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第三章 神の間へ

 朝も夜も無い、変わらぬ色をした空間。

 相変わらず天窓には黒い大きな瞳が揺れ、扉の前では巨大な足が前後する。

 戦いの準備が整ってすぐ、マルトが一言呟いた。

「突然の空腹感に襲われたわ……最後の晩餐が近いのかもしれない」

 サタンの使用したシエナ、油縄の火時計 (クリック・クロック)のせいで、マルトに残された時間は刻一刻と迫っていた。

 静かに自分の席に着いたマルトは、突然無口になり、ぼうっとテーブルの上を眺めていた。



 貴族の子に生まれ、人の上に立つ者として教育されたマルトは、両親の言葉が世界の全てだった。

 毎月開催される舞踏会。美しい赤のドレスを纏い、真珠の首飾りを付けて、マルトは社交界に参加する。

 両親の脇に佇み、名を呼ばれたら笑顔で返事をひとつ。胸元に手を添えて、僅かばかりに首を傾ける。あとはスカートの裾を掴み、心にも無い挨拶をするだけだ。

 すると、マルトの姿を見た大人たちは、決まって同じ言葉を口にする。

「初めまして、マルト・サイサリス嬢。あなたは今宵の月よりもお美しい」

「お褒めに預かり光栄に思います」

 そんな男たちの台詞に、マルトもまた、決まり事のように言葉を返した。

 マルトはそんなやり取りが不思議でしょうがなかった。大人たちにとっては、赤のドレスを着ていようと、青のドレスを着ていようと、まったく関心が無いからだ。

 女性との挨拶には必ず「美しい」の言葉を使い、対して興味の無いダンスに「ご一緒したい」と声を並べる。そうやって、高級なグラスに入った酒を飾りのように持ち歩き、くだらない会話を永遠と続けている。

 マルトの生きる世界は、上面だけの世辞を並べた、不愉快な世界だった。

 それでも、自分も大人たちと同じ世界で、同じような時を過ごして、充実感の無い日々を送っている。

 マルトが初めてシエナを目にしたのは十五歳の頃だった。それは、ある舞踏会の日。有名な劇団が城に訪れ、演劇を行った時だった。

 それはどこにでもあるような、王子と姫の恋物話。

 王子ではない者が王子を演じ、姫でもない者が姫を演じる。

 煌びやかな装飾も、華やかな衣裳も、そのどれもが偽物だ。

 人に好感を与えようと、誰もが一度は演技をするだろう。良い印象を植えつける為、良き姿を見せる為に。しかし、彼らのは嘘は、決して嫌な感じのするものではなかった。

 最初は演劇に興味を持たなかったマルトだったが、舞台を眺めているうち、胸の奥底が熱くくなっていることに気が付いた。

 舞台を降りれば、あの美しい関係は泡のように消えてなくなってしまう筈なのに、愛を囁く美しい声も、頬に添える可憐な指も、全ては嘘で成り立つ演技だが、そのどれもが美しく素晴らしいものだと感じていた。

 演劇が終わり、幕が下りた時、マルトはその世界に心酔し、どちらが現実で、どちらが演劇なのかわからなくなってしまった。

 翌日、マルトは両親に内緒で家を抜け出し、再び演劇場へ訪れた。

 一番前の席を陣取ったマルトは、昨日とまったく同じ演劇に、心躍らせてしまう。

 王子は姫を抱き、姫は王子を見つめた。

 優しく手を取り、二度に分けて体を引き寄せる。

 場を盛り上げる笛の音も、演劇者の表情も、全てが同じ。作り物だというのに、優美な素晴らしき世界。

 そして、あの台詞が聴こえる。


「あなたが月を望むなら、私が取りに行きましょう。あなたが太陽を望むなら、私は奪いに行きましょう。けれど、ただひとときでも、あなたから離れることが、私の唯一の悲しみです」


 マルトは無意識のうち、姫の台詞を一緒になって呟いていた。

 毎回、同じ言葉を口にする自分とは大違いだった。どちらも嘘なのに、向こう側の世界は朝焼けのように輝いていた。それに引き換え、自分のいる世界はどうして闇夜のように暗いのか。

