8 地下室で翔子さんが悪魔化して渡辺さんがとばっちりを食う(こんなの翔子さんじゃない!)
「健二さんが誘拐されたぁ?」
素っ頓狂な声をあげる、三十八歳の魔法使い。
「こ、これを見てください」
運転手の斉藤が、震える手で一枚の紙切れを黒ローブの魔法使いに渡した。
一瞬、トスナルが斉藤を鋭い目で睨む。
「……。ナニナニ? 『健二を預かった。返して欲しくば、一億円を持って三丁目の建設現場の地下室に来い 翔子』って犯人は翔子さんなの? ウソぉ!」
驚くトスナルの手から紙切れを奪い取る、直美。その顔が、血の気が引くように、みるみる蒼ざめていった。
「その筆跡、翔子様のものに間違いありません――」
沈んだ面持ちで、斉藤が呟いた。
「最近、仲が悪いとは聞いておりましたが、まさかこれほどまでとは……」
あわわわ――
(もしかしてボクが引き離し魔法を掛けたせい?)
今度は、トスナルの顔が、蒼ざめていく。
「許せない、あの女! 最初から、金目当てで健二に近づいたに違いないわ!」
脅迫状を握り潰した直美の目に燃え上がる、怒りの炎。そこには、ただ息子を心配し、怒りに震える、母の姿があった。
トスナルの直美を見つめる目が、穏やかになる。
「……。奥さん、あなたは所謂、魔女ではないようだ。ボクの勘違いだったようです。ただ、生まれつき相当な魔力はお持ちのようですがね……」
えっ?
斉藤が、副社長の直美に驚きの目線を向けた。
「それより斉藤さん、三丁目の工事現場ってわかります?」
「はい、心当たりはあります……」
トスナルの問いに、斉藤がこくりと頷いた。
「じゃあ、そこへボクを連れて行って貰えますか? 奥さん、ここは優秀な魔法使いであり、カミーペットフードの販売企画部長のボクに、お任せください」
「わかりました……。健二があなたを信じたように、私も、あなたを信じましょう。息子をお願いします――。
斎藤、直ぐに身代金の準備をして、トスナル様をご案内なさい」
「はっ。奥様、仰せのとおりに」
長いまつ毛を湿らせ、直美がトスナルの手を握る。直美に向かって大きく一回頷いて見せると、トスナルは斉藤を促して部屋からを立ち去ろうとした。
が、部屋のドアの前でトスナルは一度振り返ると、
「大丈夫、安心してください。必ず、無事に連れ戻しますから」
と優しげに云って、黒のフード越しに直美にウインクしたのだった。
ビルの摩天楼の間をすり抜けるように走る、白いロールスロイス。
高級車を運転するのは、斉藤。助手席に陣取るのは、化粧をばっちり決めた京子。
「トスナル、あんたもなかなかやるわねえ。ここまで、二人の仲が悪くなるなんて」
ほくそ笑む京子を、斉藤が忌々しそうに睨みつけた。
「どういうことです? 部長」
助手席の真後ろに座り、不安気な表情を浮かべる渡辺主任が、眉をひそめた。
「さ、さあ……。全然わからにゃい」
運転席の後ろで、トスナルがおどけて見せる。後部座席の中央で、トスナルと渡辺に挟まれた黒猫クンネは、タヌキ寝入り。
「そ、それにしても、この人数で行くってのは、少し大袈裟なんじゃない?」
慌てて、トスナルが話題を変える。
「健二坊っちゃんの一大事に、何て気の抜けたことを――」
斉藤がむっとして、そう云った。
「それにしても、翔子さんどうしたんだろう……。二人に一体何があったのか、僕はそれが心配です……」
渡辺の言葉に、しん、と静まる車内。
「着きました」
道路脇に、斉藤が車を止める。
