7 トスナル VS 影の支配者(お京さん、そんな力でチョップしたら、机がへこんじゃいますよ!)
よく晴れた、すがすがしい朝。
そんな青空に挑戦するかのように、販売企画部に充満する、禍々しいオーラ。
朝からぐったりと寝そべるトスナルと渡辺の前に、まるで世界最高の厚さを誇るコンクリートの岸壁のように、田中京子が立ちはだかっていた。
「ほーお。ということは、夜遅くまで飲みすぎて会社に泊まり、今は死んだように床に寝そべっている――。そういうことね?」
「はひっ……。間違い――ありません」
トスナルが、激しい頭痛で顔を歪めながら、京子の発言を認めた。
「何やっとんじゃ、ボケぇ。あんたら、仕事を舐めとんのかあ。さっさと起きろぃ!」
ドガッ
京子の、必殺瓦割りチョップが、部長席に決まる。激しく凹んだ、事務机。
「うひゃっ、今、起きますっ!」
バネのように飛び起きて、渡辺主任が机に向かう。
「うーん……。起きりゃあ、いいんでしょ、起きりゃあ……」
だるそうに立ち上がり、席につく、トスナル部長。
(仕事を舐めてるのは、お京さん、あんたもだろ?)
眠たそうに大欠伸しながら、クンネが密かに突っ込んだ。
「それはそうと、トスナル部長殿。例の仕事は、ちゃんと進んでるんでしょうねえ」
部長席から見下ろすように秘書席に座る部長を見る、部長秘書。
「ちゃんと進んでますよ……。ねえ、渡辺クン。健二さん、最近翔子さんが冷たいって、云ってたんだよね?」
しまった――。
思わず、トスナルが右手で自分の口を塞ぐ。
「はあ? 何のことっスか?」
だるそうに声を絞り出す、渡辺。
それを聞いた京子が、すかさず横槍を入れた。
「な、何でもないわ。と、とにかく仕事は真面目にやるのよ。わかった?」
「はあい」
渡辺が頭をボリボリ掻きながら、小学三年生のような声を出して、返事した。
フギャーッ!
そのとき部屋に響いた、黒猫の雄叫び。
「な、ない……。オイラのモデル料――」
部屋の隅に置かれた、三十センチ四方の小さな金庫。その開かれた扉の前で、クンネが髭をプルプルと震わせている。
「こ、ここに入れといたんだよ。健二さんに貰った、この特殊な金庫に――。これは、オイラの肉球がドアの溝にぴったりはまらないと、開かないはずなんだ……」
ピクリ……
かすかに動いた、トスナルの耳。
渡辺が腰をかがめ、クンネの背後から金庫を覗き込んだ。
「ああ、本当だ……。金庫、空っぽですねえ。あれ? そういえば、昨日の部長、妙に羽振りが良かったような――」
ひゅらり――
黙って席から立ち上がり、部屋から出て行こうとする、トスナル部長。
「待て。そこの『コソ泥探偵』」
マスコットキャラクターの前足のツメが、きらりと光る。
「……オマエだろ、ここの金を盗ったのは。差し詰め、オイラに変身して金庫を開けたというところかな……」
コソ泥魔法使いに忍び寄る、猫の形をした、どす黒いオーラ。
「な、何のことかな……。じゃ、ボクは仕事があるんで、さいならぁ。ボビアス、ポレティーア!」
魔法使いが、一瞬のうちに姿を消した。
「チクショウ、逃げやがった!」
体中の毛を逆立て、クンネが悔しがる。
「部長……。大人げない……」
何事もなかったように堂々と部長席で化粧を始める京子を見つめながら、渡辺は大きなため息をついた。
ヒュンッ
空気を切る音とともに、ある場所に現れたのは、トスナル。そこは、ビルの三十階、神谷総業の副社長室の前だった。
「こ、困ります。お約束なくここに入られるのは……」
勝手にずかずかと副社長室に入ろうとするトスナルを、秘書が止めようとする。
「……いいんだよ、ボクは。美人の、秘書さん」
柔らかい笑顔でじっと秘書の眼を見すえながら、トスナルは女性の目の前で、右手をゆっくりとかざした。
ふにゃ……
崩れるようにして床に倒れかかる、秘書。
「ゆっくり、お・や・す・み」
トスナルは、倒れかかった女性に手を差し伸べて抱き上げると、秘書席まで移動して、ふんわりとそこに彼女を座らせた。
