第二章 九人の選抜者
一瞬の出来事だった。
突然、無辺の闇に放り込まれ、自分がどこにいるのか分からなくなってしまう。。
戦場の音が消え、匂いが擦れ、光を失った。夢でもみているかのような気分だ。
小さな光を見つけたと思ったその時、まるで最初から存在していたかのように、マリアはそこに立っていた。
待ち望むように向けられた複数の視線。目の前にいる者たちは何者なのか、そんな疑問を問いかける前に、一人の少女が声を出す。
「十人目の選抜者よ、まずは最初に言うべきことがある。平等の間へ訪れた者には二つの選択が与えられる、神に相応しい者を選ぶか、選ばれるかだ」
マリアへ最初に声を掛けたのは、哲学者、リリーナ・イェフチェカだった。
リリーナはたっぷりとした薄桃色の髪を左右に纏め、頭に青いリボンを結んだ花飾りを乗せていた。赤と黒のフリルが付いたショートドレス姿には愛らしさを感じるが、白くか細い指に嵌められた宝石の指輪は、その年齢には不釣合いに見える。
一見すれば、幼くかわいらしい少女であったが、厳めしい口調とマリアに向けられた鋭い視線は、大人のものだった。
「だがその前に、まずはその剣をおろしてくれないか?」
「え……? あ! ごめんなさい」
マリアは自らの構えた剣に気付き、慌てて剣を納めようとした。だが、それを遮るように、リリーナの正面に座っていた騎士らしき男が立ち上がる。
「おっと、悪いが剣を貸してくれないか?」
「剣を……ですか?」
「我々には武器が無くてね。シエナでなくとも、武器があるに越した事は無いのだよ」
青い甲冑を身に着けた男は、優しい表情でマリアへと手を向けた。温和そうな雰囲気を持っていたが、マリアは相当の実力を持った者だとすぐに察知する。
しかし、マリアは疑う事無く騎士に剣を手渡した。先ほどまで戦場にいたマリアが、あっさりと他人に剣を渡したのは、この場の異様な空気に触れ、圧倒されていたからだった。
マリアは騎士へ剣の受け渡しを終えると、ようやく一番訊きたかった事を口にする。
「あの……ここは一体……」
だが、マリアの問いに答える者はいなかった。
一同は互いに視線を重ね、改めて選抜者が全て揃った事を確認すると、テーブルに肘を置いたリリーナが、マリアに向けて言葉を繋げた。
「それでは始めよう。私の名はリリーナ・イェフチェカ、アリエル大陸で哲学者をしている。訊きたい事もあるだろうが質問は後にしてくれ、まずは私が全てを話そう。しかしこれだけは先に言っておく。わたしはこう見えて十歳だ」
「……どうみても十歳ですけど」
マリアが思わず口にすると、何人かは小さく笑ったが、リリーナが不機嫌そうに口を尖らせたので、慌てて姿勢を正して頷いてしまう。
「わ、わかりました」
「よろしい……では続ける。我々がいるこの場はキャメロン (魔法の城)と呼ばれるシエナが造りだした空間だ。本来ならば選抜者は平等の間へ訪れる事になるのだが、一番目の選抜者、ヨハネス・ダルシアが所有していたシエナに潜んだ者が、ヨハネスを殺し、後から訪れる九人の選抜者を狙おうとした。だが、ヨハネスは死ぬ間際にシエナを消費し、後に訪れる我々をこの空間に誘うことに成功した。選抜者が全滅するという危機を、ヨハネスは回避する事が出来たのだ」
リリーナは城と呼んだが、そこは小さな部屋だった。
いくつも窓があったが、その全てには牢屋のような格子が掛かけられており、窓の外にはまた別の空間が広がっているようだった。透き通った大理石の床や、赤や緑に光るステンドグラスの輝きが垣間見えるが、このような所に部屋があること自体に違和感がある。
部屋の中央には丁寧な彫刻が施された長テーブルが置かれ、その上には中央で区切るように絹で織られたクロスが敷かれていた。部屋の中にはいくつか調度品も飾られていたが、この長テーブルだけは、元々部屋に存在していた物とは違う気がした。
銀で出来た蜀代が三台並び、二台のペストリースタンドには果実が宝珠のように並んでいた。
大きなシャンパンクーラーの中では扇状にボトルが連なり、一人ひとりに配されたカトラリーは、これから食事が始まるかのような装いだ。
十脚の椅子が備えられていたが、着席しているのはマリアを含めて九名。一席は空席で、よく見ると、なぜか一人だけが食事を行っていた。そうして七名が全員マリアを見つめ、リリーナの話に耳を傾けている。
「選抜者ヨハネスは、神に選ばれていない異端の者によって殺されたが、二つのシエナを消費させ、我々を守るための空間と、最後の声を残してくれた。魔法の城は主の許しを得た者しか入れぬ特別な空間。もう一つのシエナ、一条戻橋の詩 (サイレント・リリック)は死者の言葉を現世に届けるシエナだ。その声によって事の次第を理解した二番目の選抜者、ペドラ・アンシエンテは、ヨハネスの意志を継ぎ、対策を講じる為に考えを巡らせた」
マリアは一番奥の席に目をやった。本来ならばヨハネスが座る席だったのだろうか。死ぬ間際にこの部屋を作り出し、二番目以降の者たちをこの空間へと誘ったヨハネス。
次にリリーナは空席の向かいに座った女性を指差した。
彼女がペドラ・アンシエンテなのは理解出来たが、ペドラは黙々と食事を進め、こちらの様子などまったく見えていないといった状態だった。
「本来ならば、我々十人の選抜者の話し会いによって、次なる一万年の神が選ばれるはずだった。選択を終えた選抜者たちは最後の晩餐を摂り、最後に残った一人が神となる。そうして神を決める運命の日は終わる筈だった。しかしそれは、異端者の手によって妨害されてしまった。異端者は今も、我らを葬り去ろうと魔法の城の外で機会を窺っている」