 マルトは作り物の人々が織り成す、あの世界へ行ってみたいと思うようになっていた。

 カーテンコールの中、止まない拍手の音に紛れ、気が付くと、マルトは舞台の裏へと足を踏み入れてしまう。

 即席で作られた小さな階段が軋みを上げ、演劇者が一人ひとり、舞台を降りていく。

「あのっ……! どうすれば、あのような美しい演技が……できるのでしょうか」

 最後に階段を降りてきた作り物の姫に、マルトは思ったことをそのまま口にした。

「ふふっ、ご興味がお有りですかお嬢様。それを知りたければ、その世界に入る事です」

 一言告げた姫は、演技なのか分からない笑顔を浮かべ、颯爽と舞台を後にした。

 マルトは羨望の眼差しで姫を見送ると、ひとつの決意を握り締め、劇団に入り浸るようになっていく。

 作り物の王子と姫は貴族の遊びだと軽くみていたが、マルトの懸命な姿に心を打たれると、いつしか本気で演劇を教え込むようになっていた。

 マルトの両親は強く反対したが、マルトは初めて親に反抗し、自らの道がここにあるのだと決心し、家を飛び出した。

 劇団が城に滞在する期日を迎えたある日のこと、作り物の王子と姫はマルトを舞台へ上がらせてくれる事を許してくれた。姫は自らのドレスをマルトへ渡し、マルトは始めて衣裳に袖を通すことになる。

 遠くからでは分からなかったが、それはいくつもの縫い跡のあるドレスで、生地の色はくすみ、当て布が衣擦れを起こすようなみすぼらしいドレスだったが、マルトはとても嬉しかった。

 そのドレスは、力を失いかけた古いシエナ、百人針子の既製服 (リチェ・ザ・プレタポルテ)だった。

 五等級のシエナ、リチェ・ザ・プレタポルテは身に着ける者を注目させ、魅了させる効果を持っていた。

 しかし、長年プリマドンナに受け継がれてきたそのドレスは効果を失い、今ではシエナの力だけでは、人々を魅了する事が出来なくなっていた。

 だが、そのドレスを身に纏ったマルトは、シエナの持つ力を見事に引き出し、客席だけではなく、演劇者や裏方の者にまで、完成された演技を見せつけた。

 作り物の王子は手を伸ばし、マルトの腰をそっと抱いた。優しい詩が二人の声を重ねると、舞台上には風と共に、鮮やかな花弁が舞い踊った。

 観客達は立ち上がり、惜しみない拍手が贈られた。そして静かに幕が下ろされた。

 完璧に演技をこなしたマルトは頬を紅潮させ、呼吸を整えようと大きく息を吸った。

 薄暗い舞台の上で手を取り合った二人は、止まない拍手の音を聴きながら、そっと口づけを交わした。

 それが演技の続きだったのか、シエナの輝きに惹かれたものなのかは分からなかったが、マルトにとっては本物の、初めての恋だった。

 一夜にして有名になった演劇者、マルト・サイサリスの噂は国外にまで響き渡った。日を増すごとにリチェ・ザ・プレタポルテは美しさを取り戻し、いつしか劇団は、マルトを正規の団員として迎え入れてくれた。

 それからマルトはいくつもの公演を行い、自身でも脚本を書き、多くの物語を世に生み出していった。気が付けばマルト・サイサリスの名は大陸中に響き渡り、一介の貴族だった少女は、手の届かないような存在にまで登りつめていく。

 それを象徴するかのように、マルトの元には美しさを持つシエナが、吸い寄せられるように集まっていった。王からは、虹を操るシエナ、七色の魔法 (レインボー・トリック)が贈られ、詩人からは、新たな物語を綴って欲しいと、予言の書、シエナ、旧約聖書 (トーラーテスタメント)が贈られた。