「じゃ、行くとしますか」
トスナルが、副社長室のドアをノックもせずに、ゆっくりと押し開けた。
「ごめんください……マダム」
まるでヨーロッパの騎士のように、丁寧なおじぎをしたトスナル。
「どうぞ……。そろそろ、いらっしゃるころだと思ってましたわ……。探偵さん」
トスナルをにやりと見遣る、直美。
副社長は、大きな木目の机を前にして、豪華な黒い革張りのイスに座っていた。
「……ほう。私が探偵だと知ってらっしゃる……。さすがですね」
前へと進み出る、トスナル。部屋の中央に置かれたソファーに、音もなく腰掛ける。彼の目線は常に副社長に注がれており、警戒を解く様子はない。
「神谷財閥の力をもってすれば、簡単なことですわ。健二に、頼まれたのでしょう?」
魔法使いは、ゆっくりと頷いた。
「話が、早く済みそうです。単刀直入にうかがいましょう。あなたですね? 健二さんの記憶を奪っているのは」
トスナルの意図を推し測るように、じっとトスナルの目を見据える、直美。
暫くして、ふっと息を漏らし、かすかな笑みを浮かべた。
「さあ……。何のことをおっしゃってるのか、よくわかりませんわ」
「とぼけても、ムダです」
トスナルが、まるで瞬間移動のように残像を残して立ちあがり、直美の目前に現れた。
「あなたは多分、幼い健二さんの写った写真を入れたアルバムに、物心封印魔法を掛けたんだ」
「物心封印魔法?」
「そうです。魔法により写真の力を奪い、それに写った健二さんの当時の記憶を封印したのです。恐らく、そのアルバムは、あなたの今いる机の抽斗、それも鍵の掛かっている抽斗の中に、あると思われます」
思わず、副社長が机の右袖に手を延ばす。
「そこは、この世であなたしか触れない場所ですからね……。話してはくれませんか? 本当のことを」
健二の母親で神谷総業副社長の直美は、じっと目を閉じたままで、言葉を発しない。トスナルが、にじり寄っていく。
「……。わかりました。お話しましょう」
観念したようにぱっと目を開け、直美が突然口を開いた。そして、手元にあった黒いハンドバッグから鍵を取り出すと、抽斗の鍵穴にそれを差し込んで回し、一冊の古い写真アルバムを取り出した。
直美から、トスナルが手渡しでアルバムを受け取る。
アルバムの中身は、真っ白。正確には、真っ白で何も写っていない写真が何枚、何十枚と差しこまれているだけだった。
「健二は私の息子ではありません。ですが、正真正銘、神谷家の人間です」
「どういうことでしょう?」
トスナルは、やや緊張を解いた表情で、もとのソファーに腰掛けた。
「今から二十八年前、私は一人の男の子を生みました。名前を、健一といいます」
「健一? では――」
「そう、健二の兄にあたります。ですが生まれつき体が弱く、生後三日で、この世を去ってしまったのです」
直美の瞳が、みるみる潤んでいく。
「それは、ショックでした……。立ち直れないくらい。でもそんな折、私はもっとショックな事実を知ってしまったのです」
「それはもしかして、正社長の愛人に子供が生まれたとか――」
潤んでいた瞳が、大きく見開いた。驚きを隠せない、直美。
「――そう、そのとおりです。よくわかりましたね。健一が亡くなって、三日後でした。あまりに元気のない私を見かねて、主人がつい、口を滑らせたのです。おかげで主人はそれ以来、私に頭が上がらないみたいですけど」
(やはりそうだったか――) しきりと頷く、トスナル。
「私は、そのとき思い付いたのです。『愛人の子を、私の息子として育てよう』と。まだ出生届も出していなかった私は、健二を私の産んだ子として、届け出ました。一方、愛人のほうの届け出は、名前を健一とさせ、死亡届を出させました」
「でも、病院関係の人たちは知ってるのですから、いずれはバレちゃうってことも――」
あははは――
直美が、勢いよく笑い出した。
