タヌキは命令口調
高校生になってから、途端についていないと思う事が多くなった気がする。
いや、気がするというよりは、実際に多くなっている。人に言えるほどでもないくらい些細な事だけど、今朝だって改札で捕まって後ろから来た中年サラリーマンに舌打ちをされたり、買った雑誌のページの端が折れていたり、授業中に3回も当てられて現国の教科書を音読して、英語ばかりで埋め尽くされた数式とにらみ合い、世界史の教科書を忘れたことがバレて然るべくして叱られた。本当についていない。電車でたまたま開いている席に座ったら、後から入ってきたおばさん二人組がずっと喋っていた。
「最近の若い人はすぐ座るわね」
「若いんだから立ってればいいのに」
急行が次の駅に停まるまでの15分、和花は寝たふりをするしかなかった。今動いたところで自分たちの話を聞いていたのだと思われるのも嫌だし、気まずかった。やっぱり、よかった事よりも悪かった事の方が多くなった気がする。イヤホンのボリュームを少し上げて車輪と線路の溝が刻む音を少し遠くへ追いやった。
ウトウトしていたので、電車が止まっていることに気付かなかった。ボンヤリとした視界の中で電車のドアが開いて、曲と曲の間に発車ベルが割り込む。慌てて立ち上がり、驚いて顔を顰めたおばさんの脇を通り抜けて閉まろうとしているドアを潜りぬけた。ホームに降り立ったところで、ハッとして頭上の看板を見上げる。
「あっ!」
一つ前の駅だった。振り返ると、電車の表示は急行ではなく区間快速になっていた。終業式で午前中に学校が終わった事を忘れていたので、4時半の電車と混同してしまっていた。
「間違えた…」
わたしはドッと両肩に何か重たいものが負ぶさってきたような疲れを感じて項垂れた。
「…重い」
足も踏み出せないくらい体が重たいのは、流石におかしいと気づいた。疲れではなく、なにかが背中に乗っている。途端に冷や汗が頬を伝って背中に夏服のシャツが張り付く。けれど、背中からは重さは感じるけれど、体温は感じない。気が付くと手が後ろに回って何かを支える格好になっていた。和花は間違いなく、なにかを背負っていた。駅前を見下ろせる少し高い駅のホームからは、水色の空と立体的な入道雲がお化けの様に白く輝いて見えた。
「鈴城町3丁目15の8まで行って」
不意に左側後方で声がした。声変わりをしていない子供の声から性別は分からない。けれどどこか不機嫌そうにくぐもっていた。和花は逡巡した結果、意を決して恐る恐る視線を左端に寄せる。首を少しずつ動かして振り返る。
「いつまでもボクを負んぶしているのは疲れるだろう?」
灰色の髪に大きな琥珀色の大きなが横目でこちらを見返していた。
「えっと…誰?」
耳の付いたフードを被った子供は仏頂面のまま面倒臭そうに答える。
「タヌキだよ。悪い?」
子供はボソッと悪態をつくと不機嫌そうに頬を膨らませた。両手の感覚が希薄になってきていた和花は、ふらつく足に力を入れ直して提案する。
「取り敢えず、一回降りてもらえませんか?」
「やだ」
えー…。和花の体は既にくの字になっていた。
「じゃ、じゃあそこの椅子に座るのは?」
そろそろ限界を超えそうな和花の提案に、子供はふてぶてしい顔でそっぽを向いた。
「全く最近の若いもんは…」
しかし、このまま落とされても困るからな。ゆっくり降ろせ。偉そうな口調に苛立つよりも、今はこの重量感から一刻も早く解放されたかった和花は近くのベンチまで行って回れ右をしてゆっくり背中から子供を降ろした。
ようやく背中から離れた子供の方を振り返ると、それは人の等身ではなかった。頭と体のバランスが1対1で、まるでご当地キャラかぬいぐるみの様なそれはトラ猫の着ぐるみを着て、一体型になっているフードを被っていた。確かに、じじいじゃないけど…。
「いつから背中に居たの?」
和花は肩に手を当てて首を回した。その様子を見て子供がフフッと口角を少し上げた。
「本当に若さが無いなあ。にんげん」
「最近の若者はいろいろ気を使ってるから、疲れるんですよ」
空いているベンチの、子供の隣に座って、電車の到着を告げるアナウンスが流れる。
「では、疲れ切ってしまう前に送り届けてもらいたいんだけど?」
和花は次の電車が止まってドアが開いた瞬間に走り出すシミュレーションをしていたので、生返事をすると、不意に子供の口調が変わった。
「置いて行くつもり?」
和花が隣を窺うと、相変わらず仏頂面はそのままに、琥珀色の瞳に涙がたまって今にも溢れ出しそうだった。
「ああ、置いてかないって!そんなことするわけないじゃないですか?」
和花は慌てて笑顔を作った。子供は疑惑の眼差しを向けつつ、涙を引っ込めた。丁度熱を帯びた風を纏った車両がホームに進入してきて、和花は立ち上がった。子供の顔に少し不安の色が浮かぶ。
和花はタヌキの子供に背中を向け、膝を追って屈んだ。
「ほら、早く乗りなよ?」
子供はベンチから飛び降りる様に背中に飛びついた。
「やっぱり、重すぎない?」
「失敬な、ボクは標準体型だ」
子供は気分を害した様子で、そっぽを向いてしまった。
「えーっと、鈴城町3丁目…」
駅から複合ビル街を抜けると、途端に文化住宅やトタン屋根の車庫、崩れかけた土壁のアパートが立ち並ぶ下町になっていた。