 演劇者として成功を収め、輝かしい時代を過ごしてきたマルトだったが、自室で次の戯曲を考えていたある日、ふと、ペンを置いて窓の外を見つめた。

 公演の期日は近付いていたが、マルトのペンは殆ど進んでいない。

 シエナの力でたくさんの予言や物語を見ることが出来たが、マルトはもう、人々を魅了させるような物語を作ることは出来なくなってしまっていた。

 マルトは自身が神の選抜者に選ばれる事を、自身の予言によって知っていたからだ。

 選抜者に選ばれる以上、もうこれ以上、物語を綴る事は出来ない。昔の自分が抱いたような感情を人に与える事は、出来なくなってしまうのだ。

 遠い空が黒に染まり、次第に闇が訪れる。暗い影がマルトの手を取り、そうしてすぐ、マルトは招待の間へと誘われた。


 マルトは自信の人生を辿るように、これまでの出来事を思い返していた。

 とても長く、とても短い、時の流れ。もうじき、最後の晩餐につくとわかっていたが、マルトは清清しい気分だった。

 ようやく、ペンを走らせる事が出来た。多くの者が死に、世界が滅ぶかもしれない物語。

 どのような結末になるのかは、マルトの予言でも見ることは出来ないが、マルトは物語の中心となる少女に思いを馳せていた。

「ココ、最後の時間をお願い。そしてみんな、私に物語を綴らせてくれて、ありがとう」

 マルトが言うと、テーブルには突然、前菜が並べられた。

 そしてマルトは、ゆっくりとナイフとフォークを手にし、前菜のオリーブを口にする。

「時間だ」

 リリーナが言うと、ココは時計の針を操作した。マルトに言われた通り、それぞれが位置に付く。

 マルト・サイサリスによる、世界の命運をかけた、最後の幕が切って落とされた。



 天窓から覗く二つの瞳が、大声を出すコーヴィを睨みつけている。

「一体どうなってる! あいつをどうにかする方法はないのか? リリーナ!」

 苛立つコーヴィは座っていた椅子を片手で持ち上げると、部屋の外へと投げつけた。

 しかし、投げ出された椅子は、あっという間にケルベロスによって踏み砕かれた。ケルベロスは咽を鳴らすと、何事も無かったかのようにまばたきをして、部屋の中を凝視する。

 扉の前に立ったサタンは、何もする事の出来ない選抜者たちを、ただ嘲笑っていた。

「はははは! 随分と乱暴な選抜者だな、このような者が次なる神の候補になるとは、可笑しくてしょうがない」

「くっ」

 サタンはコーヴィから視線を外して部屋の中を見渡すと、十人目が訪れている事に気が付いた。

「おっと、ようやく全て揃ったか」

 マリアの存在を知ったサタンは、十人目を見定め、ため息交じりに言葉を投げつける。

「また子供か。ほう……三人目も最後の晩餐を迎えたようだな。しかし、これだけの所有者が集まっていながら、何も無いというのは面白くない。確かお前は戦の王だったはず、椅子を投げつけることが精一杯か?」

「孤島の監獄 (アルカトラズ)が無ければ、すぐにでもお前を殺しに行ったさ。なあ卑怯者よ」

 コーヴィはシャンパングラスを掴むと、サタンの足元に投げつけた。

 砕けたガラスは四方に散ったが、破片はサタンにぶつかる手前で、見えない何かに遮られてしまう。

 やはりマルトの予知通り、サタンは自らの身を守る為、体の表面を、シエナ、東西を分つ壁 (コミュニズム・マウアー)を使って、物理的な防御策を取っている。

 挑発はしていたが、この日の為に一万年に及ぶ時を過ごしたサタンは、慎重を期しているに違い無い。

「なら出てくればいいさ、外ではシエナを好きなだけ使えるぞ。相手をしてやるよ戦の王」

「落ち着けコーヴィ・ダイヤ。そんなことをしても意味は成さん。何か良き方法がないかを考えるんだ」

「リリーナよ、ならば他に、よき手があるのか?」

 コーヴィは諦めにも似た表情でリリーナに目をやったが、リリーナはすぐに目を逸らし、マリアの方を向いた。

「十番目の娘、お前はいくつのシエナを持っている? 外の獣を一撃で葬れるようなシエナは持ち合わせていないだろうか」

 リリーナは抑揚の無い声でマリアを訊ねた。コーヴィ同様、マリアにも期待はしていないといった様子だ。

「私の持つシエナは六つ。残念ながら、そのような強力なシエナは持ち合わせていません……」

 マリアは怯えるようにサタンから目を背け、震える手でローブの中に身を潜めた。

 それを聞いたサタンは笑い声を上げたが、マリアたちはマルトの脚本通り、完璧に最初の演技をこなした。

「くはは! 六だと? そんな所有者が選ばれるとはな! 今回の選抜は当てにならんようだ! ははははっ!」

「貴様は千ものシエナを得た所有者らしいな。それほどまでのシエナに選ばれていながら、どうしてこのような真似をする。そんなに神になりたいのか」

 ダンテルディは怒りを抑えきれずにサタンを睨みつけた。腕を組み、背中を壁に預けていたが、椅子に座らずにいたのは、いつでも剣を抜けるようにしているからだ。

「ああ、なりたいね。このどうしようもない世界を壊したいんだよ」

「それに何の意味がある」

「壊すことに意味などない。全てが零に還る。それだけだ」

 答えにはなっていなかった。ダンテルディは頭に血が昇り、腰の剣に手を伸ばした。だがそれも演技のうち。サタンは笑みを浮かべるが、ダンテルディは怒りの表情を向けつつ、冷静に心を静めていた。