リリーナは天井に視線を向けた。それに釣られてマリアが見上げると、巨大な真っ黒の瞳が天窓の外でまばたきをする。
「サタンが魔法の城に使用したシエナは三つ。城の内部でシエナの使用を禁じる孤島の監獄 (アルカトラズ)、時の経過を早める油縄の火時計 (クリック・クロック)、城から出たものを食い殺す召還獣地獄の門番 (ケルベロス)だ」
開かれた扉の向こう側では巨大な獣の四肢が上下し、黒い瞳は舐める様に空間の中を見張っている。
「厄介なのは時を早める油縄の火時計 (クリック・クロック)だ。平等の間へ招待された選抜者達は二十四時間が経つと、その役目を終えたと判断され、最後の晩餐へと移行する。本来ならば十人全員が揃ったところで時計の針が進むのだが、そのシエナによって、それぞれに残された時間が個別に経過してしまっているのだ。既に二番目の選抜者、ペドラはその役目を終えたとの判断となってしまい、最後の晩餐を迎えた。これが我々に時間がないとされる理由だ。しかし、ペドラは自身の持つ三百全てのシエナを消費させ、なんとか具現化した三つのシエナを我々に託してくれた。サタンの所有するシエナを探る為に用意された世界年代記述 (アカシックレコード)、サタンの持つシエナに対抗すべく用意された魔術の書 (エイボン・ザ・ブック)、シエナの研究に全てを尽くした世界基本思想 (ワールドタブレット)。この三つのシエナを使い、我々は情報集積を行った」
託された三つのシエナを手にしていたのは、豪奢な衣裳を纏った壮年の女性だった。三つの書を忙しそうに捲っていたが、リリーナと視線を合わせると、一度だけ小さく頷いた。
「全ての作戦は、三人目の選抜者、マルト・サイサリスが執り行う。彼女は演劇者でありながら、予知の母と呼ばれる異名も持つ選抜者だ。彼女の予知は外れる事が無いと聞く。これからの戦いについてはマルトから話してもらおう」
リリーナから紹介されたマルトは静かに立ち上がると、右手を胸に当て、左手でスカートの裾を掴んで流麗な挨拶をした。
細やかに細工されたレースが静かに揺れ、紅の塗られた唇は、薔薇の花弁のように華やかだ。
「初めまして、かわいらしいお嬢さん。私はマルト・サイサリス。ここにある全てのシエナを使い、あなたを神へと導く者です。一方的に話してしまったけれど、ここまでで何か質問はあるかしら?」
マルトは一度頭の中を整理させようと、たっぷりと時間を使いながらマリアに笑顔を向けた。
「は……はい。どうしてみなさんは私を神に選んだのでしょうか……まだこの場に訪れる前の私を……」
神に選ばる資格を持った九人の選抜者は、どうして不確かな十人目を待ち、神に選ぶという結論に至ったのか、マリアにとってそれが一番の疑問だった。
「現実的な問題として、誰がサタンと対峙するかについて、これはとても大きな問題でした。一番目の選抜者ヨハネスは、世界との王と呼ばれる、いくつもの大陸を治める王でした。正しく神の選択が行われていれば、神になるのは彼が相応しいと誰もが選択したのかもしれません。しかし彼はサタンによって殺されてしまった。二番目の選抜者ペドラも、三百ものシエナを所有する、賢者と呼ばれる有能な所持者であり人格者でしたが、齢七十を超え、戦いという場に赴く事は出来ないと判断したのでしょう。彼は所有していたシエナを全て消費し、孤島の監獄 (アルカトラズ)の効力が及ぶ中、私に三つのシエナを託してくれました。彼のシエナを受け取った私は、誰がサタンと戦うべきなのかを考えました。限られた時間の中、より多くのシエナを残し、確実にサタンを倒すにはどのような方法があるのか――と、ここまで言っておいてなんですが、あなたを神に強く推したのは私です。それは私の予知によって、あなたに大きな輝きを感じたから……この場に訪れるであろうあなたに、未来の輝きをみつけたのです」
マルトは自信に満ち溢れた様子ではっきりと言った。彼女の予言がどれ程の信憑性があるのかはわからないが、他の選抜者も同じ思いなのだろうか。
「私の所有するシエナは六しかありません、皆さんより圧倒的に少ないと思うのですが……」
マリアは自身の力がこの場にいる者達の足元にも及ばないのではないかと考えた。神の素質があるとして選抜された者たちは、どうしてこれ程までにマリアに希望を抱くのか。現にその言葉を聞いて、数名の者は戸惑いの色を隠せないでいる。
「六か……最低でも三十は所有していると期待していたが、随分と少ないな……」
マリアの剣を受け取った青い鎧の騎士は、不安そうに顎に手を当て、マルトに視線を向けた、。
「心配しないでダンテルディ、私の予知が外れたことなんて一度も無いのよ」
「ふむ……」
それでもマルトは、迷いを見せることなくダンテルディに微笑みを返したので、他の者達も口を噤んでしまった。
「私がシエナを消費させて用意したのはこの二つ。予言の書、旧約聖書 (トーラーテスタメント)と、策略の才、孔明扇 (フィロソフィア)です。私とペドラのシエナを合わせたこの五つで、これからの行動予知を導き出します。それでは、まずはあなたの名前と、所有するシエナを教えてくださるかしら?」
「マリアと言います。私の持つシエナは――」
机に手を掛け、椅子を引いて立ち上がったマリアは、両手を広げ、自身の回りにシオンと五つの光源を開放させた。
マリアの頭上で浮かぶ六つのシエナ。褪せることのない美しき光の輝きは、蜀代の灯を飲み込み、煌々と室内を照らし尽くしている。