「住所、なんだっけ?」
背中を振り返ると、子供は面倒くさそうに答える。
「15の8だ」
「じゃあこっちか…」
「あっちだ」
ツツジの鉢植えや盆栽が並んだ家の角を曲がろうとして、子供が直進方向を指さした。
「知ってるんなら案内してよ」
ていうか、自分の足で帰ればいいのに。和花は心の中でブツブツぼやきながら歩き出した。二つ目の角を曲がって細い路地を抜けた時、突然目の前に住宅街に漆喰の塀が現れた。お城の屋根のような灰色の瓦が並んでいて、少し上には蔵のような建物の屋根が見える。
「大きな家。ていうか、屋敷?」
どんな人が住んでるんだろう?そんなことを思いながら門の前を通り過ぎようとした時、不意に子供が怪訝な声を出す。
「どこへ行く?この中だ」
「えっ?この家の子なの?」
和花が驚いて振り向くと、子供は相変わらず不機嫌そうに視線をそらす。
「いや、ただ人に会いに来ただけ」
「友達?」
和花の問いに、子供は仏頂面で視線を逸らしたまま答えなかった。
「あーそういう事?」
和花は少し意地の悪い笑みを浮かべて冷やかすように言った。
「喧嘩して謝りに来たんだ?まあ、一人で来たっていうのは感心だけど、学校であった時にすればいいのに」
「いいから家に入ってよ」
和花は瓦屋根に一人では絶対にビクともしないだろう重厚な木の門扉を持つ荘厳な門の脇で居心地の悪そうなインターホンを押した。間の抜けた音がして、マイクが室内へ通じる。
「どちら様です?」
「あ、えっと…キミ、名前は?」
振り向いた和花を無視して、子供が言った。
「藤四郎に会いに来た」
すると、インターホンがブツリと切れてしまった。
「ちょっと、まずは自分の名前言わないと…」
不意に重たい金属がぶつかる音がして、門の方へ振り返ると、大きな門扉の隅にある出入り口が少しだけ開いて、そこからお婆さんがこちらを窺っていた。
「あ、すいません」
和花が状況を説明する前に、お婆さんは戸口を大きく開けて二人を招き入れた。
「どうぞ…」
戸惑いながらそういって塀の中へ引っ込んでしまったお婆さんを怪訝に思いながら、和花は子供を背負って扉を潜った。
石畳の廊下の両脇には立派な松の木が枝を伸ばしていた。旅館のような三和土で靴を脱ぎ、借りてきた猫のようになりながら鈍色に光っている廊下を歩いている途中に和花はふと気が付いた。
「あたし、ここまでついてこなくてもよかったんじゃ?」
薄暗い廊下が明るくなると、縁側と中庭が現れた。松や梅の木は和花よりも大分年月を経ているようで、池には赤と白や金色の鯉が泳いでいた。
「どうぞ、お座りになってくださいな」
庭を呆然と眺めていた和花は、お婆さんに言われて廊下から畳の居間の方へ入った。
「て、いつまで乗ってるのよ?」
背中の乗客に言って畳の上にしゃがむと、子供は小さく飛び降りた。けれど返事は無く、なにか別の事を考えているのか、しばらく部屋を見回していた。
「藤四郎は?」
不躾に子供が言って、お盆から湯呑をテーブルに置こうとしていたお婆さんの手が止まった。ふと子供が部屋の隅に向かって歩きだした。そこには黒い仏壇が置かれて、線香から細い煙が立っていた。
子供は仏壇の前の座布団の上に立って、ただ無言で少し上を見つめていた。
「でも、どうして知っていたの?」
「え?何がですか?」
和花は要領を得ない様子で聞き返すと、お婆さんは子供と和花を交互に見ながら独り言のように呟く。
「今日は主人の命日なんだけど、あなた、どうして…」
戸惑いを隠せない様子のお婆さんに、子供は仏壇に置かれた写真と目を合わせたまま呟くように言った。
「ボクは、タヌキだから」
クルリと宙に舞うと、仏壇の脇、床の間の掛け軸の前に飛び乗る。
その時には、もう子供ではなくただのタヌキの置物に変わっていた。
「主人は、タヌキの置物を集めるのが趣味だったの」
座布団に座った和花にお茶を勧めながら、お婆さんは言った。
言われてみれば、居間の違い棚や玄関にもタヌキの置物が置いてあった。
「けれど、6年くらい前に蔵の中を整理したときに、リサイクル業者の人が間違って持って行っちゃったみたいで、一匹だけいなくなっちゃったのよ」
お婆さんは柔らかな笑みを浮かべて皺の奥に目が無くなった。
「慌てて電話したんだけど、もうどこへ行ったかわからないって言われてしまって。それからずっと、骨董市に行ったりして、その子を探していたんですよ?」
和花はお婆さんの話を聞きながら、信楽焼きのタヌキに視線を移した。
そっか、本当に家に帰りたかっただけなんだ…。
「おかえりなさい」
お婆さんは床の間に居座っているタヌキの頭を愛おしそうに撫でた。タヌキはもう無表情で、何も言わなくなっていた。
それから1週間後の夏休み。昼間からだらしなくベッドに寝転んでいると、不意にインターホンが鳴った。
「サインお願いします!」
誰もいない平日の家の廊下を抜けて玄関で応対に出ると、宅配業者の男性が一抱えもある段ボール箱を玄関に置いて去って行った。
取り敢えず部屋に運ぼうとした時、予想以上の重さに転びそうになった。
「重っ!」
箱の中から不機嫌な声が返ってきた。
「失敬な、ボクは標準体型だ」