡いだ時代に終止符を打つ。生物兵器と呼ばれるその脅威の剣は、多くの命を奪い、全てを死滅させていった。そして、その兵器の恐ろしいところは、脅威が伝染することだ」
そこまで聞いて、マリアはサンティが世界の為に力を扱った三度の出来事を思い出していた。失われゆく大地を取り戻すため、世界を埋めた事。振り落ちる流星を砕き、世界を救った事。そして――世界に生物兵器が使われた事。
「それを使用した人間は、防ぐ手段も、治す方法も持っていなかった。歪な破壊願望ともいえる行動に、人間は成す術もなかったのだ。世界の半分が脅威に染まった時、サンティは一つの決断を下した……世界を救う為に、世界の半分を――」
マリアは一筋の涙を零した。サタンの心を通じ、サンティの苦しみが伝わった。
サンティ――神は、人の過ちを正すため、世界を救うため、大きな決断を下した。人間の愚かな行いの全てを背負い、始末をつけたのだ。
「世界は多くを失ったが、絶える事はなかった。そうしてすぐに次の時代は到来した。何事もなかったかのようにな」
サンティは一万年という永い時を過ごした中で、そのような大きな決断を三度も繰り返していた。何かを成すためには、何かを犠牲にしなければならないときもある。だが、果たしてそれを、たった一人の存在に請負わせることが正しき事なのか。
「知らぬ事も罪、知る事も罪……苦慮を委ね、押し付けて、生きる世界など、それは正しき世界ではない」
その時、マリアはサタンの本当の目的が何かを理解した。
世界を壊すとは、世界から神を失くすこと。人々の命を奪うことではない。
人が生きる場所を求め、テラが輝きを求めるならば、それらは平等でなくてはならない。何かを求め、強要したとき、それらは平等でなくなるからだ。神なき世界、そう、サタンは自らが神となり、そこで神という存在を終わらせるつもりなのだ。
神という存在がこの世からなくなれば、シエナが生まれる事も無い。だが、それで世界は終わるを迎える訳でもない。世界は人々に委ねられるのだ。
神が無くなり、たとえ人々が死に絶えても、平等という世界で行われる淘汰なら、それこそが、本当の運命だろう。それによりテラが輝きを失い、末路に途絶えても、それもまた、正しき世界の行く末なのかもしれない。
心の内を垣間見た瞬間、僅かな心の隙が、侵食の心によって犯された。
「あぁぁっ……くぅっ……やめ……て……」
マリアの瞳が闇に染まり、力なく頭が空を仰ぐ。
体に纏わりついた黒の肌が、乾いた樹皮のように剥離して、砕け落ちていく。
「例え、異端と呼ばれようとも……これが私の成した選択なのだ。マリア。罪は背負う事は出来ぬとも、世界は零から始められる……」
シエナ、八端十字の磔台 (エイトクロス)を地に突き刺したサタンは、マリアを空で縛り付けると、マリアを背にして歩き出す。
「最後の選抜者よ、これで終わりにしよう。シエナも神も、本来は必要のないものだったのだ。人もテラも、多くを求めすぎている」
サタンの歩いた道が一本の黒い線を引き、静かな空間に最後の靴音を響かせた。
踵を返したサタンは、全てのシエナを消費し、眩い光子の集合体を右腕に集約させた。
「シエナ結集体 (フォトン)」
最後の力を結集させたサタンは、暗い瞳をマリアに向け、腕を大きく引いて、光子を解放する。
一筋の光が帯状に伸び、マリアに向けて撃ち放たれた。
マリアが死を覚悟した瞬間、巨大な金属の塊が光子を受け止め、自らの体を貫いた。
『駆逐艦・十五夜 (エクシオン・インスタンス)』
シオンは蓄積された全てのエネルギーを開放し、自らの核を実体化させ、その身を持ってマリアを守り抜いた。
「なんだと!? くっ……!」
サタンはシオンから光子を引き抜こうとしたが、光の帯はシオンを貫いたままびくともしない。
光子を取り巻く光が次々とシエナの結晶を分解させ、無数の粒子が空へと散ってゆく。
「そんな……シオン……やだ……やだよ」
青と紫の光が、人の姿をした影を生み出すと、シオンはそっとマリアの頬に触れた。
『マリア、私はここまでのようです。あなたの望みに答えられずに申し訳ありません』
「シオン! シオン! シオン! だめ、いかないで、私を置いて行かないで! 私もあなたと一緒に……」
『マリア、弱音を吐いてはいけません。あなたにはまだ、やるべき事が残っています』
「ううっ……シオン、私痛いよ、胸の奥がとっても痛いよ……力のない自分が悔しいの……ごめんねシオン、私はいつも守ってもらってばかり、ごめんねシオン……ごめんね、あなたを守ってあげられなかった……ううっ……」