「どうした、威勢だけいいのが選抜者の決まりか? その騎士の剣で貫いてみせろよ。召還獣など、取るに足らないだろう? なぁ騎士さま……ふふっ、はははは!」

「話にならん!」

 ダンテルディは剣から手を離すと、自身の席へと戻り、大きく息を吐いて着席した。

「みんな落ち着いて! 何か方法がないか考えるんだ、きっと打開策がある筈さ!」

 悪化する雰囲気を打ち消そうと、ココが声を張った。サタンに見えないように背を向け、皆の表情を窺う振りをして、ケルベロスの位置を確認する。

「それなら良案を出したらどうだ、ココ・マコモ。だいたいなんだ、選抜者の半分が女とは……」

「なに? コーヴィ・ダイヤ、それはどういう意味だ! 女は役に立たないって言いたいのか!?」

「そう聞こえたのならそういうことだよ、ココ・マコモ。勇敢な冒険者なら、早く外へと飛び込んでいったらどうなんだ」

「きさま……っ!」

 ココは大きく腕を振りながら、マストに詰め寄った。言葉に怒気を含ませ、怒りの矛先をそれぞれの選抜者へとぶつける。

「ふふっ、仲間割れとはな。どうやら世界の行く末はもう決まったようなものだ」

 サタンの一言に返す者はいなかった。淀んだ空気に身を溶かし、誰かが言葉を放つことを期待した。そうしていると、妙に落ち着いた様子で、マストが口を開く。

「皆よ、考え方を改めるというのはどうだろうか。どのみち神に選ばれなかった者は死を迎える。新たな世界の神が決まる前に、我々はもう存在しないことになるのだ。言うなれば誰が神になろうとも、その結果を見届ける者はいないのだよ」

「マスト・マスト。どういうことだ、それは」

「諦めも肝心だということさ」

 マストは冷ややかに言い放った。リリーナは言葉を返す事はせず、両手を組んで頭を埋め、大きなため息を吐く。

「マスト! 我らの国が滅んでもよいと言うのか! 共に民衆を救い、国々の統一を目指した我らが、こんな訳のわからない者のために、失ってしまってもいいのか!?」

「王よ、お気持ちは分かります。私は長年王に付き従って参りました。王の為ならこの命、失っても惜しくはありません。しかし王と私は選抜者として選ばれてしまった。もう国へ戻る事は出来ないのです。王のいない国など……私にとってはなんの価値もありません!」

「マスト! 貴様それでも、ハガラウの将軍か!」

 コーヴィはマストの肩を強く掴んだが、ダンテルディとココが慌ててそれを止めた。

 マストはワインの瓶を一本掴むと、始めて目にしたオープナーを使い、器用にコルクの栓を抜いた。軽く瓶を振って香りを感じると、グラスを傾け自らワインを注いでいく。

「どうせ朽ちていく身、最後ぐらいは酒の一杯でも口にして死んで行きたいものです、私は」

 それを見たバルトロマイは、同じようにグラスを拾い、マストの前に差し出した。杯の足に手を添えたまま、ワインを注ぐように目で催促をする。

 マストがグラスにワインを注ぐと、バルトロマイは少しだけ笑顔を浮かべた。だがこれは、マルトの筋書きにはない行動だった。バルトロマイは一気にそれを飲み干すと、ふう、と長い息を吐き、頬を赤らめる。

 死の宣告はされていた。とはいえ死への恐怖がないわけも無い。マストの台詞に感化されたのか、それともバルトロマイは酒の力を借り、恐怖心を制していたのか。それを知るのはバルトロマイ本人一人だけとなる。

