5 トスナル部長、魔法でサラリーマンの正装になって社長の父と母に会う(いつもお世話になってます)
次の日の、朝。
カミー・ペットフード社の販売企画部には、朝から笑いが溢れていた。
「なにぃ? その格好まるで、サラリーマンじゃなーい!」
部長席の机をドンドンと叩きながら、笑いこける、部長秘書。
「だから、今はサラリーマンなんですってば……」
紺色のスーツに、ビシッと閉めた赤いネクタイ。磨かれた黒い革靴は、テカテカに光っている。
銀色の髪をした中学生のような童顔男は、その青い瞳を恥ずかしそうにしょぼつかせた。
「いやぁ……でも、お似合いですよ。ちょっと、七五三にも見えますけど……」
吹き出すのを必死にこらえている、渡辺主任。
「いや今日ね、社長のご両親と会う約束をしたから、少し身なりをサラリーマンっぽくしてみたんです。でもこれは、魔法でそう見えるだけ。本当は、黒ローブのままなんです」
ふて腐れながら、トスナルがパソコンの電源を入れる。
トスナル得意のトランプゲームの開始とともに、廊下から聞こえた、若い女性と犬の鳴き声。
高級ソファーの上のクンネが、怯えたように、ビクついた。
「も、もしかしてアイツがここに?……」
部屋のドアが開き、入ってきたのは翔子さんと、一匹の大型犬だった。
「きゃあぁ。クンネちゃん、元気ぃ?」
翔子さんは、部屋に入るなり手にした犬用のリードを手放し、ソファーの上のクンネに飛びついた。首輪に繋がれた紐が開放され、自由に部屋中を走り回る犬。薄茶色の毛並みをした、ラブラドール・レトリーバーであった。
「あらら。ルルちゃん、あんまり騒ぐんじゃありません。皆さん、お仕事中ですから」
かわいらしいえくぼをくっきりとへこませながら微笑む、翔子さん。ルルは、トスナルが気に入ったらしく、ぶるんぶるんしっぽを振りながら、顔中を舐めまくった。
はぎゃあ――
手足をじたばたさせながら悲鳴をあげる、トスナル。
「それで、今日は何の御用ですの? 私たち、多忙でございますので」
つんけんと声を荒げる、京子。
(よく云うよ。何もしてないくせに)
渡辺が、心の中で抗議する。
「あら、ごめんなさい。すぐ帰ります……」
しゅんとなる、翔子さん。
犬に長い舌でべろべろと舐められながらも、トスナルは京子を睨みつけた。
「まあまあ、田中さん。翔子さんは、旅行代理店に勤めていて、会社が休みの日には、よくここに顔をだしてくださるんです。クンネさんと並ぶ当社のイメージキャラクターである、ルルのお世話もしてくれるんですよ」
主任は、ルルの頭を撫でながら云った。
「オイラ、どうもその犬が苦手だよ。だって、すぐにべろんべろん舐めるんだもん」
翔子さんの腕の中で、黒猫が震えている。
「まあ、仲良くやってください、クンネさん。これからも、一緒に写真撮影とかするんですし、明日はCM撮影もあるんですから――」
突如、部屋に現れた、健二社長。
それを見た翔子さんが、クンネを抱えたまま、健二氏に寄り添った。
キィ!