「なんと! 城の内部でシエナを発揮する事ができるのか!」
「このようなことが……」
選抜者たちは驚きを隠せない様子で、マリアの持つシエナの輝きに目を見張った。それを見たマルトもまた、自身の胸の高鳴りを抑え切れなくなっている。
「やはり私の予言に間違いは無かった……私の見た輝きは、きっとこれに違いないわ!」
「シエナを出現させる事が、そんなにおかしかったでしょうか?」
「いいや……先ほども言った通り、サタンの使用したシエナ、孤島の監獄 (アルカトラズ)はシエナの使用を制限する効果がある。部屋の外でシエナを扱うことは出来るが、この部屋の中でそれが出来ようとは……だからこそ我らは、全てのシエナを捨てる覚悟で消費させ、僅かなシエナを確立させようとしたのだが…………」
「リリーナ、驚くのは後にしましょう。時は刻一刻と過ぎていきます。マリア、あなたのシエナについて、詳しく教えて貰えるかしら」
「はい……」
マリアは自身の持つシエナの名を告げながら、個々に意志がある事を伝えた。選抜者たちからは再び驚きの声が漏れるが、それは喜びから来るものだった。
「驚いたな、全てが一等級のシエナか……なるほど、これならばサタンへの対抗にも期待が持てそうだ。シエナに意志を持たせるとは、だからこそ個と認識され、城の中でもシエナを発揮出来るのだろうか」
満足そうに腕を組み、椅子に座ったリリーナは、ランテルディと視線を交わし、確信を込めて大きく首肯した。
「ありがとうマリア。シエナは収めて貰えるかしら。サタンがその強い力を感じてしまうかもしれないわ。リリーナ、私はこれからの行動を予知します。後の事をお願い出来るかしら」
マリアは全てのシエナを戻したが、シオンだけはその意思に反し、マリアの頭上で浮かび続けていた。
『同席しても宜しいでしょうか。マリアの力となる為、私も情報を共有したいと考えています』
「あなたはエクシオンでしたね。現在の神が存在する前から生を成しているシエナだと」
『人の手が加えられる以前は散乱集光炉 (コロナグラフ)と呼ばれていました。知識と自我を持つエネルギーの集合体のような存在とお考え下さい』
「わかりました、それでは続けましょう。お願いします、リリーナ」
「ああ、承知した。それでは伝えるべき事を伝えよう。マリア、こちらは四番目の選抜者、北世界の冒険家、ココ・マコモだ。ココの持つシエナは白兎の懐中時計 (ワンダーランドクロック)、過ぎ去りし時を見せることが出来る時間を操るシエナだ。我々はこれを使い、サタンの目を欺きながら、その隙に作戦を立てている」
ココ・マコモはマリアに向けて右手を軽く振った。年若い印象の女性だったが、頬に刻まれた大きな傷や、伸びっぱなしの銀色の髪は、ベテランの冒険者の雰囲気をそこはかとなく漂わせている。
ココは大きな茶色い瞳を交互にぱちぱちと動かし、常に何かを確認するように、針の動きを気にしていた。どうやら会話中もずっと、シエナを使用していたようだ。
「サタンがこの部屋を見ているのですか?」
「うむ、奴はシエナ、視視ラノラダ (ラノラダ・アイ)を使用し、我々の動きを部屋の外から常に監視している。ココの持つ白兎の懐中時計 (ワンダーランドクロック)がある限り、恐れるに足らんがね」
「この懐中時計は過ぎた時間を他人に見せることが出来るシエナなの。今はまだ、サタンもケルベロスも、あなたがここへ来る前の時間を見ているよ」
ココは時計の短針を抑えながら、長針を指で回した。右の瞳で現在の時を確認し、左の瞳でサタンに見せる時間を見定めているようだ。
「ココはもうひとつ、シエナ、冥界巨狼を繋ぐ枷 (グレイプニル)を所有している。これは、お前が外へ脱出する際に、サタンの動きを止める為に使われる」
あまりシエナの事を知らないマリアであったが、グレイプニルの名には聞き覚えがあった。
それは、悪魔の力を宿した獣を抑え込む為に、妖精の小人がシエナを用いて作り出した魔法の紐で、どんなに強大な力を持っていようとも、一瞬にして対象者の動きを封じ込める力があるといわれる物だった。
見た目は何の変哲もない細い紐であったが、マリアの持つシエナ、滑走する蹄 (モノケロス)も、古くはそれを所有する者に捉えられ、西部の貴族によって、六代にも渡り強制的に従わされていた過去があったことを教えてくれたからだ。
「彼は五人目の選抜者、ヘキサゴン騎士団の騎士、ダンテルディ・アンドロイだ。彼の用意したシエナはサタンの攻撃を防ぐ術となるだろう。シエナ、革命家の外套 (ブルーコート)は一等級。特等級シエナの消費による攻撃は防げぬが、一等級シエナの消費までなら、確実にその身を守ってくれる」
ダンテルディはテーブルの上に羽飾りが付いた鋼の留金を置いた。
「六人目の選抜者はわたしだ。お前に託すのは、シエナ、五次元世界よりの光 (コード・ノヴァ)。これは次元を渡ることが出来る特等級のシエナだ。我々が持つシエナの中では、最上のシエナとなるだろう。だがこれは、サタンの持つ特等級シエナによる攻撃から防ぐ為に、一度しか使うことができない」
リリーナは、不規則に線が入った箱のような物を置くと、指で弾いてマリアの元に滑らせた。
「続いて七人目と八人目の選抜者、戦の王、コーヴィ・ダイヤと、その右腕、将軍マスト・マスト。この二人は同じ国から来た選抜者だ。コーヴィからは、シエナ、五剣の一振り (ミカヅキ)がお前に託され、マストのもつシエナ、MKⅡ投擲弾 (パイナップル)は我々がサタンを攻撃する際に使用される」
コーヴィは緩やかに弧を描いた剣を掲げ、マストは楕円形の金属物質を見せてくれた。