『いいえ、マリア。私は最後まであなたを守る事が出来て幸せです。数千年もの眠りついていた私を、目覚めさせてくれたのはあなたでした。私にたくさんの家族と優しさを、私に人の心を与えてくれた。私に愛を与えてくれた……マリア、私は感謝しています』
「シオン……」
「さあ、マリア立ち上がるのです。最後の勤めを果たすのです」
シオンはマリアの持つペンダントに優しく手を触れると、それに反応するように母のシエナが光を放ち始めた。
マリアの双眸が見開かれ、溢れんばかりの光がシオンやサタンを包み込み、空間を光で満たして行く。
侵食の心でマリアと繋がっていたサタンは、その瞬間、マリアとシオンの持つ記憶の一端を目の当たりにしてしまう。
マルトが予言した七つの光、サンティの描いたマリアの絵。記憶の海から流れ込む膨大な声と音を聴きながら、サタンは震えた声で呟いた。
「ど、どういうことだ……お前は……お前は選抜者では…………人間ではないというのか」
サタンが記憶の海で溺れる中、マリアもまた自身の記憶とシオンの導き出した映像を目にしていた。
それはとても遠い過去の欠片。忘れ去られていた、あの日の記憶。
私は孤独だった。
空から光が散る、あの日より、ずっと前から。
私は誰も近寄ることのない、天へと聳える頂の絶壁にいた。
空で無数の光が散らばった日、ひとつの結晶が飛来し、私はシエナと結ばれた。
それから私は、世界を照らすほどの美しい輝きを手に入れた。
朝も昼も夜も、雨風に打ち付けられようとも、雪や氷に埋もれようとも、いつまでも、その輝きを絶やす事はなかった。
しかし、その輝きを見つけられるものは、誰一人としていなかった。ただ、輝くだけの存在として、いつまでもそこにいた。
いくつもの夜を過ごし、何度目の太陽が昇ったとも分からぬある日、私は一人の男に見つけられた。
「ふーっ……ようやく見つけたぞ。ああ、なんて綺麗な花なのだろう。きっとロナも喜んでくれる筈だ」
男の名はヘクトール。目下の村に住む、年若き青年だった。
何千年もの間、岩にしがみつき、動く事も出来なかった私は、その一言と共に、呆気なく掌の中に摘み取られた。
「ロナ、帰ったよ。とうとう神の山でこれを見つけたんだ。結婚して一年目の記念に相応しい贈り物だろ」
「まあ、素敵!」
すぐに鉢に植え替えたロナは、私を暖炉の傍に置いた。寒かったろうと話しかけ、枯れない様にと水を注いだ。そんなものは必要ないと思ったが、なぜか、とても暖かい物に思えてしまう。
毎日決まった時間に窓辺に置き、ロナは話も出来ない私に声を掛けてくれる。
「このペンダントはね、ヘクトールが結婚を申し込むときに私にくれたの。村に代々伝わるシエナで神様の祠に祭られていたものなんだけど、あの人ったら私に、湿っぽい神木に吊るすより、君がつける方が素敵だ、とか言うのよ。おかしいでしょ? ふふっ」
ロナはずっと優しく語りかけ、穏やかで暖かい時間を私にくれた。
いつも笑顔の耐えない幸せな夫婦の営み、しかし、そんな二人に影を見たのはしばらくたってからの事だった。
ある日、満足そうに話を終えたロナは、小さなため息を付いて、胸元のペンダントに手を伸ばした。どこか悲しそうに、待ち侘びるように、静かな声で祈りを込めて言う。
「どうか私たち二人にも、素敵な子供が生まれますように」
ヘクトールとロナは子供を望んでいたが、それは叶わぬ望みだった。一年が経ち、二年が経ち、
それでも二人の間に子が与えられることは無かった。
冷たい雨の降る日、ロナが大泣きし、ヘクトールは辛そうにロナを抱き寄せた。
暖かく幸せな時間に訪れた、悲しく辛い一日。この日ほど、自身の力を呪った事はない。ただ、輝きを与えるだけの、取るに足らない存在。私はこの二人に、何も与えることが出来ないのだと。
それからしばらくして、ロナが祈りを再会した日、私もロナと同じように願いを捧げるようになった。
何千年もの時を過ごした私だったが、初めて一日一日がとてつもなく長いものに感じた。
何度か季節が巡ったある日、ロナの持つ、ウイッシュ・ザ・スターから放たれた小さな光が、私の願いを受け取った。
声無き声が、シエナとシエナの思いを疎通させる。私の願いをこの小さなペンダントが叶えてくれるのだと悟った。
その日の夜、私は初めて自身の輝きを止めた。暗く冷たい部屋の中で、静寂だけが私に寄り添う中、シエナとしての最後を迎えようとしていた。一万年近くに及んだ孤独を捨て、新しい一つの存在として、生まれる為に――。