 しかし、ダンテルディはバルトロマイがこの一瞬に自身の思いを組み込んできた事を羨ましいと感じた。自分があの役割にいれば、そう考えたかも知れないと思ったからだ。

 コーヴィの瞳は悲しみの色に染まり、間近で見ていたココは背中に汗を滲ませた。マリアは俯いたまま行方を案じ、演劇に揺らぎを感じたリリーナも、表情を変えずにマストを見守ることを精一杯とする。

 しかし、マストは選抜者達の心配をよそに、バルトロマイの抱く恐怖を感じつつも、淀むことなく演技を続けた。

「私はそれほど神に固執しません。それに、もう十分生きた。王に仕えてこれた喜びと、最後に選抜者として選ばれた名誉と共に、この世を去るのも悪く無いと考えています」

 再び道筋に乗る物語。サタンは選抜者たちに違和感を抱くことなくマストを見やった。

「物分りのいい奴もいたものだ。ハガラウの将軍とやら、付き合おう。貴様の最後の酒にな」

 そう言って数歩前に出たサタンは、境界線でマストからグラスを受け取った。並々と注がれる赤ワインは、サタンの表情を映して揺れている。

「これはレトー文明、黎明期の酒か。フフッ……ヨハネスも中々良い趣味をしている。最後の晩餐を彩るには素晴らしき酒だな」

 サタンはワインを一口含むと、満足そうに笑みを浮かべた。

 マストとサタンの距離は僅か一メートル、手を伸ばせばサタンを室内に引き込める位置にあったが、頭上ではケルベロスが目を光らせている。サタンの襟首を掴もうと指一本出ようものなら、あっという間に潰されるのはわかっていた。

 サタンは選抜者たちがそれを理解しているのを承知の上で、不用意にも魔法の城の入り口に近付いた。

 自分が絶対的優位にあるものだと認識させ、行動に間違いはないと思わせる。だが、選抜者たちは、油断を誘ったこの一瞬を、決して無駄にはしない。

 この時を待っていた、ペドラの脚本通り、選抜者達は決意を揃え、戦いへと移行する。

 マストは酒を一口で流し込むと、サタンから背を向け、グラスを落として懐に手を入れた。

 シエナ、MKⅡ投擲弾 (パイナップル)のリングに指を掛けて引き抜くと、マストは穏やかな眼差しをコーヴィに向けた。互いは一度で視線を切って最後の別れを済ませると、コーヴィは机を持ち上げ、これから起こる爆風から選抜者たちを防御する。

 マストは地面を蹴り、後ろを向いたまま魔法の城から飛び出した。サタンはすぐに危険を察知して退くと、ケロベロスが容赦なくマストを踏み潰す。

 マストは絶命するが、足元で投擲弾が炸裂し、ケルベロスの右足を見事に吹き飛ばした。その後を追うようにコーヴィが飛び出すと、サタンとコーヴィは同時にシエナを消費させた。

「冥界巨狼を繋ぐ枷 (グレイプニル)!」

「侮辱の刃 (オリーウスソード)!」

 頑強な縄がサタンを絡め取り、鋭い刃がコーヴィの心臓を一突きにした。

 コーヴィは息絶えたが、サタンの拘束に成功した。しかし、サタンはケルベロスに向かって、想像だにしない指示を出す。

「ケルベロス、俺を殺れ」

 サタンの言葉に従ったケルベロスは、後ろ足を支えに体を浮かせ、左足の爪を立て勢いのまま体を二つに引き裂いた。

 一等級召還獣の力とはいえ、縄を千切る事は出来ない。だが、それで充分だった。

 サタンは大量の血を流しながら地面に倒れたが、すぐに、シエナ、恢復の水  (オー・ド・クララ)の力が発動する。

 オー・ド・クララは復活のシエナだった。サタンはシエナを消費させ、体内に蘇生の力を流し込んでいた。流れ出た血液から再生を開始し、拘束された肉体を放棄すると、血を媒介にして新たに体を形成させる。