「俺様の愛刀だ、如何なるものも切り裂く刃は、お主の力になるであろう」
コーヴィは鞘を握り締め、静かに刃を引き抜いた。黒色をした刀身は、異質なまでの鋭さを放っている。
「古き民が鍛えた刀と呼ばれる剣だ。磨き抜かれた刃紋、この見事な反り、手の中に収まる巻き紐の感触。うむ、全てが素晴らしい。どうだ、美しいだろ? しかし、美しさだけではない、この放たれる魔気こそが――」
「王よ、お話はそれぐらいで……」
戦の王は自慢気に剣の話をしていたが、将軍、マストに止められると、申し訳なさそうに笑い、マリアへ刀を差し出した。
「お前の正面にいるのが九人目の選抜者、バルトロマイだ。彼女は声が発せぬのだが、ココ・マコモが名を知っていてな。彼女はお前に太陽への翼 (プリュム・ダイダロス)を託してくれる」
リリーナに紹介された女性は、軽く頭を下げると、座ったまま白い翼を広げて見せてくれた。
「バルトロマイは、あたしの故郷の言葉で美しき声の人って言う意味なんだ。おっと、誤解しないでくれよ、皮肉を言ってるわけじゃないんだ。あたしはバルトロマイと会った事があるんだよ。旅の途中で一度出会っただけだけど、あたしは唯一無二の友だと思っているよ。あの時食ったトカゲの丸焼きはうまかっただろ? なあ、バルトロマイ」
ココが楽しそうに語ると、バルトロマイは肩をすくめ、呆れ顔で小さく笑みを返した。
「我々の用意したシエナは全て一等級の代物だ。だが奴は千のシエナを所有し、シエナを消費――つまり使い捨てる形で力を扱う。それに引き換えお前の使えるシエナは全部で十、その僅かなシエナでサタンを倒さなければならない。出来るかは訊かない。我々はお前に託すだけしか出来ないのだからな」
リリーナが言い切ると、マリアは思わず息を呑んでしまった。何を成すべきか、全ての行動はもう決まっている様子だ。
「……サタンとの対話は……難しいのでしょうか」
「無理だな。マルトがサタンの記憶の断片を辿ったが、その精神は歪んだものだった。奴はこの世界を悪と感じている。全てを壊す為に一万年の時を超え、なんとしてでも目的を果たそうとする気だ」
「時を……越えた?」
「サタンは不老不死のシエナを使い、現在の神が存在する前から生を成している。一時は神となることを望んでいたようだが、それは叶わなかったそうだ。その時から世界を滅ぼそうと考えていたのかまではわからないが、いずれにせよ、世界の破壊に執着を持っていることは確かだ」
リリーナが言い終えると、戦の王、コーヴィが悔しそうな表情を浮かべた。
「マリアよ、世界はお主に掛かっておる、まだ幼いお主に世界の運命を託すのは忍びないが、我々に選択の余地はなかったのだ。許してくれ」
コーヴィは心底悔しそうに言葉を切ったので、マリアは迷いを見せる事無く、コーヴィの思いを汲み、淀みのない声ではっきりと言った。
「世界の為ならば成してみせます」
この場にいる者達は理不尽な現実を受け止め、死を迎える覚悟を持っていた。
多数のシエナを所有し、神となる資格を認められた彼らは、その望みを叶える事も出来ないまま、世界と人々の為に大きな決断を下した。
マリアはこの者達の思いを無意味なものにしたくは無かった。
僅かな静寂の後、マルトは全ての本を閉じ、すっ、と椅子を引いて歩き出した。
「残された時間はあまりないわ」
マルトはテーブルの右側に立つと、他の者は左側に集まるように指示を出した。テーブルを境に二手に分かれた一同は、何が行われるかも分からぬまま、次なる行動を見守っている。
「全ての行動予知を見つけました。これより作戦を伝えます。あ、そうそう。あなた方、演劇のご経験はお有りで?」
「演劇だと? 何を考えているんだマルト」
マルトの思わぬ言葉に、椅子の上に立ったリリーナは訝しげな表情を向ける。
「まずはサタンを騙すところから始めます。そして後に生まれる心理を利用し、いくつかのシエナを消費させます。マリアを除いた全ての選抜者がここで死ぬでしょう。しかし重要な作戦です、失敗すれば、世界はサタンによって滅ぼされてしまうのですから」
コーヴィとマストは顔を見合わせるが、不思議そうに首を傾げるココに、バルトロマイは小さく何度か頷いた。ダンテルディが一歩前へと進み、マリアから受け取ったロング・ソードの柄に手を置いたが、マルトはそれを否定する。
「強行するのではないのか? 元より命を失う覚悟は出来ている、演劇などする必要があるのだろうか」
「強攻策も一つの手段として挙げられます、しかし相手は千のシエナを持つ所有者。勢いだけで飛び掛かっても、一等級や特等級のシエナで殲滅させられるのが結果でしょう。十のシエナしか持たぬ少女を、力を削がれた七人の駒で死の道を切り開かねばなりません。我々が如何に相手の戦力を削ぎ、マリアを神の間へ辿り着かせるかが重要な要素となるのです」
「ふむ……」
確固たる行動意志を持ったマルトを前に、ランテルディは何も言えぬまま、口を閉ざしてしまった。
「まずはマリア、確認すべき事があります。あなたはシエナを家族のように思い、接しているといいましたね……ですが、それぞれの場面ではシエナを失う可能性も起こりうるでしょう。その覚悟は持てますか?」
「はい」
マルトの問いに、マリアはすぐに返事をした。
甘い事は言っていられない。世界の王と呼ばれる者は死に、賢者はその生涯を終えようとしていた。マリアの為に、命を投げ出す事を当たり前のことだと言う選抜者の思い。世界を壊そうとする異端の存在。マリアは自分の役目を全て理解した上で、返事をするのは当然の事だった。