緑色のネットに包まれた、造りかけのビル。鉄骨が所々剥きだしになって、錆びが目立つ。
「工事が止まっちゃってるのね――」
京子が、無気味そうに、呟いた。
「車でお宅までお送りするとき、翔子様は、『ここの工事、どうなってるのかしら』といつも気にかけていらしたから、このビルに間違いないと思います……」
肩を落とす、斉藤。
「では、斉藤さんはここで待っていてください。車を放っておく訳にもいきませんし……。翔子さんの説得は、他の人でやりましょう」
トスナルの提案に、一同が頷いた。
トスナルたち三人と一匹が、ドアを開け、車から降りる。すかさず、トスナルの肩にクンネが跳び乗った。
「じゃあ、行きましょうか」
トスナルの合図で歩き出す、一行。彼らの背中を、車内から見送る、斉藤。
一瞬、斉藤の口が、ニヤリと開いた。
立ち入り禁止のロープをくぐり抜け、一行は建物の中に入った。トスナルを先頭に、暗がりの階段を下りていく。
「何よ、ここ暗すぎるじゃない」
不満たらたらのの京子。
「京子さん、早く行ってくださいよ。後ろがつかえてますから」
渡辺主任が、無理矢理、京子の背中を押す。
ひいい――
ガラにもなく悲鳴をあげながら、仕方なく京子が歩みを進めた。
階段の先に待っていたのは、灰色のドアだった。厚い鉄製のドアで、大人の顔の高さの位置に、曇りガラスが嵌め込まれている。
曇りガラスから漏れる、微かな光。
「ここにちがいない」
トスナルが、重いドアのノブに手をかけ、押し開ける。
ぎいいい――
ドアの向こうに待ち構えていたのは、淡いローソクの光。黄色がかったオレンジ色の光が、何も無いがらんどうの部屋に、満ちていた。
部屋の奥に立ち尽くす、翔子さん。その姿は人間離れしており、髪の毛は逆立ち、その瞳から青白い光を放っていた。その横には、ぐったりとなって床に倒れている、健二がいた。
「翔子さん! 健二社長!」
渡辺が、一目散に駆け寄る。
「ヨルナ!」
翔子さんの全身から空気の塊のような波動が噴き出し、渡辺を吹き飛ばす。
目の前に飛んできた渡辺の脇をかかえ、トスナルが抱きとめた。
「しょ、翔子さん……」
トスナルの腕から落ち、がっくりと床に崩れる、渡辺。
「ちょっとお……。魔法、効きすぎなんじゃないの? 翔子さん、まるで化け物よ」
京子が、トスナルを睨みつけた。
「おかしいなあ。こんなキツイ魔法かけた覚えはないんだけど……」
「あーっ。やっぱり、翔子さんたちに変な魔法かけたんだな! どうりで変だと思ったんだよ――」
わめく渡辺主任を無視する、販売企画部の二人と一匹。
「クンネ、ちょっと降りててくれ。魔法を解くから」
「わかった」
クンネはトスナルの肩から跳び降り、尻尾をくるりと巻いて京子の横に四足立ちした。
「イチオクエンハ、ドウシタ」
翔子さんの吊り上がった目に籠められた、邪悪な光。
「そう、怖い顔で睨まないで下さい。可愛いお顔が、台無しですよ」
トスナルが、黒ローブを紫色のオーラで包みながら、翔子さんへ近づく。
「エヴントス、ハマラート! 引き離し魔法を解除せよ!」
一瞬、ピクリと動いた翔子さん。が、それもつかの間、また鋭い目をしてニヤついた。
「ナニソレ? キカナイワヨ」
うっそおお――
驚愕の表情で、目を剥いて後退りする、魔法使い。
何か『異様なもの』を感じた黒猫の毛が、一斉に逆立った。
「トスナル、翔子さんは何かにとりつかれてる! オマエの魔法じゃない!」
ただならぬクンネの様子に、京子が震えた。