 これはマルトの予言に無い行動だったが、結果的にサタンの動きを遅らせたので、演劇に遅れはない。

 サタン復活までの僅か数秒、この隙を逃さず、バルトロマイとマリアが戦いの中に飛び込んだ。

 バルトロマイは入り口を抜けた瞬間、素早く鞭とダガーを抜くと、鞭を撓らせ、ケルベロスの右首に巻きつけた。

 振り下ろされる左足を避けて上空へ跳ぶと、ダガーを額に突き刺した。弱点を一突きにされ、すぐさまケルベロスの咆哮が響き渡る。

 バルトロマイは必死にダガーを掴み、ねじ込む様に刃を突き立てた。だが、中央の頭が牙を剥き、バルトロマイをひといきで噛み殺してしまう。

 ケルベロスの中央の頭は、バルトロマイを咥えたまま、視線を足元に向けた。右の頭は力なくうな垂れていたが、左の頭は今まさに飛び出そうとする、もう一人を狙っている。

「今よ!」

 ケルベロスが僅かな影を捉えた瞬間、ココが叫んだ。

「白兎の懐中時計 (ワンダーランドクロック)!」

 既に使用を続けたココのシエナだったが、最後の力を消費として扱い、一秒だけ時間を止める事を成功させた。

 ほんの一秒。時が止まり、マリアはケルベロスに襲われることなく境界を抜け出す事に成功した。ケルベロスが動く頃には、マリアは一秒先の世界を進んでいる。

 だが、ココはマリアの後に続き、魔法の城を飛び出した。

 時が始まり、ケルベロスの瞳は僅かに見えた影とココの姿を同期させると、その体に噛みついた。

 ココは囮だった。時が止まった事を悟られないようにする為、自らを犠牲にし、ケルベロスに違和感を覚えさせず、無傷でマリアを外へと出したのだ。

 外に出た獲物を全て仕留めたと思ったケルベロスは、再び魔法の城へ警戒を向けるが、体を取り戻し始めたサタンは、走り抜けるローブ姿の選抜者を目にしていた。神の間へ向かう者が一人、魔法の城にはまだ二人が残っている。

「選択を成したと言うのか!」

 サタンがマリアを目視した瞬間、ダンテルディが魔法の城を飛び出した。

 ダンテルディはケルベロスの瞳に刃を突き立て、流れるような動きで顎を捌くと、咬噛を失った口からココが地面に落下した。

 攻撃の手段を無くした左の頭は首を引き、変わりに左足を振り上げた。

 本来ならばバルトロマイと同じように、三頭それぞれの額にあるという心臓を狙うべきだったのかもしれない。

 しかしダンテルディは顎を攻撃した。雪よりも白いココの腕が、赤い血に染まる姿を見ていられなかったからだ。

 既にココは瀕死の重傷を負っていた。これ以上助ける事も出来ないし、助かる事も出来ない。一思いに殺された方が楽だったかもしれない。それはダンテルディもココも分っていたが、慈悲無き悪の手中で殺されることを、ダンテルディは許せなかった。