「よろしい。それでは伝えます」
マルトは選抜者たちに、これから行われる全ての動きを伝えた。マリアを中心とした演劇は、それぞれの行動によって成し遂げられる。
マリアが覚えるべき事、それは対するサタンとシエナの交錯だった。
シエナには特等級から十等級まで、その力の大きさによって等級が付けられていた。
一万年の神が消える時、世界には無数の光が降り注いだ。光は全て平等の力を持っていたが、それらが人工遺物や世界と結ばれた時、その力は強大なものへと変わる。
中でも特等級と呼ばれるシエナの威力は絶大で。確認された数は、極僅かだと言われていた。
シエナは通常、道具として扱われ、使用という形で力を発揮したが、サタンはシエナの力を爆発的に燃焼させ、消費という形を取る事で、潜在的な力を引き出し高めていた。
ヨハネスの持つシエナに身を潜め、誰にも気付かれる事無く身を隠し通せたのも、一つずつシエナを消費し、その力を利用してシエナ内部に潜伏し、平等の間へと辿り着く事を可能にした。
マルトの予知によると、サタンの持つ残りのシエナの数は六百六十六。マリアはこれを僅か十のシエナで対抗しなければならない。
サタンの持つシエナの中で特に驚異とされているのは、特等級シエナ、原子核融合 (クリア・アクション)だった。
そのシエナは、使用するだけでも大陸一つを消し去る威力を持っていたが、サタンはこれを世界で使うことは無かった。
世界での使用は可能でも、神が阻止する可能性を考えたサタンは、より確実な方法で世界を滅ぼす道――つまり選抜者を全て殺すという方法を選び出したのかもしれない、と、マルトは言った。
サタンは、シエナ、不老不死の果実 (アンブロシア)を使って自らの命を永らえると、多くの時を用してシエナの収集を行った。世界に散らばるシエナの半数を持つ者とも言われており、シエナを所有する者達の中では、ある種の伝記に登場する人物のように、その名を知る者もいた。
サタンは多数のシエナを持つ所有者として、世界年代記述 (アカシックレコード)にも記述されており、古い歴史によれば、多くの国を救った英雄として名を連ねていることも分かったが、どうして世界を破壊しようと考えるようになったのかは、最後まで謎のままだった。
なぜ世界を壊そうと考えたのか、自らが神となり世界を変えるという選択肢はなかったのだろうか。
マリアも神になりたいと、少なからず願った事があった。その時は、本当に神が存在するかもわからなかった。だが、もし今、全てを変えられる力を持つことが出来るのなら、争いばかりの世界を無くしたいと考えるようにもなっていた。
シオンの言うとおり、神になることを強く望んだ為、マリアは平等の間へ招待される事になったのか、それともこれが、元より決められた運命だったのか。マリアにはわからなかった。
そんな事を考えていると、マリアの隣にいたリリーナが、こちらを見る事無く口を開いた。
「悲しいな」
心の内を見透かされたような気持ちになったマリアは、思い掛けずに俯いてしまう。
「どうして、憎しみは消えないのかな……」
「世界には様々な感情が渦巻いている。そして、それらには必ず対となるものが存在する。どちらか一方を失くすことは不可能だ」
リリーナの言葉に、マリアは平等の間に訪れる前に介入しようとしていた、戦争の事を思い出した。
シオンはどちらか一方が無くなれば争いは無くなると言ったが、勝利と敗北を得た二つの世界は、必ずそれぞれが別々の感情を生み出してしまう。
螺旋に繋がる慈しみと憎しみの連鎖は、どこまで進んでも、その形を変えることはない。
「人は理解し合えない生き物なのかな……」
「平等とは理想だ。現実ではない」
「リリーナは……世界を平和にしたいと……神になる事を望んでいないの?」
「確かに望んだ。だが、神になりたいとは思っていない。この場に来る事が終着だと考えていたからな。十人の選抜者が揃っていたとしても、皆はわたしを選択することはなかっただろう」
「どうして?」
リリーナは、ふと、マルトを見ると、まだ時間があるのを確認し、マリアの方へと振り返った。
「まだ時はありそうだ。わたしの話をしてやろう」
十年前。
リリーナはヨハネスが治める都市の一つ、エルドラにある医者の家庭に生まれた。
両親の話によると、生まれて二ヶ月で言葉を覚え、一年が経つ頃には読み書きが出来たそうだ。
三歳で家中の本を読破し、それに飽きた頃には外の世界に興味を持つようになっていた。
類稀なる才能を発揮し、四歳になる頃には医学を学び、政治の道にも関心を向けていた。
両親は多くの知識を与えてくれたが、決して大人の社会には入れようとはしなかった。リリーナもその意味は分かっていたが、知識を愛する者として、自分の進むべき道は決めるべきだとも考えていた。
そんな思いを抱えつつ、ちょうど五歳を迎えた時だった。貪欲に智慧を求め、知識を探し求めていた時、リリーナはエルドラ領主、リュディエの目に留まった。
領主は、幼いリリーナの才能を認め、城内で働くことを許してくれた。それはリリーナにとって、大きな転機となった。
「とうさん、かあさん。わたし、もっと世界を見てみたいの」
両親にそう告げたリリーナは、そこで新たな世界を見つけ、哲学者として、生きる道を決める。
「リュデイエ、わたしは何をすればいいの?」
「リリーナよ、好きなことをすればいい。まずは求める事が、お前の仕事なのかもしれない」
リュディエはリリーナを自由に学ばせる事にした。そうすることが、リリーナの為であり、国の利益に繋がると思ったからだ。