「な、何よ……。やばいんじゃない? 私、そろそろ帰ろうっと」
ガチャ、ガチャ……
必死にドアノブを回す、京子。けれど、ドアはびくとも動かない。
「うっそお! ドアが開かなくなってる」
「なんですって?」
渡辺が駆けつけ、力任せに開けようとするが、やっぱり開かない。
「閉じ込められたという訳だ――。ということは、翔子さん、一億円が目的ではないんだね。何が目的なんです?」
トスナルのオーラが、怪しく殺気立つ。
「モクテキ? ソンナノ、イウヒツヨウナイワ。ナゼナラ――」
翔子さんの体中から吹き出た、黒い空気の矢。
「ミンナ、ココデ、シヌンダモノ!」
牙を剥く野獣の形に変形した空気の塊が、トスナルへと襲いかかる。
「おっとぉ、仕方ない――。アスピタル、チューン!」
トスナルの人差し指から発した、黄色い光の矢。
「ダメだ部長! 戦っては!」
突然、トスナルと翔子さんの間に、渡辺が割って入る。
ぐはっ――
背中から翔子さんの攻撃を、胸にトスナルの攻撃を受けた渡辺は、がくっと片膝をついた。
「渡辺クン!」
近寄ろうとするトスナルを、渡辺が制する。
彼のシャツの胸は魔法攻撃により焼けただれ、背中には大きな穴が開いていた。だらだらと床へとこぼれていく、大量の血。
「戻って……よ。あの優しい笑顔の、翔子さんに――」
腕をだらりとぶら下げた渡辺が、何かが憑依したかのような魔物の形相で、これまた何かにとりつかれた感じの翔子さんに、じりじりと近づいていった。
「ヒイイ、ヨルナア」
右腕を突き出し、翔子さんが渡辺を威嚇する。しかし、それにもめげず渡辺は翔子さんに近づき、左手で翔子さんの右腕をがしっと掴んだ。
「戻ってよ、翔子さん……。健二さんの、優しい恋人に――」
血まみれの手で翔子さんの頬にそっと触れる、渡辺。暗黒の霊気が噴き出すえくぼの窪みを、優しく撫でる。
ウオォォォ――
翔子さんが、暗緑色のオーラを全身から発しながら、苦しみだした。不意に全身の力が抜け、倒れ込む。
がしっ
朦朧としながらも、力強く翔子さんを受けとめた、渡辺。
「良かった――。戻ったんだね……。本当に……良か……った……」
生気がその体から抜け、翔子さん共々よろけた渡辺を、今度はトスナルががっちりと受け止める。そこへ、京子とクンネが走り寄った。
可愛らしいえくぼと、流れるような美しい黒髪。翔子さんは、いつもの翔子さんに戻っていた。
「渡辺クン、よくやったぞ……。お京さん、悪いけど健二さんを起こしてやってくれないですか?」
「ふん、しょうがないわね」
トスナルに命令されたのが気に入らず、むくれながら健二のところへと向かう、京子。
ベシベシッ
京子得意の往復ビンタが、健二の両頬に決まった。
「あら、私としたことが……。つい、いつものクセで――」
ううっ……
京子のビンタが効き、唸り声をあげて目を覚ました、健二。
「……? 翔子さん! 渡辺! 一体、どうしたことだ!」
ぐったりとした翔子さんと血だらけの渡辺を見た、健二が叫んだ。
「説明は後です、健二さん。この二人を、とにかく早く病院に連れて行かなくては――と云いたいところだけど、そうはいかないんだよね? 斉藤さん」
トスナルが、装飾のない、コンクリートで包まれた部屋の天井を見上げた。
フワッハッハ――
どこからか聞こえる、怪しい笑い。
「そのとおりだよ、トスナル君。君たちは、永遠に、ここから出られない。そして、永遠の眠りに就くのだ!」
それは、紛れもなく神谷家の運転手、斉藤の声だった。