翌朝、窓辺に鉢には大輪の花が咲き誇っていた。窓から漏れる陽が朝露に濡れる五枚の花弁を輝かせ、光に包み込まれるように、一つの存在を産み出した。
「あなた、見て! あぁ……なんて美しいのでしょう……」
「まさか、これは一体……」
「ふふっ、あなたも抱いてみて、とても温かい……ああ……神様は私達の願いを叶えてくれたのね」
ロナは赤子を優しく抱き、めいっぱいの愛情で包み込み、涙を零して微笑んだ。
「ずっとね……決めていたの。男の子だったらエルト、女の子だったら――」
記憶の海が風に流され、マリアは大地に降り立った。満天に広がる光の中で、闇が逃げるように消失する。
「そうか……そうだったんだ。私はずっと、忘れていたんだ」
「こんな事が認められるか!! なぜお前のような者が選ばれる! お前はただの……ぐうっ!」
サタンとマリアを繋げた一本の闇の道が、今度は光に侵食されて力を失っていく。
「マルトさん、本当は私が、七つ目のシエナだったんだね……サタン、あなたは本当は神に選ばれた最初の一人目だったのかもしれない。あなたが変わらぬ心を持っていれば、選抜者達もあなたを選んでいたのかもしれない……そして、そんなあなたが選ぶ道ならば、誰もが納得していたのかも……」
「黙れ! 貴様……神の差し金か! それともテラの……!? 世界の理を壊す俺を阻む為に……!」
「ううん、きっとそれは違う。テラは多くを与えたけれど、何かを奪おうとは決してしない。テラもきっとわかっているんだ。人がどんな道を選ぼうと、どんな選択をしようと、きっと最後まで一緒に運命を共にするはずなんだよ」
「フフ……フハハ! 所詮は俺も自分の願いを貫こうとした小さき存在だったということか……選択を間違えたか……だがな、もう戻れぬ。俺は今でも望んでいない。神は多くを救うのと同時に多くを奪うことに変わりない! お前を消して、俺は神となる!!」
サタンは自らの闇を増幅させ、侵食の心を広げると、マリアもまた、眩い光でそれを押し潰す。
「そうはさせません。あの時、あの席に着かなかったあなたを認める事は出来ない。九人の選抜者の願いは世界の平和! 私は最後まで、あの人たちの歩いた世界を守りぬきます!」
「うぉぉぉぉぉぉっ!」
「はぁぁぁぁぁぁっ!」
光と闇が交差して、最後にマリアが叫んだ。
「私の名は光輝の勿忘草 (マリア)! 世界に光を与えるシエナです!」
光に飲まれた闇が、跡形も無く散って消えていった。
サタンが消滅してすぐ、瞬いた光が地面に落ちて転がった。傷だらけの青い石が嵌められたその指輪は、サタンが最後まで消費することの出来なかったシエナ、太陽の指輪 (ソレイユ・バーグ)だった。
どこか悲しそうにそれを拾ったマリアが平等の間に立つと、神の間の扉が開き、最後まで全てを視ていたサンティが姿を現した。
「サンティさん……あなたは、全て知っていたのですか」
「サタンの考えていた事は、どこか心の奥で感じていたのだと思います。しかし、それを面に出す事は出来なかった。心の片隅に置いたまま、どうする事も出来ずに、このような結末を迎えてしまいました。今はもう、全てが終わった後ですが……」
「そうですか……私がシエナだということも、知っていたのですか? いいえ、その事を知ったのはほんの数時間前です。エクシオンが情報を解析し、最後の戦いの前に私たちは知ったのです」
「そうだったのですか……」
「マリア、あなたはシエナでありながら、人に生まれ、そして今や神になろうとしています。今があるのも、世界の運命――いえ、そのような曖昧な言葉で結ぶものではありませんね」
「しかし、シエナの私に、人々の意志を継ぎ、果たす資格があるのでしょうか……」
「マリア、あなたを十人の選抜者の一人として選んだのは私です。そしてその選抜者達もあなたを選んだ。家族となったシエナも、あなたを守りぬいたシオンも、あなたが神となる事を望んでいます」
「はい……」
サンティの言葉に、マリア堪えきれずに多くの涙を零してしまった。
「ふふっ、泣き虫な神様は笑われてしまいますよ。マリア、この先もまだ、多くの苦難が続く事でしょう。しかし神は全てを受け止め、答えをださなければなりません。マリア、次なる一万年の神よ……全ての世界に未来を与えたまえ」
その言葉を最後に、神は空へと散り、無数のシエナの結晶を地上に撒いた。
神の散る日 (スターダスト)――この日、新たな一万年の神が生まれた。