数ヶ月が経ち、リュデイエエはリリーナこそ、自らの持つシエナ、五次元世界よりの光 (コード・ノヴァ)の所有者に相応しい者と判断し、シエナを譲り渡すことにした。
「これを初めて見たとき、お前はどう思った?」
「よくわからないけど、楽しそうだと思った!」
新しいおもちゃを見つけた子供のように、リリーナは笑っていた。
リュディエはコード・ノヴァを所有していたが、自分には過ぎたものだと考えていた。まさか、譲り渡そうと思う者が現れるとも、思っていなかったが。
「使うのは一日一回だぞ。これを使用すると、大人の私でも、すごく疲れるのだ」
「じゃあ、少しずつ使ってみるね!」
コード・ノヴァを得たリリーナは、リュデイエの言いつけを守って使用していたが、すぐに研究に没頭し、一日に何度もシエナを使用して、シエナの使用と睡眠を繰り返すだけの日々を送ってしまう。
半分は予想していたリュデイエだったが、笑って諦めると、何か手助けになればと、他に求めるものはないかを聞いた。
「ほどほどにな、お前にはまだまだ時間がある。そうだ、他に欲しい物はないか?」
「えっとね、赤いくだもの!」
リリーナは城に来て初めて食べた苺を、大変よく気に入っていた。
それは春にしか実らない果物だったので、リュデイエが秋にそれを言われたときは、とても困ったものだったが、春になると、毎日決まった数の苺を用意するようにした。
春を迎え、開け放たれた窓から、桃色の花弁が迷い込んだが、リリーナがそれに興味を持つ事はなかった。ただ広い部屋で、散乱する本を枕にしながら、あどけない少女はコード・ノヴァを握って眠っている。
侍女がいつものように、机に置かれた天秤に五個ずつ苺を乗せると、優しく頬に触れ、リリーナを夢の世界から連れ戻した。
「リリーナ、おやつの時間ですよ。ほら、起きてください」
「にゃむ……」
瞼を指でこすり、またいつのまにか眠ってしまったと、小さなため息を吐くと、階段状に積まれた本を翔け登り、苺をひとつ、口の中に入れる。
天秤の針が揺れるのを、そわそわしながら眺めると、傾いた皿に手を伸ばし、続けて苺を放り込む。何度も同じ事を繰り返し、両方の皿から苺がなくなると、ようやく平衡を保った天秤を見つめ、残念そうに呟いた。
「ちぇ、やっと等しくなった。途中でなるのが、一番おもしろいのに」
侍女は子供の遊びだと、微笑ましいものに感じていたが、リリーナにとってはそれも、コード・ノヴァと同じような、興味の対象の一つだった。
城に訪れてから一年以上が経ち。リリーナはその才能をみるみる開花させていった。後になって気付いた事だが、リリーナが子供の姿のまま大人びていくのは、体を置き去りにして、精神が次元を渡り歩いているからなのだと、リィデイエは知った。
リリーナの研究が進めば進むほど、都市は栄え、人々に多くの恩恵を与えていった。研究は全てが成功し、明るい未来だけが見えていた。
ある日、リリーナは世界の平和の為に出来る事はないかと考えるようになる。しかし、リリーナにとってそれは、ただの通過点でしかなかった。世界を導く為に必要なものとは何か、人々の考える平和とは何か、一つ一つの疑問に答えを探しまわり、ただ単に結論に至りたいという、純粋な探究心からの思いだった。
そして程なく。リリーナは、一つの結論を得た。答えはない。正しくは、答えがないことが答えだと、誰にも伝える事無く、自らで納得した。
何かを悟ったリリーナは、その日から研究を止め、まったく別の物に興味を注いでいく。
どうして海はしょっぱいのか、どうして鳥は飛べるのか。どうして犬はワンと鳴くのか。そんな事を訊ねられた侍女は、リリーナの髪を梳かしながら、童話を語るように口にする。
「きっと、たくさんの塩袋を積んだ馬車が、過って海に落ちちゃったからですよ」
「おお、なるほど。そういう考えもあるのか!」
春には父と母と一緒に野あそびに出かけ、夏には侍女と一緒に海を見に行った。秋には衣服の装いにも興味を抱き、冬には音を奏でて詩を歌った。
いつだったか「カエルを空で泳がせる方法を考える」と言った時は誰もが首を傾げたが、本当に優雅に空を泳ぐカエルを見た時は、皆が笑っていたのをよく覚えている。
リリーナが八歳になった頃、どこか様子がおかしいと感じたのはリュデイエだった。
部屋はいつも通り、書物や研究資材が秩序無く乱れていたが、机には一つのシエナが置かれていた。リリーナはよほど大切にしている物しか机の上に置かない。それは、リリーナ自身も言っていたことで、今までも、コード・ノヴァと天秤の二つしか机の上に置かれているのを見たことが無い。
それは、公衆浴場の湯を温めるのに使われていた、活火山石 (ピエトラ・エトナ)という十等級のシエナだった。
常に同じ温度の熱を発するシエナだが、高温になる訳でもなく、特に使い道も無い為、ずっと湯の中に入れられていた訳だが、安定して源泉が沸き出た事もあり、不要となってリュデイエが貰い受けてきたものだった。
「珍しいな、他のシエナに興味を持つなんて」
「ああ、それ? 前から欲しかったの。あと二回しか機会が無いと思っていたんだけどね」
その時は、リリーナの言葉の意味は分からなかったが、数日後、再びリリーナの部屋を訪れた際に、リュデイエは全てを知ることとなる。
数日後。侍女が面倒そうに土を掘ると、リリーナは土の中にピエトラ・エトナを埋め、小さな畝を作って苺の種を蒔いた。それを扉の外から見ていたリュデイエは、思わず握った拳を震わせてしまう。