「それなら、大丈夫。私たち財閥の力を見くびってはなりませんよ。お金で片付く話なら、大概の事は解決できます――。金に目のない医者どもにそれなりのお金を払って、きちんと口封じしてあります。まあ、神谷総業にケンカを売る医者もいませんしね」
席を立ち、直美が、ゆらりと窓際へと進む。
「それから私は、健二を本当の私の子供と思い、育てました。幸せでした――。けれど、私の脳裏にはいつも、どうしても拭えない一つの不安がありました」
「健二さんがいつかそのことに気づいてしまう、ということですね?」
一人の母親として複雑な表情を見せる、直美。大きな窓ガラスに向かって、小さく頷いた。
「そう、そのとおりです……。ですが、健二が小学校に入学した頃でした。不思議なことが起こったのです。
その頃、不安に怯えていた私は、幼い健二の写真の入ったアルバムを目の前にして『幼い頃の記憶なんて無くなってしまえばいいのに!』と念じました。そうしたらなんと! アルバムが真っ白になってしまったんです」
手にしたアルバムをじっと見入る、トスナル。
「それが、あなたのいう『物心封印魔法』ということなのかしらね。同時に、健二の記憶も消えていましたから――。私はそのとき、『これで健二が昔を思い出すことはない』と、内心ほくそ笑んでいました」
レースのカーテン越しに、都会の空を流れていく雲を見つめる、直美。
「その後、愛人はどうなりました?」
トスナルが訊いた。
「それも、不思議なのです……。その愛人とは、こともあろうに、その当時神谷家で働いていた、只野愛子という若いメイドでしたが」
直美の表情が、怒りで歪んでいく。
「その女は、しばらく何事もなかったかのように仕事を続けさせておりました。急にクビにするほうが、変だと思ったからです。でも、彼女の顔を見ることが耐え切れなくなった私は、ある日そのメイドを呼びつけ、目の前で叫んだのです。
『あんたなんか犬にでもなって、どこかへ行ってしまえ!』
てね。そしたらなんと――」
「その女が、犬に変わっていた――」
「――そうです、そのとおりです。びっくりしましたよ。今まで目の前にいた人が消え、犬が一匹現れたのですから、そう思うしかありません――。
私は無我夢中でその犬を捕まえて屋敷の外に放り出し、主人には愛子が突然消えてしまった、と嘘をつきました」
「でも一年前、予期せぬことが起こったんですよね? なんと、紛れもなく昔あなたが放り出したその犬が、神谷家に舞い戻ってきた。屋敷の門の前で弱っていたその犬を、健二さんが拾ったことによって」
直美が向き直り、目線をトスナルに向けた。
「驚きました……。初めは、見間違いかと思いました。あれから二十年以上経っておりますし、犬の寿命を考えれば、正直、もう死んでいるとも思っていましたので――」
「それで、あなたはルルを自分に近づけることを嫌がったのでしょう?」
「そのとおりです」
トスナルが、ゆっくりと立ち上がり、意を決したように云った。
「よくわかりました。……でも、あなたはウソをついています」
きらり、不気味な色を発して輝く、トスナルの眼。
「あなたは、自分が魔法を掛けたことを不思議な出来事みたいに云ってますが、そうではないでしょう……。あなたはれっきとした魔女です!」
直美は、意味がわからないとばかり、しきりと目をぱちくりさせた。
「そんな……。確かに不思議なことばかりが起こりましたけど、私、自分が魔女だなんて思ったことないわ――」
「そんなこと、信じられませんね。
……魔法使いには二種類います。私のように修行によって魔法力を身につける者。そして、もう一種類は、生まれながらにして魔法力のある者――。あなたは、間違いなく後者です。
……そして、これから云うことが一番大事なことですが……もしかしてあなた、暗黒魔法団の手先なのではないのですか?」
トスナルがオレンジに光る右の人差し指を鋭く突き出し、身構えたときだった。
「大変です、奥様! 健二坊っちゃんが、誘拐されました!」
そう叫びながら部屋に飛びこんできたのは、長年神谷家の運転手を勤めている、斉藤だった。