同時に奇声をあげたのは、京子とトスナル。
「ルルはね、私の家のペットなんです。一年前、神谷家の門の前でばったり倒れているのを、私が見つけましてね」
健二を認めたルルが尻尾を小刻みに振りながら、健二に近寄っていく。ルルの頭を、そっと撫でまわす健二。
「その後、ルルは神谷家に居つくようになりまして……。ちょっと歳をとっているようなんですが、この目の優しさに惹かれましてね。それから、飼うようになったんです」
ルルは、健二の言葉の意味を理解できるのか、嬉しそうに尻尾をぶりんぶりん振った。健二が、優しく自分の飼い犬に微笑みを返す。
「あらあ、この子、健二さんの飼い犬でしたの? どうりで気品があって、かわいらしいと思いましたわ。おほほほほっ」
顔を引きつらせながら、見え透いたお世辞を云う、部長秘書。
と、健二社長が不意に、腕時計を気にする。
「あ、そうそう。トスナルさん、そろそろ約束の時間です。行きましょう」
「ああ、そうですか。よろしくお願いします」
健二の呼び掛けに、魔法で変装したトスナル部長が、慌てて席を立った。
「あとは、渡辺君、よろしく。それから、翔子さんもルルとクンネさんを頼みます」
「お任せください、社長」
「いってらっしゃい、健二さん」
とそのとき、社長の後に続き部屋を出ようとしたトスナルが、急に振り向く。そして、クンネを抱っこする翔子さんの背中に向かって、右手をすっと翳した。微かに黄色く光る、魔法使いの目。
「部長、今、何かしました?」
不審そうにトスナルを見る、渡辺。
「さあね。どうかしら」
斜め上に視線を向け、すっとぼける京子。
ふひっひー、ひっふっふぅー
トスナルは、渡辺主任の声は聞こえないふりをして、楽しげに口笛を吹きながら部屋を出て行った。
神谷総業タワービル、最上階。
神谷総業の社長室に、健二とトスナルが通された。
部屋には、五十代半ばの小柄の男が一人。
神谷コンツェルン総帥、神谷 正は、温和な笑みを浮かべながら、トスナルたちをむかえた。
「やあ、いらっしゃい。どうぞ、お座りください」
大きな黒い革張りのソファーに腰を下ろし、総帥と向かい合う健二とトスナル。
「あれ? 母さんは?」
「済まない。さっきまでいたんだが、急に姿が見えなくなってしまって……」
総帥は、角ばった顔の上の白髪混じりの頭を、ポリポリと掻いた。
「ところで、健二。私たちに紹介したいというのは、この方かな?」
トスナルが、大金持ちの余裕いっぱいの笑顔に、一瞬たじろぐ。
「そうです、父さん。トスナルさんといって、魔法使いなんですよ。かなりユニークな発想をする方なので、最近、ペットフード社の販売企画部長に採用させていただきました」
「ほう、それは、それは――。トスナルさん、頼みますぞ」
人を疑うことを知らない総帥が、トスナルの腕をとり、にこやかに両手で握手した。
(ユ、ユニーク?)
突然ユニークと云われ、ギャグの一発でもかまそうと努力したトスナル。しかし、小粋なギャグなど一つも浮かばない。
総帥に為されるがままに、自分の右腕を委ねていたそのとき、部屋のドアが無雑作に開けられ、一人の中年女性が入ってきた。
神谷総業の副社長、神谷直美。
健二の母でもある彼女は、細身の長身ながら余裕たっぷりの表情で、部屋の中をじろりと見わたした。
「あら、健二。来てたの?」
グレーのスーツを優雅にくねらせ、三人の前に躍り出る。
「この方は、どちらさま?」
直美が、まるで汚らしいものでも見るかのように、狐眼を鋭くして、トスナルを見下ろした。
「トスナルさんだよ。昨日、紹介したい人がいるって、ちゃんと云ってあっただろう? どうして部屋にいてくれなったんだい?」
呆れ顔で母親を非難する、健二。
「ああ、そうだったわね。ごめん、忘れてた。……それにしてもそこのあなた、上から下まで真っ黒な衣装ですわね。暑くありませんの?」
へっ?
顔を見合わせる、男たち三人。
今まで緊張で引きつっていたトスナルの目が、突然険しくなった。
(黒ローブが見えるのか?)
「何云ってんだよ、母さん。トスナルさんは、紺色のスーツに赤いネクタイの格好だよ。目でも悪くなったの?」
健二の言葉に、温和な表情で頷く総帥の正。
「あら、そう……? そ、そういえば、そうね。ちょっと見間違えたようだわ」
顔色を変え、慌てふためく直美。
「それでは私、忙しいものですから、失礼」
鋭い一瞥をトスナルに残すと、栗色の髪をはらりと揺らし、副社長は部屋を出て行った。
(お京さんに雰囲気そっくりだ――)
密かに思う、トスナル。
「すみませんね、トスナルさん。直美は、普段優しいやつなんですが……。仕事しているときは、厳しくってねえ」
総帥は、苦笑い。
「お詫びといっては何ですが、今度、食事でもしながら、ゆっくりお話いたしましょう」
妻のことが気になるのか、神谷総帥が、話を切り上げようとする。
「ありがとうございます。それでは、是非今度、お言葉に甘えさせてください」
トスナルと健二は、社長室を退出することにした。
「ごめんなさい、トスナルさん……。結局何も、手掛かりは掴めませんでしたよね?」
最上階の廊下、エレベータの手前で、健二が魔法使いに謝った。
「いえいえ、そんなことはありません」
先を歩いていたトスナルが健二のほうに振り向き、もごもご口ずさみながら右手を振り降ろす。一瞬にして魔法が解け、トスナルの格好はいつもの黒ローブになった。
「大体、読めてきましたよ。この件についてはね」
自信有り気にトスナルは一度頷いてみせると、今ドアが開いたばかりのエレベータに、健二とともに乗りこんだ。