「リリーナ、部屋の中に花壇を作るなんて、また変なことでも考えているのですか?」
「変なこととはなんだ。ほら、さっさと土を混ぜろ!」
城の中にも畑はあったが、果実が実るのは僅かな季節だけだった。
秋に蒔いた苺の種が実るのは春のこと。リリーナがあと二回しかないと言ったのは、それを見ることが出来るのは、あと二回――つまり二年しかないということだ。
自室に戻ったリィデイエは扉の鍵を閉め、静かに泣いた。
リリーナは全てを理解したのだ。二年後に訪れる神の選抜に自身が選ばれる事を。
コード・ノヴァを持つ者として、リィデイエも少なからず、世界の理について理解していた。日蝕の日、一万年の神、十人の選抜者。しかし、それらは別世界のことのように、他人事だと思っていた。
研究を止めたあの日、リリーナは世界の理の全てを理解したのかもしれない。ようやく見つけた答えを受け入れ、自分の運命を悟ったのだろう。
それからのリリーナは、子供のように、少女のように、僅かな時間で大人の階段を駆け上がっていった。普通の子等が経験する出来事を、順にたどって行ったのかもしれない。
リィデイエはリリーナにコード・ノヴァを与えた事を深く後悔した。もし、あれを渡さなければ、リリーナが選抜者に選ばれる事はなかったのかもしれない。
それから半年後、初めてリリーナの小さな畑で苺が収穫された。
「ううむ、これは失敗だな。味がしない」
「本当だ。リリーナ、これは大失敗です」
「そうか……なかなか難しいものだな……」
畑に集まった三人は顔をしかめて、初めての味を楽しんだ。
それから毎日を費やし、リリーナの苺は日々成長していった。土を変え、肥料を研究し、惜しまず努力を重ねた。
リリーナが十歳になって、一ヶ月が過ぎた頃。リュデイエの部屋にリリーナが訪れた。
「リュディエ、最高傑作が出来たぞ。これほど甘い苺は初めてだ」
小さな皿の上には、赤々と実った苺が三つ乗せられ、左手には、コード・ノヴァが握られていた。
「…………いつだ」
「明日…………」
リュデイエの問いが来る事がわかっていたかのように、リリーナは返答した。
「どうして黙っていた」
「知っていると思ったから」
リュデイエはリリーナらしいと笑い、苺の皿を受け取った。
「それはお前にあげたものだ、返さなくていい。これだけ貰えれば十分だ」
「そうか…………ありがとう」
その言葉を最後に、リリーナは他の誰にも別れを告げずに、世界から去って行った。
リリーナに出会った頃は子供だと思っていたが、最後はまるで、友人のようだと、リィデイエは感じていた。
リリーナの長く短い十年が、あの世界で終わった。そして最後を迎えようとしている。
「……マリア、目に涙を滲ませるな。辛気臭いぞ」
「だって、リリーナ……私なんだか、悲しくて……」
リリーナの話を聞いたマリアは、今にも泣き出しそうなくらいに、顔をくしゃくしゃにしていた。
「わたしは充実した人生を送った、満足している。唯一の後悔は、お前にこの話をしたことだ、まったく……ええい、泣くな!」
「だってぇ……」
「わたしはここへ到達できた事を喜びと感じている。そして、今この場にいる誰よりも、神の仕事というものをわたしは理解している。それを完璧にこなす自信も、果たす自信も持っている。だからこそ、私は神になる気もないし、選ばれるとも思っていない」
「リリーナって、シオンみたい。何を言っているのかよくわからないもの」
「それでいい、お前が神になった時にでも考えればいいさ」
「でも――」
マリアが顔を上げると、ペストリースタンドから苺を一粒摘んだリリーナが、マリアの口を塞ぐように入れた。
「わたしが一番楽さを感じるのは、答えがわからないときだ。その苺は甘いのか? それとも酸っぱいのか――いいや、答えなくていい。それを考えている時が本当に楽しい瞬間なのだ」
マリアが不服そうに苺を齧ると、芳醇な香りと共に、強烈な酸味が口いっぱいに広がった。
「ううっ……」
マリアが思わず顔をしかめて口をすぼめると、リリーナは無邪気に笑ってしまう。
「あははは、解り易い奴だ! そうか! そんなにもか!」
リリーナの笑顔は、どこにでもいる子供のような、とても平凡なものだった
あまりにもリリーナが笑うので、他の選抜者たちも何かあったのかと顔を見合わせるが、リリーナはそれを制して、再びいつもの表情を取り戻した。
そして最後に、リリーナはマリアに言葉を贈る。
「等しきはただの通過点でしかない どちらかに傾けるほうがよっぽど楽だからな。大いに迷い悩め、その末にお前が出した結論なら。それが正しい答えだ」
全ての選抜者に説明を終えたマルトは、マリアの手を取り、改めて演劇の一番重要な部分を繰り返して伝えた。
「マリア、神の間へ辿り着くまでに、なんとしてでもサタンから原子核融合 (クリア・アクション)を使わせる必要があります。サタンのシエナに対抗出来るのは、リリーナの持つ五次元世界よりの光 (コード・ノヴァ)だけ。このシエナは次元を渡ることの出来る、特殊なシエナです。サタンが破壊の力を使用した時、あなたはこれで別次元へと飛び、全ての運命から逃れるのです。よろしいですか、使いどころを見誤ってはいけません。原子核融合 (クリア・アクション)を防ぐ事が出来るのは五次元世界よりの光 (コード・ノヴァ)だけ。必ず覚えておいてください」
「はい」
マリアは、自身の前に並べられた四つのシエナに目をやった。
選抜者より託された一等級と特等級のシエナ。二つは消費として扱い、二つは使用として扱う。自身の持つシエナが、全て一等級と呼ばれるシエナだったことには驚いたが、マリアは大事な家族を道具として扱わなければならない。