 冒険者ココ。彼女はいくつの空を見つけ、いくつの大地を渡り歩いたのだろうか。

 世界に夢を抱き、世界を愛した冒険者。自由を求めたが、夢の果てを見ることは叶わず、不要な名誉の為に命を捨てた冒険者。

 止め処なく流れる血で、床が赤に染まる。もう痛みは無い。

 大地の暖かさだけを感じ、虚空を望みながら小さく笑ったココは、ダンテルディに「ありがとう」と礼を言った。

 ダンテルディにその言葉は届かなかったが、ココは神の間へと向かうマリアの足音を感じながら、向こう側の世界に最後の夢を馳せ、静かに死んでいった。

 ケルベロスの左足が振り下ろされた。鋭い三本の爪がダンテルディを襲ったが、かろうじて攻撃を受けきると、マリアに視線を振り、大きく叫んだ。

「ゆけ、マリア! 一万年の神となるのはお前だ!」

「はい!」

 マリアはその声を背中に受け、勢いよくローブを脱ぎ捨てた。

「ええい、十人目か!」

 サタンはようやく、選抜者たちが選んだ者がマリアだということに気が付いた。

 魔法の城には、まだリリーナが残っていたが、状況から察すると、選抜者が選択を成したのは十人目のマリアだ。

 そのすぐ後、小さな悲鳴と共に、ダンテルディの倒れる音がした。

「忌々しい選抜者共め……足掻いても無駄だ! ケルベロスよ、最後の一人を見張っておけ。部屋を出ようものなら、容赦なく咽を噛み切れ!」

 サタンは神の間に残ったリリーナを見ずに指示を出すと、素早くシエナを消費させ、上空へと飛びあがった。

「神の元へ辿り着けると思うな! 出でよ貪欲なる両牙 (ゲリフレキ)!」

 サタンは空中で白い骨片を取り出すと、マリアに向けて投げ放ち、シエナを消費させた。

 青白い光が弾け、翼の生えた二匹の狼が生まれる。

 鋭い爪が空を掻き、紅の瞳は残光を描いた。迸る殺気はマリアにも伝わっている。

 それと同時、マリアもまた、自身のシエナを開放した。

「双子座よりの流れ星 (フェンネルとベルガモット)!」

 光源から羽ばたいたのは白と黒の翼。マリアの両脇で柔らかな髪を揺らし、無垢な瞳を灯した双子の姉妹は、可憐に笑う。

「わっほーい! マリアちゃーん! ってなんだここ?」

「ベルガモット、なんだか嫌な空気が流れてるわ」

 少女たちはすぐに異変を察知すると、二つの獣を捉え、即座に態勢を整えた。

「フェンネル! ベルガモット! 命を賭して時を稼いで!」

 マリアは走る速度もそのままに、振り返る事無く、あどけない少女たちに非情な命を下す。

 だが、フェンネルとベルガモットはその言葉を理解し、静かに頷いて一言で返事をした。

「まかせて」

「了解よ」

 刹那に交差した四つの影。

 ベルガモットは狼の首骨を拳で砕き、フェンネルは回転する蹴りで頭を潰した。

 二人は次なる目標へと視線を移したが、サタンは続けてシエナを消費させ、十三匹にも及ぶ召還獣を、フェンネルとベルガモットに向けていた。

 サタンは宙で浮かんだままマリアに視線を滑らせると、指を弾き、更にシエナを消費させる。

「高高度の風 (ショック・ソニック)」

 それは、一等級シエナの輝き。

 一瞬にして大気が淀み、圧縮された気流が衝撃波となってマリアを襲う。

 だが、それと重ねるように、マリアもまた、一等級シエナを消費させていた。

「革命家の外套 (ブルーコート)」

 右肩に取り付けた留具から青い織地が広がった。背中にはダンテルディが率いたヘキサゴン騎士団の紋章が大きく描かれている。

 はためく袖に腕を通したマリアは、攻撃から逃れるように自身を覆った。襲いくる衝撃波はありとあらゆる物を切り裂いたが、攻撃が止んだ時、マリアは傷一つ負う事無く、その場に立っていた。

「行って、滑走する蹄 (モノケロス)!」

 ブルーコートを脱ぎ捨てたマリアは、すぐさま二つ目のシエナを開放する。

 堂々たる嘶きを見せたモノケロスは、八本の足で床を叩き、巨大な一角をサタンへ向けて突進した。

「小癪な……」

 サタンは、シエナ、巨人の篭手 (アイアンハンド)を消費させると、モノケロスの一角を無造作に掴み、力任せに投げつけた。

 衝撃が轟音となって鳴り響いたが、モノケロスはすぐに立ち上がると、サタンに鋭い眼光を飛ばして咆哮する。

 フェンネルとベルガモットも、恐ろしいほどの強さで全ての獣を葬ると、サタンと距離を詰めながら攻撃の構えをみせている。

 それでもマリアは、それぞれのシエナには目もくれず、ただ前を向き、神の間へと走り続けていた。

 マリアと神の距離はもう間近に迫っていた。サタンはマリアが放った一等級シエナ達を前に、追撃を断念せざるを得ない状況だ。そうなると、残る方法はただ一つ。サタンは一度嘆息し、地面へ降り立って右手を翳した。

 全ての選抜者が揃った時、すぐにそれを使えば終わっていた。だが、そうしなかったのは、サタンにとってそれが、切り札だったからだ。

 選抜者が全て消えれば、次なる神の資格を獲るのは自分だと確信していた。最後に平等の間に立っていた者が一万年の神になるとされているが、仮に現在の神がそれを阻もうとした時、サタンは対抗手段を用いる必要があった。