一つひとつのシエナを確認していたマリアだったが、ふと、自身が持つもう一つのシエナ存在を思い出した。幼い頃から肌身離さず身に着けた、母から貰った星型のペンダント。
話の中でマルトは、マリアに七つの輝きが見えると予言したが、母から託された星型のペンダントについては、力があるものではないと言った。
母が持っていたシエナの名は、輪廻のペンタグラム (ウイッシュ・ザ・スター)。所有者の小さな願いを叶える力を持つ、十等級のシエナだった。
母が大切にしていた大事なシエナだったが、こればかりはマリアが使おうとしても、何の力も発揮されず、ただの飾りのように、胸元で淡く光り輝くだけだった。
あの時、母は言った「母さんのシエナが必ずあなたを守ってくれる」それはマリアを安心させる為の、ただの言葉だったのだろうか……。
マリアは今一度、胸元のペンダントに手を当て目を瞑った。思いを込め、シエナを感じようとしたが、やはりペンダントは淡く光を放つだけで、何の変化も得る事は出来なかった。
「マリアよ……お前に全てを託す我々を許してくれ。神というものがどのような存在なのかは分からないが、ここにいる者たちは、私たちがいた世界を愛している。未来永劫に続く世界の安寧を、ここにいる誰かが成していかなければならない。一万年に一度神が変わる仕組みも、所有者の中から神が選抜される理由も、何もかもが分からないままだが、私たちは進まなければならない。世界の終わりは今日ではない、必ずサタンを討ち滅ぼしてくれ」
「皆さんの意志は無駄にはしません。世界は誰か一人が自由にしてよいものではありません。世界を終わらせる権限など持ち合わせてはいけない。皆さん……私に力を。お願いします」
その場にいた全員が、マリアを見つめて深く頷いた。
人は欲の為に人を傷つける。自らの欲の為に誰かを犠牲にし、満足する。
世界には強者と弱者が存在する。強者に制される弱者を、マリアはたくさん目にしてきた。
シエナを操り世界を奪う者、シエナを操り誰かを助ける者。力を持つ者が世界を動かしている。そう、世界は必ずしも平等なものではない。
今ここにいる者たちは、間違いなく強者に当てはまるだろう。多くのシエナを所有し、確固たる意志を持ち、生きてきた人たち。
人種、年齢、考え方、生き方。全てがばらばらだが、この場で語られる言葉は平等だった。世界の為、人々の為、何かを守ろうと自分たちの命を犠牲にしようとしている。誰かの為に自身をなげうつその姿こそ、美しき人の本懐ではないのだろうか。
マリアは神となる事を決めた。必ずや選抜者たちの思いを成し遂げなければならない。しかし、その先に待つものとは一体どのようなものなのか。
選抜者たちは、マリアに神の間へ辿り着けと言った。神に選ばれし者だけが踏み入れることのできる聖域――神の間。
だが、世界は不平等で包まれている。矛盾だらけの世界を見ていた筈の神が、どうして平等という名のつけられた場所へ誘い、それを口にするのか。世界の全てが平等だというのならば、なぜ、あの時、父や母を救ってくれなかったのか。
マリアの存在など微々たる物に過ぎない。多くの戦を止め、たくさんの命を救ってきたつもりだが、大陸の中で起こる小さな争いなど、世界から見れば取るに足らないひとつの流れだったのだろうか。
果たして神と存在とは如何なるものか。神になれば、争いの無い世界を作る事も可能なのだろうか。それともただの存在として、世界に興味は示さないのだろうか。
マルトが予知した未来は残酷なものだった。
最初に死ぬのはマスト・マストだと言い、次はコーヴィ・ダイヤだと伝えた。そしてバルトロマイとココがケルベロスに殺され、それを追うようにダンテルディが倒れる。最後に部屋を飛び出したマリアは神の間へと辿り着き、リリーナがそれを見送るだろう。
マルトは演劇についても話をした。芝居をする必要があるのかマリアには分からなかったが、マルトはそれぞれに台詞を与えた。細かな動きまで指定し、行動の全てを頭に叩き込ませた。
次にマルトはココ・マコモに白兎の懐中時計 (ワンダーランドクロック)で見せる映像についても指示を与えた。僅かな間違いも許されない世界を救う為の物語。サタンが圧倒的に優位な位置である事を認識させ、それを利用して油断を誘う作戦。
マリアは演劇を教わる間、四人の選抜者が託したシエナの特徴も聞いていた。
選抜者が命を失う順番、サタンとケルベロスの動き、どこでシエナを使うべきか。マリアはその全てを頭に入れ、自身の行動について考えを巡らせる。
マルトから全てが語られると、最後にペドラとマルトの情報分析に使われたシエナが渡された。
「シエナとしての力は全て使い果たしてしまいましたが、情報としてはまだ使えるでしょう。この五つは神の間へと持っていって下さい。何かの役に立つかも知れません」
マルトは五つのシエナを小さな飾りに変えると、それらを繋ぎ結び、マリアの腕に嵌めてくれた。
剣帯にはロング・ソードの代わりに、コーヴィから託された五剣の一振り (ミカヅキ)が挿された。革命家の外套 (ブルーコート)の留金を左肩に固定し、背中には太陽への翼 (プリュム・ダイダロス)の魔法陣が描かれる。
ココ・マコモが使っていたローブを頭から深く被ると、準備が整ったマリアに、マルトが最後の言葉を発した。
「全ての準備は整いました。さあ、演劇の始まりです」
扉の向こうで、不気味な瞳が二度まばたきをした。
開始の合図は、マルトが最後の晩餐を迎えた時に開始される。