 唯一、神に対抗出来るシエナ、それは最大にして最強の力を持つ、特等級のシエナに他ならない。

 しかし、ここでマリアを逃しては元も子もない。まず優先されるべきは、十人の選抜者全ての殲滅。サタンは冷静に考えを巡らせると、落ち着き払ってシエナを消費した。

「これで終わりだ――」

 サタンは、手の中で黒く輝く小さな球体を浮かべると、それを力のままに握り潰した。

「原子核融合 (クリア・アクション)!」

 鈍く輝いた球体は、白光を放ち、空間全てを包み込んだ。

 古き時代、幾度と無く世界の破滅を誘ったその力は、例え一万年の神であろうと、脅威に感じるだろう。

 巨大なシエナの消費によるエネルギーは無限の爆発を生み、フェンネル、ベルガモット、モノケロスを一瞬にして飲み込んだ。

 召喚獣を散りと化し、選抜者達の亡骸を無に還すと、魔法の城を音も立てずに焼き尽くす。

 迫り来る白光の中でマリアの姿を捉えたリリーナは、椅子に座って腕を組み、緩やかに口角を上げ、納得したようにほくそ笑んだ。

「マルトよ、私は見届けたぞ。実に素晴らしき、最高の演劇だった」

 空間が白一色に変わり、全てが滅された。

 短い時が流れ、薄く残る煙が辺りに漂ってゆく。空には幾億の星々が輝き、淡く揺らいで明滅する。残響すら残らぬその場所で、星光とステンドグラスの輝きがサタンを照らしていた。

 特等級シエナを持ってしても、この空間は壊せなかった。だが、サタンの目に入る邪魔な者は全て消し去る事が出来たようだ。そう、ここに立っていられる者は、シエナを扱ったサタンただ一人――の筈だった。

「ど……どういうことだ、特等級シエナの消費だぞ!? 無事であるはずがない!」

 サタンは困惑し、一筋の汗を流した。消え行く薄煙の奥でサタンが目にしたのは、堂々と佇むマリアの後ろ姿だった。

 サタンは思わず息を飲み、動揺を隠せないまま、ただ、マリアを眺めていた。

 世界を破壊するほどの力を持つシエナを消費させても、マリアは何事も無かったかのように、そこに立っている。

 攻撃を打ち消したのか、絶対的な防御を行ったのか……サタンは頭の中で数々の仮定を浮かべたが、マリアの手の中で砕けたシエナを見つけると、思わず感嘆の言葉を吐き捨てた。

「五次元世界よりの光 (コード・ノヴァ)――消費させ次元を、いや……運命を渡ったというのか。フン、小娘のくせにやるじゃないか」

 特等級のシエナを回避出来るのは、同じ特等級のシエナでしかない。サタンはこの時になって始めて、自分が躍らせられていることに気が付いた。

 どこからが始まりだったのかはわからないが、抗うように見られた選抜者の行動と犠牲は、全てがマリアを神の間へ到達させる手段だったのだ。

 選抜者達は、見事にサタンの切り札を引き出させた。それを理解したサタンは考える事を止め、手にしていた全てのシエナを収めていく。

 踵を返したマリアは、この時になって初めて、サタンと視線を交わす。

「次なる神になるのは私です」

「それはどうかな。うまく城から抜け出したようだが、結局はまたこの場に戻らねばなるまい」

「選抜者たちの意志は……無駄にしません」

「ハハハ! マリアと言ったか、楽しみに待っている。十番目の選抜者の力、存分に見せてもらおうじゃないか」

 サタンが言葉を言い終えると、神の間からは無数の細い腕が伸び出した。黒と白の腕たちはマリアを絡めると、ゆっくりと部屋へと引き入れていく。

 堂々と閉じゆく扉の奥で、サタンは薄ら笑いを浮かべたままマリアと視線を切ったが、、マリアは最後までサタンに強い瞳を向けていた。

 扉が完全に閉ざされ、静寂が満ちた時、一つの雫が床で弾けた。それを皮切りに、マリアは大粒の涙を零しながら崩れ落ち、両手で顔を覆ってひどく嗚咽する。

「うぅぅぅっ……ごめんね、フェンネル、ベルガモット、モノケロス。私、あなたたちの命を使ってしまった。リリーナ、ダンテルディさん……みなさん……ごめんなさい……本当にごめんなさい……」

 神が鎮座するというその場所は、魔法の城よりも小さな部屋だった。

 中央にはモノリスがマリアを見下ろすように聳え立っていたが、マリアはまだそれに目をやる余裕はない。

 それでも時は刻一刻と過ぎていく。

 これより二十四時間後、選抜者マリアと異端者サタンによる、一万年の神を巡る戦いが始まる。


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